The Puppetmaster
 「戯夢人生」
 侯孝賢
 1992 台湾



侯孝賢の作品は、物語を見るべき映画ではなく、想いを感じるべき映画である。時の流れに翻弄される人々の想いが、観ている間に心の中に蓄積して行き、映画が終わった瞬間、その想いの総体に突き動かされて涙があふれる。物語を故意に解体したかのような「悲情城市」は、私にとってまさにそのような作品であった。そして、本作にもまた、基本的にはその定義が当てはまる。しかし、ここでは物語がさらに解体されている。

暗いスクリーンに、文字通り現れては消えるイメージ。それは李天禄の過去の人生の断片にすぎない。しかし、事実が時間というフィルターを通して思い出に変わる時、悲しみでさえいくらかの甘みを帯びるように、事実より幾分か美しいものへと変化した記憶の断片である。それはつまり、一歩、夢へと近づいた人生、といえるのではないだろうか。ドラマ性を駆使した物語を見る興奮のかわりに、ここには夢のように美しいイメージの連なりを見る幸福感が存在する。やはり侯孝賢は私の期待を裏切らない。

それにしても、選ばれたシーンの的確さはどうだろう。子供時代のいくつかの別れ、それに先立つ母や祖父の思い出、死を前にした父との和解など、ことさらに説明を排して展開されるシーンは、漫然と眺めているだけでは何も生み出しはしない。しかし、ほんの少しの想像力を働かせた時、人の想いを実感できる。ああ、そうだったのか、と涙があふれる。豊かに息づく感情の紡ぎ出す物語が、そこには隠されているのだ。

我を忘れた2時間39分、ずっと観ていたいと思わせる至福の時間。しかし、そこには単なる心地よさを越えたものがある。たとえばそれは、一週間前に観て感激した「ウェディング・バンケット」の、観客を自在に笑わせ泣かせるウェルメイドな語り口が、実は映画的ではなく通俗的だったのではないかと疑わせるようなもの、といえようか。比較して一方を貶めようというのではない。「ウェディング・バンケット」も大好きな作品である。ただ、次元が違うのだ。正確にいうなら、「戯夢人生」は他の大部分の作品とも次元を異にしている。もうひとつの「ウェディング・バンケット」は別の監督にも撮れるかもしれないが、もうひとつの「戯夢人生」は侯孝賢にしか撮れない。しかも、次は「戯夢人生」を越えるものを創ろうとする。そのように独自な路を、侯孝賢は静かに格闘しながら歩み続けている。

そして私は、小津作品を絶対映画と呼んだ吉田喜重にならい、本作を純粋映画と呼びたい誘惑にかられている。



1993
My Favorite Movies
Foreign


戯夢人生
レザボア・ドッグス
ロアン・リンユィ
天地大乱
オルランド
少年、機関車に乗る
ウェディング・バンケット
北京好日
秋菊の物語
友だちのうちはどこ?



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