ピアノ・レッスン
本作は「魂の救済の物語」である。ありふれたハッピー・エンディングを予感させる船出のあとの、あるエピソード。その思いもかけない衝撃とそれからの解放感の中で、私はそう考えていた。
六歳の時に負った傷のせいで、本当の自分を心の奥深くにしまいこんだエイダ。冒頭の彼女の心の声が暗示する父との確執。まったく触れられることのない母の存在。語られない物語こそが想像力を刺激する。そうして、頑なに心を閉ざしたまま、不義の娘フロラを連れて、エイダは地球の裏側にやって来る。
この世には二種類の人間がいる。精神の渇きを満たそうとする人間と、そういうものとは無縁に物質的な幸福で満足できる人間。無教養で粗野に見えても、ベインズは前者で、スチュアートは後者だ。もちろん、エイダは前者で、その父親は後者だろう。ベインズのエイダに対する共感が彼女を癒す。同じ種類の魂が傷ついた魂を救うのだが、その始まりとなるのが浜辺のシーンである。ピアノを弾くエイダを、ある種の感動を覚えながら眺めるベインズ。その何気ない心の動きが最後に救うものの大きさを思うと、それは何よりも感動的だ。
しかし、同種の人間のふれあいは異質の人間を傷つける。自分がなぜ愛されないのか苦しむスチュアートの姿は切ない。彼の望んでいるものは単純な幸せなのだから、なおさらである。スチュアートはそのナイーブさにおいて、ベインズはそのイノセンスにおいて、そしてエイダはその情熱への欲求において、みんな少しずつ子供のようだ。本作は、そんな彼らの成長の物語ととれないこともない。もちろん、フロラの成長も含めて。
そして、ラストの突然の出来事。事故なのか、故意なのか、とにかくエイダは
一度死ぬ。死と再生−−人間を越えた大いなる存在からの許し。エイダは二度、救われる。ベインズによって、運命によって。
銀の指が鍵盤に触れるコツンという音。その奇妙な音の中に生きる歓びが響く。本当の自分を生きられることを、ついに獲得した歓び。だが、海の底に漂うもうひとりの自分がいる。その傷ついた自己への愛おしさが、その歓びの裏にある。甘美ではあるが暗いイメージを心の底に抱きながら、それでも現実を生きようと決意したエイダの姿。やはり、これは「魂の救済の物語」である。
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