失ってからその大きさに気づくということがあるものだが、私にとっての松田優作がまさにそれである。デビュー当時からのファンといっても、常に彼を見守りつづけていたわけではなく、映画自体を観なくなった時期もあれば、他の俳優に熱をあげることもあった私は、この十六年間、彼には何度も驚かされることになった。そして、最大の驚きと喜びを与えた直後に、本当に突然、逝ってしまったのである。
最初は信じられなかった。新聞の記事を見たあとでも何かのまちがいではないかと思った。そして、くつがえすことのできない事実だとわかったあとは、ただもう涙々。優作さんの出ているものなら、何を見ても泣いた。何も考えられず、何をする気にもなれず、頭が空白になると彼の姿が浮かびまた涙、という日々を過ごした。しかし、時がたつにつれて、悲しみが減るというわけではないけれど、悲しみに慣れるというのか、だんだん普段の自分に戻ってゆく。彼を忘れてゆくようで、それがまた悲しかった。でも、絶対に忘れられない。その死の無念さはますます重みをまして、本当にかけがえのない人を失ったんだと、今でも涙が出るぐらい切実に感じている。
ちょうど十年前のことになるが、「遊戯シリーズ」の二本立てを観に行った時、私の後ろに座っていた高校生のグループのひとりが、「最も危険な遊戯」のクライマックスに「コイツ、ホンマによう走りよる」とつぶやくのを耳にした。本当にこの映画の中の鳴海昌平は、走りに走ってファンの心を熱くしたが、思えば、俳優・松田優作はそれ以前もそれ以後も走りつづけていたのではないか。どこか無意識のなかで、彼は、自分が夭折することを知っていたのかもしれない。俺には時間がないんだと、心のすみで感じていたのかもしれない。その生き方をふりかえると、そんなことを思ったりもする。
近年は仏教に帰依していたときくが、それも病からの救いを求めてではなく、俳優としてもっと高い所へ行くためだったという。よく暴力沙汰を起こしていた、問題児のイメージが強かった私などには本当に驚きで、その精神的成長を知ってまた涙、というありさま。そういえば、「探偵物語」で優作熱が復活したあとコンサート(1985年5月25日、フェスティバル・ホール)に行ったことがあるが、曲の終わりごとに合掌していた姿を思い出す。その時は何も知らなかったから、ただのポーズかなと思ったんだけれど・・・・。
とにかくその個性だけでも、私にとっては充分すぎるほどの魅力であったが、その後の努力と成長、そして病をおしての「ブラック・レイン」での快演と、最後の最後までほんとうに「男」だったな、「スゴイ(個性、才能)うえにスゴイ(精神力、精進)ヤツ」だったなと、ため息をついているのである。
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