一朝醒來是歌星(2002.6)

定性VS.飄移


ひとり光復路あたりのカフェに身を投げ出し、その夜演奏する曲目リストを開いている。その感じは多分、女の子がタンスを開き、何を着ようかと選ぶようなものだろう? いつも思うのは、服が一枚足りないということだ。何年か前、阿翔たちのコンサートを観に行ったことを思い出す。その頃、彼らはまだ二枚のアルバムを出したばかりで、僕は言った。「阿翔、いいよなあ! 二枚のアルバムでちょうど二十曲。ずっと順に歌って行けば、コンサートで何を歌うかという問題はなくなるよな」

リストをパラパラと開き、覗いてみる。十何枚かのアルバムを出せば、どうしても百曲を超え、いつも選ぶ段になると、やはりあれもこれも外せないという気になるのだ。

しかし実際にさらに人を悩ませるのは、腰を落ち着けいくつかの歌を思い返すと、どうしてもその歌を書いた当時の、時間、背景、そしてその頃の気分に落ち込んでしまうことだ。こういってもかわまないだろう。僕たちは誰もが、どの歌の背後にも必ず華々しい物語があると決めつけているはずだ。

それは創作をする人間が常に尋ねられる質問であり、誰もがこう言う。「きっと何度も恋愛をしたのですね。だからラブソングが書けるのですね?」それでは、スリラー小説を書くには人間の皮を剥がねばならず、SF小説を書くには宇宙に行かねばならないというようなものだ。けれども、その後、僕の思ったことだが、絶えず恋愛をする人間というのは、感情的に定性というものを得られず、それで留まることなく漂っているのではないだろうか? だが創作は、実際には確固たる定性を必要とするものであり、絶対的な沈殿を要求する。カフカが言っていたではないか。「創作は死よりもさらに深い孤独である」。移動は当然、創作の手段である。あるいは方法である。なぜなら、移動の最中には、比較的激しい感情の落差が生み出されるからである。

心がよどんだ水のように動かない人間は、創作を通じて自己の感情を訴える必要はないだろう。

心のつくりが単純な人間は、移動したいという欲求を持つこともそれほどないだろう。



有限度的移動


限りのある移動は感動を押しひろげることがあるが、それは一種の強制された感動である。異なる地点の雰囲気は、遠い昔の深い記憶さえ引き出すことができる。

僕は旅行を限りのある移動と持ち上げるのが好きだ。それは地球上のいかなる場所にも連れて行ってくれる交通機関を運用し、潜在能力の発揮を促す合理的な方法なのだ。

そしてアルコール、薬物、あるいは何であれ外的な物質という要素の力を借りて、意識の見えざる窓を開き、自己を未知の限りない場所へ放り込む。それについては、今のところ自分にはまだ語る資格がない。

どうやら、僕は創作というものを複雑にしているようだ。

まず試しに、僕のいうところの「限りのある移動」について説明することにしよう。限りのないほうについては、もう少し年齢を重ねてからということで、ご容赦願おうか・・・・・。

君はまるで関係のない場所で、何かの影響、雰囲気、匂いなどのせいで、突然、過去の断片を思い出したことがあるにちがいない。おそらくはお婆ちゃんの着ていた服の模様や子供の頃の象頭石鹸といったものであるが、それはただの思い出に過ぎず、特別な意味など何もないと、大部分の人は考えるだろう。

けれども、創作をする人間にとっては、創作につながる多くの啓示が、実はここに存在するのである。

創作をする人間は、直截的にさまざまな手段を尽くして、そのような思い出、あるいは感動を自分のものにするのだ、といってもよい。

阿潘(訳註 : 潘越雲)のアルバム「純情青春夢」の情趣についていえば、「鹹魚の匂いが路地に漂っている」歌ということになるが、そこに必ずひとつの場景を思い描くことは無駄ではない。少なくともこのような歌では、無駄になるはずがない。そして僕がいうところの定性は、この時用いられることになるのだ。人声の騒がしいコーヒーショップでものを書いている時かもしれない。あるいは虫の鳴き声が聞こえる田舎の夜だろうか。とにかく、いくらかの記憶を傾けて整理を始め、頭に閃いたかすかな印象や、かつて訪れた場所、もっと大きな場所でいうならば旗津、望安、緑島に、注意を集中するのだ。よかろう、ここでは旗津を選べばよい。

旗津の波止場での夜市、砂浜、港、路地。

風に乗って漂ってくる匂い。ソーセージ、焼きスルメ、おでん、鹹魚の匂い。

人物はもちろん、バックグラウンドを明らかに演繹できる人がよい。たとえば、阿潘の早世した父母に対する記憶。

では早世した父親を選ぶとしよう。プロットの出だしは、ある夜、帰郷した女性が旗津の狭い路地で、風の中に漂う鹹魚を炒める匂いのせいで、突然、思い出すのだ。路地の入口でいつも父を待っていた幼い頃を。

あるいは、それは自分の生活の中にはもともと存在しない記憶であり、自分の旅裔(註1)の中に存在する記憶であるだろう(もしかしたら、それは心理学で「群体潜在意識(註2)」といわれるものであるかもしれない)。僕たちは多かれ少なかれこんな経験をしたことがある。初めて来たと誓って言える場所で、しかし記憶が、確かにここには来たことがあると、強烈に訴える感覚を覚えるのだ。

あるいは、僕たちがよく耳にする言葉でいえば、「くそっ! この場所は夢で見た。夢に見たことがある!」。


註1 旅裔 : 他の国や場所から移り住んだ人々の子孫という意味のようです。

註2 群体潜在意識 : ユングが提唱した集団的無意識(Collective unconscious。普遍的無意識、集合的無意識とも訳されている)のこと。人間には個人の経験に基づく個人的無意識(Personal unconscious)と、祖先の経験の遺伝などに基づく、人類全体に共通する集団的無意識があるという。



我曾路過這裡・・・・・・


1989年、北京に民主化運動が起こる前の何日間か、僕は長沙、岳陽、そして汨羅江へ行った。汨羅江のあたりに着いた時はすでに黄昏だったが、ガイドに伴われて屈原の十三座高塚のひとつに登った。

遥か下方から吹き寄せる五月の風は、なおも冷たく身を切るようだった。僕は四、五階建てのビルほどの高さがある土塚の上に座り、西へ向って蛇行して行く汨羅江を眺めた。夕陽が河の中心に照り映えている。僕は顔を仰向け、河に沿って墓の盗掘者を欺くために築かれたという土饅頭の数を数える。

突然、心の中にそれまで経験したことのない感動と驚きが湧き上がってきた。

何ということだ、僕はかつてこの場所を通り過ぎたことがある、という思いに感動していたのである。

しかし歴史や地理の教科書で勉強したことを除くと、僕がここに来たことは一度としてないということに驚いていたのだ。

もうしばらく土塚で過ごそうと、ひとりにしてくれるようにガイドに頼み、なおかつ笑いながら言った。「かまわないよ。僕はここには来たことがあるのだから」

草の上に腰を下ろすと、その何日間かの記憶をゆっくりと整理した。長沙、岳陽からの旅は、何もかもが明らかにやはり馴染み深いものだった。

風に漂う木犀の香り、農家の炊事の煙、黄昏の西に傾いた夕陽、それらは別の場所で過ごした幼時の記憶ということだろうか。

腑に落ちないのは汨羅江に沿って延びる平原、麦畑、そして土塚を眺めた時、しかし実際のところ、強烈な一種の故郷を懐かしむ想いに囚われたことである。

そしてその想いを抱かせたのは、決して千里の果てにある台湾の故郷ではなく、その河に沿って行けば辿りつく、どこか知らない場所だったと思うのだ。

まさにこの感覚だろう! と僕は自分自身に訴える。僕の祖先である誰かが遠い昔、この河に沿って旅をしながら、南方まで移動して来たのだ。

そして僕の潜在意識の中にはこれらの記憶が存在しており、さらにもっと深遠な記憶でさえ存在するかもしれないのだ。

というわけで、それらの記憶をいかに喚起するか、どのように記述するか、どのようにうまく用いるか、そういったことがすべて興味深い課題となる。

あまりに感動が大きかったせいだろうか、汨羅江では人の心を動かすような物語や詩歌は何も書くことができなかった。

けれども、僕は喜んでいた。なぜなら留まることなく移動することによって、個人のありふれた生活にはめったに存在することのない領域へと導かれるからだ。こうして、さらに新しい、無限の要素を手にいれ、僕は頭の中で、さらに興味深いジグソーパズルを組み立てることができる。

創作が、時空や象限を超越することの可能な一種のゲームになるのである。



北京一夜


「北京一夜」のような歌においては、作者は過去と未来、さらにはモダンな場景とクラシックな場景の間を漂うことになる。

また、その種の仮定に基づいて漂ようことによって、創作につながる心境の落差が生み出されるのでもある。90年の冬、僕はアレンジャーの正帆(訳註 : 李正帆。「最後一盞燈」「20歳的眼涙」などの他にも、王童の映画「無言的山丘」のサウンドトラックで編曲を担当している)を誘って北京へ行った。僕たちは比較的有名で信用のある「百花録音スタジオ」を選んで、録音の仕事を進めた。

創作上の習慣にいくらかの変化を与えることに、実際には何らかの理屈があったわけではない。台湾の録音条件やレベルはその他の先進国に劣るものではないからだ。何年もたってから、どうしてそんなに苦労して、北京やニューヨークやロンドンで録音しなければならなかったのかと、よく尋ねられることになったけれども、それは何ら虚栄的な心理からではなく、僕にも本当のところ、納得の行く偉そうな理屈など言えそうもない。面白おかしくいうと、北京の涮羊肉がうまいからだろう!

だから行った!

行ってみると、北京の録音スタジオは本当に大きくて体育館のようだった。

そこで、その大きくて安いという感じを自慢に思い始める。

僕はそれを自然なことだと思う。ひとつの物事を考えようとするなら、空間が大きければ大きいほどよいのは当然のことだ。

その大きなスタジオで正帆と一週間ほど仕事をしていると、ちょっとやりきれない気持ちになってきた。彼には言わなかったけれど、仕事の進み具合が期待したほどのものではなかったのだ。僕はしびれを切らし始め、またアレンジャーをうまくリードできずに、いつも袋小路に追い詰めてしまうことで自分を責めてもいた。

すでに夜は更け、録音技師はしょげ返っている。僕は屋外へ出て煙草を吸い、ついでに煉瓦のかけらをほじくると、憂さを晴らすかのようにその胡同にある公衆便所めがけて投げつけた。

心の中で考えていた。煉瓦があって幸いだった。さもなければ、アレンジャーに当り散らし、アレンンジャーをやっつけたあと録音技師に当たり、楽器に当たり、それから火を放ち自分と録音スタジオを灰にしただろう。

包みかくさずに言おう。僕は時々そんな風に仕事仲間を脅かすことがあるのだ。僕は言う。「もしも君が、どうやっても、ほんのこれっぽっちのことも考え出せないなら、僕は君を殺したあと、自殺する」とちょっと脅してやるのだ。しかし、それも幾分かは「こけおどし」に過ぎない。よく思うことだが、もし意図が充分に伝わるなら、他人を殺すよりは自分を殺したほうがずっと有効だろう。

屋外の気温は零下まで下がり、胡同には残雪の反射する光が輝いていた。僕は服の襟を立てると、八本目の煙草に火をつけた。

スタジオからはポツンポツンと正帆の弾く寄る辺ないピアノの音が伝わってくる。煙草をひねりながら、それを公衆便所めがけて投げ捨てるつもりだった。そこにはきっとメタンガスが充満し、その吸殻がすぐに間違いなく、袋小路であるこの胡同を僕もろとも天空の彼方まで吹き飛ばしてくれる。それで何もかも片がつくと思ったのだ。

突然、胡同の入口に掛かっている町名標識が目に入った。

「百花深処・・・・」

「百花深処・・・・」。こんちくしょうの百花深処、僕は心の中でつぶやいている。

「どういう意味なんだよお!」。屋外はやりきれないほど寒く、僕は自分を呪いながら、心の中で、温暖な南方の家に帰ることだけを考えていた。頭の中ではずっと閩南語でなおもつぶやいていた。「我哪惦北京? 我哪惦北京?(訳註 : 北京のことなんてどうでもよい、といった意味)

我哪惦北京?」。考えているうちに笑いたくなった。

「その通りだ! 居心地のよい温暖な南方をあとにして、この共産賊軍の根城なんかに何しに来たんだ?」。さっきまでのいらいらした攻撃的な気分を忘れ、胸の中に少しずつゆったりとした気分が湧き上がってきた。

ふと自分でも訳の分らないメロディが口をつき、それをハミングしながら、閩南語でも英語でもない歌詞まで添えていた。

我哪惦北京? 我哪惦北京? ・・・・・one night in Beijing・・・・・」

「くそったれ! やめだ。もう気が変になりそうだ。正帆にもうやめだと言おう。明日仕事を切り上げて台北に帰るんだ」

今すぐ、くそったれ音楽など放たらかして、路地の入口にある涮羊肉の店で、したたかに酔ってやろう! 僕がドアを押し開くと、冷たい空気にみなが大声をあげた。入口に立っていると、自分がまるで長城外の辺境で激しい戦闘を行なった秦俑であるかのような気がしてきた。千年も前に死んだことにも気づかず、錆びてぼろぼろになった鉄の鎧を引きずりながら、傷跡にしたたる血を凍りつかせて帰還したのである。

「城門を開いてくれ! 城門を開いてくれ!」。僕は心の中で叫び声をあげていた。

屋内の者は、氷点下の中からアイスマンが現れ出でたとでも思ったのか、驚いて口も利けない。

「何を馬鹿なこと、やってんだ!」。誰かが冗談まじりにどなっているようだ。

「いいよ、いいよ。もうやめよう。夜食を食べに行かないか? ねえ正帆! もう君を苛めたりしないよ。したたかに酔うとしようじゃないか?」

「どうせくそったれの遅れを取り返すことなどできはしない」。僕は思っていた。

テーブルにコンロが置かれ、酒が三回まわり、僕は胡同の入口に掛かる町名標識を見つめていた。ガラス窓の外は新街口、夜はすでに深まり、時折通り過ぎる車を除けば人影もなく、薄暗い街燈が、新たにうっすらと積もった雪に反射していた。

「くそっ! すごくロマンティックじゃないか?」

「この録音スタジオの場所は、以前は清朝のものだったんだろ? もともとは高官の屋敷で、清朝の皇族か何かが住む屋敷で、全体が大きな花園だったんだ。新街口から入ると、本当に大きな百花斉放の花園を通り抜けなきゃならないんだ」

「わぁ! それじゃさっき便所に投げたあの煉瓦は、清朝の骨董なのか?」。嘘か真か、自分にも分らない。

「だからさ! 僕らのスタジオは百花という名で、この胡同はさ! 百花深処って呼ばれてるんだ」

「おい、おい!」。何人かの友達を見ると、ほとんどの者が最初は無関心だったが、すぐに熱くなってしまった。さらにあまりにも魅惑的な物語のせいか、誰もが涙をこらえているようで、作り笑いを浮かべて口も利けないのだ。

「でたらめ言うなよ。どこにそんなロマンが」。幸運なことに僕のアレンジャーはまだ口が利ける。

「本当さ。胡同の標識のそばに説明があるんだ。自分で見に行けよ」

「本当なんだから。北京中がぐるになって騙そうとしているのでなければね。さっき読んで来たんだ。あれが嘘なら、あの紫禁城も、氷の張った頤和園も、みんなでたらめかもしれない」。

僕自身にも夢のように思えた。

我哪惦北京? 我哪惦北京? ・・・・・one night in Beijing・・・・・」

僕は正帆と百花深処の標識の前に立っていた。ニ鍋頭酒の温みが胸のあたりに広がり、ふたりは暗黙の了解を交わしたかのように、言葉にならないほど興奮していた。

「今やってる映画音楽や何かはまず脇に置いて、この感じを、北京の歌にしよう」

「すぐに?」

「すぐに!」

「直感を用いるんだ。今、北京という都市に対して抱いている直感をね。凍てつく空、葉を落とした梢、夜の月、閉ざされて開くことのない天安門、戦に出た人々の帰りを待つ老婦人」

思わず知らず僕はまた、子供の頃、適当に見ていた京劇の節回しをまねながら歌い出した。

「One night in Beijing とても心を惹かれてしまう」

「実にたまらない!」

「確かに、実にたまらない!」

「じゃ、君がまずいくつかコードを決めて、そのあとを僕がたどるか、それとも僕がまず大筋とシーンを決めようか」

「一緒にやろう、一緒に。そのほうが面白い。君はさっきあんな風に歌っただけだけど、実際には、もう半分は仕上げてしまったようなもんだぜ?」。老戦友は互いの次に続く一手を心得ているのだろう。

「それがいい。僕の次の一句は・・・・・」

街には人影もまばらで、また一陣の寒風が起こり、風の中には点々と氷晶(訳註 : 氷点下になると、空気中の水蒸気が氷結して微少な結晶になる)が混じり、とてもきれいだった。

そして僕の耳にはまた、遥かな北方から伝わって来る狼のうなり声が聞こえるかのようだった。

「ああ! あそこはやはり狼の故郷なのだ!」。僕は考えていた。


Vivien's note :
ここまで一気にお読みいただけましたでしょうか。陳昇の創作の秘密、実におもしろいですね。屈原での出来事、「北京一夜」誕生の顛末など、興味がつきません。同時に、その話のひとつひとつにうなずいてしまいます。前者は一種の幻視、後者はシンクロニシティと申せましょうか。実は Vivien、昔はこういう方面に興味津々で、一時期、コリン・ウィルソンの著作を読み耽っていたのでございます。コリン・ウィルソンは英国の作家・評論家。正式な高等教育を受けることなく、大英博物館の図書館で読書にはげんで「アウトサイダー」を著し、一躍時代の寵児になったという人物。その後、ユングやフロイトの心理学から、超能力者のユリ・ゲラー(!)までを引用しながら、人間には限りない潜在能力があると主張し、新実存主義を標榜しました。

ある時、ある所で、その著書にサインをいただいたあと、なぜか、熱が冷めてしまったのですが、実はしっかりと Vivien の無意識の中に根を下ろしていたのだと、今回、再認識したしだいでございます。




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