HOBSON, J. A. Imperialism A Study, London, James Nisbet & Co., 1902, vii+400 , 8vo.
ホブスン『帝国主義論』、1902年刊初版。
著者略歴:ジョン・A・ホブスンHobson, J. A.(1858-1940) 。イングランド中部の州都ダービーで、生まれる。父は、自由党系地方新聞の社主ウィリアムである。兄ジョセフはケンブリッジ大学の数学教授(最初は数学を専攻したケインズも指導を受けた)となった。十代の頃は、地元出身のハーバート・スペンサーと頻繁に道で出会った。地元のグラマー・クルールを経て、オックスフォード大学で、古典古代の文藝・歴史・哲学を学ぶ。卒業後は、パブリック・スクールの古典・英文学教師となった。
経済学との最初の出会いは、70年代に盛んとなったケンブリッジ大学の公開講座運動が、ダービーで開催された時だという。ミルとフォーセット夫人の著作を教科書に政治経済学の講義を受けた。学校教師から、大学の公開講座の経済学と文学の講師に転ずる。公開講座の講師と著述・ジャーナリズムへの寄稿(生涯に単行本とパンフレットだけで、100点、論文・投稿・講演は700点にも及ぶほどである)で生涯を終えた。それも、「所得のうちでももっとも弁解しにくい形態のものに主として頼って生計を立てている」(ホブスン、1983、p.65)というように、親の遺産のおかげである。大学に職を得られなかったのは、異端学説ゆえにアカデミックの世界から排斥された為だとも記している。ウエッブをはじめLSEの創設者達とは親交があったが、そのスタッフには招請されなかった。エッヂワースの差し金とされている。地球は平面であるような説を教えることは許し難いことであったのだ。異端の学説とは、ここでは過少消費説(過剰貯蓄説)のことである。学校教師時代、この説を主張する実業家ママリー(大登山家でもありヒマラヤで遭難死)との討論で、正統派経済学では論破できなかった。二人は協力して説を精密化し、『産業の生理学』(1889)を書きあげた。ケインズは『一般理論』(2008、下、p.164)のなかで、「その刊行は、ある意味では、経済思想史上の画期的事件であった」と屈折した評価をしている。
経済学で最大の影響を受けたのはラスキンである。富、効用、費用を貨幣的評価によるのではなく、人間的便益や満足から考える観点である。すべての種類の財とサービスに適用可能な首尾一貫した需要供給市場の概念の確立に向けて努力した。この市場概念により、人間的価値尺度による計測される費用と効用、すなわち苦しく有害な経験を表す費用と、楽しく有益な経験を表す効用に変形することが可能となった。経済学が、販売可能な財やサービスのみにかかわる限り、非経済的な活動や価値から切り離されたままである。限界主義経済学は、すべての生産単位は無限に分割可能とし、その生産単位は使用されるすべての市場に平等に入り込む機会を持っていると想定する点で誤っているとする。
ボーア戦争(1899)は、生涯の転換点となった。経済と政治の関係の理解に啓示を受けた。戦争は、帝国主義の政治・経済の相互作用が単純でむきだしに現れた歴史的事例であった。ホブスンは、『マンチェスター・ガーディアン』に依頼されて、特派員となって帝国主義の働きの密着取材の機会を得た。指導的な公人のすべてと面会した。そこで学んだのは、粗野な形態の資本主義が政治領域で発動したときの、圧倒的な力である。政界の分裂を尻目に、南アの資本家は戦争計画に邁進し新聞を使って英本国の世論を味方に付けようとした。「戦争は南アフリカの資本主義とイギリスの新帝国主義の共同の推進活動から生まれたのである。[中略]資本主義こそが不公正な分配、過剰貯蓄、および冒険的帝国主義への経済的活動の源泉であるとする私の異端的資本主義観」(ホブスン、1983、p.56-57)を確信した。『帝国主義論』(1902)刊行。
帝国主義の初期形態を観察することにより、チェンバレン首相が進めた帝国主義と保護主義の結合が見えてきた。他国を犠牲にして、自国の生産と雇用の増大を図る、いわゆる「近隣窮乏化政策」である。帝国の植民地市場に自由で平等なアクセスが許される限り平和的状況に留まっていた。しかし、大戦による植民地・自治領の特恵保護圏化、ブロック経済化は、「持てる国」と「持たざる国」の分裂抗争の原因となった(記者曰く、国内経済格差が是正を要するなら国際経済格差も是正されるべきとも考えられよう)。国際間の利害対立解決のための、会議や計画は「持てる国」の善意による限り成果はない。国家を超える超主権と国際的意志の強制力がない限り、平和を保証する経済的機会均等は達成できない。ホブスンは国際連盟運動に従事する。『国際政府に向かって』(1915)がある。
20世紀に入って、公開講座の講師活動を休止して自己の「厚生経済学」の研究に打ち込んだ。次の二の立場から正統派経済学から益々離れることになった。一つは、国家や政治勢力が経済に与える影響の増大を重視すること、第二に、すべての市場が交渉力の相違によって毀損され、市場価格も利己的な利害によって損なわれるビジネス制度の根本的非道徳性の認識。アメリカでの講演旅行は、この国の競争と共に独占に印象付けられた。ヴェブレンを高く評価する。デンマーク旅行では「世界でもっともほんものの文明国の教育と政治について多くを学んだ」(同、p.63)。
産業を「人間的なものにする」(ヒューマナイズ)ことは、産業の生産と消費の両面で、指導原理となりつつある。最低賃金と労働時間規制を国家の役割とするのは、この原理の明確な適用である。それは、現下進行しつつある断片的な産業国有化の何よりも「革命的」である。賃金と余暇の公的保証は、不当利得を追求する資本主義の根源を衝くものだからである。経済面での人間化は、一時的な停滞があるにしても、それを妨げるものはない。実際に、自由な私的企業の経済秩序は過去のものとなった。
人間は心身が異なっている、その差異は産業組織に適切に反映させるべきである(後述)。経済の標準化は、人間の必要の同質性だけに依存するのではなく、産業の原料の同質性にも左右される。有機的原料を質と構造が同一なものとして扱えば、生産に浪費が伴う。その典型的な例が農業である。また、民主主義は実行可能な基礎の上に立脚しなければならない。民主主義では、人間の能力、性格、経験に大きな差異があるにも関わらず、選挙権は同等とされている。未熟な民主主義原則を、経済民主主義には適用できない。生産技術に関しては、少数の訓練された専門家に支配を任せねばならない。
資本主義のもとでの所得分配が経済・金融の混乱の原因であることは広く認識されている。あらゆる政府は社会主義的な政策を採りつつある。計画化は社会主義や共産主義ではなく、社会主義と個人主義との自然で有用なバランスに行き着くであろう。人間の動物的で同質的な基礎的欲求は、財とサービスをルーティンワークによって最低コストで生産する社会的計画化を要求する。しかし、顕著な個性や個人的趣味の領域では、社会主義では対応できず、消費面での個性は生産面での個性を要求する。定型的な機械的生産には馴染まず、個人的な創意、技量、経営を要求する。多数の定型的生産である基幹産業は、専門官僚によって所有・経営され、他方所有と経営が私的部門に留まる産業は公認の労働条件に従い、超過利潤は課税される。
経済学者の正しい役割は、「費用」と「効用」、生産と消費、需要と供給を、望ましい人間的生活あるいは望ましい社会への貢献の観点から計測することである。個人間の効用は比較できないとされるが、我々は性質や質の異なる感覚や欲望を比較することをやってのけている。産業と支出において公的部門比率がますます大きな比重を占めるにつれて、公共当局の事情に通じ将来を見越した公共選択が、事情に暗く近視眼的な個人的選択に取って代わっている。市民の費用対効果の態度は改善され、気まぐれな個人的判断が減少し、長期的視野の社会的判断が優勢になっていると考える。
帝国主義は、ある特定の時代に限定された現象ではなく、ヨーロッパの諸国が他地域を支配することだけを意味するものでもない。ヨーロッパの国家が支配されたことも、それもモンゴル帝国の如くヨーロッパ外の国家に支配されたこともある。しかし、帝国主義という言葉は次第に、19世紀から20世紀にかけてヨーロッパ諸国が非ヨーロッパに領土拡大をすることを意味するようになった。最初に使われたのは、ナポレオン三世の政策にたいしてである(ポーター、2006、p.11)。ホブスンも、当然この意味で使用している。時に彼は、「新帝国主義」という言葉も用いる。
本書は、1902年初版、38年第3版(生前最終版)と版を重ね、未だに刊行され続けており名著の名に恥じない。19世紀末から20世紀前半のヨーロッパ列強の植民地獲得競争に科学的分析を加え、帝国主義の根源は資本家利益特に金融資本のそれであると主張した。そして、フェビアン社会主義的立場から、過剰商品および過剰資本のはけ口として植民地に依存するのではなく、所得分配を改善することにより国内市場を拡大できると主張した。レーニンの同名書やローザ・ルクセンブルグの『資本蓄積論』に影響を与えた。ハイルブローナー(2001、巻末読書案内)は「いまなお的をえており、レーニンの同名の書よりずっとおもしろい」といっている。現代では、ケイン/ホプキンスの「ジェントルマン資本主義論」にも大きな影響がみられる。
第一篇(邦訳上巻)が「帝国主義の経済学」、第二篇(同下巻)が「帝国主義の政治学」となっている。帝国主義を広い範囲で考察しているが、本書の主要な業績は第一篇にあると考えるので第一篇を中心に叙述する。[以下本書の邦訳からの引用の場合は、引用頁のみを記載する]
すべての発達した諸国では、富の生産力が分配の不平等によって制約される段階に至った。生産力を増加させようとするが、消費がそれに追いつかない。投資をしても、それから利潤を期待できない。こうなれば、蓄積の傾向は抑制される。それは、個々の資本家が愚かなためではなく、労働者階級には過少な分け前を、雇主(経営者)と所有階級に過大な分け前を与える、所得分配のゆえである。市場・投資不足を打開するために、外国市場にはけ口を求める。そのためには、政治の力を利用しようとする。ホブスンは特に投資家の役割を重視する。独立国である外国市場が閉ざされ、制限されるにつれて、植民地・保護領その他の帝国的開発地域を獲得する動きは一層緊急かつ意識的な国策となる。帝国主義である。
過剰生産力から逃れる方策は次の三つに帰着する。1.所得の平等化を図ること、高賃金、短時間労働、労働条件の改善による、2.企業家の生産制限、カルテルやトラストを含む、3.帝国主義政策、である。帝国主義が戦争を招きやすく、資本主義に致命的な革命の危険を含んでいるにせよ、帝国主義の即効的な利益を目の当たりにしては、その危険性は理解されないか無視されるだろう。帝国主義は、搾取階級のうち、外国貿易・外国投資に携わる人が、国家の政治的財政的資源を利用し、植民地を維持拡大させることである。全人民の利益と意志が国家権力を行使する政治的民主主義は、帝国主義と真っ向から対立する。遅遅としながらも進化を続ける人間の合理性と社会性が、帝国主義的略奪行為に対抗できる程度に進歩しているかどうかが、今日問われているのである。
初期帝国主義段階の領土獲得において、貿易は重要な役割を果たした。なるほど、ある国民と交易するのに、その領土を獲得する必要はない。しかし、原始的・後進的民族との安定的な貿易維持のためには概して領土保有がなされたし、貿易拡大につれて領土も拡張されがちであった。本書第三版(1938)の時点において、イギリスとその肥沃な自治領が特恵関税貿易政策を採用したことは、後発資本主義国にも、過剰な商品・資本・労働対する排他的市場としての植民地を拡大する意欲を増進させた。また、最も秀逸な地域を先取して飽食している先進国に対する不満を蓄積させた。当時の危機は「持たざる国」の「持てる国」に対する反発、および前者の帝国的拡張に由来する。世界平和攪乱者の三大強国、伊・独・日は、愛国心によって突き動かされているが、愛国心の本能的源泉は経済的動機により培われている。
帝国主義政策の下で、軍需産業は、対外政策を維持するため国家予算を浪費させる一方、対抗的な防衛政策を呼起した諸国にも軍需品を供給する。軍需産業は自然と各国間の国際競争を惹起し、戦争を挑発させる。戦争は、革命と並んで資本主義にとって危険とされる。しかし、戦争は、余剰品処分の方策としては浪費的な愚策であるとしても、当面の生産力と消費の均衡を回復し、戦争の局外国にも戦争景気で繁栄をもたらす。
古代および中世帝国は、一つの支配権の下における諸国家連合であった。多くの時代の思想家は、平和に対する唯一の可能な保障としての帝国を考えた。国内の封建秩序に準じて、国際的な諸国家間の階層秩序を構想した。帝国は国際主義と同一視されていた。しかし、最近の帝国主義は、多数の互いに競争する国民(帝国)によるものである。純粋な民族主義が堕落して不羈奔放となり、反抗的・非同化的な民族の領土を領有しようとする企みこそ、不純な植民地主義および帝国主義への移行を示す。民族主義は、本来国際主義と対立しない。国際主義は、共通の民族的利益と必要の基礎の上に結合するものである。帝国主義はその逸脱である。民族主義に及ぼした害悪は、平和的国内的な団結力を、排外的敵対的な力に転化したことにある。すなわち諸民族が各自に発展・繁栄するのを妨げ、民俗の真の力と目的から逸脱させたことにある。侵略的帝国主義は、相対立する帝国間に敵意を惹起するのみならず、現地の弱小民族の自由と生存を脅かすことにより、彼らに過度の民族的意識を覚醒させた。
英国植民地では、英国人はわずかの少数者として、多数の異邦人である隷属的人民に政治的経済的支配力を行使した。仏・独の植民地でも、彼らの民族生活が海外に移植されたのではなかった。その政治的ならびに経済社会的機構は、母国のそれとは全く異なったものである。帝国主義の通俗的な言い訳として、国民的宿命ならびに文明化の帝国的使命という教義が作り出された。いたるところで、併合された領土に対して、帝国支配は一層緻密かつ厳格となった。保護領、会社の支配地、勢力圏は、直轄植民地や明確なイギリス属領となった。政治的には、新帝国主義は専制政治の拡張であった。帝国主義は植民主義とは相違した。それは、帝国政府の専制欲のためではなく、気候と現地事情を考慮した結果である。というのは、第一に、帝国的膨張地域のほとんどすべてが、白人が家族と共に定住することを望まない熱帯地方または亜熱帯地方であること。第二には、ほとんどすべての土地に「劣等人種」が稠密に居住していることによる。白人の入植者が母国の政治形態や産業や文明の技術を携えて、人口希薄な温帯地方への入植したとのは決定的に異なるものであった。
大英帝国のほぼ1/3の面積と1/4の人口が、19世紀の最後の30年間に獲得された。わけても、領土の膨大な増加、並びにアフリカの広大な地域が英国に帰属するのは、ほぼ1884年に始まる。ホブスンが考察対象としているのは、この時代の帝国主義であり、時に「現代帝国主義」(p.64)あるいは「新帝国主義」(p.69)とも呼んでいる。
植民地と海外市場を得るために膨大な精力と血と金を投じたので、イギリス福祉にとって、それらが不可欠のように思われる。しかし、外国及び植民地貿易商品の生産と輸送は、国民所得の1/5から1/6程度である。そして、国内需要は一定で、それを超過して生産された商品は海外市場を見出さなければ売れ残ると考えるのは誤りである。もし、生産にともなう所得を、消費を刺激するように分配するならば、国内市場向供給に雇用される資本と労働の量は限定されない。そして、近代的国家が、その第一次的必需品を生産する工業技術において高度に発達した場合、生産力増加は、より高次の商品生産に向けられる。これら商品は、低文明段階を構成する単純商品に比べると、比較的国際貿易には適しない商品である。とすれば、外国貿易は、経済発展のある段階までは、急速に拡大するけれど、以後は絶対的ではないが相対的な減少が見られるだろう。
帝国的膨張に多大の努力と経費を費やしたのに応じて、貿易全体に占める帝国内貿易は増大したであろうか、より自給自足的な経済になったのであろうか。1870年来英国の属領・植民地は大きく拡大したが、英国の帝国内貿易の比率は増大しなかった。イギリス属領・植民地の側から見ると、その全輸入額の増加率はイギリス本国からの輸入の増加率よりもはるかに大きかった。その輸出額も同様に、全体の増加率はイギリスへの輸出額の増加率を大きく上回った。すなわち、「イギリスがその帝国に対する貿易上の依存状態は固定的であるに反し、イギリス帝国がイギリスに対する貿易上の依存状態は急速に減少したのである」(p.82)。帝国的膨張は、英本国と植民地・属領間(自治領を除くが正確:記者)との貿易額に何ら増加を示さなかった。これに反し、政治的に敵対する危険性のある先進列強、仏・独・露・米との貿易が大きく増加した。そして植民地貿易においても、次の特徴がみられる。先に、純粋の植民主義と帝国主義を区分したが、植民地貿易の発達の大きな部分は、自治を付与された植民地(カナダ、オーストラリア)との貿易によるものである。
近代帝国主義の趨勢は、自治領植民地の獲得ではなく、自治を与える意図のない熱帯や亜熱帯地方の獲得に向けられた。そして、それら地方との本国との貿易は小額で、不確実で、発展の見込みがない。これらの新領土は、何ら商業的資産とは言えない。新熱帯地方への輸出品は低級であり、最も安価な繊維製品や金属製品ならびに火薬、酒・煙草からなる。
新帝国主義の経済学的結論は次のとおり。1.イギリスでの貿易の比重は、国内産業に比して小さくかつ減少を続けた、2.貿易のなかでも、英国属領との貿易は全体との割合で減少していった、3.属領の中でも、新熱帯地方とのそれは小さく停滞的で不安定で、輸出品は下級品であった。
過剰人口をイギリス植民地・属領に定住させることは焦眉の課題であるとされた。しかし、新帝国主義の下で獲得された熱帯地方は、その環境から、定住したものはほんのわずかな人口であった。新帝国主義は植民に対しては、貿易以上に無益であった。
過去60年間の帝国主義は、多大の費用を投入して、わずかで不安定な市場を手に入れたに過ぎない。英国民はなぜ、こんな不経済な事業に邁進したのか。それは、国民全般の経済的利益よりも、国家的資源を掌握しそれを自己の為に行使する一部階級の利益の方が優位にあったからである。全国民的立場からは非合理でも、ある階級の立場からは合理的なのである。侵略的帝国主義は民衆の妄信的情熱と政治家の蒙昧な野望の野合から生まれたのではない。一定の事業利益実現を企図する組織化された集団が、多数ではあっても個々人には利益に乏しく纏まりを欠く集団に優位する国家では、前者の政策が採択される。果たして、英国においてそのような集団が存在するか、そしてそれは自らの政策を遂行する政治力を有しているか。
1.帝国主義の直接的経済効果は、船舶、大砲他、軍備に対する財政支出である。戦争あるいは戦争の脅威と共に増大し、関連産業に莫大な利潤を生む。これらの産業のうちには巨大な資本経営による大会社があり、その経営者たちは事業目的のために政治的勢力を利用する術を心得ている。軍需産業が全産業中に占める割合は小さいが、政治的に有力な会社が存在する。
2.軍人の必要を増加させる帝国主義は、息子たちの為に仕事を求める貴族・富裕階級からも支持される。大英帝国は、軍務のみならず、平和的な外交、教育、司法、技術の職業の就業機会を提供する。近年の領土拡大によって供給される実際の仕事量は微々たるものであろうが、雇用の限界的な局面は不釣り合いなほどの関心の的となる。これらは本来経済的動機であるが、感情的な動機でもある。
3.帝国主義の経済的要素のなかで最重要なものは、投資に関連する部門である(1893年海外に投資されたイギリス資本は本国の富の約15%に達した。その半分は外国政府に対する借款として、あとの半分は政府管理下の公共事業投資として)。英国では、対外投資に対する利子としての所得が、輸出入による利潤としての所得を大きく超えている(1988年の推定では、投資の純利潤が1億ポンドであるのに対し、貿易全体による手数料所得は1800万ポンドにすぎない)。しかも、後者の増大は緩慢であるが、前者は急速に増大した。既述のごとく、対外貿易からの稼得は国民所得の少部分を占めるに過ぎない。新帝国主義の膨大な経費と危険が、対外貿易の増加を目的にしたとは考えられない。製造業と貿易業は新市場による利得はほとんど得ていない。むしろ、市場から得る以上の租税を負担しているのである。
これに対し、投資家の様相は全く異なる。英国の近代対外政策は、有利な投資市場獲得を目指しての闘争そのものであった。イギリスはますます海外からの「あがり」 に依存して生活する国民となった。そして、あがりを享受する階級は、私的投資の保護・拡張のために、公的な政策・財政・兵力を動員しようと図る。英国の戦争や侵略の歴史には、投資階級が自己の事業目的のために国家機関を利用した例に、いとまがない。仏・独・米も同じ道を歩んだ。「侵略的帝国主義は納税者には甚だ高価につき、製造業者及び貿易業者には甚だ価値が少なく、国民にとっては甚だ重大な測り知れない危険をはらむものであるが、投資家にとっては大きな利得の源泉であった、彼は自己の資本のために有利な用途を国内に見つけることができず、したがって彼の政府が彼を援助して有利且つ安全な投資を国外になさしむべきであると、主張するのである」(p.106-107)。帝国主義は誰の為かとの問への答は、明らかに「投資家」のためにである。
もしも、公共の利益を圧倒する投資家の特殊利益が危険であるならば、投資を業とする金融業者の特殊利益はさらに危険である。金融業者は、公債・株式の金融市場において、利子を生む投資にではなく、価格変動による投機に資金を投ずる。銀行、仲買人、手形割引業、公債発行業等からなる大金融業者は、国際資本主義の中枢部門である。新しい公債や会社を創造すること、金融商品に絶えず大きな価格変動をさせることが、事業の条件である。そのために、彼らは政治に関与し、帝国主義に加担する。中国が、侵略者ヨーロッパに支払った賠償金と日清戦争で初めて発行した公債とは、金融業者の利益の源泉となった。外国から強引に奪取した鉄道敷設権や鉱山の利権は、新会社設立の基礎となった。戦争、革命、暗殺等の公的衝撃はなんであれ、債券価格の変動を通じ金融業者の利得と結び付けられた。
金融業者は、帝国主義政策の主要な決定者であるが、政策の原動力ではない。彼らは運転手であっても、直接的な力の源泉である燃料ではない。彼らは、政治家、軍人、貿易業者が生み出す愛国的諸力を操縦する。大金融業者は、新聞を通じて世論を支配する高等政治を用いる。新聞が広告収入に依存していることで、あらゆる先進国で新聞は大金融業者の走狗となっている。
現下の帝国主義は、保護貿易主義制度に基づいた形態をとっている。当代における陸海軍の経費増加は、既存植民地に対する保険料および新市場のための経常経費と見なせるだろう。これを経費―便益分析の観点で見ると、1884~1903年にかけて、軍事費が3.6倍に増えているのに、植民地貿易の増加は1.8倍でしかない。経費は事業の大きな失敗を表わしている。これらの市場は、経費に値しなかった。のみならず、もしこれら市場が保護主義の競争国に獲得されていたら、英国貿易もそれに応じて減少しただろうとの推測も根拠がない。複雑に相関し増大する貿易による文明諸国間の産業的ネットワーク体制は、いかなる国にも市場の独占を許さない。保護貿易主義の国を「門戸開放」させるために、莫大な費用と危険をかけるくらいなら、彼らの国を閉じるに任せ、迂回貿易によって利益を得る方が賢明である。イギリスはまた、海運業によって、諸国が開発した新市場から生じる利得の分け前も得られる。イギリスは、西欧工業諸国貿易全体のために、新地域開発という高価で困難な仕事を、その分担以上に果たして来た。最近の状況は、ますます費用がかかる割には、利益は少なくなった。たとえ、後進国は人類の福祉の為に開発されるべきだとの文明論的な視点に立っても、英国は、開発を他の帝国主義国に委ねるのが経済的に妥当だろう。英国を、帝国主義的膨張によって政治的・財政的に弱体化させることは、狂気の沙汰である。
帝国主義は多大な費用と精力の割には、帝国貿易拡大には役立たなかったと数字をもって実証しても充分ではない。帝国主義者は、依然、次のように反論するだろう。工業製品に対する市場、余剰資本に対する投資先、過剰人口に対する移民先という捌け口が必要である。英国商工業の発達は、食料と原料を海外に依存させることになった。これらを買うためには、商品を海外に売らねばならない。イギリスの工業的地位が卓越している時、世界市場は独占できた。独・米が急速に工業化すると、余剰商品を販売することが徐々に困難となってきた。属領市場さえ新工業国の商品が浸透している現状では、新市場獲得には一層注力しなければならない。当代の市場の価値を以て政策の経済性を測るべきでない。現在の帝国主義費用は資本的支出と見なされるべきで、その果実は将来国民の収穫となる、と。
そして、より重要な要因は、海外投資を求める資本の圧力である。製造・貿易業者が現状に満足しているのに比べて、投資家が彼らの投資対象地域を政治的に併呑する動きは強力である。
米国は1880年代以降の急速な産業革命によって、迅速に帝国主義の道に踏み込んだ。米国では、強烈な競争を経て資本の集中が進んだ。慢性的生産過剰は、カルテルやトラストによって調整された。資本の飽和した石油、砂糖、鋼鉄等の産業はそうして得た利潤を自産業に投資できない状況である。全生産力を使って蓄積を増加するには、国内市場では依然価格と生産量を調整しつつ、余剰商品をダンピング価格で外国市場に投げ売りすることになる。同様に過剰蓄積の投資先を海外に求める。ヨーロッパは既に、保護貿易制度で市場を閉ざそうとしていた。アメリカの大製造業者や大金融業者は、中国や太平洋、南米に向かった。アメリカの実業家は、英国よりも政治的影響力が強く、より直接的により迅速に商品及び投資に対する外国市場を求めることができた。
すべての国において、生産力の増大が消費の増大を超えていること、利潤を得て販売できる以上に多量の商品が生産されていること、有利な投資が可能な以上の資本が蓄積されていることは、等しく実業家によって承認されている。この状況こそが帝国主義の基礎にある。もしも、英国の消費者が、生産力上昇にあわせて消費水準を向上させることが可能なら、帝国主義を生む資本の過剰は生じない。
生産物に対する請求権は、地代・利潤・賃金として所得を形成し、消費される。生産される商品とともに消費も生まれる。だから、消費されない商品があるなら、「消費力の所有者がその力を商品に対する有効需要に充当することを拒んでいるという以外には、この矛盾を説明する方法がないのである」(p.137)。不況期には、有利な投資を求めながら、それを見出せず、遊休銀行手元資金が存在する。それが生産力過剰である。消費不足あるいは過剰蓄積とは、消費力が少なからず手控えられていること、換言すれば投資のために「節約」され蓄積されていることである。投資のための蓄積はすべて生産を抑制するのではない。「生産されれば消費されるような商品の生産を促進することに完全な資本の使用が見出される場合には、生産的観点からみて蓄積は経済上正当化される」(p.138:適正利潤で販売可能な生産を増加させる投資は有効需要となる、意味だろう―このあたりはケインズの有効需要論を髣髴させる:記者)。
何故消費力の所有者は、有効に使用する以上の額を蓄積の為に保留するか。この答えは富の分配問題にある。富裕層には使用可能以上の所得(原文:消費力)が割り当てられる一方、労働者階級には自己を維持するに十分な所得も割り当てられない。労働者の分け前=賃金は増加困難である。富裕層の割り当ては生活必需品・奢侈品の消費と蓄積に使われる。富裕層の消費は、全体から見れば少なく、容易に増加しない。蓄積に向かう量は益々増加してきたが、これ以上増せないことが明白となった。つまるところ、帝国主義とは、国内で使用できぬ商品と資本を処分するため、外国の市場と投資先に捌け口を求めようとする産業の大管理者たちの営為である。
もし政治情勢が変化し、富裕層の超過所得を高賃金として労働者に分配するか、税金として徴収し公的支出とするならば、外国市場や投資先の獲得の為に戦争する必要はない。有産階級に資本に転化できぬような過剰所得を分配する経済は、不正である。現状は帝国主義という破滅的政策以外に余剰を利用できないでいる。「国民の唯一の安全は、有産階級から所得の不労増加分を移して、それを労働者階級の勤労所得にもしくは公共の所得に付け加え、消費水準を高めることに費やされるようにすることにある」(p.146)。
19世紀末では、国民所得の増加率より公共支出の増加率が大きい。公共支出の2/3が陸海軍費および戦時公債の償還充てられている。帝国主義の経済的根源は強力な産業界・金融界の指導者たちが過剰商品・過剰資本に対する市場を、公の武力と経費によって獲得するにある。この経費を彼らの所得・資本課税によって賄うのであれば、少なくとも商品市場に関しては割の合わないものである。金融資本家達はその政治力で、帝国主義のために国民から金を引き出した。普通選挙と代議制の下で、一般民衆に負担を転嫁する手段が、保護政策である。外国との競争から国内生産者を保護する名目で、無力無知な消費者に課税する。物価上昇によって生産者に利得を得させる。その主導勢力は貿易業者ではなく投資階級である。輸出超過は最も有利な投資である。保護政策は、債権国あるいは寄生国は役立つ手段である。しかしながら、いかなる時も、必要経費を消費者課税だけで満たすには限度がある。帝国主義に必要な巨額な軍事費は、公債と減債基金によって用意される。これに対し、健全な租税政策は、歳入の大部分を土地価格の不労増額や特殊事業の利潤から引き出すものである。健全な租税制度は、帝国主義の根底をなす過剰資本に課税し、病弊の根源を断つだろう。
第二篇「帝国主義の政治学」は、当時の政治状況の下で帝国主義をどう考えるかの考察で、重要なことは書かれていないと思う。内容紹介は略して、代わりにポーターとロバーツの本に寄り掛かりながら、帝国主義の政治的理論を含む帝国主義の諸定義・諸理論(経済理論も含む)を略述する。
((付論1:帝国主義の諸定義・諸理論))
帝国主義を政治的意図、基本的に外交的な意図の結果とする長い伝統がある。外交的解釈は、非ヨーロッパに重きを置かず、外交の目標は自国第一主義で、欧州内の勢力均衡を図るとすることにある。例えば、19世紀後半の統一ドイツの台頭と普仏戦争が既存の均衡を破壊し、ドイツの優位を決定づけた時代は、戦争を再発させて状況を修正できないので、海外での領土や影響力をめぐる覇権争いがなされたとするのである。フランスは敗北を、海外での膨張主義的によって、たとえ部分的にでも埋め合わせたとされた。
帝国主義をヨーロッパの価値観や思想からも考察できる。ヨーロッパ人が、欧州外の人々と領土に影響を与えるべく強く駆り立てたのは、一つには非キリスト教徒をキリスト教徒に改宗させようとする宗教的情熱、いま一つは、非ヨーロッパ人の生活水準を向上させようとの人道的な衝動であった。伝道的及び人道的活動は、主としてイギリス人および、大陸では同じプロテスタントのドイツ人によって担われた。温情主義的な色彩を帯びた「博愛的帝国主義」である。ヨーロッパ人は、自分たちの繁栄の原因と成果とを、すなわち自らの法律、制度、学問、なによりもキリスト教を伝えるべく運命づけられていると信じていた。ヨーロッパ人は自分たちが「文明」の担い手であると自覚し、キリスト教的価値観を広げることに疑問を持たなかった。たとえば部族が領有していた土地を個人私有とすることや、狩猟採集民を賃金労働者にすることの弊害には鈍感だった。
しかし、1860年以降は、現地人の抵抗に逢って、ヨーロッパ文化を容易に普及できるとの信念が揺らぎ始めた。インド大反乱、ジャマイカ反乱等に遭遇して、英国人は非ヨーロッパ人が西洋文化に同化できないのを、彼らの頑迷によるとなし、他人種を理解させる唯一の言葉は実力の行使だと信じるようになった。文化の優越が人種の優越と同一視されると同化は不可能と見なされた。
1870年以降、ヨーロッパ諸国は軍国主義化し、軍事的価値と業績が最高のものとされた。その風潮のなかで、フランスの人口減退、英国都市労働者の軍務に絶えない体格、ドイツ労働者階級における社会主義の隆盛は、危険な徴候であった。国家は社会改良の計画に向かう。健全な国民と膨張する帝国は相互依存の関係であった。
以上のような文化的要因は、大まかな原因とは考えられても、ヨーロッパ帝国主義の直接的、近接的な要因とするのは極めて困難である。ヨーロッパ社会の社会、経済的な構造こそが、帝国主義を理解するのに不可欠だとする歴史家も多い。マルクス主義的な決定論は最近では取り上げられない。近年は自由意志に対する社会経済的な構造からの拘束やその限界を解明する学派が盛んである。
一つは社会帝国主義である。国内での深刻な社会紛争や、政治変動に直面して、海外への帝国主義的膨張という道を選ぶという状況をいう。ドイツの学者により、ビスマルクによる植民地獲得政策を説明するために用いられた。説得的な議論とはされなかったが、一方、他国にもこの説を適用する動きがあった。不安定な政治制度の下、農村社会から都市・工業社会への移行する困難な状況が社会帝国主義を生み出したという考えは、どの国よりもフランス史の研究者により好意的に受け入れられた。けれども、社会帝国主義という概念では、具体的に個別の列強が個々の植民地を獲得しようとする可能性を説明できないし、ましては個々の行動方針や時期も説明できない。
経済帝国主義は、19九世紀から20世紀初めにかけて、ヨーロッパの膨張が、それら諸国の経済成長と合致したこと、つまり工業化と都市化に関連した大幅な経済的変容および諸国の大きな経済変動と並行したという事実に基づく。遅れたアメリカ合衆国と日本の両国でも工業化とともに帝国主義的野望が拡大したことも、この説を補強した。
帝国は、第一に人口と雇用の増加および農業の斜陽化状況で、国内で入手が難しくなった食料と原料を供給する。第二に、生産拡大による商品を消費する市場を提供する。第三に、国内での余剰資本を海外投資する場を与える、ものと長らく考えられてきた。植民地からの供給、その消費、および、それへの投資である。しかし、経験的事実研究の集積によって、それらは次第に疑わしいものとされた。帝国内取引が輸出入の25%を占めるイギリスだけは例外とされたが、その英国も「新帝国主義」の時代に形成された植民地ではなく、昔からの領有地、カナダ、オーストラリア、インドがその主要取引先であった。ヨーロッパからする長期的な海外投資先も、自国の植民地帝国以外の地域が圧倒的であった。イギリスはアメリカ合衆国とラテンアメリカへ、フランスはロシアへ、イタリアはバルカン半島と中東へ等。
ロンドンは、イギリス本国からの資金というより、むしろヨーロッパ大陸側の資金を、かなりの規模で海外へ流す窓口機能を果たしていたことが明らかとなった。貿易業と海運業の事業ネットワークの研究からも、多くの点で長らくイギリス的企業形態と見えていた投資会社が、今日の多国籍企業の先駆形態であったことも明らかになった。表面的には大英帝国企業に見える企業の性格がコスモポリタン的であったことは、資本主義的経済活動と帝国事業活動との関係は単純でないことを示している。
帝国主義というのは、もっぱらヨーロッパ内の権力によって植民地が支配され、海外領土はただそれに従うだけのことではない。たいていの場合、本国は遠隔の地での状況の展開に従う他はなった。本国の無関心や黙認の態度が放棄されたのは、現地の危機に不干渉でいる場合の危険が差し迫って感じられた時に限られた。帝国主義を、ヨーロッパによる一方的な侵攻、影響と支配の確立過程ではなく、ヨーロッパと植民地双方の社会と政府の相互関係と考えるようになってきた。ヨーロッパと植民地には、権力においても事象の結果においても、考える以上にはるかに対等なものがあったという考えである。
植民地社会が、欧州本国との交渉を一切拒絶したことは、ほとんどない。西洋は植民地住民に何らかの利益をもたらすはずだと考える勢力が常に存在したからである。自ら望むものを摂り、不要なものは排除することにより西欧文明の衝撃を緩和できると考えた。帝国主義のありかたや、帝国関係の多様性は、本国の政治経済と同等に現地のそれに依存していたのである。なによりも、欧州の外に混乱や抵抗を引き起こしたのは、不均等に発展したヨーロッパが域外進出したことによる、それでも現地の諸条件は帝国主義の理解のためには不可欠である。
帝国主義が台頭する大きな要因は、ヨーロッパ政治情勢の不安定にあったであろう。19世紀後半、ドイツの勃興、フランス第三共和政の成立、オーストリアの没落、イタリア統一、そしてロシアの拡張等によるものである。確固たる支配勢力の不在、そして諸勢力の連衡も不調で、情勢は悪化するばかりであった。列強のみならず中小国も、地位を強化すべくパワーゲームに巻き込まれていった。
最後に、その他の最近の帝国主義研究を一瞥する。
ウォーラーステインの「近代世界システム」論は、ヨーロッパを世界経済における資本主義の中核とし、外部世界を周辺あるいは半周辺とする単一システムとし、帝国主義とは前者が後者を組み込んでいく厳然たる過程だとした。「世界システム論」は学術世界の細分化に抗した視野の広さとその文体で支持が広がった。ただし理論重視で事実が軽視されている点やヨーロッパ中心的な見解は批判を受けた。前期的であるが資本主義の諸形態は、ヨーロッパ以外のインドやアフリカの一部といった各地の社会において、同時に勃興していた。それらは自己持続的で相互に交渉していたとしてヨーロッパ中心史観に異が唱えられた。反動として、本国に立ちもどり、ヨーロッパ帝国主義の国内的な根源の検討へと回帰する動きも見られた。
次に、ケインとホプキンスによる「ジェントルマン資本主義論」。イギリス経済においては、モノづくりの工業よりもカネを殖やす金融部門優位の伝統がある。ロンドンのシティとイングランド南東部を中心とする金融・サービス部門の投資家と証券投資家に転じた地主階級の利益が帝国主義の主導的役割を果たしたとの説である。ホブスン『帝国主義論』の考え方を再考することから発想をえたものである。現在では定説としての一定の地位を得ている。しかし、ジェントルマン資本主義論は、イギリスの大陸とは異なった特殊性に注目した点に注目したものであり、他の欧州諸国には適用できない理論のように思える。また、イギリスの有する資料の豊富さゆえに立論できた面もあるであろう。
簡単にヨーロッパの帝国主義の歴史をその前期形態を含め、主として資本主義化との関連で、略述する。多くをオブライエンの著作に頼っている。
((付論2:帝国主義の歴史))
(前期帝国主義史・重商主義時代のヨーロッパ経済(1415-1846年))
スペインでは南米から大量の金銀が流入した。金銀は実用的素材ではなく、冶金業等の工業を発展させるものではない。南米大陸から銀や原料を輸入することで、安易に利益が得られるため、工業やサービスに投資する起業家が育たなかった。依然農業が最大の産業で、帝国は経済成長、生活水準の向上には役立たなかった。貴金属は、貨幣として輸入品のために使用された。貨幣として使用されないものは、教会や王侯貴族の豪邸の装飾に加工された。
それでも、新世界産出量の1/4占めるとされる王室への金銀の流入は、財政問題や政治問題を解決する術となりえた。植民地は工業化ではなく、伝統的な旧権力を維持・安定化するのに資したのである。ハプスブルグ家は、国内税収と帝国からの収入をヨーロッパでの王朝政治に蕩尽して、スペイン帝国の資産を保護するための海軍力の増強にはそれほど支出しなかった。
フランスでは、帝国との経済的関係は、大西洋沿岸のボルドー、ナント等の諸港とその後背地に集中し、国民生産における比重は低かった。植民地は、製粉、ワイン、リネン、レース、毛織物や綿織物を購入した。フランスは、植民地から砂糖、コーヒー等の熱帯産食品を輸入し、その大半を他のヨーロッパ諸国に再輸出した。再輸出収益は大きかったものの、法外なものでもない。植民地維持費用は巨額で、フランスの発展にはマイナスであった。その結果、フランス経済は荒廃して、イギリスとの競争力を失ったとされる。
イギリスの助けを得て独立したといえるオランダは、アジア、アフリカ、アメリカ向けの製造品・加工食品等の輸出国となる。17世紀前半には、新興通商国家として英国と覇権を争うようになった。同世紀後半の英蘭戦争では優位に戦いを進めたが、同時に並行したネーデルランド継承戦争(1667-68)と「オランダ戦争」(1672-78)と二度のルイ14世に対する戦争で、戦費を公債に頼ったため、税金が高騰し困難な状況となる。18世紀には英仏の覇権争いが主流となり、仏に味方したオランダは衰退してゆく。フランス革命干渉戦争では、フランスの占領を受け、経済の衰退と通商貿易の地位低下が決定的となる。ついに、イングランドの衛星国に転落する。オランダの長期発展にとって、貿易は明らかに重要であった。しかし、帝国に関与することによってもたらされた利益は、それほど多くはなかった。
イギリス。オランダと共に、宗教改革以来、政治的・宗教的に共通の敵であったカトリック国スペインとフランスに対立してきた。国際通商でイギリス成功の理由は、重商主義的な共同事業にオランダの資金を投入し、初期費用への巨額な投資を行わずに済んだことである。イングランドの資本主義への移行は明確な事実である。しかし、資本主義移行と、(植民地と通商とに緊密な)重商主義との関係となると、大いに関係するが決定的ではないというところである。自由主義的な立場からは、イギリスが重商主義、貿易、帝国を希求し成功したことと、産業革命との関連については否定的である。確かに、イギリス工業生産の増加分の3・4割は輸出された。輸出先はアメリカ、アジア、アフリカが多くを占めた。貿易で得た利益は工業拡大資金を提供し、国内交通や金融機能を発展させた。それでも、イギリスの資本主義化には内発的要因が大きく作用していた。高度に生産的な農業、安価で豊富なエネルギー・石炭、新機械を発明・採用する熟練労働力の存在等である。
帝国主義への参入は遅れたが、イギリスが、大陸間貿易と海外帝国について、ヨーロッパ諸国で最大の利得者であったことは確かである。アジア、アフリカ、とくにアメリカ大陸への列強の拡大がなければ、ヨーロッパ経済は貧困に停滞し、工業が農業を凌駕することもなく、都市労働者数も増加しなかったことは確かであろう。フランス革命後の混乱の後に、貿易の回復のみならず、ヨーロッパの潜在成長力を実現し、経済を発展させたのは、海外拡張なしには考えられない。
また、イベリア国家(西・葡)は、アメリカやアフリカ大陸の貴金属流入によって、経済を発展させられなかったはいえ、地金の流通はヨーロッパの国際通貨制度発展を助けた。世界的通貨供給量の増加がなければ、バルト海沿岸から地中海におよぶヨーロッパ諸国間の貿易は制約されたであろう。中・印等とのアジア貿易でも、見返り輸出商品は輸入品の1/4にすぎなかったので、差額は銀で決裁されたのである。しかしながら、ドイツ、スイス、オーストリア、スカンディナヴィア諸国を含むほとんどのヨーロッパ諸国は、ヨーロッパの域外に資本・労働力・企業家的精神・軍事力を投入しなくても最終的に工業化した
(自由帝国主義の時代(1846-1913年))
フランス革命の余波がようやく収束すると、欧州の知識人は、国際経済秩序は自由貿易主義とすべきであり、帝国の保持・拡張は、ヨーロッパ経済に力をもたらすものではないと考えるようになった。しかし、現実には、独裁政権であろうと自由主義政権下にあろうとも、海外領土は放棄されるどころか拡大し続け、1882-1913年に最盛期に達した。1914年には、欧州の域内と海外におけるその属領・植民地は世界の陸地面積84パーセントを占めるまでになった。真の独立を保ったのは、日本とエチオピア、タイ(シャム)のわずか三カ国にすぎなかった。1882-1913年は、「新帝国主義時代」といわれる(ホブスンの定義とほぼ同じ)。イギリスのエジプト侵攻(1882年)に始まり、ポルトガル、スペインが再びアフリカへの関与を復活し、これまで植民地主義に無関心であった欧州諸国・ドイツ、イタリア、ベルギーも、海外に帝国構築を追求することに利益を見だした。
イギリスのマクロ経済にとって、帝国は、ポルトガルを除いて他のいかなる欧州諸国にもまして重要であり、その影響も長期にわたった。しかし、多くの欧州諸国については、帝国主義を経済的利益の獲得を理由とする説は現在では全く支持されていないし、当時でも疑問とされた。商品・生産要素・財政について、本国―帝国間と本国―世界経済間の取引を比べてみると、イギリスを含めて「どのヨーロッパ国家にとっても、競合する列強の帝国との関係を含めて、世界経済とのつながりが[自国の帝国よりも]常にはるかに重要であった」(オブライエン、2000、p.106)。帝国貿易からイギリスと他のヨーロッパ諸国が得た純利益はおそらく国民総生産の2パーセント以下であったと推計している。
帝国主義者が用いた主張、植民地支配がなければ、アジア・アフリカ・南米の経済は発展せず、国際貿易と特定商品への特化も開発されなかったとの主張は、第三世界の歴史家たちによって否定されている。欧州各国の統計からは、自国の植民地や自治領が特別有利な移民先とされた事実はないことが解るし、本国以外の投資先としての植民地も同様である。
19世紀末までに西欧で蓄積された余剰資本による利潤率低下のはけ口として植民地投資が必要とされたというルクセンブルグらのマルキストの主張も事例研究から否定されている。欧州の投資家が、外国投資において植民地投資を特に選好した事実はない。逆に、イギリスは、植民地を含む海外投資に過剰に資本が流失させたため、国内工業の長期的成長に必要な産業構造の転換投資が不足したという議論がある(ホブスンは、すでに『帝国主義論』で、国内投資の方が、国家の経済成長にとって優れた資源分配であろうと予想した)。他の欧州諸国も、帝国経済を獲得・開発・維持するために、多大の公的・私的資本が投入されたが、ほとんどは特別な報酬を得られなかった。
ほとんどのヨーロパの植民地が、対外侵略や国内争乱に対する防衛費用を負担していない。さらにはイタリア、ポルトガルのような植民地では、現地の税負担は、植民地統治に必要な民政費やインフラ設備、公共サービスに必要な経費の一部を賄ったにすぎない。イギリスの納税者は、明らかに、本国と広大な海外帝国を防衛のために、他の列強の国民よりもかなり多くの税金を支払っていた。
結論的には、ホブスンその他の急進主義者が信じたように、帝国支配を段階的に縮小しても、貿易利益の減少、海外投資利益の低下、移民の機会減少とはならなかただろうと思われる。帝国は、ヨーロッパの経済発展にとって時代遅れな制度となっていた。
その後、第一次世界大戦が勃発すると、本国と植民地は経済的・軍事的結びつきを強化し、ブロック経済を形成するようになった。しかし、それは自由経済から見ると次善の策でしかなく、効率の悪いものであった。戦後民族の独立を求める機運が高まると、植民地経営はますます割の合わないことが明らかになった。
(イギリスの帝国主義)
最後に、ホブスンの議論はイギリスの状況によったものであるから、書き残したイギリスの帝国主義の特徴を付加する。
イギリスの力は圧倒的であった。ヨーロッパ文明が世界中に拡大することを可能にした一因は、イギリスの圧倒的な海軍力が経済活動を保護したためである。イギリスの海上覇権は他国の貿易を妨害しなかった。イギリスに世界の警備を任せておけば、すべての国が恩恵を受けられた。イギリスは世界の警察ならぬ、世界の海軍であった。
イギリスは、輸出において、非ヨーロッパ諸国向けがヨーロッパ諸国向けを上回る唯一の国であった。また、最大の資本輸出国であり、アメリカ大陸などへの投資から多大の収益を得ていた。しかし、イギリスの政治家たちは、植民地は金食い虫の割には利益を生まず、列強や先住民との戦争を強いられ、苦労の割には原住民に感謝されない厄介者であると考えるようになった。合衆国の独立で手痛い目にあったイギリスは、既に1784年(ピットのインド統治法)には、インドでの新たな領土の獲得を抑止する方針を示した。新たに植民地を拡大することを避けたいと考えたのである。
イギリスは1800年頃から、植民地支配ではなく、アジア諸国との貿易のほうに注力するようになる。問題含みの新植民地の獲得よりも、通商関係のない国を開国させることの方が経済的に得策と考えた。それでも、19世紀に入っても、ヨーロッパのなかでイギリスのみは、依然、既存植民地に移民を送りつづけており、植民をとおして新領土獲得の行動を取ることもあった。
ヨーロッパの世界覇権が拡大すれば、貿易や投資は自然と盛んになるという見込みは期待外れに終わった。工業国の最大の貿易相手はやはり工業国であった。海外の資本投資先も、新しく獲得した植民地ではなく、既存の植民地や元植民地に向けられた。イギリスは、アメリカ合衆国と南米へ大半を投資していた。ちなみに、フランスは植民地アフリカよりもロシアに、ドイツはオスマン帝国に投資した。イギリスの植民地では、インドの比重は圧倒的である。19世紀半ばまでにイギリスが獲得した植民地の多くは、海上覇権を維持するための地域、特にインド支配に戦略的に必要な地域であった。英印間貿易はイギリス製造業と世界経済のネットワークの中に組み込まれた。
イギリスの力は、依然圧倒的であった。17、18世紀には何度も頻発した植民地戦争が19世紀には起きなかった。ヨーロッパ諸国による「世界の分割」は平穏裏に進行した。第一次世界大戦においては、植民地問題でもっとも対立していたはずのイギリス、ロシア、フランスの三カ国が同盟を結んだ。
イギリスの古書店より購入。青色の皮装で小口の三方金であり、見返しと遊び紙がマーブル紙である。非常に綺麗な本である。日本の図書館にはこの本の初版の所蔵は比較的少ない。
(参考文献)
- オブライエン、P・K 秋田茂他訳 『帝国主義と工業化 1415~1974 ―イギリスとヨーロッパからの視点― MINERVA 西洋史ライブラリー』 ミネルヴァ書房 2000年
- ケインズ 間宮陽介訳 『雇用、利子および貨幣の一般理論 下』 岩波文庫 2008年
- ハイルブローナー、R・L 八木甫他訳 『入門経済思想史 世俗の思想家たち』 筑摩文庫 2001年
- ホブスン 矢内原忠雄訳 『帝国主義論 上巻・下巻』 岩波文庫 1951.1952年
- ホブスン、J・A 高橋哲雄訳 『異端経済学者の告白』 新評論 1983年
- ポーター、アンドリュー 福井憲彦訳 『帝国主義』 岩波書店 2006年
- ロバーツ、J・M 福井憲彦訳 『帝国の時代 世界の歴史8』 創元社 2003年


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(2004/8作成、2024/7/15全面改稿)

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