COURNOT, A., Recherches sur les principes mathémtiques de la théorie des richesses, Paris, Chez L. Hachette, 1838, pp.xi+198+(2), 8vo. クールノー『富の理論の数学的原理に関する研究』、1838年刊初版。 微積分といえば、私などはニュートンの印象が強いせいか、物体の運動を記述するために発明されたと思っていた。しかし、数学史を調べてみると、それは曲線の接線を見つけること及び曲線下の面積を計算する問題から発展して来たものであることを知った。ライプニッツの微積分を定式化した論文は、「極大・極小ならびに接線を求める新しい方法」(1684)と題されている。されば、売上高や利益の最大化を求める経済学に極大・極小問題を扱う微積分を適用しようとすることは自然の流れであろう。力学に微積分学(解析学)を使って、ラグランジェが『解析力学』を完成したのは1782年(出版は1788年)。微積分の発明から約100年後である。経済学への導入はさらに半世紀を要した。ここに、クールノーによって「数理経済学」(フィッシャーの造語)が成立したのである。 著者は「序文」にいう。富の理論は、「本来初等代数学に依頼するものではない。それは、単に一定の条件を満足するにすぎない不定形の関数を取り扱う解析部門に依頼するものである。これ余がこの論著において確立せんと欲するところである」(クールノー、1982、p.xviii: 以下、本訳書からの引用は、頁数のみ表記する)。そして、「余は数学的分析を適用しえない問題、あるいはまたすでに十分解決せられたと思われる問題は措いて問わない」(p.xix)。 今回、本書を読んでみての感想は、主要部分は、現代のミクロ経済学の教科書だといわれても、違和感はない。とても、ケアリー『経済学原理』、ウェイランド『経済学』の翌年、J.S.ミル『経済学原理』の10年前に現れた本だとは思えない。余りに時流に先んじた為か、本書は失敗作とみなされ、無視された。ようやく世間に知られたのは、1879年にワルラスが注意を促してからである。 本書の白眉は、多くの人が指摘するように、やはり完全独占から初めて、複占を経て完全競争に至る価格決定を、微積分を適用して一貫して叙述している所(第4章~第8章)であろう。そこでまず、この主要部分を解説する。他の部分は、追って論じることにする。 (需要関数) クールノーは、交換価値(価格)理論の根本に、最大化原理を置く。「われわれはただ一つの公理を設定する。あるいはただ一つの仮定を置くとしてもいい。すなわち各人はかれの財ないし労働からできうる限り大なる価値を得んとすることこれである」(p.33)。価格理論は、需要曲線の説明をもって始まる。「第4章 需要の法則について」である。 クールノーの需要曲線は、後の限界トリオ(あるいはゴッセン)が需要曲線の背後に想定したような効用理論をもたない。取引における価格と数量の関係という経済現象にのみ注目している。ジェヴォンズ、メンガー、ワルラスは、需要の背後にさらに根本的な原理を求めて個人の心理に遡り、限界効用の概念に至った。それを中山伊知郎はクールノーの客観主義的経済学からの「主観主義的転回」と呼ぶ。クールノーは、「富あるいは交換価値なる抽象的観念は一つの確定観念であり、[中略]富という言葉が暗示するもろもろの付随観念――効用、希少性、あるいは人間の欲望および享楽に対する適性とは、十分に区別せねばならない。これらの観念はその性質上可変的、不確定的であり、したがって科学的理論の基礎となしえない」(強調原文:p.4)と考えていた。クールノーか限界効用学派か、何れが科学的かは俄かには判断できない。 ともかく、クールノーの需要曲線が効用理論から導出されたものでないことにもよるのであろう、その意義について多様に解釈できるところがある。ワルラスの研究で知られるジャッフェは、ベーコンによる本書の英訳を評して、第4章標題 "De la loi du débit" を "Of the Law of Demand" と訳したのは人を誤らすものであり、 "Of the Law of Sales " とすべきであったとする(中山訳も「需要の法則について」である)。なぜなら、クールノーの「需要関数」は、経験的統計的なものであって、効用関数から導出されるような理論的概念ではないことを重視するからである(ジャッフェの説は、訳書の荒憲治郎「あとがき」によった)。ブローグも「クールノーの需要関数は、消費者が種々の仮説的な価格で購入する数量に関するマーシャル型需要曲線ではなく、きわめて単純な販売関数であった」(ブローグ、1997、p.68)とする。もっとも、「販売関数」と呼ぶことには同意できるが、「単純な」の意味が私には良く解らない。 しかしながら、クールノー自身が、「需要量の意味するところいかん。それはもちろん買い手の需要に対して事実上売られる数量ではない」とも、あるいは「販売量あるいは需要量(けだしわれわれにとってこれら二つの言葉は同意義である、われわれは販売量として現れない需要量なるものをなにゆえに理論において考慮せねばならぬかをしらない)」(p.34)とも書いている。彼の「需要曲線」は、マーシャル型需要曲線とも実際の販売量から求められた関数とも読めるように思える。後段(90節)に現れる数学的誤謬の一つも、クールノー自身の「需要曲線」の概念が曖昧であったことに起因しているように私には思える(注1)。
けれども、「需要曲線」のみを描いた第1図では解りづらいが、後掲の第3図[原書第6図]を見れば、これはいわゆる需要・供給曲線を描いたものであることが判る。クールノーは、横軸に価格を取り縦軸に数量を取っているため、現代の図とは縦横が逆転しているだけである。よって、以上のような疑問があることを承知の上で、以下クールノーの需要曲線はマーシャル型の需要曲線と考えて話を進める。ちなみに、原書では図は付図として一括して巻末に付けられている。翻訳書では、第3図は51節に掲載されている。 もう一点、本題に入る前に付け加える。現代の教科書では当然のこととして無視されているが、開拓者としてクールノーが経済分析に微積分を適用するにあたって確認せざるをえなかった所がある。「需要あるいは販売の法則を表す関数F (p) をもって連続函数なりと仮定する。すなわちそれは突然にある値より他の値に移ることなく一切の中間的値をとって変動する関数である」(強調原文:p.38)。そして、消費者数の少ない市場では、連続関数とみなせないことも指摘している。 さて、「われわれは各商品に対する売上高、あるいは年々の需要量D をもって、この商品の価格p の特殊関数F (p) なりとしよう。この関数の形を知ることこそいわゆる需要あるいは販売の法則[中略]を知るゆえんである」(強調原文:p.36)。しかし、この関数は商品種類、用役の資質、国民の風俗習慣等に依存するため、複雑で代数的公式では表現できない。観察による需要表作成にも限界がある。それでも、数値や代数式が不明であっても、解析的方法を研究に用いることができる。未知の関数でも、単調増加・減少関数とか、周期的であるとかの一般的性質を持ち、それから解析学によって一般的関係を導出できる。 関数F (p) の「価格の変動が原価格の微小部分なる限り、需要量の変動は明白に価格の変動に比例する。しかのみならず、これらの変動はその符号を異にする、換言すれば、価格の騰貴は需要量の減少に相応する」(強調原文:p.38-39)こと、すなわち需要曲線が右下がりであるという性質の上に、すべての数学解析が築かれるのである。 価格(単価)p と販売量F (p ) の積である販売額合計pF(p ) なる関数も、また連続で有限である。p がゼロの時この関数もゼロであり、p の増加とともに増加し、やがてp の増加とともに減少する。その値は需要曲線上のp 点から両軸に下した垂線がつくる矩形の面積に等しい。そして、その関数を最大ならしめる価格は、この関数をpで微分して、 F (p )+pF ´(p )=0 (1) で求められる。 我々は、統計記録によって経験的にF (p ) を決定できないし、同様に統計的にpF (p ) を最大ならしめる価格を求めるのも困難である。しかし、pF (p ) を最大ならしめるp を近似的に求めることはできる。需要曲線は単純減少関数であるから、価格がp +Δp と上昇した場合、販売量はD -ΔD と減少する。この時、販売量・価格比率とそれらの変化分比率を比較すると、 ΔD /Δp < D /p または ΔD / Δp > D / p (2) のどちらかである。そのどちらかによって、「価格における騰貴Δp は、pF (p ) なる収益(収入:引用者)を増加あるいは減少するであろう。また、したがって二つの値p およびp +Δp は、(Δp はp の微小部分と仮定する)考察しつつある収益を極大ならしめる値の上にあるか下にあるかがわかる」(p.42)とクールノーは書いている。 以下私見である。ここでクールノーは、変化分を絶対値で表示していると思われる。需要曲線では、ΔDと Δpは反対符号であるから、(2)式が成立するためには絶対値表示である必要がある。以下その表示に従う。その上で、著者はD とp の商(D/p )を増分と全体とで比較して、価格高騰時に収益が増大するか減少するかを判断している。これが積の形、 (D -ΔD)( p + Δp) <Dp または (D - ΔD)( p + Δp) >Dp であれば、不等号の向きいかんによって収益Dp が減少・増大するかは直ちに理解できる。しかしながら、原文は商の形で書かれている。しかも、なぜそれが収益の増大・減少と結びつくのかは説明がない。他の所では、同様の場合、式を展開してその理由を丁寧過ぎるくらい説明しているのにである。 そこで、参考書の力を借りて、補足説明を加える。(2)式の最初の不等式の両辺をD/p で割ると、 ![]() となる。すなわち、これは需要の価格弾力性(e :普通の定義ではマイナス符号がつく)が1より小の場合である。よって、e <1(非弾力的)の時、価格上昇は収益を増させる。(2)式の第二の不等式は、e >1(弾力的)の時、価格上昇は収益を減少させることをいっていることになる(注2)。そして、クールノーは収益を極大ならしめる価格を議論しているのだから、想定される需要曲線は高価格領域でe >1(弾力的:価格低下で収益大となり)、低価格領域でe <1(非弾力的:価格上昇で収益大となる)となる曲線となるであろう。但しクールノーの座標は横軸が価格である。クールノーがこのような形で記述したことが、はからずも後の需要の弾力性概念の研究を刺激した可能性もあるのではないか。 第4章の最後の節では、F (p )'' が負である限り、すなわちF (p ) がその横軸に対して凹である場合には、極小値は存在せず極大値が一つだけ存在することを示している。 (独占) 研究は簡単から複雑に進める必要がある。価格決定の最も簡単なケースは、文字どおり、生産者が一人しかいないという意味での独占(monopoly、monopole)である(第5章)。 まず、生産費を要しない生産者の場合、例えば鉱泉の所有者は、収益(いわゆる総収入のこと)を最大化させるように価格を定める。第4章の上記(1)式を満たす、p が採用される。もちろん、その価格で決定される需要量をこの独占生産者が供給できるとしての話である。 ここに、生産費φ(D ) を導入すると、生産者は、 pF (p )-φ(D ) (3) すなわち、クールノーの用語では、総収益ではなく純収益(いわゆる利益)を最大化しようとする。生産費はD の関数であるが、D はp の関数( D = F (p) )でもあるから、合成関数の微分の公式によって、(3)式をp で微分して 0 と置くと、 F (p ) + pF' (p )-dφ(D )/d p =D + dD/dp [p - d{φ(D )}/dD] = 0 (4) となる。 ここで、d{φ(D )}/dD は 正である。生産量増加により生産費総額は減少するとは考えられないからである。そして、p > d{φ(D )}/d D でもある(注3)。クールノーは、注意を促す。d{φ(D )}/d D 、簡単に記してφ´ (D ) について、「その形は経済学の主要問題の解決に重大なる影響を及ぼすものである。/関数φ´ (D ) は、D の増加とともに増加することもあり減少することもある。それは生産能力および生産商品の性質によるものである」(p.47)。φ´ (D ) とは、限界生産費(という言葉は使っていないが)のことである。平均生産費ではなく限界生産費の重要性に最初に気づいたのは、クールノーである。生産量増加によって、製造業は限界費用逓減から逓増となり、農業等の土地産業は限界費用逓増となる。限界費用逓減の場合は地代(マーシャルのいう準地代であろう)が生じると、クールノーは書いている。補足すると、費用関数の2階導関数であるφ’’ (D ) の値が正、ゼロ,負に対応して、限界費用は生産量の増加によって、逓増、一定、逓減となる。 そして、(4)式を展開することにより、更には需要曲線を p の2次関数 a / ( b + p2 ) として特定の関数の形に仮定することにより、次のことを証明している。「すなわち生産費の増加は[中略]販売の法則に従って、独占の下にある商品の価格を増加せしめる、けれどもその騰貴は、生産費の増加に比して、あるときははるかに大またあるときははるかに小である」(p.52)。生産費の減少額と商品価格の下落額にも常に一定の関係があるわけではない。 (独占企業の租税) 第6章は、「独占商品生産に対する租税の影響」を扱う。少し本流の説明から離れ、扱う租税も独占生産企業に対する限定されたものである。そこで、簡単に書いておく。定額税、純収益比例税、従量税、従価税、物納税という5つの課税方法について、その影響を論じている。 定額税は固定費用と同じで、微分すると消えてしまう。純収益比例税も、純収益が一定比率(1-課税率)を乗じたものになるだけだから、純収益の式を微分すれば上記(4)式の最大化方程式と同じである。以上2方式は、非課税の時と生産品価格・数量に変化はない。消費者負担とはならず、生産者の収入を減少させるに止まる。 従量(生産量比例)税の場合は、課税率を i とすると、純収益は pF (p )-φ(D )-i D (5) となる。これを p で微分して、φ' (D ) =φ' [F (p )]であり、それを簡単にΨ(p )に置き換えると、(5)の最大化条件は F (p ) + [p -Ψ(p )-i ]F' (p ) = 0 (6) となる。この式を使って、独占者の損失だけで課税による国庫収入を上回ること、および課税による価格上昇が単位当たり課税額を上回る場合には消費者の損失のみで国庫収入を上回ることを示す(もっとも、後者の場合消費者損失の定義には後の第11章と同様の問題があろう)。そして、独占商品に従量税を課すより独占者の純所得に直接税を課税するほうが好ましいとする。課税とは逆に国家が奨励金i を与える場合は、生産者が得る利益は国庫の損失より少ないことも示される。 売価に比例する従価税の場合、租税は np となり、独占者は 純収益 (1-n )pF (p )-φ(D ) (7) を最大化しようとし、極大条件は、 ![]() となる。よって、独占者の生産費[(4)式]が 1/(1 -n ) 倍に増加した場合と同じ効果を生む(n <1)。このため、生産費用が大なるほど、したがって独占者の利益が小になるほど、租税負担は重くなるとする。 最後に物納税が取り上げられる。二つのケースに分けられる。第一は、物納税(K)により生産された商品が新たな消費を生み、既存の消費者には何ら影響せず、したがって独占者の需要にも何ら影響を与えない場合である。(4)式の費用関数が”φ[F (p ) ]”ではなく、”φ[F (p )+K ]”となる。第二は、物納税導入後も全体需要が同一として、生産者の販売量が”F (p ) ”から”F (p ) - K ” に減少する場合である。いずれも極大条件の式を求めている。しかし、物納税は社会の発達によって、消滅しつつあるとして説明は簡単である。 (複占) 次いで、クールノーは、第7章(「生産者の競争について」)において、独占者市場に競争を導入する。最も単純なケースである、複占、すなわち競争者が二人である場合を取り上げる。この場合もまず、費用を無視して議論を進める。D = F (p ) を総販売高とし,第一および第二の販売者の販売高をそれぞれ、D1、D2 とすれば、D1 + D2 = D である。各販売者の収益(純利益に等しい)は、p D1 およびp D2 であって、各自は独立にこれらを最大化しようと試みる。前章まで、需要関数をD = F (p )としてきた、ここではその逆関数 p =f (D ) を使用する。しからば、最大化しようとする各販売者の所得は、D1×f ( D1 +D2 )、D2×f ( D1 +D2 ) となる。 ここで、複占者は、互いに相手方の行動を考慮せずに収益を決定できない。相互依存関係にある。クールノーの想定は、かれの言葉によると、「[鉱泉の:引用者]所有者(1)はD2 の決定に対してなんら直接の影響を及ぼしえない。そのなしうるところは、たかだか D2 が所有者(2)によって決定せられたる後にD1 に対して最も適当なる値を選択することにある」(p.66)関係である。この関係をリヒターは、競争者が自分の数量変更に対して反応しないかのように、複占者は行動すると解釈した(大和瀬、1968 による)。シュタッケルベルグは、複占者のいずれもが市場の支配権を握らず、「追随者」に地位に甘んじる状態だと解した。一般には、相手の販売量を一定として自己の収益を最大化すると表現されている。要するにクールノーは、自己の収益を求める際には自己の販売量を変数として、相手方の販売量を媒介変数として定数として取り扱うということがいいたかったのであろう。 こうして、複占者の収益最大化条件は、 ![]() ![]() したがって、連立方程式 f (D1 +D2 ) + D1 f ' (D1 +D2 ) = 0 (10) f (D1 +D2 ) + D2 f ' (D1 +D2 ) = 0 (11) で表現できる。ただし、(9)でクールノーは偏微分の記号∂ を使用せず普通の微分記号d を用いている。昔の数学書では、こう書かれたそうである(注4)。
この連立方程式の解を求めるのに、クールノーは図表を使って説明している。横軸D1 、縦軸D2 の直交座標上に(10)と(11)の曲線を描き、それらの交点をもって、最終の値=均衡点とする。これが、クールノー均衡である。最近はゲーム理論の均衡概念を使用してクールノー=ナッシュ均衡とも呼ばれる。クールノーは、両曲線の形状の性質から、均衡の安定性も証明する。現在の教科書では、この曲線は「反応曲線」(といってもたいてい線形表示である)と名づけられている。シュナイダーによる命名である。 均衡時の各複占者の販売量および価格は、どうなるか。(10)と(11)の差を求める。 (D1 - D2) ・ f ' (D1 +D2 ) = 0 となり、f ' (D1 +D2 ) < 0 で、ゼロではないことから、D1 =D2 となる。複占者は、総販売量を二分することになる。 (10)と(11)を加えると、 2f (D ) + Df ' (D ) = 0 の式がえられ、変形して ![]() となる。 独占の場合、または複占者が結託している場合は、p は次の方程式を満足させる [(1)式 ]。 ![]() (12)式で求められる 複占者の均衡価格が、(13)で求められる独占者の価格より常に低いことが(多少不十分な点はあるにせよ)同様に図形的方法で示される。「すなわち(何人もなんらの解析を用いずして信ずるごとく)競争の結果は価格を減少せしめるのである」(p.71)ことが証明されたのである。 次いで、生産者数を3、4、…n と増加させると、方程式(12)は、順次、 ![]() となり、p の値はn の増加に従って、無限に減少する。 さらにはより現実的に、生産者がn 人で、それぞれ生産に費用を要するものとする。(10)、(11)の複占者の場合の利潤極大化を示す方程式は次の連立方程式となる。 f (D ) + D1f ' (D ) - φ1´ (D1 ) = 0 f (D ) + D2f ' (D ) - φ2´ (D2 ) = 0 ・・・・・・・・・・・・・・ f (D ) + Dnf ' (D ) - φn´ ( Dn ) = 0 (15)[以上n 本の方程式を併せて] (15)のどれでもよいが、例えば第一式から第二式を減ずれば、 ![]() となる。dD /dp は、負であるから、"D1-D2 " と "φ1´ (D1)-φ2´ (D2) " は正負を異にする。よって、限界費用(この言葉は使っていない)が大きい生産者程、生産量が少なくなるとする(注5)。 以下第7章の残りの節は、費用を要するn 人の生産者の場合に成立する価格が独占価格より低いことを示そうとする「困難な証明に捧げられている」(フィッシャー数学注)が、議論が込み入っており、部分的に誤った記述もあるので略す。 ここで、上述したところに少し戻って、クールノー均衡の意義を学説史的に回顧しておく。競争者(主として複占)の相互依存関係についての想定に関するものである。「この困難な問題にたいするクールノーのとりあつかい方は、まことにみごとで示唆に富んでいるが、しかし重大な反対論を免れない。その推論にみられる誤謬は、彼の次の前提にある。すなわち各人は、その競争相手の生産量が一定であるとの想定にたって行動し、ただ自己の生産量をば、最大利潤を確保するように規制することのみ務めるという前提がそれである」(フィッシャー、1954、p.26)。 クールノーに対する最初の批判者(といっても1883年)は、同じフランスの数学者ベルトラン(Bertrand、1822-1900)である。クールノー均衡の価格に利潤がある限り、生産者は値下げの余地がある。どの生産者も、競争相手の価格を一定と見て、自己の価格を下げることにより、生産量(販売量)を拡大し収益を拡大できる。ある生産者が値下げを実行すれば、それに気づいた競争相手は同じく価格競争を挑むに違いない。利益がなくなるまで競争は続く。ベルトランは、均衡はありえず価格の下落には(利潤のゼロとなるまでは)限界はないと考えた。クールノーの「数量戦略ゲーム」に対し、ベルトランの想定は「価格戦略ゲーム」とも呼ばれる。 もっとも、クールノーは、ベルトランの考えたことも考慮ずみであって、それは均衡でないと排除したように私には思える。「生産者(1)がその生産を[中略]D1=D2 なる条件の命ずるところによって定めるとしても、他のものは自らの生産をより大なるあるいはより小なる割合に定めて、一時の利益をあげうることにある。もちろんその生産者は、まもなくその過失を罰せられるであろう。[中略]換言すれば、上の状態は安定なる均衡状態ではない」(強調原文:p.69-70)としている。そこには、価格ではなく数量での表現となっているのであるが。 パレートもクールノーを批判した。クールノーが複占の需要関数をp =f (D1 + D2 ) としたのに対し、パレートはp =f (D1, D2 ) と置いた。そして生産者1の極大条件を求めるのに、収益D1×f (D1 + D2 ) をD1 とD2 でそれぞれ偏微分した。D1 とD2 は、あくまで独立変数であるとの考えからである。生産者2からも、同様に二つの偏微分式が求められる。併せて4つの条件は3つの方程式に帰着される。未知数2に対し、方程式が3あり、過剰決定で解は求められないとする。パレートの想定は、生産者1は自己の生産量だけでなく、競争相手の生産者2の生産量も決定できる意味になる。生産者2もそうである。明らかに非現実的である。 競争相手の生産量や価格が一定として行動することや、まして相手の生産量を決定できるというのは現実的でなく、将棋のように相手の出方を想定して打つ手を決めるのがより現実的であろう。しかしながら、これをモデル化するのは困難で、現在広く認められているのはスタッケルベルグ均衡だけである。これは複占者の一方が「独立の地位」をとり、他方が「従属の地位」を取る。複占者が非対称的な行動を取る均衡である。生産者1は、生産者2が「従属の地位」にあることを前提に自己の収益最大化を図る。生産者2は、生産者1が決めた生産量を受け容れ、残余の需要で満足する。費用を考慮しなければ、残余の需要量全体が生産者2の極大収益となろう。 代数的には次のとおりとなる。生産者1(独立者)および生産者2(従属者)の生産量(販売量)をそれぞれ、G1 [= D1×f ( D1 +D2 ) ]、G2 [= D2×f ( D1 +D2 ) ]とする。D1 を定数とみてG2 をD2 で偏微分しゼロとし、その結果をG1 式に代入し、次に変数がD1 のみのG1 をD1 で微分してゼロとする。これによって、D1 とD2 の均衡値が求められる。ちなみに、ここでは費用を考えなかったが、スタッケルベルグの本の数学付録では、費用関数が入っている。 幾何的には、生産者2の反応曲線に生産者1の等利潤曲線が接する点として、D1 とD2 が求められる。説明を書くと長くなるので、ミクロ経済学の参考書を参照下さい。 (完全競争) 第8章は、「無制限の競争について」と題されている。上記(15)式を変形して一般的には、 Dk + [p -φk´ (Dk ) ]dD/dp = 0 と表記できる。完全競争の時Dk は少ないので無視でき、p -φk´ (Dk ) = 0 と簡約できる。従って(15)の連立方程式は、 p -φ1´ (D1) = 0、 p -φ2´ (D2) = 0、 … p -φn´ (Dn ) = 0 (17) に置換できる。これらn 個の方程式と D1+D2 +……+Dn =F (p) (18) から、未知数p およびD1 、D2 、……Dn が決定できる。 (18)の左辺の各項は(17)を満たしているから、各生産者は価格(限界収入でもある)=限界費用となる生産量を選び、p の下での最大利潤を得る。p を変数とするなら、(18)の左辺の和は総供給曲線を表す。右辺は、これまでとおり(総)需要曲線を表すこととなる。(18)左辺をΩ (p )とするなら、(18)式は、簡単に Ω (p)-F (p ) = 0 (19) と表現できる。 ここで、クールノーは各生産者が利益を得るためには、限界費用逓増でなければならないとしている。しかし、限界費用曲線の図を思い浮かべれば容易に判るように、限界費用一定の場合、あるいは限界費用逓減から逓増に変化する場合にも利益は生ずるので、これは正しくない。ともかくも、「ゆえにわれわれがΩ (p )をもって表した関数もまた、必ずp と共に増加するものでなければならない」(p.79-80)として、現在の需要・供給曲線に該当する図を載せている。それらの交点で価格・生産量が決定することも明示している。クールノーのこの発明は無視され、むしろ需要・供給曲線はフレーミング・ジェンキンの功績に帰されている(本サイト、ジェンキン『需給法則の図形的表現』 参照のこと)。
この図を利用して、「すなわちあらゆる場合に価格の高騰は生産費の増加よりも小なることが明白である」(強調原文:p.81)ことを証明している。PQ、P'Q' は費用増加前後の供給曲線、MN が需要曲線。VS’ が増加費用を表し、TT’ が高騰価格を示す。供給曲線が傾斜を持つ限り、需給曲線の交点SS’ の形状によりTT’<VS’ となるからである。 この章の残りの部分で、費用増加に対する生産者利益および消費者利益への影響(52節)、増加費用が従価税の場合(53節)、および生産者利益を貨幣換算から物的換算に変更する場合を扱っている(54節)。これらについて書くことは余り生産的と思えぬので、省略する。 以上でメインストリームの部分をざっと概観した。残りの章で重要と思われる所を、ごく簡単にピックアップしていく。 第1章は富の定義をめぐるものである。クールノーは富と交換価値を等しいと見る。経済学派間あるいは理論家・実務家間の混乱は、交換価値と効用概念を混同することから生じる。アルプスの牧羊者と、スペインの怠け者あるいはマンチェスターの労働者の物質的幸福は比較できない。労働の苦役もそうである。経済学が考察する諸関係は複雑過ぎて「われわれの総合的分析能力を超える[中略]これに反してわれわれの考える富の抽象的観念は一つの完全なる確定関係を構成し、あらゆる正確なる概念と同様に理論的演繹の対象たりうる」(p.9)。比較できない効用概念を排し、現実に観察できる交換価値を考察するのである。後の限界学派との相違である。しかも文明の進歩は、評価・計量をますます容易にする傾向があると。 第2章は「価値の絶対的および相対的変動について」と題されている。交換価値がニュートンの絶対空間での物体運動になぞらえられている。「ある点の位置は、ただ他の諸点に関してのみ定めうるがごとく、ある商品の価値はただ他の諸商品に関してのみ定めえられる。この意味において存在するものはただ相対的価値のみである」(p.13)。しかしながら、相対的価値の変動がある場合、比較対象商品のいずれかに絶対的変動がある場合が想定されるであろう。それでも、絶対価値というものは作業仮説以外にはない。クールノーはこういう、「要するにあるものはただ相対的価値のみ。他の価値を求めることは、必然的に2項の比率なる観念を含むところの交換価値なる観念それ自らとの矛盾に陥るものである。けれどもまたこの比率に起こる変動は、一つの相対的結果であって、それはこの比率における各項の絶対的変化によって説明しうべく、また説明せられねばならない。絶対価値なるものはない。しかし、価値における絶対的騰落の運動はあるのである」(p.12)。私には、直ちにサムエル・ベイリーを想起させられた。 クールノーは、貨幣金属が短期には絶対価値変動が最も少ないと認めている、さらには、絶対的価値変動を除いた「修正貨幣」なるものに言及しているが、詳細は不明である。 第3章「為替について」である。クールノーの最初の前提は、銀本位制であり、貴金属の自由貿易がなく、為替相場には銀の現送費用による制限がない。最初に為替市場を2つに限り(2国のこと)、m 1,2 は市場(1)が毎年市場(2)に負う金額合計、m 2,1 は市場(2)が毎年市場(1)に負う金額合計とする。C 1,2 を市場(1)において市場(2)に対する為替相場、あるいは市場(1)における銀1重量単位に対し市場(2)で支払われる銀の重量単位とする。この時、C 1,2 =m 2,1 /m 1,2 が成立つ。「第一次的接近」(フィッシャー)として、各国間の債務状況によってのみ為替相場が決定されるとしているのである。 各2市場の為替相場は相手国相場の逆数となる(例えばC1,2 はC2,1 の逆数)ことを考えれば、3市場の場合は、6つの負債額を使った3本の為替均衡式から、3つの為替相場が求められる。一般にn 市場の場合も、方程式と未知数の数が一致する事実により均衡の成立が示される。これは後にワルラスが用いたと同じ方法である。このやり方をジェヴォンズは多少胡散臭いとし、フィッシャーは問題と実益が釣り合っているとした。いずれにせよ、本章は「経済均衡関係を数式化した最初の文献」(中山、1950、p.47)ということである。この後、銀現送のある場合、金・銀複本位の場合が簡単に議論されている。 メイン部分の章を飛んで、第9章は「生産者の相補関係」。「生産者の全体が最終生産物の消費法則に基づいてあげる利益が、いかなる法則に従って種々の生産者間に分配されるかを研究するが必要となるのである」(p.87)と謳っている。しかし、帰属理論のようなことではなく、単に合成結合商品が扱われているだけである。銅と亜鉛から真鍮を造るような生産である。それも、原料の比率が固定しており、原料それ自体には需要がなく、費用が生じないとの特殊な仮定が課されている。前章までと同様まず、独占が取り上げられる。そこでの結論は、合成商品の独占生産は、各原料が独占者により生産されるより、価格が低いことである。真鍮生産の独占状態の方が、銅と亜鉛の独占状態より、消費者にとって有利だとするのである。相補関係に立つ原料の商品が多いほど、独占の分割(原料ごとの独占)による価格は、独占の結成ないし連合より高い価格となる。 そして、完全競争の場合の分析が続く。(1)と(2)の2商品の合成商品の生産に関するものに限られるが、原料商品自体への需要及び生産費が考慮されている。そこでの結論は、(このあたり私には理解できぬ所がある)商品(1)の生産費における増加は、その商品価格を高めるけれどその価格上昇は費用増加より少ない、そして商品(2)の価格は下落するというものである。 第10章の「諸市場の連絡について」は、貿易によって市場の受ける影響を述べるものである。まず、輸出国と輸入国を通じた需給の均等式を使って、貿易によって2国の総生産量は必ずしも増加することはないことを示す。自由貿易は万能ではないと示唆している。しかしながらさらに進んで、関税の賦課は、常に貿易品の輸出国市場の価格を低落させるが、輸入国市場の価格は騰落いずれの場合もある。逆に奨励金は、常に輸入国市場価格を低落させるが、輸出国市場の価格は騰落いずれの場合もある。――と結論している。しかし証明の過程でクールノーは数学的誤りを犯している。数式から導かれる正しい結論は、関税は常に輸出国市場価格を低落させ、輸入国市場価格を騰貴させる。逆に、奨励金は、常に輸入国市場価格を低落させ、輸出国市場価格を騰貴させる。――と常識に合致したものとなる。クールノーが犯した二つの重大な数学的誤謬の一つである。 第11章「社会所得について」。クールノーの社会所得は、地主の地代、資本家の利潤、労働者賃金およびいわゆる不生産階級の俸給からなる個人所得の合計である。そして、生産費の騰落、租税の賦課・免除が社会所得に与える名目的及び実質的影響、進んでは需要関数の変化がそれらに与える影響を説明する。続く第12章「通商より生ずる社会所得の変動について」では、貿易開始による輸出国と輸入国に発生する、名目的及び実質的社会所得(=国民所得)の変動が扱われる。第10章で検討したことを、第11章の社会所得にまで適用したものである。これらの章では、後世の「消費者余剰」にあたるようなものを求めようとしたのかも知れない。しかしながら、最終の2章での所得の概念は、恣意的で不完全であるため実りある議論とは言えない。「「社会所得」にかんする結びの二章[第十一章・第十二章]は、本書のうちで最も不満足なものである。その章は、社会の所得を定義し、その変動を分析するという、おびただしい徒労な試みのひとつとなっている」(フィッシャー、1954、p.32)。そのうえ、第12章には(もう一つの)数学的誤謬もあるので、具体的な内容にまで立ち入らないことにする。 ただ、第11章では、「事実上は経済体系は一つの全体であって、そのすべての部分は互いに関連しまた互いに反作用するものである。[中略]ゆえに経済体系の一部分に関する問題を完全厳密に解決するためには、その全体系を考慮することを避けえないように思われる。けれどもかくのごときは、たとえ一切の常数数値を定め得たりとしても、なお数学解析およびわれわれの実際の計算方法の力を越えるものである」(p.114)と書いている。経済は一般均衡の体系であると認識していたが、複雑すぎて数学的に扱えないと考えていたのである。ワルラスの如く経済体系を連立方程式で表し、方程式と未知数の数を数えることなら、現に第3章でやってみせたように、クールノーでも可能であったと思う。 もう一点気になるのは、同じ11章で、クールノーは総生産量一定を(セーの法則といっていいだろう)仮定しているのではないかということである。商品の生産の増減による社会的所得の増減を扱いつつも、「われわれが当該商品の生産者および消費者を全体として考えるときは、われわれは他の一切の商品合計に対して使用しうべき年々の資金は、同一なることを見る」(強調原文:p.116)としている。そして、商品Aの生産が減少しても、その生産原料はなお他の用途をみだすべく、使用された労働者はその腕を他の生産に貸すべく、使用された資本は他の投資の道を見いだすものであると暗黙のうちに考慮していると書いているのである(p.130-131)。 フランスの古書店からの購入。経済学史上著名な本であるにかかわらず、出版当時の不人気から初版のみで、重版はない。後世のいわゆる復刻本があるのみである。普通は100万円以上の値が付く本である。買えない本と諦めて、『富の原理の理論』(1863)を代替品つもりで購入した(この本も現在50万円位の値が付いている)。私蔵本は、巻末の付図がないので完本とは言えない。そのせいで安かったのだろう、幸運にも入手することができた。 ((附録)) 今回テキストとして、『日本経済評論社版』を使ったが、思いの外誤植が多かった。現代表記であれば『中山伊知郎全集版』、入手の容易を考えると旧字旧かなではあるが『岩波文庫』の方が、読むのには良いのではないかと思う。とくに数式の誤りは読者には困る。なぜだろうかと、数式をいじくり回し、へたな考えで半日無駄な時間を費やしたのが、誤植と解ってガッカリしたのが一再ならずある。訳書を読まれる奇特な人の為、以下に『日本経済評論社版』の誤植を、気づいた限りで記する。主として、英訳本、原書と文庫本で内容を確認した。『文庫版』の誤植(誤訳と思われるものを含む)も併せて載せた。全集版については点検していない。 ・p.68-69にかけて 「、また第二より得られるD2の値はp = 0の応ずべく、」重複により削除すべきもの ・p.72、下から3行目 φ1' (D1) とφ2'(D2 )との間の不等号が逆向きである(D1とD2の間の不等号と向きが反対になる)。 ・p.75、 7行目 誤:「φ' (D ) を関数Ψ' (p )に転換しうべく」 正:「φ' (D ) を関数Ψ (p )に転換しうべく」 ・p.89.56節14行目の数式 不等号の向きがそれぞれ逆である。 ・p.127,10行目 誤:「すなわちHの生産者」 正:「すなわちNの生産者」 (文庫・日本経済評論社版共通の誤植) ・p.51(文庫p.97)[訳者注]3行目 誤:「根号の下に p02 + g2 とあるのを p0 + g2 と使用したのである」 正:「根号の下に p02 + g2 とあるのを p02 + g と使用したのである」 もっとも、正は英訳本の注釈によったのであるが、この英訳本注釈も誤りで、 「根号の下に p02 + g2 とあるのを ![]() ・p.82(文庫p.136)52節4行目 誤: 「 [φk' (Dk ) ]0 および [φk (Dk ) ] ' 」 正: 「 [φk' (Dk ) ]0 および [φk' (Dk ) ]' 」 なお、他にも私には誤訳と思われる所がある。 ・p.132 、1行目 (文庫p.205) 「用役の提供にほかならぬこと」は、「用役の提供が含まれている」ではないかと思う。 ・p.144(文庫p.221)において、中山は "de la balance du commerce(英:balance of trade)”を「貿易均衡説」と訳している。これは、「差額貿易説」と訳すべきものだと思う。ここは、スミスの重商主義批判の箇所である。「貿易均衡説」では、全く逆の意味になると考える。 (注1)フィッシャーの指摘によると、数学の手練れであるクールノーに、誤植ではない数学的な誤りが本書に2ケ所見出される。そのうち、90節(p.139)の誤謬は、輸入国であるB国のA国との通商成立前後の価格、生産高をpb<pb' および Db <Db´ としながら(89節)、D は生産高(需要=供給の一致点)であることを忘れて、D の文字に引きずられたのか、うっかりマーシャル型需要曲線にごとく、pb <pb' であるから Db >Db´ としてしまったことによる。
(2014/12/14記。2022/5/21 数式(8)の誤記と私注の1ケ所を訂正) |