Mar.20,1994

RIVER WILLOW

第16号

戯夢人生 ピアノ・レッスン



1993年度ベスト・テン
 日本映画外国映画
まあだだよ戯夢人生
ソナチネレザボア・ドッグス
お引越しロアン・リンユィ

水の旅人 侍KIDS天地大乱

病院で死ぬということオルランド

ゲンセンカン主人少年、機関車に乗る

ナースコールウェディング・バンケット
月はどっちに出ている北京好日
はるか、ノスタルジィ秋菊の物語
10くまちゃん友だちのうちはどこ?
 
主女田畑智子 (お引越し)
主男岸谷五朗 (月はどっちに出ている)
助女岡田奈々(ゲンセンカン主人)
助男吉田渉 (水の旅人 侍KIDS)
特別賞「小津と語る」
 
主女コン・リー (秋菊の物語)
主男ハーヴェイ・カイテル (レザボア・ドッグス)
助女ロザムンド・クァン (天地大乱)
助男ティム・ロス (レザボア・ドッグス)
音楽D・モーション、S・ポッター (オルランド)
特別賞リー・リンチェイ (天地大乱)
戯夢人生


侯孝賢の作品は、物語を見るべき映画ではなく、想いを感じるべき映画である。時の流れに翻弄される人々の想いが、観ている間に心の中に蓄積して行き、映画が終わった瞬間、その想いの総体に突き動かされて涙があふれる。物語を故意に解体したかのような「悲情城市」は、私にとってまさにそのような作品であった。そして、本作にもまた、基本的にはその定義が当てはまる。しかし、ここでは物語がさらに解体されている。

暗いスクリーンに、文字通り現れては消えるイメージ。それは李天禄の過去の人生の断片にすぎない。しかし、事実が時間というフィルターを通して思い出に変わる時、悲しみでさえいくらかの甘みを帯びるように、事実より幾分か美しいものへと変化した記憶の断片である。それはつまり、一歩、夢へと近づいた人生、といえるのではないだろうか。ドラマ性を駆使した物語を見る興奮のかわりに、ここには夢のように美しいイメージの連なりを見る幸福感が存在する。やはり侯孝賢は私の期待を裏切らない。

それにしても、選ばれたシーンの的確さはどうだろう。子供時代のいくつかの別れ、それに先立つ母や祖父の思い出、死を前にした父との和解など、ことさらに説明を排して展開されるシーンは、漫然と眺めているだけでは何も生み出しはしない。しかし、ほんの少しの想像力を働かせた時、人の想いを実感できる。ああ、そうだったのか、と涙があふれる。豊かに息づく感情の紡ぎ出す物語が、そこには隠されているのだ。

我を忘れた2時間39分、ずっと観ていたいと思わせる至福の時間。しかし、そこには単なる心地よさを越えたものがある。たとえばそれは、一週間前に観て感激した「ウェディング・バンケット」の、観客を自在に笑わせ泣かせるウェルメイドな語り口が、実は映画的ではなく通俗的だったのではないかと疑わせるようなもの、といえようか。比較して一方を貶めようというのではない。「ウェディング・バンケット」も大好きな作品である。ただ、次元が違うのだ。正確にいうなら、「戯夢人生」は他の大部分の作品とも次元を異にしている。もうひとつの「ウェディング・バンケット」は別の監督にも撮れるかもしれないが、もうひとつの「戯夢人生」は侯孝賢にしか撮れない。しかも、次は「戯夢人生」を越えるものを創ろうとする。そのように独自な路を、侯孝賢は静かに格闘しながら歩み続けている。

そして私は、小津作品を絶対映画と呼んだ吉田喜重にならい、本作を純粋映画と呼びたい誘惑にかられている。


ピアノ・レッスン


本作は「魂の救済の物語」である。ありふれたハッピー・エンディングを予感させる船出のあとの、あるエピソード。その思いもかけない衝撃とそれからの解放感の中で、私はそう考えていた。

六歳の時に負った傷のせいで、本当の自分を心の奥深くにしまいこんだエイダ。冒頭の彼女の心の声が暗示する父との確執。まったく触れられることのない母の存在。語られない物語こそが想像力を刺激する。そうして、頑なに心を閉ざしたまま、不義の娘フロラを連れて、エイダは地球の裏側にやって来る。

この世には二種類の人間がいる。精神の渇きを満たそうとする人間と、そういうものとは無縁に物質的な幸福で満足できる人間。無教養で粗野に見えても、ベインズは前者で、スチュアートは後者だ。もちろん、エイダは前者で、その父親は後者だろう。ベインズのエイダに対する共感が彼女を癒す。同じ種類の魂が傷ついた魂を救うのだが、その始まりとなるのが浜辺のシーンである。ピアノを弾くエイダを、ある種の感動を覚えながら眺めるベインズ。その何気ない心の動きが最後に救うものの大きさを思うと、それは何よりも感動的だ。

しかし、同種の人間のふれあいは異質の人間を傷つける。自分がなぜ愛されないのか苦しむスチュアートの姿は切ない。彼の望んでいるものは単純な幸せなのだから、なおさらである。スチュアートはそのナイーブさにおいて、ベインズはそのイノセンスにおいて、そしてエイダはその情熱への欲求において、みんな少しずつ子供のようだ。本作は、そんな彼らの成長の物語ととれないこともない。もちろん、フロラの成長も含めて。

そして、ラストの突然の出来事。事故なのか、故意なのか、とにかくエイダは一度死ぬ。死と再生−−人間を越えた大いなる存在からの許し。エイダは二度、救われる。ベインズによって、運命によって。

銀の指が鍵盤に触れるコツンという音。その奇妙な音の中に生きる歓びが響く。本当の自分を生きられることを、ついに獲得した歓び。だが、海の底に漂うもうひとりの自分がいる。その傷ついた自己への愛おしさが、その歓びの裏にある。甘美ではあるが暗いイメージを心の底に抱きながら、それでも現実を生きようと決意したエイダの姿。やはり、これは「魂の救済の物語」である。




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