名模與徳布西
人が多すぎた。
やむなくドアの傍の席に腰を下ろす。この店には毎週ニ、三度やって来るので、店の人はみな自分を知っているはずだ、と彼は思う。
彼は地下鉄に乗って来たのだが、駅の出口には、焼き栗を売る婦人が身をすくめていた。焦がした砂糖の匂いが寒風の中に漂っていたが、彼は特に栗が好きだというわけではなかった。栗の殻にはいらいらさせられるし、へたをすれば歯に粘りついてしまう。
多分、風の中に漂う焦げた砂糖の匂いのせいだったろうか? それが何かを思い出させたのだ。彼は半斤買った。老婦人は慣れた手つきで砂の中を探り、栗にくっついた砂糖を注意深くふるい落として取り出し、少しずつ紙袋に詰めて行く。
「五十個はあるだろうか?」。半斤といえば八両である。一個の栗は何両になるのだろう? あるいは一両は何個になるのか・・・・。
老婦人は、彼が待たされていらいらするのではないかと思い、栗を二個手渡す。まず味見をさせようという意味だ。彼は手を伸ばして受け取ったが、多分まだ熱かったのだろう。手の中に握るとねとねとした。ちょっと後悔し始め、内心ひとり言を言う。「栗はやっぱり扱いにくいものだな」
硬い殻の外側は、さらに扱いにくい軟らかい刺に覆われているようだ。
「喜ぶのは多分、リスぐらいなものだろう?」。アニメ映画で見たことがあった。普通は天津の焼き栗といわれるから、寒冷な地方の樹木なのだろうが、どんな樹木なのか、見たことはない。
「百二十元・・・・」。老婦人の差し出す半斤の重さの紙袋を、彼は微笑んで受け取りながら、心の中では遠慮会釈もなく思っていた。「もしも本当にそんなに扱いにくかったら、さっさと捨てるまでだ」
ふりむくと赤信号だった。こんなに賑わっている交差点では、二、三分待っても抜け出ることは絶対にできない。栗をコートの中に入れたばかりの時にはほかほかして、取り出す気にはあまりなれなかったけれども、栗がそれほど扱いにくいのならば、どの栗もみなひとつの任務を担っているはずだ、と彼は考える。そこで栗たちの一個目を取り出し、信号を待つ間にその相手をすることにした。
紙袋の中を探り、手がねとねとする感じをもう気にもかけず、彼はいちばん実の詰まっていそうな栗を選び、手の平に置いて眺めた。
「まずはお前だ。どこへ逃げるか見てやろう・・・・」。大通りを横切ろうとする人々が邪魔になり、さらに人が混みあってくる。ただ彼らはヒステリックに叫びだしたりはしないだけだ。最初はスマートに片手で栗の硬い殻に爪を立て、こじ開けようと思っていたのだが、思いがけないことに、天津からやって来たこの栗はつむじまがりで、どうしても屈服しようとはしない。硬い殻のうえにはただ小さな爪あとが少しできただけだった。
「たとえ扱いにくくても・・・・」。内心穏やかではなかった。栗たちの一個目にこんなに烈しく反撃されたが、まだ四十九個の相手をしなければならないのだ! そうじゃないか? さらにカッとなった瞬間、信号がまた換わり、彼は人々の群れとともに車の列の中にいた。突然、頭の中が空っぽになり、栗の第一の任務は失敗した。
彼が歩道に立ち止った時、車の列がのろのろと動き始めた。彼はふりむき、手をゆっくり開くとその憎らしい栗は転がり出た。路面が少し傾いていたせいかもしれない。栗は横断歩道の二本目の黒線と三本目の黒線の間を転がり、四本目の白線の上で止まると、パンという音をたててアスファルトの路面に丸くへばりついてしまった。
彼は笑った。とても愉快に笑った。今日のいちばん楽しい出来事だった。頑固な栗を、彼は死刑にしてやったのだ。
誰もがみな栗と敵対しなければならないというわけではない。少なくともリスはそうじゃない、と彼は思い出す。
リスは栗と仲良くなることができる。アニメ映画の物語では、リスはいつもあちこちに栗を貯え、たくさん貯えてしまうと、そのあと、どこに置いたのかということさえ忘れてしまう。少し人に似ているようだ。忘れるべきことは忘れられないのに、忘れるべきでないことをすべて忘れてしまう。
彼は自分のいちばん好きなアメリカンコーヒーを注文した。
コーヒーというものは、いつから次第に流行するようになったのだろうか。
自分は意志が強固な人間ではない。この街で何かが流行すれば、その流行に従う。ドアの傍の席であってもやはり自分の場所だ。彼は栗をコーヒーとともに並べてみる。
店の中には、毎日ほとんど同じ音楽が流れている。ドビュッシーであると、彼は知っていた・・・・。
小花鹿が林の中を散歩すると、その身体の上に見える斑点は、木洩れ日なのか、それとも小鹿の身体に元からある模様なのか見分けられないように、少し目にまばゆく、少し悲しく、そして少し幸福でもある・・・・。ドビュッシーはおそらくさいころを用いて、さいころの目で旋律を決めているのではないか、と彼は疑いを抱く。旋律の流れにはまるで論理といえるものがなかった。
男は昨夜の回想の中に落ち込んでしまう・・・・。
「・・・・」。彼女が口を開き話し出すのを待ちきれなくて、男は背後からしっかりと彼女をはがいじめにした。
彼がこんな風に反応するだろうということを、彼女は心得ており、必死になってもがくこともなかった。
しかし彼女の飼っている犬の方が、男の突然の動きに驚いて身を起こし、彼らを見つめている。
彼女はゆっくりと頭をめぐらし、男はさらにきつくはがいじめにする。
「多分、ハーフだ・・・・」。男はそう思うが、彼女のことはずっと以前から知っていた。そのあいだ、地方に派遣されていた一年間を除いて、この四、五年はいつも夜の店内で彼女を見かけていた。
男は何冊かの雑誌で見たことがあった。友達も、やはり売れっ子のモデルの類いだと言う。
「彼女は本当にきれいだ・・・・」。心の中でそう思った。
「君は本当にきれいだ・・・・」。おせじなどではなく、彼女にそう告げる。
「ふーん・・・・」。彼女は身をかがめ、ステレオの音量を調節しようとした。そのまま離れて行くのかと思っていたのに、思いがけず、また優しく身体を預けてきた。
ステレオでは人気のあるラップシンガーが、自分の母親と前妻を呪ったあと、今はまさにこの世界を罵っているところである。
「u never know what gonna happen to u, so fuck up the sprite from ur....」。声の調子があまりにもせかせかしているので、大体の意味しか聞き取れない。どうやら、文法といえるものもないようであった。勝手にしろ、と彼は思う。ドビュッシーが好きな男には、この歌手は、牧神を密林へと導いて殺し、そこに身を隠してしまった小花鹿のように思えた。
男は試しに彼女の襟の中へ手を伸ばしてみる。俯いているので、どんな反応を示しているのか、見て取ることはできない。
「あなたはどんな音楽が好き・・・・」。彼女は小声で尋ねる。正直に答えるべきか、男は少し躊躇する。自分が好きなのはドビュッシーなのだと知られてしまったら、この張りつめた時間の中で、世界がふたつに分かれてしまうかのようだった。
「ラップソングは悪くない!」。少しやましい気はした。
「うそつき!」。やはり小声でささやくが、それ以上は追求しないという意味でもある。売れっ子のモデルであると知っていて、夜、突然、家まで送って行くことになったのであれば、当然、何か話をするべきだと思う。彼女がだまっていればいるほど、彼の心のやましさを責めていることが、ますます明らかになる。
「君は僕のバックグラウンドや何かを尋ねたりはしないの?」。その時、やっと思いついた。彼女は自分の本名さえ、まだ尋ねていないようだ!
「何か違いがあるの?」。ないわけがないだろ、と内心思う。男は意気消沈し、襟の中に進めた手をあわてて引っ込める。少し恐れさえ感じ始めた男は、本当に推し測ることさえできない。どうしてこんな答えが返ってくるのだろう。
犬はケージの中をぐるぐる回り、ラップシンガーは烈しく怒鳴っている。
「Let me out, let me out....」
彼女は立ち上がり、自分の手提げ袋の中を探ると、何かを掴んだようであった。そして、いきなりバスルームへ向う・・・・。
その時、彼は初めて、彼女の瞳がまるで黒いふたつの穴のように見えることに気がついた。誰かが憎々しげに彼女の美しい顔を抉ったかのようだ。まぶたに塗られたアイシャドーも滲んでいる。もしかしたら、彼女は泣いていたのかもしれない。しかし奇妙なことに、自分には少しも察することができなかった。
「瞳孔のない目・・・・」。彼は突然思い出す。
怪奇映画にしか出てこないような目が、美しい顔の上にあるのだ。
息の詰まるようなある考えが、彼の心に兆し始める。
「おそらく薬を飲んだのだ・・・・」。彼は思った。
自分が人目を引くような人間であるとは少しも思えない。
もう何年も前から知ってはいたけれども、しかし彼女と何度もおしゃべりをしたというわけでもない。どういうわけか、突然、ステレオの歌手、母親を呪ったあと、さらにこの世界を罵ろうとしているラップシンガーが、おぞましいものに変わり始めたように思えた。
ドビュッシーならば、林の地面に散らばる木洩れ日もなくなったこんな夜には、きっと深い眠りに落ちようとしているはずだ・・・・。
「大丈夫?」。尋ねてはみるが、それほど思いやりはこもっていなかった。もし彼女が本当に薬を飲んだのなら、悪いのは彼女自身なのだ、と彼は思う。
憂鬱になるのは、彼女を家に送って来て、何をするつもりだったのか、ということである。
あるいは、彼女は彼を連れて来て、何をするつもりだったのか?
彼女を送って来たのは、ラップシンガーがこの世界を罵るのを聞くためだったのか?
彼は突然、彼のドビュッシーがちょっと懐かしく思えてくる。
犬はケージの中で大きな真っ黒い目を見開き、夢幻の中をさ迷っている主人を眺めている。
こんな風に夜を過ごしてしまえば、明日の仕事はきっとなおざりになってしまう。
「君が彼女を送ってやれよ!」。あの店を出る時、逆光を浴びて暗がりにひとりで立っている彼女を見た。その背後にある世界でいちばん高いビルは、ゆっくりと春の雨雲に飲み込まれようとしていた。顔見知りの何人かの男がそう勧めたのである。
「あまりよく知らないから、失礼だろう?」。口ではそう言ったものの、高鳴る胸を自分では抑えようもなかった。
「行けよ! 長い間、恋い焦がれていたことはお見通しさ。僕らは君に譲るんだぜ! 行った、行った・・・・」
「ちぇっ! どうして僕なんだ?」。天命を知り、頭を垂れて物もいわずに働く働き蜂に自分をなぞらえ、女王蜂の慈愛に満ちた瞳を見たのは何時だっただろう。
「一流モデルだ!」。彼は心の中で賛嘆する。噂になった有名人は何人いたか分からない。彼女からすれば、自分など有象無象にすぎないのだ。
こうしてふたりはその場をあとにした。彼女が、世界でいちばん高いあのビルを迂回すれば、すぐに住んでいる場所に着くと言ったからである。
しかし、彼としても大それた考えを抱いたわけではない。家まで送り届ければ、それで任務は完了だと思っていた。
「阿洛・・・・。あなた、阿洛っていうんでしょ? 友達がみんなこう呼んでるのを聞いたわ」。彼女は顔をあげてソッポを向き、両手は背後に回している。その手には一目で高価なブランド品と分かるハンドバッグを提げており、弾むように歩くせいで、バッグが前後に揺れていた。
「えーと、君は自己紹介をする必要はないよ」。卑屈な前置きに、自分でも少し嫌気がさし、ますます、自分の任務は彼女を家まで送り届けるだけにすぎないのだと思えた。
「多分、もう十回以上も友達が彼女に紹介したくれただろう?」。阿洛は思う。それなのに、友達はみな彼を阿洛と呼んでいるなどと、彼女は言うのだ。
「あなたが何を考えているか、分かってるわよ。阿洛」。彼女は流し目で彼を見る。その時、阿洛は初めて彼女は本当に背が高いと思った。雨雲の中に聳える世界でいちばん高いあのビルを遮ってしまっている。
「あなたはきっと思っているでしょ。私がとてもいい加減だって。そうじゃない? 阿洛」。彼の方は、彼女の言葉が正しいかどうかを考えている気分ではなかった。しかし、密かに内心思っていた。こんなに美しい女の子を恋人にしたら悪くないけれど、そのプレッシャーはきっと大きいに違いない。
「君の言ってること、僕には分からないな」。彼女のいいたいことが、彼には本当に理解できなくて、ただ考えていた。
「ええっ、またそんなこと言わないでよ!」。そのあと彼女は彼に言ったのだ。こんな街にひとりでいると、男友達を振ったあとは、鬱病になってしまいそうなのだ、と。
彼女は歩みを早める。それは彼にはいささか予想外のことであった。
「飲み物を買って行かない?」。路地の入口にコンビニがあり、彼女の方からこう切り出されて、彼は驚いてしまった。ただ家まで送るつもりだったのだ。
「まだ早いでしょ?」。彼女は冷蔵棚の前に立ち、低アルコール性の飲み物を選んだ。棚から射す強い光が彼女の顔を照らしている。
「彼女は本当に美しい・・・・」。彼女の問題がどこかに停滞したままだということを、彼はほとんど忘れていた。人間には確かにふたつの面がある。誰かが彼にそう言った。彼女がまだそれほどの年齢になっていないことを思えば、人前では武装しなければならないのだろう。彼には感じ取ることができた。長い間武装し続けたために、美しい身体は魂を失った抜け殻のように、ここからあそこへと密やかに彷徨っているのである。言い方を変えるならば、あの男のところから、この男のところへと・・・・。
しかし常に、やはり少女本来の単純さを取り戻すことも必要なのだろう!
コンビニで飲み物を買った時は子供のようだった。阿洛に対しては、彼女は戦闘態勢を取る必要などなかったのだ。
「自分はこんなに平凡な人間だ・・・・」。阿洛自身はそう考える。彼女との会話でさえ、まるでちぐはぐになってしまうほど平凡なのだ・・・・。彼女の憂鬱なんて、どうすればよいのか・・・・。
薬を飲めばどんな反応が起こるのかも分からず、彼はただ、彼女の瞳がしだいに瞳孔を失って行くのを眺めていた。怪奇映画に出てくる黒い穴のような目をした鬼女のようだ。
ラップシンガーは何度も繰り返し自分の母親を呪っている。彼もそれに同感である。こんなバカ野郎を産み落とした母親は、本当に罵られても当然だ。しかし、僕の世界を罵るのは余計なお世話というものだろう。結局、人がどう思おうと、彼はやはり平凡な日々を生きて行かねばならない・・・・。
彼には、林を散歩する足音のように聞こえるドビュッシーがある。
肉を食べ過ぎると野菜サラダが食べたくなるように、彼は彼のドビュッシーが恋しくなった。
聞き入れてくれるかどうかも分からないまま、彼女に言う。「帰らなくちゃ・・・・」。犬がケージの中で慌てふためいて飛び跳ねる。「僕は帰るよ・・・・」。彼は犬の方に身体を向ける。犬は少し汚れている。早く洗ってやるべきだ。
彼はその場を去った・・・・。またあの店に行けば、やはり彼女に会うだろうと分かっていた。しかし、何も言う必要はないのだ。なぜ何も言わなくてもよいのかは分からないけれども、そんな暗黙の了解があるというだけのことだ。
そっとドアを閉じる彼の耳に、吠え出した犬の声が聞こえた。
「阿洛! 君の一流モデルはこのチンピラと別れたんだよ」。ランチタイム、昨夜一緒にいた同僚が、雑誌の表紙を示しながら、向かい側から移ってきた。
「何が僕のものだ・・・・。ただ送っていっただけだよ」。雑誌の表紙を見ると、彼女は顔色もよく、瞳には瞳孔もあった。
「一流モデルはみんな、地位や権力のある男の玉の輿に乗るんだ・・・・」。同僚はなおも雑誌をめくりながら、結論のようにそう言った。
「玉の輿に乗らないのはどうなるんだ?」。彼は、あの次第に瞳孔を失って行く美しい顔を思い出す。
同僚がテーブルの上に並べた雑誌を集めてみると、そこにはたくさんのきれいな顔があった。美は醜と同じように、きっと一種の原罪なのだ、と彼は思う。
もしかしたら、美はさらに・・・・。
醜ければ人は逃げるだろう。しかし美しければ・・・・そのために人はさらに多くの罪を生み出すのだ。昨夜、自分は罪を犯そうとする瀬戸際から引き帰してきたのだ、と阿洛は哲学的に考える。
睡眠不足のために自ずとぼんやりしながら一日を過ごすはめになった。
地下鉄の中の風はどんな季節でもひんやりとしているようだ。彼は地下鉄の駅で、種々様々な人々が行き交うのを眺めるのが好きだった。
この街で最も少数の二種類の住人は、毎日同じ時間には現れない、と彼は考えていた。
一流モデル、そして地位や権力のある人々は、退勤時間の込み合った人波の中に現れることはない。
ゆっくりと階段を上りながら、彼は、向かいから降りてくる顔を、自分の想像が間違っていることを少し期待しながら、ひとつひとつ子細に眺めていた。もしかしたら昨夜の出来事は夢にすぎず、仕事帰りの人波の中に彼女がいる・・・・。
寒風の中に砂糖の焦げた匂いがした。あの店に行ってコーヒーを飲まなければと彼は思う。もしかしたら、またドビュッシーが・・・・。
昨夜のあの下らない何とかという歌手が罵り続けていたせいで、彼は精神にも肉体にも痛みを覚えていた・・・・。
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