黒澤明の見たもうひとつの『夢』
青い夜空に浮かんだ絵のような月を見た時、本作はファンタジーなのだと思った。そういえば、抽象美術のオブジェめいた男爵邸も、赤と黒で彩られた焼け跡も、どこか現実離れしていて、夢の中の風景のようだ。極言すれば、これは黒澤監督の見たもうひとつの『夢』である。実在の人物に素材を借りてはいても、ここに描かれているのは、監督自身の心の中の風景なのだから。
しかし、人間の悪の側面を強調した『夢』とは対照的に、この「夢」は人間肯定に貫かれている。「大黒さまは誰でしょう」。ひとりひとりの人間の中に大黒さまが存在する。このような人間肯定の境地は単純かもしれないが、美しい。私たちもその単純で美しい夢を共有すればよい。それは現実ではなくても、その夢を信ずることによって生まれるくる何か、それは現実に対する何らかの力になると思うからだ。黒澤監督はそのような「映画の力」を本気で信じている。裏目に出ることはあっても、それは欠点ではなく、やはり美点である、と私は思う。
ラスト・シーンを思い出そう。空一面に映える光に、我を忘れて見入る子供の姿。それは映画という「本当に好きなもの」を見つけた監督自身の姿である。映画の放つ光に魅せられ、「映画の力」を信じ続けてきた子供。でも、そのシーンに涙する私たちは何か。映画の生み出す至福に酔う幸福な観客。もちろん、それもひとつの答えであるが、その時、私たちもまた「映画の力」を信じているのではないだろうか。その力に突き動かされて生まれた感動があるからこそ、あのように涙があふれるのではないだろうか。
と、いささか大仰な言葉を連ねてしまうのは、もちろん、うれしかったからである。人間の暗い宿命を描き続けた作品群のあと、人間を肯定した、この愛おしい作品に出会えたことが、私は心の底からうれしかった。
確かに、現実は映画のように美しくはない。しかし、それを踏まえたうえで、なおも人間の美しさを信じようという決意。それは「メッセージ」や「お説教」といった無味乾燥な言葉ではなく、「慈愛に満ちた希望」とでも呼ぶべきものではないだろうか
それにしても、作品全体にあふれる幸福感が心地よい。それを生み出した、内田百關謳カという素材と黒澤監督の資質との幸福な出会いを思うと、またうれしくなってくる。私にとっては、正に愛すべき作品だったのである。
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