風中的費洛蒙(2004.6)

Woodstock 99


「私が覚えているのは唐人街九十九号だけで、ロンドンにもウッドストックがあるなんて知らなかったの。そのうえ、ちょうど九十九号だなんて」。彼女は学生カバンのような手提げ袋から鍵を引っ張り出し、凍えて紫色になっている手で鍵を手の平に捧げ持つと、はあはあと熱い息を吹きかけている。彼は背後から彼女の前に回りこんだ。

「貸して・・・・」。大きくて重い鍵はその家が古いことを説明しているが、しかし鍵の握りには小さな人形がつけられていた。

「これはアンパンマンだろ?」。彼がその鍵をひねると、気温零度の寒さに、ピンクのアンパンマンは裸のまま跳躍する。

彼女は笑って答えない。本当に凍え切っているようだ。結局、こんな遠い場所に住むことになったのは、やはり部屋代を節約するためだったのだろう。

頭の中には、都心の地下鉄の中で、老いた黒人が吹いていたサキソフォンの旋律がなおも響いている。

ねっとりと濃い旋律、どういうわけか直接西洋料理のソースを思い出させるねっとりとして消化しきれないような旋律である。

夜はすでに更けており、車内の誰もが疲れ果て、あるいは腰を下ろし、あるいは横たわっている。向かいに座っている黒人の子供だけが、大きな瞳を見開きガタゴトと揺れながら彼らを見つめている。

子供の母親はとうに死んだように眠り込んでいた。彼は腕時計を覗く。十二時三十分。彼女が、この地下鉄の果てに住むのは、留学生と新移民だけだという。正直であることを自覚している人は、この線の地下鉄に乗ったりはしない。

「廃人区、ロンドンの廃人区・・・・」。言いおえると、さらに口を覆い隠しフフフと笑い始める。

「自分が廃人区に住んでるなんていうヤツがどこにいる・・・・」。彼は彼女にからかわれて呆然としているばかりだ。

「あの子に風船をあげて・・・・」。彼が駅の入口で買った風船を手渡すと、子供は口を大きく横に開いて笑った。風船は彼にとって自分よりも重要なのだろうか・・・・? 彼は考える。風船を買った動機は、ただ売っていた老人が凍えて今にも死にそうであったからだ。もしもこうしてたくさんの子供をハッピーにできると分かっていたなら、全部買っていただろうに、と彼は思う。

座りなおしてなおも、あのサキソフォンで吹かれていたのは何の旋律だっただろうかと、彼は考えている。どこか聞き覚えのある旋律だ。

「留学生と新移民は廃人なのか?」。彼は理解できずに、また質問を始める。

「貴族に生まれなければ、どこから見ても、貴族からすれば廃人なのよ・・・・」。彼女は笑いながら、しかし大真面目に答える。

「そうか!」。しかし実際には彼にはこの街が理解できず、また理解しようという気にもならない。それだけのことだ。

「安いということが、もちろんいちぱん重要な理由だったんだけど、第二の理由は初めてここへ来た時、住所表示を見てここだって決めたのよ」。彼女はこんな遠い場所に住まねばならなくなった理由を説明する。

「一階に住んでるのはジャマイカ人の一家よ。一日中ヒソヒソ話をしていて、夜になるといり卵の匂いが漂ってくる・・・・住んで一年にもなるけど、ひとりも見かけたことがない・・・・」。階段の前の乱雑なホールにはサイズがまちまちの靴が散らばっている。「家族なの?」。彼は彼女のあとについて靴をよけて行く。

「中に五つの家族が犇いていたとしても、ヘンだとは思わないわ。むしろヘンなのは貴族の方よ。何人も家族がいないのに、どうして何百も部屋のある宮殿に住まなきゃならないの・・・・」

「二階には韓国の女の子がひとりと、一体いるのかいないのか、私にもはっきりとは決められない男の子がひとり・・・・」

「いるのかいないのか、決められない?」。彼にはよく飲み込めない。

「たとえば、私たちが彼女の部屋の前を通り過ぎて、もし彼女が中で聞いていれば多分、ああ・・・・佩佩、今日は男友達を連れて帰ったのね、と思うみたいなもの・・・・よ! 着いたわ。私は屋根裏部屋に住んでるの・・・・」

佩佩が彼女の名前だ。佩佩はロンドンの廃人区の屋根裏部屋に住んでいる。佩佩はドアを開け、暗闇を手探りして灯りをつけた。

部屋は小さかったが、鳩を持ってきて住まわせるにはいささか大きすぎるだろう。何の装飾もなく、床一面にいろいろな物が散らばっている。

「散らかってるって言ったよね・・・・」。彼女は飾り気も見せずに足で物をどけ、彼のために腰を下ろせる場所を作ってくれた。

「何か飲みたい? 台湾のお茶があるわ。少しどう?」。人の答えを待つこともなく、いきなりドアの外にある小さな炊事場に行ってしまう。

「もし、明日の飛行機にやっぱり席が取れないなら・・・・いつまで泊まってもかまわないわよ・・・・ただ床の上に寝るのはちょっと辛いだろうけど」。炊事場のあたりから声が伝わって来る。

知り合ってまだ一日もたたない一組の男女が、ロンドンの廃人区で同居を始めるのは、彼には思いもかけないことであった。しかし平然と言葉を返す。

「留学生の誰もがこんな風だというわけじゃないよね?」。復路の飛行機の席が取れなかったから、彼女のところへ転がり込んだのではないことを、彼はまだ彼女に話していなかった。

「実際には、私はとっくにあなたに会っていてもおかしくなかった。あなたも知ってるように、私たちの行動範囲は決して広くはない・・・・」。彼女は湯気を立てているお茶を彼の前に押してよこした。適当な茶碗がないので、ヴィクトリア朝式の模様の入ったカップの中で縮こまっている茶葉はちょっと奇怪に見えた。

「自分で料理を作る? 留学生は誰でも自分で作るよ」。彼は炊事場に簡単な炊事道具があるのを目にしていた。

「インスタントラーメンならね・・・・」。彼女は笑っている。

「もしかしたら、明日ふたりで近くの市場に行って買い物をし、自分で作って食べてもいいよね?」

「明日の飛行機はどうするの?」。彼女はただ反射的に尋ねる。

「どこへ行く飛行機?」。家に帰り着き荷物を置いたばかりで、もう二度と外出する気のない主人のような態度だ。

彼はあの地下鉄の中に湧き起こった、消化しきれないソースのようにねっとりとした旋律を思い出す。

下車する時、子供は大きな瞳を見開きふたりに手を振って別れを告げたが、母親はやはり死んだように眠っていた。ホームの灯りはすでにその半分が消えていた。どうやら終電車だったのだろう。

「もう少し寒くなったら雪になるわ。今年はまだ降ってないのよ」。しかし、どこまでも敷き詰められて光っている煉瓦のうえに、明るい月が逆さに映っているのが見えた。

「Cause I'm leaving on a jet plane. Don't know when I'll be back again, oh baby. I hate to go・・・・」。彼女はそっと口ずさむ。まさに地下鉄の黒人が吹奏していた、あの消化しきれない旋律である。

「おかしなことに、この歌を書いた歌手は、のちに飛行機が落ちて死んだのよね」。彼女はそのあとそういった。

「わあ、それじゃ傷心のあまり死んだともいえるよね」。明らかに意味のない答えである。

「実際には、この曲自体はひどく悲しいというわけじゃないわ。きっと歌詞がそんな風だから、曲まで感傷的になってしまうのね」

「もしかしたら、悲しい人が書いたものは、みんな悲しくなってしまうんだ・・・・」。やはり何の意味もない答えである。

「ハッハッ!」。彼女は冷たい空気の中で笑い出す。

月の光を映し、顔中がぼんやりと霧に包まれ、まるで意地汚い腕白小僧が綿菓子のかたまりを飲み込もうとしているかのようだ。

「それって私が今日聞いた中でいちばん下らない話だわ」。少しも容赦せず、彼女はそう言葉を続けた。

彼もまたどう反応すればよいのか、何の心積もりもないまま俯き、綿菓子について前進する。

「ウッドストック99号」。その通りへ入る時、彼女は注意を促がした。

「君はきっとロックが好きなんだね?」。結論じみて、あまり質問のようにはならなかった。

「本当はね、ヒッピーの時代に生きたかったの」。彼女が自分の代わりに説明をしてくれたことになる。こんなに若い女の子が自分の世代を生きるようにそういっても、その語気はしらじらしくふたりの周りの空気を凍らせるようだった。

「僕たちにはあの世代を理解できたためしがないよ!」。彼がいいたいのは多分、ふたりが生まれたあと、ヒッピーの世代も終わってしまったという意味だろう。

「うん! 本当にあんな時代に生きたかったわ」

「ハッハッ! それは俺が今日聞いた中でもいちばん下らない話だ」。まるで反撃するかのようだ。

「意地なんて張らないで! 今日、他人の家に厄介にならなきゃならないのは誰なの」

地下鉄の中にいたあの母と子ももう駅に着いただろうか。彼はくだらない作家連中が常に提起するあの考え方を思っていた。曰く、どんな命も帰ることのない列車のようなもの、その過程で乗車する人があり、また降車する人があるといった考え方である。この感覚はいつも彼の心に痛みをもたらすのだ。

そして、彼女には彼と知り合う気など毛頭ないという意味を、彼は考えていた。名を問い挨拶が終わってしまえば停滞してしまう、そんなつきあいではなく、本当に知り合うことなど望んではいないのだ。

彼にもはっきりとは分からない。友達の友達で、夜泊まるところもない旅人だというので、彼女はいささかのためらいも見せずに世話をしてくれているのだろうか? そして、もしふたりにさらに進んで知り合うつもりなどないのだとしたら、本心を明らかにする必要などあるのだろうか?

「ねえ! 僕が誰だか聞いたことないよね? どこから来て、どこへ行こうとしているのかも?」。すぐに彼は本当にちょっと我慢できなくなってこう尋ねたくなる。

「あら! もしかしたら、明日は本当に買い物に行かなきゃならないわ。私のとこ本当に何もかもなくなっちゃった」。彼には炊事場から伝わって来る彼女の声が聞こえた。そして明日、彼は本当なら飛行機の席を予約し、その飛行機に飛び乗って自分の街へ帰るつもりだった。

彼女が戻って来て、また足で自分のためにスペースを作り、ベッドの下から紙箱を引っ張り出すと中を探り始めた。

「これよ。長い間、聞いてなかったわ」。彼女が古ぼけた小さなステレオにCDを載せると、歌手の歯切れのよい声が小さな部屋に漂い始めた。

「Cause I'm leaving on a jet plane. Don't know when I'll be back again・・・・」。ステレオの歌手とともに、彼女はそっと歌い始める。

外の気温はきっとまた下がったにちがいない。彼には窓ガラスに着いた水気がすぐに凍るのが見えた。さっきまで頭をあげれば見えていた星も、今ではぼんやりとしている。

もう別の下らない話題を探す必要などないと、彼は考えていた。どうして自分を廃人区に泊めることにしたのかと、彼女に問う必要もない。それから、明日、本当に次の飛行機に飛び乗り、自分の街へ戻るのか、自分に尋ねてみる必要もない。

もしかしたら、地下鉄がチャイナタウンを通り過ぎる時、伝わって来たサキソフォンの古ぼけた音が、知らないうちに彼らを酔わせてしまったのかもしれない。

もしかしたら・・・・ひとりぼっちの寂しさは最もきつい酒なのかもしれない。

しかし、彼らはもう気にもかけていないようだった。

歌手はやはりそっと歌っている。ロンドンの廃人区で・・・・。




四月的九重葛


九重葛があんなに高く伸びるはずがない・・・・。

自分のために買ってきた昼ご飯を提げたまま、彼は心の中でなおもひとり言を話している。しかし、四月だというのに、この街はこんなに熱くなってしまった。本当に夏になれば、どうすればいいのだ?

外出する前、何人かの同僚が事務室のドアのあたりに凭れておしゃべりをしていた。

「ここは亜熱帯じゃないのか? 亜熱帯にはどんな天気がふさわしい・・・・」

「多分、ずっとうんぬんされているエルニーニョ現象のせいだよ。神様はきっと俺たちを焼き殺すんだ・・・・見ててみろ!」

「でなきゃ、俺が思うに、落ち目のアメリカが核実験をやり過ぎたせいで、どんな恐ろしい現象が起こらないともかぎらない」

「うん、そうかも・・・・しれない」。彼もそう思った。

しかし、こんなに熱いのはあまりにも異常じゃないか! 亜熱帯の四月だというのに。彼は汗で湿っている襟ぐりをゆるめ、頭をあげて初めて気がついた。道の向こう、菩提樹が新芽を吹いて浅黄色になり、真昼の烈しい陽光を受けて、それでもとてもきれいだった。その少し下に寄り添っている榕樹は髭を伸ばし、また黒く翳っているので見分けるのは難しくない・・・・。しかしさらに高く、五、六階建てのビルほどの高さに、鮮やかな赤い花の群れがいくつか菩提樹の上に開き、青を湛える空に映えて目が覚めるようだった・・・・。

九重葛は幹を持たない蔓生の藤である、と彼は知っていたが、しかし亜熱帯の気候では榕樹や菩提樹に巻きついて伸び、四月の陽光を受けながら盛んに花を開いているのだ・・・・。

しばらくの間、彼には特別な感慨は湧いてこなかった。多分、無心論者がUFOを見たようなものだろうか? 彼は神を見たとは思わなかった。骨のない九重葛が他人を頼り、あれほど高い場所まで這い上がるのは一体良いことなのだろうか、と特に考えたりもしなかった。

おそらく、卒業したばかりの彼が、必ずネクタイを締めねばならないこの仕事にありついたように、いろいろ考えた結果ではないのだろう。しかし万一、自分が共同経営者にでもなってしまったら、どうすればよいのだろう?

彼は昼ご飯を提げたまま、人が行き来する大通りに立ち、しばらくの間、心の中で考えていた。

もしかしたら九重葛は下りて来る路を見つけられなかったのかもしれない。なぜなら、彼が九重葛のために長い間探してみても、菩提樹のきれいな幹と榕樹の永遠に汚い髭以外には、九重葛が本来土の中に伸ばしていなければならない根は、どこにも見当たらなかったからだ。それはおそらく大きな夢を抱きすぎた人間のようなものではないか! 本来なら行くはずのなかった場所へ行ってしまうなんて。

そして、来た時の路を忘れてしまったのだ。

あるいはエルニーニョ現象のように、これも異常な現象なのだろうか? 九重葛は菩提樹や榕樹を頼って人の上まで這い上がってはいけない、という人はいないだろうか? ここまで考えて、彼は笑ってしまった・・・・。

ただ突然、憂鬱になってしまった。万一、必ずネクタイを締めねばならないこの会社で、もし自分が共同経営者の地位まで昇りつめたら、その時、自分はその事態にどのように対すればよいのだろうか?







この門の傍を通り過ぎる時、彼はいつも鉄門のうしろにある、階段の上辺に掛けられた時計をちょっと注視した。その公的機関らしい鉄門は今まで開け放たれていたことがなく、また歩き方が早いために、そこがいったい何の機関なのか真剣に探ろうとしたこともない。ただその鉄門の傍を通り過ぎる時刻を確かめるだけで、通常は三時三十分から四十分の間であった。

長い間、彼は鉄門のうしろの時計によって、自分の歩いた距離と時間を測っていたのだ。

あの日、いつものようにまず頭をあげて時計を見たあと、初めて気がついた。その林の奥深くに埋もれている住居、あるいは機関か何か、とにかくその鉄門が全開していただけでなく、一夜のうちに何もかも全て運び出されてしまったように見えたのだ。

彼は呆然と開かれた門の前に立ち尽くした。

「まるで逃走したようだ・・・・」。彼は心の中でそう思う。

好奇心にかられ首を伸ばして眺めてみた。

「きれいさっぱり運び出したものだ!」。元々ここに住んでいたのは誰なのか、明らかにしようとしても無駄であった。

あの時計も命をなくし、間違った時間で止まっていた。

「二時三十分」。彼は気にかける。

「もしかしたら昨夜の二時三十分に死んだのか・・・・」

何もかも死んでいた。おそらくあまりにも古ぼけていたので置いて行かれた時計もまた、他のものと一緒に死んだのであろう。

よく知っていた時計だから、旧友のようにその前に立ち、その遺容を子細に仰ぎ見ているうちに、その時計はただ壁の上に嵌め込まれていただけだということに気がついた。というか、厳密にいうと、壁に何度もペンキが塗られ、食い込んで取外せなくなったために、置いて行かれたのかもしれなかった・・・・。しかしまた、どうして止まってしまったのだろう? 彼は近づいて検討を始める。電気を供給しないと動かない古いタイプなのだろうか?「だけど、どうして建物の主人は置いていったのだろう?」。前庭の花や草は密生しており、人々が引っ越す前も、もう長い間、顧みる人はいなかったようだ。

「きれいさっぱり運び出したものだ!」。彼はなおもそう考えていた。大通りからは、こんなに高い壁で遮られているとはいえ、しかし壁のこちら側はまるで別世界のように、尋常でないほど静かに見えた。

彼は路上を歩いていた。建物をあとにしたのは、おおよそ三時四十何分頃だろうか? 腕時計を持たず、また普段、時間を確かめるのに用いていたあの時計も死んでしまった。彼の推測はこうである。

時計は建物に属する、建物の一部だったにちがいない。だから建物の主人とともにそこを離れることはなかったのだ。もしそうでないのなら、建物が時計を手放すことを望まず、時計を自分の一部として取り込んでしまった。

しかし、主人は去る時に建物の電気を切ってしまった・・・・。

だから、時計も死んでしまった。

彼は笑った。自分のひとりよがりなロマンを笑ったのである。

なぜなら、彼は考え始めていたからだ。昨夜の二時三十分、建物の主人と建物は、時計の去就を巡って、激烈な論争をたたかわした。

「何にでも啓示的な意味を持たせてはだめだ!」。彼は微笑みながら自分に忠告する。

せいぜいいえることはただ、新世紀に入ってから、この街には、充分に考え尽くさないまま、急いで放棄しなければならないことが、ますます増えてきたようだ、ということだ。

歩みをしだいに緩め、彼は心の中で考える。明日は腕時計をつけねばならないだろうか。

そうしなければ・・・・これ以後、日々の秩序も乱れることになってしまうのだろうか、と彼は考えていたのだ。




名模與徳布西


人が多すぎた。

やむなくドアの傍の席に腰を下ろす。この店には毎週ニ、三度やって来るので、店の人はみな自分を知っているはずだ、と彼は思う。

彼は地下鉄に乗って来たのだが、駅の出口には、焼き栗を売る婦人が身をすくめていた。焦がした砂糖の匂いが寒風の中に漂っていたが、彼は特に栗が好きだというわけではなかった。栗の殻にはいらいらさせられるし、へたをすれば歯に粘りついてしまう。

多分、風の中に漂う焦げた砂糖の匂いのせいだったろうか? それが何かを思い出させたのだ。彼は半斤買った。老婦人は慣れた手つきで砂の中を探り、栗にくっついた砂糖を注意深くふるい落として取り出し、少しずつ紙袋に詰めて行く。

「五十個はあるだろうか?」。半斤といえば八両である。一個の栗は何両になるのだろう? あるいは一両は何個になるのか・・・・。

老婦人は、彼が待たされていらいらするのではないかと思い、栗を二個手渡す。まず味見をさせようという意味だ。彼は手を伸ばして受け取ったが、多分まだ熱かったのだろう。手の中に握るとねとねとした。ちょっと後悔し始め、内心ひとり言を言う。「栗はやっぱり扱いにくいものだな」

硬い殻の外側は、さらに扱いにくい軟らかい刺に覆われているようだ。

「喜ぶのは多分、リスぐらいなものだろう?」。アニメ映画で見たことがあった。普通は天津の焼き栗といわれるから、寒冷な地方の樹木なのだろうが、どんな樹木なのか、見たことはない。

「百二十元・・・・」。老婦人の差し出す半斤の重さの紙袋を、彼は微笑んで受け取りながら、心の中では遠慮会釈もなく思っていた。「もしも本当にそんなに扱いにくかったら、さっさと捨てるまでだ」

ふりむくと赤信号だった。こんなに賑わっている交差点では、二、三分待っても抜け出ることは絶対にできない。栗をコートの中に入れたばかりの時にはほかほかして、取り出す気にはあまりなれなかったけれども、栗がそれほど扱いにくいのならば、どの栗もみなひとつの任務を担っているはずだ、と彼は考える。そこで栗たちの一個目を取り出し、信号を待つ間にその相手をすることにした。

紙袋の中を探り、手がねとねとする感じをもう気にもかけず、彼はいちばん実の詰まっていそうな栗を選び、手の平に置いて眺めた。

「まずはお前だ。どこへ逃げるか見てやろう・・・・」。大通りを横切ろうとする人々が邪魔になり、さらに人が混みあってくる。ただ彼らはヒステリックに叫びだしたりはしないだけだ。最初はスマートに片手で栗の硬い殻に爪を立て、こじ開けようと思っていたのだが、思いがけないことに、天津からやって来たこの栗はつむじまがりで、どうしても屈服しようとはしない。硬い殻のうえにはただ小さな爪あとが少しできただけだった。

「たとえ扱いにくくても・・・・」。内心穏やかではなかった。栗たちの一個目にこんなに烈しく反撃されたが、まだ四十九個の相手をしなければならないのだ! そうじゃないか? さらにカッとなった瞬間、信号がまた換わり、彼は人々の群れとともに車の列の中にいた。突然、頭の中が空っぽになり、栗の第一の任務は失敗した。

彼が歩道に立ち止った時、車の列がのろのろと動き始めた。彼はふりむき、手をゆっくり開くとその憎らしい栗は転がり出た。路面が少し傾いていたせいかもしれない。栗は横断歩道の二本目の黒線と三本目の黒線の間を転がり、四本目の白線の上で止まると、パンという音をたててアスファルトの路面に丸くへばりついてしまった。

彼は笑った。とても愉快に笑った。今日のいちばん楽しい出来事だった。頑固な栗を、彼は死刑にしてやったのだ。

誰もがみな栗と敵対しなければならないというわけではない。少なくともリスはそうじゃない、と彼は思い出す。

リスは栗と仲良くなることができる。アニメ映画の物語では、リスはいつもあちこちに栗を貯え、たくさん貯えてしまうと、そのあと、どこに置いたのかということさえ忘れてしまう。少し人に似ているようだ。忘れるべきことは忘れられないのに、忘れるべきでないことをすべて忘れてしまう。


彼は自分のいちばん好きなアメリカンコーヒーを注文した。

コーヒーというものは、いつから次第に流行するようになったのだろうか。

自分は意志が強固な人間ではない。この街で何かが流行すれば、その流行に従う。ドアの傍の席であってもやはり自分の場所だ。彼は栗をコーヒーとともに並べてみる。

店の中には、毎日ほとんど同じ音楽が流れている。ドビュッシーであると、彼は知っていた・・・・。

小花鹿が林の中を散歩すると、その身体の上に見える斑点は、木洩れ日なのか、それとも小鹿の身体に元からある模様なのか見分けられないように、少し目にまばゆく、少し悲しく、そして少し幸福でもある・・・・。ドビュッシーはおそらくさいころを用いて、さいころの目で旋律を決めているのではないか、と彼は疑いを抱く。旋律の流れにはまるで論理といえるものがなかった。

男は昨夜の回想の中に落ち込んでしまう・・・・。


「・・・・」。彼女が口を開き話し出すのを待ちきれなくて、男は背後からしっかりと彼女をはがいじめにした。

彼がこんな風に反応するだろうということを、彼女は心得ており、必死になってもがくこともなかった。

しかし彼女の飼っている犬の方が、男の突然の動きに驚いて身を起こし、彼らを見つめている。

彼女はゆっくりと頭をめぐらし、男はさらにきつくはがいじめにする。

「多分、ハーフだ・・・・」。男はそう思うが、彼女のことはずっと以前から知っていた。そのあいだ、地方に派遣されていた一年間を除いて、この四、五年はいつも夜の店内で彼女を見かけていた。

男は何冊かの雑誌で見たことがあった。友達も、やはり売れっ子のモデルの類いだと言う。

「彼女は本当にきれいだ・・・・」。心の中でそう思った。

「君は本当にきれいだ・・・・」。おせじなどではなく、彼女にそう告げる。

「ふーん・・・・」。彼女は身をかがめ、ステレオの音量を調節しようとした。そのまま離れて行くのかと思っていたのに、思いがけず、また優しく身体を預けてきた。

ステレオでは人気のあるラップシンガーが、自分の母親と前妻を呪ったあと、今はまさにこの世界を罵っているところである。

「u never know what gonna happen to u, so fuck up the sprite from ur....」。声の調子があまりにもせかせかしているので、大体の意味しか聞き取れない。どうやら、文法といえるものもないようであった。勝手にしろ、と彼は思う。ドビュッシーが好きな男には、この歌手は、牧神を密林へと導いて殺し、そこに身を隠してしまった小花鹿のように思えた。

男は試しに彼女の襟の中へ手を伸ばしてみる。俯いているので、どんな反応を示しているのか、見て取ることはできない。

「あなたはどんな音楽が好き・・・・」。彼女は小声で尋ねる。正直に答えるべきか、男は少し躊躇する。自分が好きなのはドビュッシーなのだと知られてしまったら、この張りつめた時間の中で、世界がふたつに分かれてしまうかのようだった。

「ラップソングは悪くない!」。少しやましい気はした。

「うそつき!」。やはり小声でささやくが、それ以上は追求しないという意味でもある。売れっ子のモデルであると知っていて、夜、突然、家まで送って行くことになったのであれば、当然、何か話をするべきだと思う。彼女がだまっていればいるほど、彼の心のやましさを責めていることが、ますます明らかになる。

「君は僕のバックグラウンドや何かを尋ねたりはしないの?」。その時、やっと思いついた。彼女は自分の本名さえ、まだ尋ねていないようだ!

「何か違いがあるの?」。ないわけがないだろ、と内心思う。男は意気消沈し、襟の中に進めた手をあわてて引っ込める。少し恐れさえ感じ始めた男は、本当に推し測ることさえできない。どうしてこんな答えが返ってくるのだろう。

犬はケージの中をぐるぐる回り、ラップシンガーは烈しく怒鳴っている。

「Let me out, let me out....」

彼女は立ち上がり、自分の手提げ袋の中を探ると、何かを掴んだようであった。そして、いきなりバスルームへ向う・・・・。

その時、彼は初めて、彼女の瞳がまるで黒いふたつの穴のように見えることに気がついた。誰かが憎々しげに彼女の美しい顔を抉ったかのようだ。まぶたに塗られたアイシャドーも滲んでいる。もしかしたら、彼女は泣いていたのかもしれない。しかし奇妙なことに、自分には少しも察することができなかった。

「瞳孔のない目・・・・」。彼は突然思い出す。

怪奇映画にしか出てこないような目が、美しい顔の上にあるのだ。

息の詰まるようなある考えが、彼の心に兆し始める。

「おそらく薬を飲んだのだ・・・・」。彼は思った。

自分が人目を引くような人間であるとは少しも思えない。

もう何年も前から知ってはいたけれども、しかし彼女と何度もおしゃべりをしたというわけでもない。どういうわけか、突然、ステレオの歌手、母親を呪ったあと、さらにこの世界を罵ろうとしているラップシンガーが、おぞましいものに変わり始めたように思えた。

ドビュッシーならば、林の地面に散らばる木洩れ日もなくなったこんな夜には、きっと深い眠りに落ちようとしているはずだ・・・・。

「大丈夫?」。尋ねてはみるが、それほど思いやりはこもっていなかった。もし彼女が本当に薬を飲んだのなら、悪いのは彼女自身なのだ、と彼は思う。

憂鬱になるのは、彼女を家に送って来て、何をするつもりだったのか、ということである。

あるいは、彼女は彼を連れて来て、何をするつもりだったのか?

彼女を送って来たのは、ラップシンガーがこの世界を罵るのを聞くためだったのか?

彼は突然、彼のドビュッシーがちょっと懐かしく思えてくる。

犬はケージの中で大きな真っ黒い目を見開き、夢幻の中をさ迷っている主人を眺めている。

こんな風に夜を過ごしてしまえば、明日の仕事はきっとなおざりになってしまう。


「君が彼女を送ってやれよ!」。あの店を出る時、逆光を浴びて暗がりにひとりで立っている彼女を見た。その背後にある世界でいちばん高いビルは、ゆっくりと春の雨雲に飲み込まれようとしていた。顔見知りの何人かの男がそう勧めたのである。

「あまりよく知らないから、失礼だろう?」。口ではそう言ったものの、高鳴る胸を自分では抑えようもなかった。

「行けよ! 長い間、恋い焦がれていたことはお見通しさ。僕らは君に譲るんだぜ! 行った、行った・・・・」

「ちぇっ! どうして僕なんだ?」。天命を知り、頭を垂れて物もいわずに働く働き蜂に自分をなぞらえ、女王蜂の慈愛に満ちた瞳を見たのは何時だっただろう。

「一流モデルだ!」。彼は心の中で賛嘆する。噂になった有名人は何人いたか分からない。彼女からすれば、自分など有象無象にすぎないのだ。

こうしてふたりはその場をあとにした。彼女が、世界でいちばん高いあのビルを迂回すれば、すぐに住んでいる場所に着くと言ったからである。

しかし、彼としても大それた考えを抱いたわけではない。家まで送り届ければ、それで任務は完了だと思っていた。

「阿洛・・・・。あなた、阿洛っていうんでしょ? 友達がみんなこう呼んでるのを聞いたわ」。彼女は顔をあげてソッポを向き、両手は背後に回している。その手には一目で高価なブランド品と分かるハンドバッグを提げており、弾むように歩くせいで、バッグが前後に揺れていた。

「えーと、君は自己紹介をする必要はないよ」。卑屈な前置きに、自分でも少し嫌気がさし、ますます、自分の任務は彼女を家まで送り届けるだけにすぎないのだと思えた。

「多分、もう十回以上も友達が彼女に紹介したくれただろう?」。阿洛は思う。それなのに、友達はみな彼を阿洛と呼んでいるなどと、彼女は言うのだ。

「あなたが何を考えているか、分かってるわよ。阿洛」。彼女は流し目で彼を見る。その時、阿洛は初めて彼女は本当に背が高いと思った。雨雲の中に聳える世界でいちばん高いあのビルを遮ってしまっている。

「あなたはきっと思っているでしょ。私がとてもいい加減だって。そうじゃない? 阿洛」。彼の方は、彼女の言葉が正しいかどうかを考えている気分ではなかった。しかし、密かに内心思っていた。こんなに美しい女の子を恋人にしたら悪くないけれど、そのプレッシャーはきっと大きいに違いない。

「君の言ってること、僕には分からないな」。彼女のいいたいことが、彼には本当に理解できなくて、ただ考えていた。

「ええっ、またそんなこと言わないでよ!」。そのあと彼女は彼に言ったのだ。こんな街にひとりでいると、男友達を振ったあとは、鬱病になってしまいそうなのだ、と。

彼女は歩みを早める。それは彼にはいささか予想外のことであった。

「飲み物を買って行かない?」。路地の入口にコンビニがあり、彼女の方からこう切り出されて、彼は驚いてしまった。ただ家まで送るつもりだったのだ。

「まだ早いでしょ?」。彼女は冷蔵棚の前に立ち、低アルコール性の飲み物を選んだ。棚から射す強い光が彼女の顔を照らしている。

「彼女は本当に美しい・・・・」。彼女の問題がどこかに停滞したままだということを、彼はほとんど忘れていた。人間には確かにふたつの面がある。誰かが彼にそう言った。彼女がまだそれほどの年齢になっていないことを思えば、人前では武装しなければならないのだろう。彼には感じ取ることができた。長い間武装し続けたために、美しい身体は魂を失った抜け殻のように、ここからあそこへと密やかに彷徨っているのである。言い方を変えるならば、あの男のところから、この男のところへと・・・・。

しかし常に、やはり少女本来の単純さを取り戻すことも必要なのだろう!

コンビニで飲み物を買った時は子供のようだった。阿洛に対しては、彼女は戦闘態勢を取る必要などなかったのだ。

「自分はこんなに平凡な人間だ・・・・」。阿洛自身はそう考える。彼女との会話でさえ、まるでちぐはぐになってしまうほど平凡なのだ・・・・。彼女の憂鬱なんて、どうすればよいのか・・・・。

薬を飲めばどんな反応が起こるのかも分からず、彼はただ、彼女の瞳がしだいに瞳孔を失って行くのを眺めていた。怪奇映画に出てくる黒い穴のような目をした鬼女のようだ。

ラップシンガーは何度も繰り返し自分の母親を呪っている。彼もそれに同感である。こんなバカ野郎を産み落とした母親は、本当に罵られても当然だ。しかし、僕の世界を罵るのは余計なお世話というものだろう。結局、人がどう思おうと、彼はやはり平凡な日々を生きて行かねばならない・・・・。

彼には、林を散歩する足音のように聞こえるドビュッシーがある。

肉を食べ過ぎると野菜サラダが食べたくなるように、彼は彼のドビュッシーが恋しくなった。

聞き入れてくれるかどうかも分からないまま、彼女に言う。「帰らなくちゃ・・・・」。犬がケージの中で慌てふためいて飛び跳ねる。「僕は帰るよ・・・・」。彼は犬の方に身体を向ける。犬は少し汚れている。早く洗ってやるべきだ。

彼はその場を去った・・・・。またあの店に行けば、やはり彼女に会うだろうと分かっていた。しかし、何も言う必要はないのだ。なぜ何も言わなくてもよいのかは分からないけれども、そんな暗黙の了解があるというだけのことだ。

そっとドアを閉じる彼の耳に、吠え出した犬の声が聞こえた。


「阿洛! 君の一流モデルはこのチンピラと別れたんだよ」。ランチタイム、昨夜一緒にいた同僚が、雑誌の表紙を示しながら、向かい側から移ってきた。

「何が僕のものだ・・・・。ただ送っていっただけだよ」。雑誌の表紙を見ると、彼女は顔色もよく、瞳には瞳孔もあった。

「一流モデルはみんな、地位や権力のある男の玉の輿に乗るんだ・・・・」。同僚はなおも雑誌をめくりながら、結論のようにそう言った。

「玉の輿に乗らないのはどうなるんだ?」。彼は、あの次第に瞳孔を失って行く美しい顔を思い出す。

同僚がテーブルの上に並べた雑誌を集めてみると、そこにはたくさんのきれいな顔があった。美は醜と同じように、きっと一種の原罪なのだ、と彼は思う。

もしかしたら、美はさらに・・・・。

醜ければ人は逃げるだろう。しかし美しければ・・・・そのために人はさらに多くの罪を生み出すのだ。昨夜、自分は罪を犯そうとする瀬戸際から引き帰してきたのだ、と阿洛は哲学的に考える。

睡眠不足のために自ずとぼんやりしながら一日を過ごすはめになった。

地下鉄の中の風はどんな季節でもひんやりとしているようだ。彼は地下鉄の駅で、種々様々な人々が行き交うのを眺めるのが好きだった。

この街で最も少数の二種類の住人は、毎日同じ時間には現れない、と彼は考えていた。

一流モデル、そして地位や権力のある人々は、退勤時間の込み合った人波の中に現れることはない。

ゆっくりと階段を上りながら、彼は、向かいから降りてくる顔を、自分の想像が間違っていることを少し期待しながら、ひとつひとつ子細に眺めていた。もしかしたら昨夜の出来事は夢にすぎず、仕事帰りの人波の中に彼女がいる・・・・。

寒風の中に砂糖の焦げた匂いがした。あの店に行ってコーヒーを飲まなければと彼は思う。もしかしたら、またドビュッシーが・・・・。

昨夜のあの下らない何とかという歌手が罵り続けていたせいで、彼は精神にも肉体にも痛みを覚えていた・・・・。




深情海岸


「本当にコーヒーが一杯飲みたいな!」。彼がちょうどそう考えていた時、それまで陽光を遮っていた雲がしだいに切れ始めた。

彼は海老のように日を浴びている。身体の向きを変えることさえおっくうな海老である。突然、ずっと以前に見た映画を思い出した。おそらく今眺めている景色が、映画の中の景色に少し似ているせいだろうか?

退屈な映画で、一緒に行った友人は初めから終りまでぶつくさ言っていた。しかし彼は言葉にならないある感覚を覚えた。それは、竹の箸を使っている時に、不注意から指に刺さってしまった棘のように、押さえようとしなければ、その存在にさえ気づかないのに、考え始めると何となく痛みを覚えるような感じである。

映画のヒロインは、夫の遺失物を確認して引き取るために、海辺へ来るように通知される。だから遺失物の持ち主はもちろん死んでいたのだろう! しかし、そのヒロインは映画が終わるまでにひとりで生活するために立ち去り、遺失物の持ち主は、おそらく魚の餌にでもなったのか、海の中をいくら探しても見つからなかった、ということしか記憶に残っていない。

彼は朝からずっとこの砂浜に寝そべっていた。人影も見当たらず、元々感じていた漠然とした罪悪感も蒸発したかのように消えていた。

「コーヒーが一杯飲めたら満点なのになあ!」。切実な欲求がずっと頭の中をかき乱している。

実際には、その映画は続編を撮るべきだった。日めくりのように、どの一日にも続きがあるべきだ。彼はその様子を考える。しかしあの街に長い間住むという続編なら、おそらくうんざりするだろう。そんな劇なら、始まる前から、どんな結末が待っているか分かろうというものだ。

この入り江を発見したのは、意外なことだったといえるだろう。

彼の女、いや・・・・厳密にいうなら、彼がずっと想っていた女である。どうしようもないほど聡明な牡羊座の女だ。

四年が過ぎた! 四年前、別れる前の週に、彼女は彼に電話をかけてきた。実際にはそんな必要はなかったのだ。彼は今でもそう思っている。自分が彼女にお似合いだなどと、思ったみたこともなかったのである。

彼女は言った。「夜、ビールを飲みに行きましようよ! 星を見るのもいいわね・・・・」。彼の女は、何でもOKのようだった。そこで一路、車を飛ばした。下心など持ちはしなかった。あんなに優秀な女の子なのだ。

夜が明けかけたときは、もうほとんど花蓮だった。「コーヒーが一杯飲めたらいいわね!」。空が白み始めた路上で、あの女は突然こう言った。

前後には村も店もなく、どうすればよいのか途方にくれた。しかし、彼は内心、優秀な女というものはみな変なものだと考える。

「じゃ、引き返そうか?」。引き返すとしたら、また車を五時間走らせねばならない。しかし彼女のためなら、どうということはない。

「どこかで休みましょうよ!」。どんな気持ちで言っているのか、彼には聞き取れなかった。

「モーテルがあるかどうか、見てみればいいわ!」。彼は気を回そうとはしなかった。ただ彼女は疲れたのだと思った。夜明けに彼らはホテルを見つけ、礼儀正しく距離を取って一緒に眠った。彼女は小さないびきをかいていた、と彼は思う。

彼は真昼に目覚めた。寝返りを打つまでもなく、彼女がもうそこにはいないことを感じた・・・・が、特に奇妙なことだとは思いもしなかった。優秀な女はみなこうじゃないか。何を考えているのか見当もつかない。ただ気がかりだった。お金を持っているだろうか。帰りの汽車に乗れただろうか・・・・。

彼はそのままひとりで南へ向うことにした。おそらくもう彼女には会えないだろうと分かっていた。始まることもなく、終わってしまった片思いだった。

さざなみは遅かれ早かれ彼がここへやって来ることを知っていたようだ。午後になって、彼はこの入り江の砂浜に車を乗り入れた。一日中ぼんやりと腰を下ろし、ずっと思っていた。一杯のコーヒーか何かがあるべきだ。その深情海岸で彼の相手としてふさわしいのは、自分がずっと好きだった女よりも一杯のコーヒーのようだった。

それ以後、彼はよくひとりで車を飛ばしてそこへ行くようになったが、あの日、女が途中で消えてしまったことを他人に話すこともなかった。ヘマをしたとは思わない。自分は充分幸福だと、本当に思っていた。

退屈だったあの映画のように、彼はいつも一日中ここに座っていた。しかし劇の中で待っていたあのヒロインとはちがって、自分が何かを待っていると思ったことは一度もない。彼がすることといえば、せいぜい、彼女とともに過ごしたあの夜を、本当に幸福を感じさせてくれたあの旅を、思い起こすだけなのである・・・・。




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