××をぶらぶらさせた露出狂のように、クエンティン・タランティーノは「キル・ビル Vol.1」で自己のオブセッションをすべて露わにしてみせる。彼を殺したくなる者もいるかもしれないが、その理由は、2月20日に公開予定の「Vol.2」を観るために、もう一度金を払わなければならないから、というだけではない(*1)。「キル・ピル」はいわば猥褻物陳列行為なのだ。タランティーノを勃起させるすべてのもの――クンフーアクション、チャンバラ映画、マカロニウエスタン、そして刀によるヘッドバッシング――が110分の「Vol.1」に詰め込まれている(*2)。その映画が死ぬほどおかしく、途方もなく独創的で、動脈から噴出しているかのように血に塗れ、心臓が止まるほど美しい時、タランティーノは70年代ポップカルチャーを納めた失われたアークを剽窃したと、非難してもはじまらない。たとえ君が得体の知れないもので床がべたべたする場末の映画館で、楽しい時を過ごして青春を浪費しなかったとしても(*3)、タランティーノの才能は我々に、俗なるものの中に存在する聖なるものを見せてくれる。「キル・ビル」で、タランティーノは甘美な罪というものを映画に取り戻すのだ――それはつまり、いかがわしい、汚らわしい、危険なものから得られるスリルである(*4)。
タランティーノは色あせたロゴでムードを決める。ノイズの入った音響までそろった「OUR FEATURE PRESENTATION」と告げるそのロゴはショウスコープで使われたもので、ショウ・ブラザーズへのオマージュである。ショウ・ブラザーズは70年代に「Death Kick」のような叙事映画を製作した中国人のプロデューサーであるが、もし君がショウ・ブラザーズとオルセン・ツインズの区別もつかないとしたらどうなるだろう? 心配御無用。確かに参考になる情報を得られればさらに楽しめる。しかし、タランティーノは君を夢中にさせる術を心得ている。
ブライドを演じるユマ・サーマンはパワーと魅力にあふれている。彼女はボスのビル (「Vol.1」では声は聞こえるが姿は見えない) とかっての仲間 DiVAS (Deadly Viper Assassination Squad、オーレン・イシイ、エル・ドライバー、そしてヴァニータ・グリーン) に痛めつけられる。テキサスでの結婚式当日――妊娠して (ビルの子供) カタギになるために一般人と結婚するところであった――ブライドは突然襲われる。DiVAS が乱入し、花婿は殺され、意識がなくなるまで打ちのめされて、まだ生まれていない子供とともに墓掘人の手に委ねられる。四年後、このプッシーキャットは突然コーマから目覚め、皆殺しの決意を固める。
それを導入部として、タランティーノはそれぞれのシーンを異なるスタイルで撮ってみせる (撮影のロバート・リチャードソンと編集のサリー・メンケも奇跡を見せてくれる)。参考にしたのは深作欣二の「仁義なき戦い」かもしれない。あるいは、ひょっとしたらタランティーノの頭のイカレた従兄弟が作ったホームムービーだろうか。物語は、ヴァニータの自宅で彼女と対決するカリフォルニアのパサディナからオキナワへと飛び、ブライドは忍者服部半蔵を探し出す。演じるのは、日本のTVシリーズ「影の軍団」で同じ役を演じた、偉大なるサニー千葉である。服部はブライドに、オーレン・イシイと彼女の子分である黒服のヤクザに挑むための刀を作ってやる(*5)。オーレンはいかにして東京アンダーワールドの頂点に昇りつめたのか? タランティーノはそのバックストーリーをアニメで語り、そのシークエンスは驚くほどビビッドである(*6)。しかしそれは青葉屋での死闘のウォーミングアップにすぎない。ブライドはそこでオーレン一味と闘い、ナイトクラブが丸ごと戦場と化す。その長時間続くファイトシーンはタランティーノと武術指導のユエン・ウーピンによって巧みに構成されており、ユエン・ウーピンは彼のマトリックス・マジックを凌駕している。「マトリックス・リローデッド」のエージェント・スミスたちはコンピューターの産物であるが、ヤクザたちはデジタルではない。彼らは血を流す。だから、冗談ではすまず、君はその痛みを感じることになるのだ。
厳しい現実がタランティーノのすべての作品――「レザボア・ドッグス」、「パルプ・フィクション」、過小評価された「ジャッキー・ブラウン」、そしてこの作品にさえも――割り込んで来る。ブライドがヴァニータを襲おうとその自宅を訪ねた時、ヴァニータの幼い娘を乗せたスクールバスが止まる。ブライドは自分の行動が重大な結果をもたらすことを悟り、我々もまたしかりである。これらの因果がドラマティックな重みを賦与し、それによってこの作品はタランティーノのマスタベーションとしてのファンタジー以上のものとなっている。つまり、単なる武術映画名場面集で終わってはいないのだ。ブライドがオーレンの軍団をひとり残らず切り捨て、ついにその強敵とふたりきりで対決する時、そこには儀式性を帯びた静謐な気品が漂っている――そのシーンは降る雪の中で撮られ、流血シーンにはそぐわない優しさに満ちているのだ(*7)。私は、ルーシー・リューがひとつの芸しかできないサーカスの小馬になってしまったのではないかと危惧していた。つまり「チャーリーズ・エンジェル フル・スロットル」で新底値を記録した「高飛車な女 (cold-bitch)(*8)」という持ちネタである。しかし彼女はオーレンに輝きと感情をもたらす。そしてオーレンの十代の用心棒、ゴーゴー夕張を演じる栗山千明、オーレンの多国語を操るアシスタント、ソフィー・ファタールを演じるジュリー・ドレファスの登場を待ちなさい。最高だ――けれども、恨みに燃えるサーマンを打ち負かすことは、誰にもできない。彼女は戦う女神であり、「エイリアン」のシガニー・ウィーバーと同じ高みにいる(*9)。サーマンはこれまでで最高の演技を見せ、ブライドの戦いは仁義あるものだと示すことによって、自分の役と映画の前に立ちはだかる障害を取り除いてみせる。
タランティーノにとっては、この作品は自己のエゴに対する挑戦であり、ダイアローグの才はひとまず脇において、純粋なアクションが撮れることを証明しようとしている。宣伝文句は「キル・ビル」を「the Fourth Film by Quentin Tarantino」と謳いあげる。自信過剰について話そうか。フェリーニは「8 1/2」まで、自作の数を数えようとさえしなかった。しかし負けじ魂はタランティーノの DNA の一部なのだ。他の誰が六年ぶりの映画をクンフーへの濡れたキスにしようとするだろうか? 誰がそこにウルトラバイオレンス、ユマ・サーマンの足、そしてナンシー・シナトラから RZA といった音楽への偏愛を詰め込もうとするだろうか? そしていったい誰がそれをうまくやってのけられるだろうか? 「キル・ビル」は、ほぼタランティーノが思っている通りの素晴らしい作品である(*10)。
Peter Travers (Rolling Stone)
October 9, 2003
(Translated by Vivien Liu)
|