SAINT-SIMONON, H. C. de,
CATÉCHISME DES INDUSTRIELS. 1er cahier, 2e cahier, 3e cahier, 4e cahier (3e cahier has special t.p.: Systèm de politique positive, par Auguste Comte....Tome premier, première partie. A Paris, Chez les principaux libraries, 1824), Imprimerie de Sétier , 1823-1824, pp.1-66;67-186;1-8 + 1-189;191-236, 8vo.
SAINT-SIMONON, H. C. de et al, NOUVEAU CHRISTIANISME.  LETTERS D'EUGÈNE RODRIGUES SUR LA RELIGION ET LA POLITIQUE.  L'ÉDUCATION DU GENRE HUMAIN, DE LESSING, TRADUIT, POUR LA PREMIÈRE FOIS , DE L'ALLEMAND PAR EUGÈNE RODRIGUES., Au Bureau du Globe, 1832, pp.vii+346+[2], 8vo.

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 サン・シモン『産業者の教理問答』1823-24刊初版、および『新キリスト教』1832年刊重版。
 著者略歴:Claude-Henri de Rouvroy, Comte de Saint-Simonサン・シモン、クロード・アンリ・ド・ルーヴロウ、コント・ド(1760-1825)。ピカルディ(フランス北部)地方の軍人・官吏を輩出する貴族の長子としてパリに生まれる。シャルルマニュー(カール)大帝の血筋であることを誇った。ダランベールが家庭教師であったと自伝にいう。少青年代の剽悍な逸話が残されている。17歳にして、祖父・父と同様に陸軍士官となる。歩兵連隊少尉である。2年後、隊はアメリカ独立戦争に参加する。4年間滞在し、陸戦5回海戦9回に参戦する。捕虜となって、ジャマイカに囚われている時にメキシコ国王代理に運河計画を提唱したというから、早くから経済に関心があったのであろう。旧ヨーロッパと比べて建国期アメリカの旺盛な企業精神にも感銘を受けた。帰国(1783年)後、メジエール駐屯の連隊に任官、当地にある高名な工兵学校で講義に出席し、特に数学を学んだとされる。士官に加えてエンジニアともなったサン・シモンは、フランス革命までの5年間を、オランダでの技術の実地研修やスペインでの運河事業計画に過ごす。
 大革命が勃発するや、率先して自らの貴族の称号を返上し、貴族特権の廃止を唱え革命家として活動する。一方、革命政府が貴族・教会領を没収し安価に払い下げていたのを見て、スポンサーを得て土地の投機売買により一財産を築く。1793年サン・シモンは公安委員会に反革命の容疑で逮捕され、ギロチンの一歩手前まで行く。この経験がフランス革命への懐疑とトラウマ残した。収監中も商社を経営し、94~97年は乗合馬車会社、問屋、織物業の事業を営み、パリでも屈指の金満家となった。
 1798年は転機の年である。事業を畳んで、学問に専心する決意をする。既に40歳に近い、晩学の人である。築いた財産でサロンを主宰し、著名な学者・知識人から最新の知識を耳学問で得ようとした。物理学研究のために居を理工科大学(ポリテクニック)の門前に構え大学の講義も聴講した。1801年には医科大学の前に移り、今度は生理学者達とも交流した。この時、1年に満たぬ短い結婚生活を送る。
 著作の期間は短く20年ほどである。著作時期は3ないし4期に区分されている。ここでは、ミュッソによる。1.科学的認識論の時期(1802-13)、2.政治経済論の時期(1814-23)、3.精神的宗教論の時期(1823-25)、である。科学論から、政治経済論をへて精神論へと関心が移ったのである。
 1802年スイスに滞在中に執筆したのが処女作『ジュネーヴ住民の手紙』である。ニュートンの墓前で募金を集め、数学者、物理学者、科学者、生理学者、文学者、画家、音楽家の各3人からなる「ニュートン会議」組織し、科学の発展のための活動を主張する奇妙な書物である。万有引力の法則に基づいて自然科学を発展させ、経済社会にも応用しようとの目論見である。ちなみに、ずばり『万有引力の法則に関する研究』(1813)という名の著書もあり、日本語の「万有」より、英語でlaw of universal gravitation で考える方が解りやすいか、普遍的法則を求める意であろう。『十九世紀の科学研究序説』(1808)を刊行、『人間科学に関する覚書』(1813)で、第一期の仕事を締め括る。
 1814年『ヨーロッパ社会再組織論』によって、認識論・精神分野から時論・世俗分野に、あるいは人文科学から社会科学へ研究対象を変える。オーギュスタン・ティエリ(ミュシュレと並ぶロマン主義歴史家、「歴史学のホメロス」と呼ばれた)を助手にして書かれたもので、初めて世間の注目を引いた。ウィーン体制ではヨーロッパに真の平和をもたらせず、英仏連合によるヨーロッパの再組織化が必要とするものである。「すべては産業のために、すべては産業によって」との有名な題辞が掲げられた『産業』4巻(1817-18)刊行。産業主義、すなわち産業者階級による科学的産業体制を構想した。この間にティエリが去り、オーギュスト・コント(社会学の父のコントである)が新たに助手となる。
 1819-20年には『組織者』が分冊形式で出され、大きな反響を呼んだ。その第一分冊には「サン・シモンの寓話」が掲載されていた。貴族と産業者の関係が逆転していることを譬えたものである。フランスで最も優秀な科学者、芸術家、産業者3千人を一挙に失えば、「国民は魂の無い体となるであろう」が、王侯貴族・官僚等、国家と宗教の指導者3万人を一挙に失ったとしても国民は支障をきたさないという譬え話である。こともあろうに、そこで例示されたベリー公が本当に暗殺されたため、皇族侮辱罪で起訴される。ちなみに、研究史によると『組織者』が、「自由主義」から「社会主義」への一つの転換点として扱われることがある。
 社会変革の理論と実践の集大成を目指した『産業体制論』(1020-22)を刊行するも、資金不足で中断する。1823年生活費にも事欠く貧窮のなかで、ピストル自殺を図る。幸い一命はとりとめたが、右眼失明。余談であるが、死の直後に描かれた、よく知られた肖像画が左の横顔なのはそのせいであろう。
  
 その後、支持者から援助も得て、『産業者の教理問答』(1823-24)及び『新キリスト教』(1825)を上梓する。前者は『産業体制論』を拡充し、一般への普及を図ったもの。後者は、新しい産業社会の紐帯となる原理を探求した宗教論(第3期)の書にして遺著でもある。同年死去。
 彼の葬儀の日に、残された弟子たちから、サン・シモン主義者が生れた。片や思想普及の運動となり次第に神秘的な宗教集団の様相を見せ、片や産業・金融活動を展開することになる。思想活動の方は、高弟バザールやアンファンタン等により機関誌『生産者』や『組織者』、『地球』を刊行していたが、アンファンタンを最高司祭として、教義と礼拝と三位階の聖職団を持つ教会を創設することになる。パリだけで、80人近い会員を数えた。『新キリスト教』を拡大解釈した熱心な宣教運動である。バザールが死去し、アンファンタンが当局に検挙されると急速に思想運動は凋落した。実践活動は生き残り、サンシモニアンは、鉄道、運河、保険、ガス燈、金融の会社を設立し、スエズ運河などの建設にまで乗り出す。

 私にとって、サン・シモンといえば、マルキシズムの源流の一つであるフランス社会主義者の一人であり、フーリエ、オーエンとひとからげで記憶しているくらいの存在にすぎない。
 レーニンはマルキシズム思想の源泉として次の三つを上げたことは、人口に膾炙している。「マルクスは19世紀の三つの主な思想的潮流の継承者であり、天才的な完成者であった。その潮流とは、ドイツの古典哲学、イギリスの古典経済学、そして一般にフランスの革命的諸学説と結びついたフランス社会主義である」(「カール・マルクス」1914年)。
 そして、『共産党宣言』(1884)には、「批判的・空想的社会主義共産主義」者として、「すなわち、サン・シモン、フーリエ、オーウェン」と三人セットで論じられている。『空想より科学への社会主義への発展』(1880)でも、エンゲルスは、同様に「三人の偉大な空想家」としているものの、サン・シモンについては「天才的」という表現を二度まで使って評価している。マルクスと言えば、その膨大な著作にかかわらず、サン・シモンあるいはフランス社会主義については、ほとんど論じていないらしい。
 さて、余談。エンゲルスの著名なパンフレットの標題にもなった「空想的」社会主義とはなにか。「ユートピア的」Utopiqueともされる原語は、Utopiaである。むろん、モアの同名の書物から世に広まった言葉である。普通、ギリシア語のou(無い)とtopos(場所)との合成語である「どこにも無い場所」される。ちなみにサムエル・バトラーの『エレホン』がnowhereのアナグラムのようなもの。ただし、モアがEutopia と書いている箇所もあることから、eu(良い)という語にもかけて「素晴らしい場所」の意味も含まれているとされる。余談終わり。
 エンゲルスは、空想的社会主義に対してマルキシズムを唯物史観の歴史解釈と剰余価値理論の経済学を基礎としていることで科学的社会主義とした。しかし、その社会主義理論には、来るべき社会主義経済の理論はどこにもなかったのである。社会主義ソビエトの工業は、一時世界第2位にまで発展したが、脱工業化社会には適用できなかったのか、結局崩壊してしまった。マルキシズムもなにがし、ユートピア的であるとも思える。
 ユートピア社会主義者サン・シモンの著作をだいぶ以前に入手していたのであるが、以上の知識を出ないので、少しその中身を知りたいというので調べてみた。

 結論をいうと、サン・シモンの社会主義は分配ではなく生産を重視した社会主義であるように思える。各人がその能力に応じた生産力を発揮できるような社会体制を作れば、生産量も増え分配問題も自ずから解消できるとの考えである。これを社会主義といえるのは、自由主義経済に対して、経済全体の組織化と管理を図ろうとするからである。今は流行らないらしいが、かつていわれた社会主義の定義に近いか。いわく、共産主義は能力に応じて労働し、必要に応じて分配するのに対し、社会主義は「能力に応じて働き、労働に応じて分配する」と。なにしろ、サン・シモン主義者の雑誌『地球』のサブ・タイトルが「各人にはその能力に応じて、各人の能力はその仕事に応じて」なのだから。ちなみに、社会主義という言葉はサン=シモン主義者であるピエール・ルルー(1797-1871)によってエゴイズムに対置する概念として名付けられたとされるから、サン・シモン自身は「社会主義者」ではなかった。
 あるいは、マルキシズムの資本主義生産力の積極的評価、「ブルジョアジーは、わずか百年そこそこの階級支配のあいだに、いままでの時代全部をいっしょにしたよりも、もっと大量で、もっと素晴らしい生産諸力をつくりだした」(『共産党宣言』)との見解は、サン・シモン思想の影響を受けたものか。
 とかく、サン・シモンは社会主義と結び付けられがちであるが、サン・シモンを淵源とする思想潮流としてミュッソ(2019、p.8)は他に次の三つをあげている。オーギュスト・コントの実証主義、エミール・デュルケムを嚆矢とする社会学の諸潮流、そしてサン・シモン主義者そのものである。元弟子であり後に離反したコントは、「堕ちたペテン師」と悪罵を放ち、一方「思想の種まき人」(岩波文庫カバーの惹句)として豊穣な思想を蔵した大思想家とも評価される。サン・シモンは、「新百科全書」を編もうとしたくらい、知的関心の範囲は広かった。また、「原理」の人であったが、それらはアイデアの段階にとどまり、精細な思索を伴わなかった。それゆえ、それらの部分を汲み出し発展させることが後継者には可能であったろう。最新の解説書をみてもミュッソはコミュニケーション・ネットワーク論の観点から、中嶋はヨーロッパ統合の観点からサン・シモンを論じている。

 たまたま、私蔵本ではこの二本が合冊製本されており、訳書(岩波文庫)も一冊に収められていることもあって、晩年の代表作である『産業者の教理問答』(1823-24年)と『新キリスト教』(1825年)を併せて取り上げる。前者は、キリスト教の教理問答(カテキスモス)を模倣した形式で、後者は保守主義者と革新者の対話形式である。後者の方が教理問答に相応しいと思えるのだが。ともあれ、問答形式の著作は、当時一般に行われたのであろう。私の知る範囲では、少し後の時代になるが、エンゲルス『共産主義の諸原則』1847もそうである。
  (以下原書からの訳文は岩波文庫によるものとし、引用は文庫のページ数のみ、『サン-シモン著作集』からの引用は、著作集巻数とページ数のみ記載)

 ((産業者の教理問答))
  (第1分冊)
 社会の富のすべてを生産し、あらゆる他の階級を経済的に支持しているのが産業者階級である。にもかかわらず、ブルジョア(中間階級とも)と貴族が政治を支配し、産業者階級を圧迫している。産業者階級を社会の本来の位置である最上層に据え、「社会全体の利益の管理を産業者にさせなければならない社会秩序に移行する」(p.49)のがサン・シモンの目指す産業(者)体制である。
 サン・シモンがいうブルジョアとは、「貴族でなかった軍人、平民であった法律家、特権者でなかった不労所得者たちである」(p.17)。ブルジョアは、貴族と同様に特権者階級である。産業者はブルジョアから切り離しされ、貴族と産業者の中間にブルジョアが置かれた。従って、ブルジョアに資本家は含まれない。産業者は資本家と労働者が未分化の概念なのである。
 産業者は、「国民の二十五分の二十四以上をなし」(p.18)、農業者、製造業者、商人の三大部類からなるとされている。その製造業者として「車大工、蹄鉄工、錠前師、指物師」や「短靴、帽子、リンネル、ラシャ、カシミアの製造業者」(p.10)が例示されている所を見れば、産業革命以前の業態である。「サン・シモン主義は、フランス革命と産業革命との、いわゆる「二重革命」にたいする省察より成り立つ」(吉田、1975、p.28)とされるが、サン・シモン自身の意識は産業革命からの経験を経たものではないようにも思える。
 フランス革命は、旧体制の批判と破壊に終わり、新体制の組織と建設までには至らなかった。革命は、法律家と形而上学者が主導し、貴族に代わって権力の座に着いた。そこに居座ったまま無用な議論を重ねている。本来、産業者と学者こそが、政治の主役であるべきなのである。産業体制の観点からは、その発展が完全に阻止されたのである。「革命が交代させたのは「人間」にすぎず「原理」ではなかった」(ミュッソ、2019,p.85)。
 最重要階級である産業者に、公共財産の管理が任されない限り、社会の安寧(公安)は維持され得ない。「社会の圧倒的多数者(すなわち産業者のことであろう:引用者)の一般的な政治的意向は、できるだけ金をかけず安価に統治されること、できるだけ少なく統治されること、最も有能な人たちによって、また公安を完全に確保するように、統治されることにある」(p.14)。そして、産業者は社会のあらゆる階級のなかで、実際の管理能力があると認められた人々なのである。産業体制実現の暁には「平安は完全に保たれ、公共の繁栄は可能な限りの速さで進み、社会は人間の本性が望みうるあらゆる個人的並びに集団的幸福を享受するであろう」(p.44)。『産業体制論』(1820-22年:著作集第四巻、p.343)では、少なくとも十年のうちに、フランスの土地の価値を二倍にできるといっている。
 産業体制下では、「完全な平等の原理に立脚している。この体制は、出生にもとづく一切の権利とあらゆる種類の特権とに反対する」(p.62)という。附言すると、ここでは能力と資力の差から生ずる不平等は、むしろ産業的平等とされているのである。能力とは、もちろん政治的能力ではなく、生産に貢献できる能力のことである。各人の能力が十分実現できること、そしてそれにふさわしい報酬を受け取ることが産業的平等なのである。それが経済社会の原則であり、社会発展の基礎である。富については、相続財産は否定されるが、自ら獲得した資産は肯定される。富は労働手段を活用できる能力の証であり、所有は能力に応じて構成されるものである。こうした世界では、人間が人間を搾取することはなく、人間は人間と協力して能力を全開し、生産力が大きく発展する。

 『産業』(1817-18)の頃からサン・シモンの歴史的方法が鮮明となった。歴史は、「支配的・軍事的」である封建的体制と「管理的・平和的」である産業的体制の二分される(厳密には、両体制移行期の中間体制および封建体制以前の古代世界がある)。資本主義の発展こそが、近代社会再組織の障害となっている「支配的・軍事的」封建体制を破壊する。資本主義の成長・発展という経済の変遷が、民主主義社会を招来し、その民主主義社会でこそ、資本主義は一層の発展が期待されるという歴史観である。革命の勃発と産業社会の到来を選択の問題ではなく、必然性の問題と捉えたのである。
 サン・シモンは『政治家』(1818-19)所収の論文(「蜜蜂とモンスズメ蜂の喧嘩について」、著作集第三巻、p.226以下)のなかで有名な譬えを持ち出している。「蜜蜂」(産業家)がせっせと収集した「蜜」(貨幣)を「モンスズメ蜂」(貴族と中間階級)が横領するとするものである。しかし、多数者である産業家は、もはや支配階級に収奪されるだけの存在ではない。それでも、産業体制への移行には、「平和的手段だけが築き上げたり建設したりするために、つまり堅固な体制を樹立するために用いることのできる唯一の手段である」(p.14)。なぜなら、革命の恐怖を身をもって味わったサン・シモンにとって、「誠実で、合法手的で、平和的な諸手段によってのみ自分たちの目的を達成しようとする産業者にとっては、クーデタは最も恐るべきことであるから」(p.61)である。急激な変革を嫌い斬新的な変化を好むのが、産業者の本性でもあり政治的習慣でもある。
 封建制から産業体制への移行期にあって、体制の平和的移行を実現するには過渡的な立憲民主制を維持するのが良いと「体制移行のエンジニア」たるサン・シモンは考える。王は、神と人間の媒体としてではなく、体制移行を保証する象徴的要素として残される。同時代の可能な最良の政治体制として、イギリス政体が評価される。フランス革命以後のフランスは、王政→共和制→帝政→復古王政と政治制度が目まぐるしく変革し、多くの国民は不満を抱えた。しかし、世襲の国王が常に君臨することになれば、その下での政権交代は連続性を保証される。「王政は、他の総ての制度と異なった、またすべての制度を超えた、一般的性格を持っている」(p.64)。そこでは、王権は「受動的王権」と「能動的王権」に二分された。公務の実務については能動的権力として内閣に委任される。失政は実務を司る内閣が責任を持つことで、国王の交代・廃位はなくなる。王は、第一の貴族、軍人ではなく、産業体制下では「王国の第一の産業者という称号」(p.65)が相応しい。

  (第2分冊)
 具体的には、現体制から来るべき産業体制に平和裏に移行するにはどうすればよいか。サン・シモンの回答は、あっけないくらい簡単である。「国王は財政最高位委員会を創設し、この委員会を最も重要な産業者たちをもって構成することができる。国王は、この委員会を内閣よりも上位におくこと」(p.67)によってである。「平安で安定した秩序を作り上げる唯一の方法は、国庫に最も多くの金を支払い、国庫から引きだすことの最も少ない人たちに、公共財産の高度管理を担当させることにあると深く確信している」(p.164)彼の信念から当然演繹されることである。生産せずにもっぱら国庫から多くのものを引きだし消費に耽る貴族・中間層に代わって、産業者が予算を支配すればよい。管理能力が最も優れた階級が、さも安価に、最も適切に統治するのである。
 変革のための主導者は産業者階級であるが、「法的形式を与える」のは国王である。国王の勅令により変革は実現できる。「フランスで産業体制を確立するためには、国王の勅令だけで十分だからである」(p.130)。そうするには、「産業者は、およそ次にように自分たちの考えを述べた請願書(文書まで掲載されている:引用者)を、王座のもとに提出しなければならない」(p.167)。請願にそれほどの力があるのかと思うが、国王への請願権は国民にとって、国民のために作られたすべての法律、憲章等よりもずっと重要であるとの認識が示されている(p.148)。
 このような 産業者と王権のあいだの同盟のためには、速やかに産業者自身の政治党派、つまり「産業党(le parti industriel)」結成すべきである。それは、産業者に自らの実力を自覚させ、「自分たちの政治的要望を国王に直接、いかなる仲介者も使わずに、表明する決心をさせることにある」(p.125)。サン・シモンは、『政治家』所収の上記論文(著作集第三巻、p.235)において、産業家たちは、なぜ国王に「陛下、われわれは蜜蜂です、モンスズメ蜂を追い払ってはくれませんかと、ごく簡潔な言葉で請願する」という簡単なことをしないのだろうと自問した。『産業体制論』段階では、移行のために産業党の創設を提唱していた。
 国家は、国家権力(政府)と国家装置(行政)という二つの顔を持つヤヌスである。見かけとは違い、真の政治権力は行政すなわち国庫収入の管理の側にある。産業体制への変革という大変革を引き起こすのにも、政府を無化するというちょっとした国家内部の重点の移動だけで十分なのである。国家は企業に、社会的規制の役割を移譲する。国家内部において、支配から指導へ、統治から管理へ、封建的官僚制から産業的民主制へと移行が行われる。
 世界の全国民は、支配的・封建的・軍事的な体制から、管理的・産業的・平和的体制への移行を目指している。現在この目的に最も近づいているのは、英・仏両国である。この両国の中でも、フランスの方が容易に変革を実施できる。なぜなら、フランスでは産業者と国王に介在する貴族階層が現実的な権力を有していないからである。このため、国王―産業者提携の障害はなく、提携は両者の利害に一致する。改革の対象は、無能・無益な廷臣・役人である。それに対し、英国の議会制度は貴族の支配下にあるとサン・シモンは見ており、貴族が国民=産業者から金銭、権力等を巻き上げている。英国で産業者は、なお封建的体制の甚大な不利益を蒙っているのである。
 第二分冊の最後に、この本は、第一から第二の政治体制の移行には長く激しい危機が伴うことを述べ、この危機を終わらせることを直接の目的にしているという。現在産業者階級が最強階級であるから、批判的革命的精神は消滅すべく、平和的組織家精神に交代すべきである。それを望む人々を「産業主義者」と呼ぶように勧告する。

 第三分冊の本文は、弟子のオーギュスト・コントが書いたもの。サン・シモン(署名なし)による[まえがき]2頁に続いて、コント著『実証政治学体系』1824年の標題紙があり、4ページからなるコントの「緒言」、その後に「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」(plan des travaux scientifiques nécessaires pour réorganiser la société)と題した189ページの本文が続く。これについては、書誌学的なことでもあり、別途項目をあげて述べることにする。訳書では、サン・シモン自身の著作でないためか、サン・シモンの[まえがき](中央公論社版)か、それに加えるにコントの「緒言」(岩波文庫)のみが訳され、本文部分の訳は省略されている。サン・シモンの序文は、それが原因となってコントがサン・シモンの下を離れる原因となったもの。本文の訳文は別途コントの著書として読むことができるが、第4分冊第一部の冒頭に「われわれが第二分冊で始めた検討を続けるとしよう」(p.211)と書かれているから、本書(少なくとも第4分冊)を検討するのには、第3分冊を無視しても差し支えないと思う。よって第3分冊部分の紹介は略する。

  (第4分冊)
 この第4分冊は第一部・第二部からなるプランが序言で示されている。第二部は、未刊で終わった。しかし、第一部も途中で終わっているように思える。訳書では分冊となっているが、原書では、cahierであり、ノートとの訳がついているから、訳書「分冊」区分通り発行されたわけでもないのだろう。
 最初の「序言」と「趣意書」に従って、この「分冊」の目指したところをみる。第一部の目的は、社会の一般的(全体的)利益の実現には、産業者が指導しなければならないことを明らかにすることにある。第二部では、公益すなわち一般的利益を増進させるために、産業人の特殊(個人的)利益への情熱を活発にさせることを試みる(予定)としている。「われわれの社会生活の改善におけるこの遅れは、明らかに、あなた方から、あなた方の政治的無気力からきているのである。諸君、目をさまされよ!」(p.208)というわけである。
 さて、フランス国民の社会的年齢は、人間で言えば幼少年期のいくつかの危機を乗り越えた21歳に相当する。国民として青年に達したフランス人は、その知性進歩の結果、社会組織に根本的変革をもたらすであろう。過去には、人の社会的重要性は、生まれと特恵と統治能力によって決まった。未来には、人の社会的重要性は、道徳、科学もしくは産業的能力によって獲得される。
 この分冊では、産業体制の実現のためには、産業者が予算編成権を掌握するだけでなく、財政または行政以外の公的管理を最も有能な科学者に任せることが強調される。最重要の産業者たちが予算作成をし、最有能な科学者たちが公教育と社会の他の精神的利益の指導に当たる。これらの目的達成のためには、「彼らが結成しなければならない協同体(アソシアシオン)の諸原則を、産業者と科学者に教えること」(p.212)が必要である。第四分冊では、科学者に直接語りかけるとしている。とはいえ、科学者は産業者から生活の保証を受けている第二階級ではある。
 科学者にとって、次の三つの科学院の設立されたときに、知識と文明の現状に相応しい社会が組織されるといえる。1.感情アカデミー、2.推理アカデミー、及び3.最高科学院の三つである。1.は、感情の法典の完成を目指し、道徳家、神学者、法律家、詩人、画家、彫刻家、音楽家が属する。2.は、利益の最良の法典を作成する。物理・数学者、政治経済学者等が属する。3.は1.2.のアカデミーを調整し、両アカデミーにより作り出された原理、規則を同一の学理に統一する。すなわち、社会の公教育の基礎となる一般的学理を完成する。また一般的法規集を編纂する。
 産業者の予算作成と、三つの科学院の制度は、人類に最も有益である精神的、物質的生産にとって最適な社会秩序の基本的組織をなす。以下のような国家制度が書かれている。まず、「発議会議」で諸計画が決定される。それらは、感情・推理両アカデミーで検討され、所見を付され「最高行政会議」に提出される。最高行政会議は産業者から構成され、毎年予算の編成と、前年度予算の執行を監査する。予算は閣議と国会に提出され、国王は予算の執行を議会に求める。書かれた所は体系的ではなく、議会と最高行政会議の関係が、私には良く判らない。産業者が予算編成権を握る国家制度については、著作により色々なヴァージョンがあり、詳細にこだわる必要はないだろう。
 その後にソクラテス以降の「人間精神の進歩の歴史」(p.226)が描かれるが、途中で終わっているようである。『十九世紀の科学研究序説』で展開した人類の科学史(アラブ世界を含む:参照 中嶋、2018、第1章第3節)の再説のようでもあるが、重要とも思えないので省略する。

  ((新キリスト教)
 『新キリスト教』は、「保守主義者」と「革新者」の対話形式で書かれている。第一~第三の三対話から編成される予定であったが、著者の死により第一対話のみで終了している。「道徳を純化し、完全なものにし、道徳に宗教的性格を保持させながら、道徳の力を社会のあらゆる階級に拡げる必要を絶えず感じているすべての人々、に向けて書かれ」(p.239)たのであるが、ほとんどカトリックとプロテスタント教の批判の所で終わってしまった。

 最初に、この本が書かれた背景について、研究書を参照しながら書いておく。産業の発展は産業者の中に富裕な資本家と貧困な労働者という貧富の格差を生み出し、社会を分裂させる。個人の自由を守るためにも、生活の保障は看過できない問題である。サン・シモンは、『産業』(1817-18)刊行の頃まで、貧富の格差解消は市場に委ねようと考えていた。経済発展により社会の富というパイが増えれば、おのずと貧困層の境遇も改善していくだろうとの期待である。資本家が得た富で自らの快楽を追求することを否定し、資本を蓄積すべしと考えていたから、労働者の雇用増進が期待できるだろう。公教育の必要性も夙に唱えていた。教育と労働の機会拡大は労働者が社会階層を上昇させる可能性を増大させるだろう。
 しかし、王政復古期(1814-30)の政治的安定は、フランス産業革命の進展とあいまって次第に貧富の問題に国民の耳目が集まり、経済の公平性をいかに担保するかが問題となってきた。サン・シモンの産業者体制とは、能力不平等を前提としたものであった。「能力不平等」のヒエラルキーを積極的に活用しようとする。しかし、能力最底辺の労働者は、生活向上が期待できるというだけで生活していけるであろうか。この困難を打開するのが『新キリスト教』である。
 サン・シモンは階層的に組織された産業社会では、個人のエゴイズムを開放することにより、個人の利益と一般(全体的)利益とは調和すると考えていた。次に、個人は自己の利益を図るだけではなく、社会全体の利益を考慮するまでに成長しなければならないと考えるようになった。『産業体制論』(著作集第四巻、p.188)では、「社会は、共通の観念なしには存続できません。世俗的な領域において利益の共通性が必要であるのと同様に、この共通性は精神的領域にも必要です」として「意識と利益の一大共同社会」(吉田、1975、p.134)を考えた。いまや『新キリスト教』では社会共通の道徳概念への認識が深化し、エゴイズムが社会の病患であると考えるに至った。「現在の政治的病患[中略]はこのエゴイズムに帰せなければない」(p.307)。
 さらに、『産業体制論』(著作集第四巻、p.87)には、「支出予算の根本条項は、壮健な者に仕事を得させ、傷病者には救済を与えることにより、無産者の生活を保証することを目的とする」および支出の二つの第一費目は、国民教育費目に次いで、「(二)生活手段をもたぬすべての人々に仕事を保証することを目的とした費目、でなければならない」(同、p.277)との一節がある。障害者同様に、貧困も個人の責任に帰せられるものではなく、社会(生産者体制でも)に構造的な問題であるとの認識も次第に深まっていったのであろう。
 エゴイズム超克の必要性と貧困層形成の社会的必然性とへの認識が、貧困階級の救済をテーマとする遺著『新キリスト教』となった。神と人間の関係のみを論じるキリスト教は批判されるべきで、科学的な社会的共通規範に則って個人と個人の関係を論ずべきである。そして、「真のキリスト教は、天上においてのみならず、地上においても、人々を幸福にさせなければならない」(p.277)。「神がみずから言ったことと、僧侶が神の名において言ったことは区別しなければならない」(p.243)。神の言葉は改めることができないが、僧侶が神の名において言ったことは、改変できる。それは、「キリスト教の根本原理を変形させてキリスト教を若返らせる方法」(p.303)なのである。
 本書では、聖書から「すべての人間は互いに兄弟として振る舞うべし」という原理のみが取り出され、「宗教は最も貧しい階級の境遇をできるだけ速やかに改善するという大目的をめざして社会を導いていかなければならない」(p.250-251)という再生原理に変形される。この再生原理は、「最大多数者に最も有益でありうるように社会を組織しなければならない」(p.244)、「最も貧しい階級にその精神的・物質的生活の最も速やかな改善を保証するように社会を組織せよ」(同)、「最も貧しい階級の福祉の増大をめざ」す(p.247)等に、微妙に表現を変えながら頻出する。この再生原理こそが、あらゆる宗教活動の目的とされる。
 晩年の代表作である『産業者の教理問答』(1823-24年)と『新キリスト教』(1825年)との間には、刊行年に1年しか差がないが、思想に変化が見られる。前者はそれまでの思索を網羅した総決算であり、王権の助力による産業体制の実現を著述した。後者には、最貧階級の境遇改善を目的とする社会の組織化が主張される。それまで、資本家も労働者も産業者として一枚岩に理解されていたのが、最貧層の存在が否応なく浮かび上がってきたのである。「プロレタリアートの階級」(同名の草稿1821?がある)の発見である。各人がその能力に応じ分業を通じて協働することによりアソシアシオン(平等社会)が可能となる、との考えは修正を余儀なくされた。「「産業的平等」の原理とはまったく異なる位相の家族主義、相互扶助の原理」(高草木、2005、p.40)の出現である。とはいえ、この変化は晩年の短期間に起こったものではなく、『産業体制論』の頃から徐々に生じたものであることは上にみたとおりである。
 にもかかわらず、「最も貧しい階級の生活をできるだけ速やかに改善するために最も都合のよい事態は、おこなうべき仕事がたくさんあって、しかもそれらの仕事が人間知性の最大の発展を促すといった時代であろう。[中略]おこなうべき仕事の一般的計画を、科学者、芸術家、および産業者につくらせなさい」(p.280-281)と書いている所をみると、科学者、産業者、芸術家の三位一体からなる産業体制は依然、維持されている。もっとも、著者は基本構想を樹立するのに急で、詳細な具体的政策を詰めるのには得手ではなかったようだから、著作が完結されていたとしても、その貧民救済策の詳細は解らずじまいだったであろう。
 産業は一国内に閉じ込めることできず、国境を簡単に乗り越える。サン・シモンは、ナポレオンの大陸封鎖を批判していた。産業体制も国家の枠組みを越え、英仏同盟、ヨーロッパ連合という形に、さらには全世界に拡大すると考えた。中世ローマンカトリックの普遍性を評価していた彼は、新キリスト教も人類普遍の社会共通の道徳概念として全世界に広がるものと考えていた。産業体制という社会組織が唯一の形態であり、それ支える単一の世界宗教の実現を目指した。「統治者の私的利益のために国民の利益を犠牲とするような反キリスト教的なすべての政府に反対してあらゆる国の国民を同盟させることによって、すべての国の国民を永遠に平和な状態にする責務がある」(p.290)。そして、産業体制の樹立と同様に、新キリスト教の宣教のためには、平和的な手段が採られるべきある。改宗の手段は、説得と立証にある。
 サン・シモンの著作時期の三段階に従えば、科学的認識論の時期には神の法をニュートン科学法則に転換し、政治経済論の時期では封建体制から産業者体制への転換を論じ、この精神的宗教論の時期には(原始)キリスト教から新キリスト教への転換を論じたことになる。あるいは、それぞれの議論が著作時期の区分となったというべきか。

 上記の二著では詳述していないが、他の著書で展開している興味ある思想を補足の意味で、次に付け加える。

  (指導者支配)
 サン・シモンは、『十九世紀の科学的研究序説』(1807-08)において「人間は働かなくてはならない」(著作集第一巻、p.181)と書いた(注1)。労働こそが、出自や性別の特殊性を超越して、人間の普遍的な共通性・平等性を保証するとした。労働は単なる苦行ではなく、「政治的自由・平等」・「経済的自由」をもたらすことが明らかになった。平等な各個人が、その能力をもって分業的に結合し平等な社会、アソシアシオンが形成される。社会は、一大作業場(アトリエ)となる。この作業場は自己管理能力を有しており、国家はその運営について、個々の工場の場合と同様に指導すべきで、それ以上に干渉すべきではない。サン・シモンの構想はアナーキーな性格をもっているのである。
 この平等社会であるアソシアシオンでも、ヒエラルキーが消滅するというわけにはいかない。サン・シモン自身が「われわれは国民がピラミッド状に編成されるべきだということを認める」(『文学的、哲学的、産業的意見』1825:著作集五巻、p.211)といっている。アソシアシオンが能力と資力によって構成されるからには、それ以外のすべての不平等は廃絶されても、それらによる不平等は必然的で不可避で、なくせると考えることは不条理である。
 大きく分ければ、産業者は「親方(chefs)」と「労働者(ouvriers)」あるいは、「指導者(gouvernants)」と「被指導者(gouverrnés)」に区別される。労働者を、単なる無知蒙昧な存在とは見ていない。革命後に自作農となった農民や商工業者徒弟の経営能力を一定程度評価していた。しかし、革命期にサンキュロット(ズボンも持たないからプロレタリアートだろう)に支持されたジャコバン派の「恐怖政治」活動によって迫害を受けた記憶も未だ生々しい。無産者を直接政治に参加させることは拒否し、財産による制限選挙制を志向した。「産業的仕事の指導者たちは、労働階級(la classe ouvrière)の生まれながらの保護者である」(p.176)との立場を堅持した。とはいえ、人間精神の進歩を信じるサン・シモンである、公教育が普及し、労働者の知的能力が向上すれば、選挙制限は緩和され無産者の政治参加を推進すべしと考えた。

  (アナーキー)
 先にあげたアナーキーのことを主として吉田の著者に従って(誤読なからんことを願う)もう少し補足する。
 サン・シモンは、産業者が権力を握る社会を志向した。最廉の歳出、最少の支配が望ましいからである。それでも権力(政府)を廃絶しないのは、アナーキー状態では労働者を暴力から守れないからであろう。のみならず、権力に、社会の成員を連帯させ共通目的を志向させる統括者の役割を期待した。さて、様々に産業者を拘束する国家からの自由(free from)=形而上学的自由は、体制移行期の古い概念である。産業者体制では国家への自由(free to)が重視されねばならない。本当の自由は、アソシアシオンに役立つ物質的・精神的能力を、誰に邪魔だてされることもなく、発揮できることである。産業活動の目的は、生産によって自然に働きかけ、個人と社会の需要を満たすことにある。
 この活動は、外部権力によって与えられた活動ではなく、産業者活動自体の自律的な活動である。産業者はアソシアシオンを形成し、恣意的な権力に抵抗する。事物に対する人間の働きかけを唯一の直接的・恒久的目的とするアソシアシオンでは、人間の人間に対する支配は終焉する。未だ遠くにではあるが、国家の死滅が見据えられているのである。封建的軍事的・体制あるいは移行期体制のもとにおいては、国家は必要である。産業的・平和的体制のもとでは、国家は必ずしも必要ではない。

  (銀行制度)
 サン・シモン及びサン・シモン主義者の著作を読んで印象に残るのは、その銀行への過大とも思われる評価である。『教理問答』から引いてみよう。「銀行の設立は産業と社会とにとって、次のような一般的結果をもたらした。すなわち、快適な物品の量もまたそのような物品への嗜好も、きわめていちじるしく増大し、産業者階級はこの時から他のすべての階級が一緒になったよりも、さらには政府よりも、ずっと大きな財力をもち始めた」(p.33)、「産業者の運命が、銀行制度の確立以来、ずっと彼ら自身の手に握られていたこと、そして今日なおそうであることは、疑いのない事実である」(p.66)、そして「産業者階級は[中略]産業の全部門を互いに結びつける銀行家たちによって、完全に組織されている」(p.127)と。サン・シモンが、産業体制の確立は産業者が予算編成権を持つことにありとした、その産業者の中核は銀行家なのである。
 サンシモニアンのバザールは、産業者社会の結節点をなすのは銀行制度であり、来るべき社会を「全般的銀行制度」と呼んでいる。同じくアンファンタンは、政治的代表制に代置するに、銀行家を含むテクノクラートの権力支配、産業政策を正当化した。銀行が産業体制の中核として機能するのは、銀行家は企業価値と産業家能力との評価において企業家よりもずっと優越しているからである。銀行の役割は絶対化され、銀行家は産業界における政府の代表となる。

  (コント著『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』について)
 この本については、岩波文庫の訳注や『世界の名著 コント スペンサー』の解説・年表では記述が相違し、良く判らなかった。幸い著作集の巻末「サンーシモンの生涯と著作」(四)と(五)に詳しい説明があったので、それに従ってまとめてみる。
 『教理問答』刊行に先立つ1822年4月にサン・シモンは『社会契約論』を印刷に廻した。これはコントとの共著で、最初の10ページのみをサン・シモンが書き、その後にコントの長編論文「社会再組織に必要な科学的作業の趣意書」(prospectus des travaux scientifiques nécessaires pour réorganiser la société)が付されたものである。これは、コントの自信作であり、初めて自分の名を署名したものである。しかしこの本は、なぜか校正刷で終わり公刊はされなかった。関係者に配布されただけである。校正刷りの部数は100部とも50部ともいわれている。
 一方、『教理問答』第一分冊で「第三分冊として、科学制度と教育制度とに関する一巻を付け加えるであろう。/ われわれが基礎を築き、われわれの弟子のオーギュスト・コントに仕上げをまかせたこの著作は、産業体制をア・プリオリに説明するであろう」(p.51)と予告していた。サン・シモンはコントに、この著作を執筆するよう促したが、コントにはその気はなく、「趣意書」の改定と続巻執筆に専心した。刊行期日が切迫して業を煮やしたサン・シモンは、「趣意書」に署名なしのサン・シモンの序言を附し、第三分冊として発行することをコントに通告する。両者の間に激しい争論が起こり、コントは改定版「趣意書」を新しいタイトル「プラン」と変え、これに総題「実証政治学体系」を附し、著者名明記の上、余人の序文は入れないとの条件を主張した。自分の思うとおりの編集ができないと考えるサンシモンとの関係は決裂した。
 見切り発車のていであろう、第三分冊は1824年4月に上梓された。『教理問答 第三分冊』の表紙をつけ、(サン・シモンの)無署名の[まえがき](との題目は書かれていない)2頁に続いて、コント著『実証政治学体系』1824年の標題紙があり、4ページからなるコントの「緒言」、その後に「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」(plan des travaux scientifiques nécessaires pour réorganiser la société)と題した189ページの本文が続くもの。千部印刷され、予約購読者他に配られた。この千部の他に、[まえがき]を除いて製本されたもの100部が個人配布用としてコントに渡された。100部渡したのは、著作権を巡って両者が揉めた時に出来た約束に従がつた様である。自分の著作として正式に公刊されなかったこと、そして了解を得ぬままサン・シモンの[まえがき]を加えて配布したことでコントは憤激し、決裂は決定的となる。
 こうして、「社会を再組織するために必要な科学的研究計画」の「初版」は2種類存在することになった。

 オランダの古書籍商から購入。『教理問答』と『新キリスト教』とが合冊製本されている。『教理問答』については、紙表紙を除いて製本してあるので発行年記がない。しかし、Google Booksの初版本で検証してみるに初版本に間違いない。私蔵本の裏表紙には”complete in 4 cahiers, very rare!"と書籍商によると思われる鉛筆書入れがある。たしかに、Google Booksの本も3分冊までしかない。『新キリスト教』は、アンファンタンの序文のついた1832年刊行のもの、初版ではない。ロドリゲス(Rodrigues)とレシング(Lessing)の論文と併せて一冊の書物として刊行されたもの。
 
(注1)この引用句を、中嶋(2018、p.90)は『同時代人に宛てジュネーヴの一住民の手紙』からだとしているが、誤りだと思う。もちろんこの引用句も、中嶋の著書で知ったのではあるが。

(参考文献)
  1. 『エンゲルス 社会・哲学論集 世界の大思想Ⅱ-5』 河出書房、1967年
  2. 『オウェン サン・シモン フーリエ 世界の名著続8』 中央公論社 1975年 
  3. 『コント スペンサー 世界の名著36』 中央公論社 1970年 
  4. サン-シモン 森博編・訳 『サンーシモン著作集 第一巻』 恒星者厚生閣、1987年
  5. サン-シモン 森博編・訳 『サンーシモン著作集 第二巻』 恒星者厚生閣、1987年
  6. サン-シモン 森博編・訳 『サンーシモン著作集 第三巻』 恒星者厚生閣、1987
  7. サン-シモン 森博編・訳 『サンーシモン著作集 第四巻』 恒星者厚生閣、1988年
  8. サン-シモン 森博編・訳 『サンーシモン著作集 第五巻』 恒星者厚生閣、1988
  9. サン=シモン 森博訳 『産業者の教理問答 他一篇』 岩波文庫、2001年
  10. 高草木光一 「C・H・de・サン=シモン ―「産業」への隘路― 」(太田一廣編『経済思想6 社会主義と経済学』 日本経済評論社、2005年 所収)
  11. 中嶋洋平 『サン=シモンとは何者か』 吉田書店、2018年
  12. 『マルクス 経済学・哲学論集 世界の大思想Ⅱ-4』 河出書房、1967年
  13. ミュッソ、ピエール 杉本隆司訳 『サン=シモンとサン=シモン主義』 白水社、2019
  14. 吉田静一 『サン・シモン復興 思想史の立場から』 未来社、1975年

 
 
 
 (『教理問答』巻頭)
 
 (『新キリスト教』標題紙)


(2021/9/22記)


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