BARONE, E., The Ministry of Production in the Collectivist State, in Hayek ed. Collectivst Economic Planning, George Routledge & sons,
1935, pp.245-290, 8vo.
[上に掲げたのは、英訳の論文である。イタリア語の原論文は未入手で、探求中。入手すれば差替え予定]
[以下バローネからの引用は、Collectivist Economic Planning 1935所載英訳のページによる。同書からの引用は、ページ数のみを表示。ハイエクの引用も同様。その和訳については、北野や迫間の訳を参照したが、適宜変更した。私見にわたる部分は、*を附した]
バローネ「集産主義国家における生産省」、1935年の英訳論文(初出は1908年伊経済雑誌)。
著者略歴:エンリコ・バローネBarone, E.(1859-1924)。ナポリに生まれる。1874年頃ナポリのヌンツィアテッラ軍事学校(ロイヤルミリタリーアカデミーとして創立)で古典学と数学を学んだ後、士官学校に移りイタリア王国軍(1861年創設)の少尉に任官。1884年砲兵少尉として、陸軍大学校(
Scuola superiore di Guerra)に入学、1886年大尉となって卒業する。1894-1907年参謀本部付の中佐となって、チューリン陸軍大学校で軍事史の教鞭を執る。その間『大軍運用法』(1882)の他ナポレオン戦争やモルトケについての著作をなす。1902年参謀本部戦史部門の長となり1903年大佐に任官するも、北東方面の防衛について、参謀総長のタンクレディ・サレッタと意見を異にして1906年参謀本部を辞す。
現役の間に経済学の研究をはじめ、1894年からイタリア経済学雑誌Giornale degli Economistiにおいて、パンタレオーニやパレートと協力関係にあった。1902年に経済学の教授資格を得て、ローマ経済学研究所で経済学を教えた(1907-1924)。退役と前後してフリーメイソンの会員となったと書かれている。ローマにて没。
バローネの経済学上の主要業績は次の二つである。第一に、ワルラスに限界生産力説を発展させて一般均衡理論に組み込むことにより、後期ワルラス(『要論』第3、4版)の可変資本係数の体系を完成させるのに大きな影響を与えたことである。前期には、固定資本係数の方程式体系が用いられた。利潤極大を求める企業者行動は利潤がゼロの結果を招く。一方、生産要素が自由に移動でき生産係数が変動するならば、生産要素の価格は生産物の限界価値増加分で決定され費用最小が実現される。しかし、利潤ゼロの時に限界生産力説によって生産物価格が生産に参加する生産要素の費用に過不足なく配分し尽くされるのか確信がなかった。そのためワルラスは、固定資本係数が採用したのである。バローネは、自分の書いたウィクステード『分配法則の統合に関する評論』の書評(『エコノミック・ジャーナルに』投稿されたが没となった)をめぐるワルラスとの書簡の交換によって、分配の限界生産力理論を説得したのである。「バローネ氏はその限界生産力説によって、生産係数を決定する方程式体系をつくりあげ、私は自分の著作の改定版本文にそれを導入しております」(ワルラスのエナウディ宛書簡:ジャッフェ、1977、p.128)。
そしてもう一つの主要業績が、社会主義計算論争の始発点となった本論文「集産主義国家における生産省」なのである。
(自由競争経済)
バローネは個人主義制度からはじめる。そこには独占やカルテルが存在するし、後にはそれらも導入されるが、ここでは集産主義経済との対比のため、自由競争の経済のみを取りあげる。自由経済の競争において、経済的均衡が成立することが、ワルラス・パレートに従って証明される。その際、両者とは異なり効用概念を用いないで、需要・供給・生産費の概念だけを使用するのが特徴である。各人は、種々の資本を所有しているとする。バローネはこの資本について説明はしていないが、ワルラス同様、土地(土地資本)、人的資本、本来の資本からなる様々な資本のことだと思える。
与えられた価格の下、自己の所有する資本の用役(土地用役、労働、資本用役であろう)を販売して、消費財・用役(自家直接消費分は再購入すると考える)を購入し、残余を貯蓄すると仮定する。支出+貯蓄=売上収入は、各個人だけでなく、社会的に集計しても同様に成立する。現存の資本用役を使って、最終(消費)財、直接使用用役、新資本を需要(供給)し、最終財と直接使用用役を消費し、残余を貯蓄する社会といえるのだろう。その社会での、最終消費財は(A,B…)m種、用役(S,T…)はn種である。
(1)社会的な与件として、現存用役の量、(Qs,Qt…:n個)は決まっている。生産係数(各生産物1単位に必要な各資本用役の量)も一定で所与である。
(2)方程式体系から決定されるパラメーターとして次のものがある。
社会的に総計した生産物の需要量あるいは生産量をRa,Rb…(m個)とし、その価格をpb,pc…(m-1個;paはヌメレールとして除く)とし、それらの生産費をπa, πb…(m個)とする。また、現存する資本用役の直接消費量をRs,Rt…(n個)とし、その価格をps,pt…(n個)とする。そして、新資本(H,K…)の生産高をRh,Rk…(n'個)とし、それらの生産費をΠh,Πk…(n'個)とする。Eは貯蓄額である(1個)。変数の合計は3m+2n+2n'である。
均衡は次の方程式体系で表現できる(方程式体系番号[Ⅰ]等はバローネのものとは異なる)。
[Ⅰ]各生産物、直接消費用役の各需要量(生産量に同じ:Ra,Rb…Rs,Rt…:m+n個)および貯蓄(E)は、価格の函数として表示できる(m+n+1本の式)。
(例)Ra = Fa(pb,pc … ps,pt … )
*現存用役、(Qs,Qt…:n個)は供給されるが、生産されたものではない。現存資本から発生するものである。生産された新資本は来期以降の用役を生む。需要関数あるいは消費関数([Ⅰ])のなかには、新資本(投資)の需要は含まれていない。投資は別の要因で決定されるのであろうが、投資関数は明示されていない。結果としての投資=貯蓄の式(下記[Ⅲ])が書かれているだけである。
各資本から各用役が生れる。新資本は本来の資本であり生産可能だが、その他に土地等で生産できない資本があるからn'はnより少ない数であろう。
[Ⅱ]各用役は、過不足なく使用されねばならない。現存の各資本用役存在量(Qs,Qt…:n個)(注1)は、直接消費量ならびに、最終財生産と新資本生産に必要な用役量の合計に一致する(n本の式)。
(例)Qs = Rs + asRa + bsRb + …+ hsRh + ksRk + …
ここで、a,b…h,kは最終財と新資本財の生産係数((例)ではsの生産を表す添え字あり)である。(例)式の右辺第一項が直接消費量、第二第三項他が最終財生産に必要な量、…以下の項が新資本財生産に必要な量である。
[Ⅲ]貯蓄額は新資本の生産費総額に一致する。現代風にいえば、貯蓄と投資の一致。
E = ΠhRh + ΠkRk + … (1本の式)
[Ⅳ]最終財と新資本財の各々の1単位の生産費は、その生産に必要な各用役の生産係数に用役価格を乗じたものの総計に等しい。最終財の生産費(πa, πb…:m個)と新資本財の生産費(Πh,Πk…:n'個)についていえる(m + n'本の式)。
(例)πa = asps + atpt + … (最終財:m本)
Πh = hsps + htpt + … (新資本用役:n'本)
[Ⅴ]自由競争により、生産物(m個)と新資本用役(n')の価格は、各々その生産費に等しくなる(m + n'-1本の式)。
(例)1 = πa, pb = πb 他 (生産物:m本)
ph = Πhpe (新資本用役:n'-1本)
ここでは、新資本用役の価格は新資本の生産費(新資本用役の生産費ではない)に一般利子率peを乗じた形になっている。peはすべての新資本生産費の共通の係数となっている。これらの式は、競争によりすべての新資本純収益率が利子率に等しくなることを意味している。
*ここで、よく理解できないのは、バローネが「新資本の種類中に新しい流動資本が含まれており、その価格はpe(利子率:引用者)であるから」(p.250)として、方程式の数をm+n'より1少ない「m+n'-1」としていることである。peは、「これは様々なる用役のpの中に含まれている」(p.250)としているから変数に違いないが、何故方程式の数を減ずることができるのか。とりあえず、不明のままにしておく。
こうして、バローネは、[Ⅰ] ~[Ⅴ]の方程式本数合計は3m+2n+2n'+1であるが、[Ⅱ]の内1本の方程式は他から導出できるので、実質的には3m+2n+2n'本であり、未知数の数と一致するとして、均衡体系は確定できるとする。
均衡状態では、個人の消費と貯蓄を合計した国民全体の総計Φ(=ΣλiRi + E)は極大となり、ΔΦはゼロとなる。その時、生産費は極小であり、価格が費用に等しいことがワルラス・パレートに従がって示される。ただし、バローネはここで、Φの最大は生産物総量の最大でないという。なぜなら、個人が余暇を犠牲にするなら生産物総量は増やせる。「総量」というなら生産物、用役、余暇の合計でなければならないと(余暇は明示されていないので、このあたりよく判らない)。とまれ、均衡点からの逸脱は、Φを減少させるのである。そして、自由競争以外にも選択の自由は可能で、極大は実現できる。実現のためには、自由競争が最も優れた制度ともいえないとする。
(集産的計画経済)
集産制とは生産手段を計画、統制する経済システムである。ここでは、社会主義経済と同じ意味で使われている。個人は依然、個人的使用する資材等(M,N…:ℓ個)を私有しており(主として個人経済の人的資本の該当するものであろう)、固定資本や土地資本等の資材(S,T…:n-ℓ個)は国家共有となる。ここでは、バローネは資本ではなく、資材(英訳:resources)という言葉を用いている。この社会では、国民の「最大の福祉」を実現するべく、生産省が私有及び国有資材を結合する問題を解決しなければならない。
ここでは、
1.貨幣が存在せず、仕事によって与えられる労働証券がある。価格はないが、生産省は種々の資材用役と生産物との間の等価率を決定する手段を保持している。
2.個人は、労働証券を社会化された店舗へ持参し、等価の基礎の上に、消費財を得たり、国家共有資材の使用許可を得る。生産物および資材用役の等価λa,λb…λs,λt…は予め決定されている。
3.国有資材の用役量(原文では単に国有資材の量:記者)にそれぞれの等価を乗じた総額(X = Qsλs + Qtλt + …)は社会に分配される。間接分配(生産物の等価を引下げ)の方法によらず、Xを国民に分け与える直接分配法を取るとする。
4.直接分配の諸個人、諸団体への総額に対する分配率γは既定である。Σγ=1である。
5.集産国家でも、生産手段(資本財)の損耗分の填補だけでなく新投資が必要である。そのためには、4.の直接分配する前に必要分を留保することも可能であるが、各個人に消費延期に対してプレミアムを付加し貯蓄させることができる。この割増率を調整して必要額を調達するものとする。貯蓄はすべて国家が借り上げる。
6.各人は、自己の用役と交換に受領する収入(追加所得(貯蓄プレミアム)を含む)と社会的配当によって、自由に生産物・用役を選択消費し、貯蓄することが認められている。各人及び社会全体に対して、収支均等から「(生産物と用役に対する)支出+貯蓄=(私有用役)売上収入+社会的配当」が成立する。
ここで、次の議論のために、バローネは書いていないが、集産経済でのパラメーターを確認しておく。集権的計画経済の社会では、個人が私有する用役(M,N…)はℓ種ある。購入される最終消費財(生産物)は(A,B…)m種、購入される用役はn種で、その内、国有用役(S,T…)はn-ℓ種であり、直接使用する私有用役(M,N…)もℓ種ある。
(1)自由競争経済と同様に、社会的な与件として、現存用役の量、(Qs,Qt…Qm,Qn…:n個)は決まっている。生産係数(各生産物1単位に必要な各資本用役の量)も一定で所与である。
(2)方程式体系から決定されるパラメーターとして次のものがある。
社会的に総計した生産物の需要量あるいは生産量をRa,Rb…(m個)とし、その等価をλb, λc,…(m-1個; λaはヌメレールとして除く)とし、それらの生産費をπa, πb…(m個)とする。現存する用役(私有・国有)の直接消費量をRs,Rt…Rm,Rn…(n個)とし、その等価をλs,λt…λm,λn…(n個)とする。新資本の生産高をRh,Rk…(n'個)としそれらの生産費をΠh,Πk…(n'個)とする。Eは貯蓄額(1個)、λeは利子率(割増率:1個)である。変数の合計は3m+2n+2n'+1である。
まず、生産省は、現存の技術係数の下で、任意のRの系列を定める。そして、任意の等価の系列を与えるものとする。集産制度でも、生産に使える用役に限りがあるから、個人(自由競争)経済での[Ⅱ]式(原文番号とは変えている)に該当する経済的制約に従わなくてはならない。それらを満たすための等価の調整が行われるものとする。それら等価により各個人は必要とする生産物(m種)、用役(n種)の需要量と、貯蓄を決定する。それらを総計すれば、R、Eが決まる。となれば、等価はm+n-1個あり、「RとEの関係式」[Ⅱ]はそれより少ないから、等価は不定となり、無数の解を許すとバローネはいう。
*ここで、記者にわからないのはRとEの関係式という[Ⅱ]式はn本あるが、そこに価格(ここでは等価)は含まれていないことである。各生産量は個人経済の[Ⅰ]式に該当するものから導出でき、そこに価格が明示されている。[Ⅰ]式と[Ⅱ]式を併せて考えれば、m+2n+1本の式に対して未知数2m+2n(λ:m+n-1個、R:m+n個、E:1個)がある。そういうことであれば、理解できる。
そこで、生産省は、[Ⅱ]式を満足させる等価系列から出発して等価を調整することにより、「最大の共同福祉」(maximum collective
welfare)を目指す。
個人の選択によって、総購入金額と貯蓄の合計がプラスすれば個人にとって福祉の増大、マイナスとなれば福祉の減退である。個人福祉はθで表され、その増減はΔθである。
Δθ = Δra + λbΔrb + … +λsΔrs + λtΔrt + … +Δe
であり、個人増減を合計した社会全体のΔθの総計(ΣΔθ)は、次のように表せる。個人経済のΔΦ該当するものだろう。
ΣΔθ = ΔRa + λbΔRb + … +λsΔRs + λtΔRt + … +ΔE
あるいは、Eは、新資本の生産高総計に等しいから
ΣΔθ = ΔRa + λbΔRb + … +λsΔRs + λtΔRt + … + ΠhΔRh + ΠkΔRk + …
(バローネは上式のΠh、Πk…に該当するところをΔh、Δk…と表示し、H、Kの一単位生産に必要な貯蓄量としている。ここでは上記[Ⅲ]式に従う)
社会的総計としての福祉が極大となるのは、ΣΔθ=0の時である。そこでは個々人のΔθはゼロではなく、プラスあるいはマイナスであるのが普通である。極大福祉の唯一の指標はΣΔθ=0と考える。社会の福祉を最大化するため、生産省は、ΣΔθ ≶ 0である限り等価を調整し、ΣΔθ=0となるまで続ける(注2)。
(A)ある生産物BをΔRb増産する時、増産物の価額はλbΔRbであり、生産に必要な用役価額はΔRb (λsbs + λtbt + … )である。前者が後者を超過するかぎり増産され、均等になるまで続けられる。よって、最大生産時には、λb = λsbs + λtbt + … すなわち、生産物の等価はその生産費に等しくなる。
(B)同様にある新生産資材HをΔRh増産する時、増産物の価額はλhΔRhであり、生産に必要な用役価額はΔRh (λshs + λtht + … )である。前者が後者を超過するかぎり増産され、均等になるまで続けられる。よって、最大生産時には、λh = λshs + λtht + … すなわち、新資本財の等価はその生産費に等しくなる。
*ここで、個人経済であれば、(A)、(B)において、用役価額の合計は生産費とされ、価格とは別である。競争を通じて、価格と生産費が一致する。集産経済では生産価額の最大化を図ることから、生産物等価(価格)は用役価額(等価表示)の合計とされるということであろう。
(C)集産主義経済では、生産省は次の貯蓄額を処分できる。
E = ΠhRh + ΠkRk + … + Re
そして、それをもって、次期以降の生産に用いる総用役をできるだけ増加させねばならない。それは、新資本を有利な用途に転換使用することにより、
λhRh + λkRk + … +λeRe
を極大にすることによってである。その極大条件は「明らかに」
λh/Πh = λk/Πk… = λe
であるとする。ここで、λeは、一般利子率に該当するプレミアム。
*このあたり、よく理解できない。第一式のEは、まだしも個人経済と同様、貯蓄の定義式と考えられる(Reが突如出てくるが説明はない)。第二式のRh、Rk…は資本財であって用役ではない、用役を生むものである。次期以降の用役極大のために、新生産財生産を極大にする意味か。その第二式の極大条件が第三式であることもよくわからない。λh/(Πhλe) = 1 と変形すれば、資本財の用役価格(等価)が、資本財価格(生産費に等しい)に一般利子率を乗じたものになることを示しているのだろうが。
バローネは、概要以上の記述だけで「この組織が完全に決定される:未知数と同じだけの方程式がある」(p.274)としている。バローネは、方程式体系を完記していないので、北野の本によって、方程式体系を書く。集権的計画経済における経済均衡は次の方程式体系で表現できる。
[Ⅰ]各生産物、国有用役および私有(直接消費)用役の各需要量(生産量に同じ:Ra,Rb…Rs,Rt…:m+n個)および貯蓄(E)は、等価の函数として表示できる(m+n+1本の式)。
(例)Ra = Fa(λb,λc … λs,λt …λe )
[Ⅱ]自由競争経済と同様に、各用役は、過不足なく使用されねばならない。現存の国有・私有の各資本用役存在量(Qs,Qt…Qm,Qn…:n個)は、直接消費量ならびに、最終財生産と新資本生産に必要な用役量の合計に一致する(n本の式)。
(例)Qs = Rs + asRa + bsRb + …+ hsRh + ksRk +
[Ⅲ]集産主義経済でも、貯蓄額は新資本の生産費総額に一致する。
E = ΠhRh + ΠkRk + …(1本の式)
[Ⅳ]最終財と新資本財の各々の1単位の生産費は、その生産に必要な各用役の生産係数に用役等価を乗じたものの総計に等しい(m + n'本の式)。
(例)πa = asλs + atλt + … + amλm + anλn + … (最終財:m本)
Πh = hsλs + htλt + …+ hmλm + hnλn + … (新資本用役:n'本)
[Ⅴ]生産物(m個)と新資本用役(n')の等価は、各々その生産費に等しい。
(例)1 = πa, λb = πb 他 (生産物:m本)
λh = Πhλe (新資本用役:n'本)
* この方程式体系ではバローネの(A)~(C)のうち、(A)と(B)式のπとΠを明示し、[Ⅳ]および [Ⅴ]式とすることにより、個人経済の方程式体系と合わせているのであろう。
以上集産経済の方程式本数は合計3m+2n+2n'+2であるが、[Ⅱ]のうち1本の方程式は独立でないので、実質的には3m+2n+2n'+1本となり、最初にあげた未知数の数と一致する。
次にバローネは集産経済の根底となる下記の5条件に立ち戻って、検討を加える。
(1) 国有用役の分配。
上記では国有用役の直接分配を仮定したが、間接分配することも可能である。国有用役の等価をゼロとし、生産物等価(私有用役費用の合計とする)を引き下げるのが間接分配である。マルクス価値学説は本質的に間接分配であるが、批判家が正しく指摘したように、これを採用しても労働の全収穫権は得られない。一定労働もその使用する国有用役の量と質によって、異なる生産物量を報酬として受け取るからである。さらに、国有用役等価がゼロであれば、資源の浪費が生ずるであろう。福祉極大にとって、間接分配は直接分配に及ばぬことを、方程式体系の過剰決定によっても説明している。
(2) 貯蓄と新資本の創出
生産用役の一部を消費財生産から控除して新資本財生産に用いれば、将来生産物の増加が見込める。この事実は資本が私有であるか国有であるかには関係がない。現在の消費の犠牲による将来の生産物増加が、消費延期に対して割増を与えることを可能にする。新資本のための貯蓄(消費延期)は、国有用役を直接分配する前に生産省が控除することによっても可能であり、消費延期に対する割増を与え個人の決定に委ねることによっても可能である。バローネは、後者の方が社会にとって望ましいと見ている。
(3) 事業利潤の分配
ある生産物に複数の生産方法が行われる、すなわち生産係数の異なる生産方式がある時、低費用の生産方法には「利潤」が生じる。事業は社会化されているため、これは社会に属する。その分配には、二方法ある。生産物等価を高い費用に合わせ「利潤」を社会的配分に追加する。あるいは、等価を平均生産費にまで下げることである。手続面と一般的原則から前者が望ましいとしている。
(4) 複数価格
複数価格とは、供給量の一部の価格を高くし、一部の価格を低くすること。それによる生産拡大は生産費を変化させる。グラフによる消費者余剰を使って、複数価格を採用するのが有利な場合もあるとしている。
(5) 所得に対する追加(X)
まず、国有用役を各個人に直接分配するにしても、各個人の福祉を極大化することによって、全体の福利を極大化することは不可能だということが数学的に証明される。個人の収支均等式について、分配率γを商品ごとに等価λiで編微分した方程式体系について、「積分可能な周知の条件」(p.286)を満たしていないからだという。いわゆる、微分方程式体系の可積分条件といわれるものであろう。わたくしにはよく理解できない。
分配が生産に与える効果は、Xの分配方法によって変わるであろう。国有用役を分配するには多くの方法が可能である。全国民に均分する、階級ごとに分配率を与える等々である。分配方法により、生産にも異なる結果が出る。同じ資本量であれば、ともに共同福祉極大を目指す自由経済の方程式体系と集産主義のそれとは、均衡的数量は等しく、いずれも極小費用の条件および価格と費用の均等の条件を満たしている。資本の所有者が異なるのみである。そのことは、集産主義経済においては、個人の所得に追加分配をしたために生じたのである。X分配の効果の研究からの面白い結果の一つは、消費延期に対するプレミアムには急激な上昇するだろうということである。それは、旧体制では利子とよばれ、集産主義学説によると廃絶されるはずのものであった。
*自由競争経済と集散経済の方程式体系が対応することから、導かれる方程式の均衡解が等しいとことは理解できる。それら両体系には分配率γは入っていないから、分配は影響しないことが判る。しかし、分配率の変化が生産にどう影響するのかのかは、利子への効果を含め、詳しい説明はされていない。
さて、問題は生産当局が共同の極大をえるために、生産省が均衡方程式体系を解けるかということである。バローネは、「技術係数の経済的可変性を無視して技術的可能性をのみを考慮すると仮定するならば」(p.286)、紙上での解決は不可能ではないと見る。「」の部分は、生産係数を一定と見るならの意味である。「解析上の困難はない。それは非常に単純な一次方程式の問題である。困難はむしろ、考慮せねばならない個人と財の数が非常に多いことによって起こる。けれども、さらに一層の根気仕事をもってすれば、その困難を克服することも考えられないことではない」(p.287)という。
*理論上は可能でも、実際上の計算するとなれば手間が掛るために、バローネは最初に「試行錯誤」的方法をあげたのであろうか。
技術係数の経済的決定の場合は、上記のようにアプリオリに決定することはできない。実際に非常に大規模な実験的方法による他はない。組織された生産によって無政府的生産の浪費を避けることができるように考える集産主義者は思慮が足りない。
バローネの結論としては、集産制による生産は無政府的生産の対極にあるという考え方は幻想である。生産省が共同の極大を目指すなら、価格、俸給、利子、賃料、利潤、貯蓄等の旧制度のあらゆる経済的カテゴリーが、名称は変わっても、再び出現せざるを得ない。のみならず、自由競争の特徴である、極小生産費と生産費=価格も再出現する。
それゆえ、資本を国有化しその収益を一定の方式で個人間に分配することは、個人経済でその資本部分を同様の分配方法で行うのと異ならない。また、集産主義経済になったからといって、国有化された用役を総て使用できるわけではない。新資本創出のための用役が依然必要だからである。さらに、膨大な生産管理に必要な官吏の報酬も必要となる。もちろん、新資本の形成、あるいは出生率さえ犠牲にして消費を拡大することは可能であるが、それでは福祉の増進や、生産の組織化、自由愛の理想と背馳することになろう。共同極大が減少するのを避けるためには、資本蓄積は出生率に調整されねばならない。
(数学的解法からみた「社会主義経済計算論争」について)
バローネの論文に関係して、いわゆる「社会主義経済計算論争」を均衡方程式体系の解法の視点から書いてみる。経済情報の収集・伝達の問題や価格・利子等の機能の問題には触れない。
バローネは、均衡方程式体系を解くことについて、上記のごとく原理的には可能で、「さらに一層の根気仕事をもってすれば、その困難を克服することも考えられないことではない」(p.287)と簡単に考えた。ハイエクはそれを否定して、『集産主義計画経済の理論』(1935)のⅤ章・編者による「議論の現状」において、「時間的に継続して行われるどの決定も、(数十万の商品数と:引用者)同数の連立微分方程式(注3)の解法に基づいており、一つの計算でも、現在知られているいかなる方法によっても一生かかっても仕上がらないであろう」(p.212)とその困難を論じた。
これに対して、オスカー・ランゲは、「社会主義の経済理論」(1936-37)において、市場社会主義を提示した。各企業に生産と販売の自由を与える。商品をある計算価格で市場において取引し、超過需要が見られれば生産当局は価格を引き上げる。逆に、超過供給があれば価格を引き下げる。方程式を解くことなく試行錯誤の方法によって、均衡価格を発見するのである。その「市場社会主義」については、上記のように、既にバローネ自身が、一部議論に取り入れているものである。それにテーラーの先行論文「社会主義国家における生産の指導」(1929)もあった。
ランゲは、1966年に書いた「計算機と市場」という論文では、もっと楽観的になった。36-37年論文にふれて、「今日もし私の論文をもう一度書くとすれば、仕事ははるかに簡単であろう。ハイエクとロビンズにたいする私の回答はこうである。何がいったい面倒なのか?連立方程式を電子計算機にかければ、1秒以内に解がえられよう。やっかいな模索をともなう市場過程は旧式のようにみえる。じっさいそれは電子工学以前の計算装置とみなされるかもしれないのである」(ランゲ、1969、p.191-192)と。もっとも、経済のプロセスは、最も強力な計算機でも処理できない程複雑であり得るとは書いてはいるものの、経済性を無視すれば大型計算機の製造で解決できると考えているように読める。さらには、技術変化に対しても、線形および非線形の数学的プログラミングを使って計画化に資することができるとしている。1960年代といえば、現在となってはパソコンの性能にも及ばないが、IBMのsystem/360がメインフレームとして開発(1964)された時代である。計算科学の未来は前途洋々と見えたのであろう。少なくとも、ランゲが実際に均衡経済の連立方程式体系の解法に手を染めなかったことは確かである。
ここで、バローネやランゲの時代には想像もしていなかった問題がある。コンピューターが発達して実際に計算してみると、計算機にも手に負えぬ問題が多数存在することが判った。計算機科学の発達により、1970年代に「計算量理論」あるいは、「計算複雑性理論」が現れる。連立一次方程式の解法もその例の一つである。そのアルゴリズムでよく知られているクラメールの公式を使う方法では、計算量は未知数のn!に比例する。計算時間が書かれているあるサイト(注4)によると、1秒間に1012回数演算するコンピューターでも、20元連立方程式で、30年以上かかる。50元連立方程式では、1048年必要である。ちなみに宇宙の年齢は1010年(137億年)。一方、消費者物価指数に採用されている商品だけで582品目である。
近似値計算のガウス・ザイデル法では計算時間は未知数の3乗に比例するので大幅に処理時間が減少するが、コンビニでの商品数約1,000、日本全体では数百万といわれる商品種類の前では無力であろう。将来簡便計算のアルゴリズムが発見されるか(これまでの経験からは、可能性は少ないらしい)、量子コンピューターが出現するまでは無理であろう。
社会主義経済計算の問題を最初に定式化したミーゼスの論文に対する批判には二つの主要な型があるとハイエク(p.37-38)は言う。第一は、合理的経済計算が出来ずとも、それによる生産の減少は社会主義の公正な分配によって十分償われて余りあるという議論である。第二には、批判を認めるが、それを回避する方策を試みるものである。後者は、さらに、一つには消費と職業選択の自由を放棄して計画化を徹底するものと、いま一つは社会主義に競争の要素を導入しようとするものに別れる。後者の最初の例は、社会主義実現のために消費の自由を放棄することが必要であれば、放棄はそれに値する犠牲であるとするドッブの見解(注5)である。後者の二つ目の例がランゲ等によって展開された「市場社会主義論」である。
以上のミーゼス・ハイエクだけでなく、それに反対したランゲ等の議論についても、主観的な限界効用原理と帰属理論に則り、社会主義経済においても資本主義同様の経済法則が支配し、同じように扱わねばならないとの含意があるとの批判がある。ドッブの批判(注6)をもとにした、伊藤誠の批判(1992、p.144)もその一つである。すなわち、少数の目的関数の極大化のための均衡条件が絶対化されているというのである。それゆえマルクス経済学者のように労働価値論を基礎にすべきだとはいわないにしても、なるほど資本主義でも現実に成立し難い自由競争経済を取りあげ、社会主義経済との厚生状態を比較するのは疑問を抱く。シュンペーターいうように、資本主義が寡占状態で大きな経済進歩を遂げてきており、完全競争状態は歴史上(初期を除けば)見られなかったのであるから。
この点については、すでに「議論の現状」において、ハイエクは周到にも、つぎのようにのべているのである。問題とされるのは、社会主義経済計画の下では、生産が停止するとか、利用可能な資源を使用することがいかなる方法でも困難だということではない。予想されるのは、「利用可能な資源の使用がなんらかの中央当局によって決定される所では、生産量は、他の事情が同じであれば、市場の価格機構が自由に作用する場合よりも少ないということである」(p.204)とする。その上で、均衡方程式体系の解法について、「多分このような正確性は必要ないと、いわれるであろう。現経済体制の運行自体その近傍にも達していないのだからである。しかし、それはまったく正しくない。このような方程式体系の解によって描かれる均衡状態には決して近づけぬことは、はっきりしている。しかし、それが問題なのではない。すべての外部変化が収束しなければ、均衡は存在しえないと期待すべきではない。現経済体制の本質的事実は、これら微小な変化や差異にもある程度反応することにある。それらは、議論中の体制(集産主義体制:引用者)では、計算をやり遂げるためには故意に無視される。このようにして、それらの積み重ねが生産努力の成功を決定するすべての詳細な問題において、合理的決定は不可能となろう」(p.212-213:下線は引用者)。ハイエクは、効用あるいは厚生の最大化が問題ではなく、プライス・メカニズムが働くかどうかが問題だといっているのである。私なりに敷衍していえば、労働価値説で価格付けしたとしても、需要や供給の微妙な変化に対応できるかどうかが問われているのである。
市場社会主義の「試行錯誤の方法」(a method of trial and error)についても、すでにハイエクは「議論の現状」において、次のように批判している。1.始発点となる価格体系は、資本主義から社会主義へと大きく環境が変わっているのだから、資本主義価格体系を参照できない。2.一生産物の価格変化は、一般均衡論の示すように他の生産物価格を変化させる。これら価格の調整も必要である。部分均衡論のように他の価格に変化なしとはいかない。
ランゲ(1969,p.191)は、社会主義経済のなかに市場メカニズムを設けることによって「ハイエク、ロビンズの議論を論破した」と断言するのだが、果たしてそうか。このことについては、別に取りあげたい。社会主義計算論争が、ソビエト社会主義が順調な成長を示していた1960年代には下火となり、ソビエトの崩壊によって見直されたのは興味深い。ソビエトの高成長時代にも計画化の「不都合な」メカニズムは働いていたのであるから。
(注1)バローネ(p.247)は、Qs,Qt…を資本の存在総量としている所もあるが、ここでの英訳とおり資本用役の総量の意味だと考える。この箇所の和訳文(北野)は「資本の総量」となっており、英訳文から見れば誤訳である。
(注2)ΣΔθは、交換価値による数量において比較されている。その交換価値(等価)とは、あたえられた資産・所得分配下での極大である。集産的経済の目指すのは、まさに所得・所有の分配問題であるから、主観的効用の比較に立ち入ることなしに議論する意味がないと北野(p.117)はいう。
(注3)ここでランゲが、なぜ連立1次(線形)方程式ではなく、連立微分方程式としているのかは不明。バローネとは異なって、消費者効用の最大化の消費関数を前提としているからだろうか。
(注4)https://cartman0.hatenablog.com/entry/2017/11/02/連立1次方程式の解を求めるクラメールの公式(と (2022/4/20閲覧)による。
(注5)ハイエクによればドッブ「社会主義と経済理論」(Economic Theory and the Problem of a Socialist Economy)1933論文によるとされている。同論文が再録されている邦訳『経済理論と社会主義Ⅰ』で読む(第三章A)限り、消費者選好の絶対性は否定され、需要は制度的に生じることは論じられてはいるが、消費や職業選択の自由を否定する主張しているようには思えない。
(注6)伊藤が参照するのは、ドッブの(注4)の論文と『政治経済学と資本主義』第八章である。そこでは、(限界原理による)資本主義の経済法則を社会主義経済にも適用できるとする考え方に対する批判はあるが、極大原理至上主義そのものへの疑問はそれほど述べられていないと思う。ドッブは市場社会主義よりも、計画主義の支持者のようである。
(参考文献)
- 伊藤誠 『現代の社会主義』 講談社、1992年
- 北野熊喜男 『社会主義と近代経済理論』 ミネルヴァ書房、1961年
- 塩沢由典 『市場の秩序学』 筑摩書房、1990年
- ジャフェ、ウイリアム 安井琢磨・福岡正夫編訳 『ワルラス経済学の誕生』 日本経済新聞社、1977年
- ドッブ、M 岡稔訳 『政治経済学と資本主義』 岩波書店、1952年
- ドッブ、M 都留重人他訳 『経済理論と社会主義Ⅰ』 岩波書店、1958年
- 中村亨 『数学21世紀の7大難問』 講談社、2004年
- ハイエク、F.編 迫間真治郎訳 『集産主義計画経済の理論』 實業之日本社、1950年
- バロオネ 北野熊喜男訳 『計画経済の均衡理論』 増進堂、1944年
- ブローグ、マーク 中矢俊博訳 『ケインズ以前の100大経済学者』 同文館、1989年
- 村岡到編 『原典 社会主義経済計算論争』 ロゴス社、1996年
- 山田雄三 『計画の経済理論』 岩波書店、1942年
- ランゲ・テーラー 土屋清訳『計画経済理論』 社会思想社、1951年
- ランゲ、オスカー 岡稔訳 「計算機と市場」(C.H.フェインステーン編 『社会主義・資本主義と経済成長 モーリス・ドッブ退官記念論文集』 筑摩書房、1969年所収)
- Hayek,F.A ed. COLLECTIVIST ECONOMIC PLANNING ,George Routledge & sons, 1935
- Wikipedea(イタリア語版) Enrico Barone(2022/4/20)閲覧
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COLLECTIVIST ECONOMIC PLANNINGのバローネ論文 |
(2022/5/9記) |

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