定性VS.飄移
ひとり光復路あたりのカフェに身を投げ出し、その夜演奏する曲目リストを開いている。その感じは多分、女の子がタンスを開き、何を着ようかと選ぶようなものだろう? いつも思うのは、服が一枚足りないということだ。何年か前、阿翔たちのコンサートを観に行ったことを思い出す。その頃、彼らはまだ二枚のアルバムを出したばかりで、僕は言った。「阿翔、いいよなあ! 二枚のアルバムでちょうど二十曲。ずっと順に歌って行けば、コンサートで何を歌うかという問題はなくなるよな」
リストをパラパラと開き、覗いてみる。十何枚かのアルバムを出せば、どうしても百曲を超え、いつも選ぶ段になると、やはりあれもこれも外せないという気になるのだ。
しかし実際にさらに人を悩ませるのは、腰を落ち着けいくつかの歌を思い返すと、どうしてもその歌を書いた当時の、時間、背景、そしてその頃の気分に落ち込んでしまうことだ。こういってもかわまないだろう。僕たちは誰もが、どの歌の背後にも必ず華々しい物語があると決めつけているはずだ。
それは創作をする人間が常に尋ねられる質問であり、誰もがこう言う。「きっと何度も恋愛をしたのですね。だからラブソングが書けるのですね?」それでは、スリラー小説を書くには人間の皮を剥がねばならず、SF小説を書くには宇宙に行かねばならないというようなものだ。けれども、その後、僕の思ったことだが、絶えず恋愛をする人間というのは、感情的に定性というものを得られず、それで留まることなく漂っているのではないだろうか? だが創作は、実際には確固たる定性を必要とするものであり、絶対的な沈殿を要求する。カフカが言っていたではないか。「創作は死よりもさらに深い孤独である」。移動は当然、創作の手段である。あるいは方法である。なぜなら、移動の最中には、比較的激しい感情の落差が生み出されるからである。
心がよどんだ水のように動かない人間は、創作を通じて自己の感情を訴える必要はないだろう。
心のつくりが単純な人間は、移動したいという欲求を持つこともそれほどないだろう。
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