獵人(1990)

菊島日記


冬にここへ来るのは、密貿易人と軍人だけだが、
自分がここへ来たのは出会いを期待したからである。
自分とよく似た直感力を持った、見知らぬ人に会うことを。


空港の風筒(訳注:風力計と思われる)は高々と舞い上がり、紅白の縞が灰色の空を横切っている。遥かな北方から激しく吹き寄せる凛冽たる冬風が、無情にここを掠めて行くのだ。飛行機を降りた人々が疎らに、眉をしかめ、大空を仰ぎ、自然と服の襟を立てる。

空港ビルでは、事務員がけだるい顔でラジオのダイヤルを回し、スピーカーから冷淡な音声が流れて来た。

「ソ連のアゼルバイジャンとアルメニア間の武装衝突は、しだいに激しさを増し、現在までに衝突による死者の数は三十人に達した模様・・・・」

凛冽たる北風が起こる場所では、昨夜、そこを通り過ぎる時、風は夜空にうごめく霊魂を目にしただろうか・・・・。

しかしそのようなことは、海峡の冷たい海水の中に散らばっているこの島々にとって、あまりにも疎遠なことであった。あらゆる熱情は、ところかまわず吹く寒風に対抗するために使い果たされるのだ。

風筒の紅白の縞がゆらゆらと揺れ、筒布は時にパラパラという音を立てる。風が激しく、飛行に適した日和ではない。たった今、南へと飛んで来た一万フィートの高空では、雲の上はやはり晴れていたのだが・・・・。陽光は灰色の雲層に遮られ、ここの人々に与えられる温もりは残ってはいない。ちょうどどんな人も幸せを独り占めできないように・・・・。

「寒いなあ・・・・!」。顔を合わせた人は、誰もがこう挨拶する。

飛行機を降りたばかりの異郷の青年も、街まで送ってくれる地元の運転手にこう言った。

「寒いね・・・・!」

おやじさんは海港の面白い尻上がりのなまりで、バックミラーの若者を見やる。

「そうさあ! 冬にここへ来る人間なんていねえ・・・・」

路傍の木々は腰をかがめ、疾風を受け止めるのに必死だ。そこには勇敢で、虐げられても萎えることのない厳しい美しさが見て取れる。天人雛菊はなおも到るところにたくさんの小さな花を綻ばせ、それは今もはっきりと目覚めている頭脳を思わせる。

若者は頭の中で、こんな季節になぜ自分がここへ来なければならなかったのか、その理由を思案する。

「人に会うんだろ!」。以前、それが正しいことだと思ったのだ。

もし自分がひとり強烈な北風を受けながら、それでも風の吹き荒ぶ突堤に歩いて行けるなら、同じことをした人、あるいはしようとしている人もいるはずではないか!

高空を飛行しているあいだ、何を考えるでもなかったのだが、飛行機の車輪が雨上がりの乾いたセメントの滑走路に乱暴に接吻した時、心の中に思わずおかしな考えが浮かんだ。

「これじゃあ、まるで下手な映画のストーリーだ・・・・」

冬にここへ来るのは密貿易人と軍人だけだが、自分がここへ来たのは出会いを期待したからである。自分とよく似た直感力を持った、見知ら人に会うことを。

見知らぬ人は疾風の吹き荒ぶ突堤に佇み、耳朶が風に痛むのも気にせず、突然頭を巡らせる。口を開かずとも、その心の中から発せられた声がはっきりと聞こえる。

「来たんだね! 僕は君を待っていた。長い、長いあいだ・・・・」

若者は昨夜見た夢を彼に告げる。兵士の一隊が足並みをそろえ、突堤のあたりを駆け続けるのを夢に見るのだ。

「一、 二! 一、二!」。隊を率いる士官は、後ろ向きに走りながら力のかぎり叫んでいる。

「あと二十周だ、急げ! 急げ!」

しだいに空が白んでくる中、薄い夜具をしっかりと引き寄せながら、その断固たる号令が、夢の中から聞こえるのか、それとも隊列を整えて窓外を走り過ぎる本物の兵士が発しているのか、自分には定かではない。

ベッドを出る時、どちらだったのか思い返そうと努めながら、力いっぱい爪先立ち、窓外の突堤のあたりを見渡す。

夢の中にはなかった景色。昨日来た時には、すでに薄暗くなっていたからだ。駆け続ける兵士の、その一隊が夜のあいだに彼の夢の中まで駆け込み、人々の一団が彼の心を踏みにじるのだ。心の中を一周、また一周と回り、そのうえ隊を率いる士官は号令をかけ続ける。ほとんどの者があえぎながら・・・・。

見知らぬ人が彼に尋ねる。

「ずっと元気だったかい?」

風がとても強い。彼は涙を流し、しかしあわてて相手に言い訳する。

「ここは風が強すぎる。目が痛くなるほどだ・・・・」

見知らぬ人はその興奮を理解し、笑いながら尋ねる。

「もう長いあいだ夢なんて見なかったんだろ?」

「思いもしなかったよ。ここへ来た最初の夜に夢を見るなんて・・・・」。だが、夢の中に現れるのは駆け回る兵士の一団なのだ。

若者がついに泣き始めると、見知らぬ人は立ち上がり、砂浜に飛び降りて言う。

「本当に孤独なんだ!」

涙が風に乾いた目で、彼が頭をあげると、話していた人はすでに姿を消している。


ホテルのフロントに嵌め込まれたかのようなおやじさんは、ようやく目をあげると尋ねた。

「泊まるのかい?」。信じられない様子だ。

「海の見える部屋がいい」。若者は要求する。

「都会から来たんだな? 海を見るのに、何だってこんな遠方まで足を運ぶのかねえ?」。毛編みの帽子に覆われたおやじさんの頭を眺めながら、現代人のすることには充分な理由なんて必要ないのだと、言い訳するのも億劫で、ただ遠慮がちに笑っている。鍵を寄越して、おやじさんは言った。

「いちばん上の部屋だよ!」

カウンターのラジオからまた冷淡な音声が流れて来る。

「ソ連のアゼルバイジャンとアルメニア間の武装衝突は、現在、状況がしだいに悪化しつつあり、両国は宣戦を布告する可能性が出て来た・・・・」

昨夜、そこから来た風は、風の中で泣いている霊魂を目にしただろうか。しかし、それもここでは重要な問題ではないようだ。


若者はリュックを背負うと、深々と息を吸い込んだ。冷たい空気は体内に入ると、しきりに弾み続ける。広々とした山間で高い音が木霊を返すように。彼はひとりさびしく風の吹き荒ぶ突堤から帰って来た。煙草に火をつけ、一杯やりたい気分だった。

出会いを待ち望んだ人は海辺には来なかったが、心の中できちんと約束を交わさなかったのだと思う。だから泣くこともなかったし、昨夜見た兵士の駆け回る夢を語り合うこともなかった。

泣くために、必ずしも相手が必要なわけではない。冬にここへ来るために、必ずしも理由が必要なわけではない。

北へ帰る飛行中には、晴れ渡った大空を見ることができるはずだ。

塵や埃やタイヤ跡にまみれた都会の滑走路を、飛行機の車輪が揺れながら走る時、風の吹き荒ぶ突堤で、自分が深々と海風を吸い込んだことを忘れてはいなかった。海藻と魚の匂いの混じるその海風を、人や車の雑踏まで持ちこたえ、そこで体内から弾き出すことも忘れなかった。

彼は思い起こす。季節も知らず到るところに綻んでいた天人雛菊、凛冽たる風、腰をかがめていた木々、灰色の空、藍を湛えていた海、そして、心の中で約束を交わさなかったために現れなかったあの人を。

ただ自分だけが、あの厳しい美しさを共有しているかのようだ。しかし、それを人と分かち合う気にはなれそうもない。心の中には豊かな感覚があった。

「本当に孤独なんだ・・・・」

彼はちょっと笑い、自分自身、そう思うのだった・・・・。

−−1990.1.16 馬公 

Vivien's note :
下品な冗談を連発しながらバカやってる陳昇は、実は世を忍ぶ仮の姿。ガラス細工のように繊細で透明な心、孤独であることを恐れない強靭な精神。この小説の主人公こそ、陳昇の本質ではないかと思います。

菊島は澎湖島の別名。この小説にも出て来る天人雛菊から由来すると思われます。



細漢仔


そこで、
僕たちは生命の無常を嘆き、
全てはいつもの静けさを取り戻す、
僕たちには見分けようのない得と失、
それは予想していたものだろうか?
それとも全く意外なものだろうか・・・・・。


僕は突然、あの年、彼が話したことを思い出した。彼は言った。「老大! お前気づいてる? 大部分の人間はみな、台北こそが台湾だと思い込んでる。文明は自分が承認しないものを汲み上げて養分にしてるんだ。見ろよ、この山、この水を。教えてくれ、人間は要らなくなった物を放棄したいと思っているのだろうか・・・・・。ハンバーガーに挟んだ肉と野菜、食べる時、それがどこから来たのか想像しようとする者なんていない・・・・・。本当に変だ。いったい文明が土壌から逃げようとしているのか、それとも土壌が文明から逃げようとしているのか・・・・・」

夜の十時、親方が遥かな山の上から僕に電話をかけて来た。何時間かバイクに乗り、やっと捜し当てた電話だ。多分、疲労の極に達していたのだろう。声には押さえ切れない濁った鼻息が混じり、のろのろと言った。「細漢仔が亡くなったよ・・・・・」

僕は汗で湿った手で受話器を握りながら、言葉を接ぐことができなかった。

「事故が起こったあと、頭がべたっと一塊になって、あいつを収容しようとする病院はなかったんだ。わしらは仕方なく、その夜のうちに南部の故郷に連れて帰った。帰ってから、すぐに死んだよ」

「だけど・・・・・。まだ二十代なのに!」

「友達はみんなそう言ってる。だがお前にも分かるだろ。人はあいつのように、一生世界から逃避するわけには行かないんだ。こんな事になるなんて、誰も思いもしなかったよ」

「出棺はいつ?」

「はっきりしない。お袋さんはできるだけ質素にしたいと言ってるが・・・・・」 電話を切って窓のそばへ行き、向かいの町が夜中を過ぎても、なお止むことなく賑わっているのを眺めた。十年前、僕と細漢仔は一緒にここへやって来た。僕たちの育った環境は似ていたが、運命が互いを未知の両極へと押しやったのだ。僕は、あの痩せて弱弱しい、人込みの中では決して人目を引くことのなかった、悩みと苦しみを共にした兄弟のことを思った・・・・・。

あれは初冬の早朝だ。僕たちは棲蘭山行きのバスに乗っていた。

「あと半年で徴兵だ。この仕事は長くはやれないと決まってる。時々、自分が何をしたいのか本当に分からなくなって、こんな風にふらふらしてしまう!」

「ちょうどいいじゃないか? 俺たちが勉強してた頃の夢にぴったりだ。お前、今、世界の大道を流浪する小さな覇王になった気がしない?」

「こんな日々も長く続くと煩わしいだけだ・・・・・。老大! 考えたことあるかい、俺たち、こんな風に南へ行ったり、北へ行ったり、どれぐらい家に帰ってないんだろう?」

「多分、もうすぐ二年になる! あーあ、専門学校か何かを受けて、ちょっとやってみるべきだったって、とっくに気づいていたんだけど、どうせ・・・・・」

「どうせも何もないだろ! 両足の間にはちんちんがついてる。どこへ行っても何とかするさ。王永慶って人は国小だって卒業してないんだぞ!」

あの頃、いわゆるヒッピー風というものがようやく台北にも伝わって来て、細漢仔はリンゴ印の青いベルポトムのジーンズを穿き、それが破れるのを待ち切れず、早々と剃刀で両膝に幾筋か破れ目を作っていた。

あの年、ようやく大人びて来たものの、髭が生えて来ないので、細漢仔はアルコールを買って来ると、朝晩、唇の上や頬、胸にでたらめに擦り込み、髭や胸毛の発毛を助長する秘法だと言った。Wood Stock 画報に載っている人々を、彼は寝る前にいつも一通り自分と見比べ、画の中の人みたいになると言ってきかなかったのだ。

「俺たち、アメリカへ行けばいいんだ。ここで生きていても、ますますつまらなくなる。何もかも当然のことばかりだ。対抗したり、造反したりできるものが何もない・・・・・」。画報を見終えると、彼はいつも僕にそう言った。

「アメリカへ行って何に反対するんだい?」。僕は尋ねた。

「You are so boring!!」。ちょっと白目を剥くと、彼はこう言った。

「船に乗るのはどうかな?」。いそいそとまた新しい考えを思いついて言う。彼が手当たり次第に持ち帰った、船員試験の申込書を持って来て、僕は真面目に一通り眺めてみた。

「こう書いてある。まず一万元の保証金を払い込むこと。そうしないとこの丙種船員か何かの試験は受けられないんだって!」。彼は申込書をひったくった。

「やめた! やめた! 一万元なんてどこから出て来るんだ? 今、一万元あったら、ここにへたりこんでるもんか! Boring くそ!」。言い終わると、自分でその申込書を引き裂き、また窓の前に座って、しばらくの間ぼんやりする。

僕たちが棲蘭山に着いた時には、蓄えをすべて使い果たしていた。細漢仔は車を降りると、石ころ道を狂ったように走り回り、高い叫び声をあげた。

「くたばっちまえ! 名誉も財産も! 俺はもう二度と帰るものか、あの欲望が充満している大都会にはな」。言い終わっても、まだ遠い山に向かって叫んでいる。

山の上にはカラスの群れがいて彼をまねた。深い谷あいにある、ずっと霧と靄に遮られ、行き先も見えない渓流の彼方に向かって飛びながら、カラスもカアカアと鳴き声を返していたのだ。

僕たちの親方は色の黒い山地の男で、檳榔を噛みながら、傲慢そうに歯の隙間から言葉を吐き出した。

「あー・・・・・」。とても長い声を、喉から腹の底まで呑み込む。

「生っちろいガキどもめ、都会ではやって行けなくなったんだな。お前たちがこの山の中にどれだけ留まっていられるか、わしに当てさせろ・・・・・。うん! せいぜい三日、三日だ! 今までになかったぞ。お前たちのようなガキが退屈なのを我慢して、この場所に一週間も留まったことはな」。僕は、彼の皺だらけの顔と、細漢仔にはきっと羨ましくてたまらない唇のまわりの無精髭を見ていた。口の中の黄色い歯は、終日休むことなく噛んでいる檳榔の創り上げた偉大な功績に違いない。

「まず行って荷物を置いてきな! この寮は華麗な御殿とは比べ物にならないが、長く住んでると魂を清浄にしてくれる」。彼は奇妙な横目で僕たちを見ていた。

「山中には歳月はない、聞いたことあるか。数分の内にすぐ日が暮れる。ここはあまりに遠過ぎて、文明の産物は何も伝わっては来ない。テレビなんて、もう何か月も見たことがないな。ちょっとしたら飯だ。自分たちでごろごろしていろ!」

僕は細漢仔の興奮している顔を見ながら、心の中では口に出せない落胆を感じていた。彼は僕の肩をたたいて言う。

「少しは喜んだらどうなんだ? すごいよ。俺はここで修練して仙人になることに決めた」。言い終えると戸を突き破るように出て行く。凍りそうになっている石ころ道を、彼がつまずきながら駆け回るのを見た。口と鼻から熱気が立ち上っている。親方は振り返って僕に言った。

「お前たち、運が悪いな。今年は恐らく雪が早いだろう。雪が降り出す前に早いとこ、わしらはこの山の白菜を収穫し始めなきゃならん。ここからあそこへと・・・・・」。僕はさっきカラスが飛び去った谷底を見下ろした。

夜、うなりをあげる寒風の中、僕は何とか眠り込んだが、細漢仔の夢の中の寝言に何度も起こされた。眠る前に心を決めた。明日、始発のバスでここを出て行くと彼に言うんだ。さらにこうも言おう。ここへ仕事に来たのは、彼ひとりの馬鹿げた考えで、それに応えて一緒に来たのは、彼をひどく失望させたくなかったから。それに、実際にはどこへ行けばよいのか分からなかったから・・・・・。

「老大、早く起きろ! 早く起きろよ!」。二日目の早朝、細漢仔はベッドを揺すって、僕を起こした。

「雪だよ。早く出て来て見てみろよ!」。彼の頬は凍えて血の気がなく、ズボンの裾にはまだ溶けていない雪がついていた。颯颯と吹く寒風の中、寮の門を押し開くと、目に触れる所は全て真っ白で、目を刺して痛いばかりだった。生まれてからこんな光景は見たことがなかった。不思議な気持ちで風の中に立ち、彼がターザンをまねて、胸をたたき、遠い山に向かってイーヤーイーヤーと叫び始めるのを見ていた。

僕の丸めた雪が、彼の頬にまともに命中し、ふたりは興奮して雪の中で取っ組み合いを始めた・・・・・。


あの年の冬、僕は山の中で丸々半年を過ごした。風雪で山道が崩れたために、早朝のバスは二週間後まで来ることはなかったのだ。

日中、僕たちは急いで白菜を刈り取り、夜は老米酒とともに冷たい白菜を食べた。僕に残ってくれと頼む者はいなかったが、朝、目が覚めると、みんなのまねをして檳榔を口に放り込み、口腔を清潔にすると、うがいを終えたことにして、雪に覆われた石ころ道を踏みしめ白菜畑に向かう。仕事が終わると、みんなは寮に集まり、屋外は風雪が激しく吹くのに任せて、またたく薄暗い蝋燭の光の中で酒をあおり、山歌を歌い、その後、アルコールが回ると深い眠りに落ちる。僕はその重視されている感覚が好きだった。十九歳の僕は、初めて、誰かに必要とされていると実感していたのだ。

白菜畑の収穫がまもなく終わろうという時、僕と細漢仔は天秤棒を地面について、山道の果てを見ていた。黒い服を着て、白いバイクに乗った中年の男がのろのろとやって来たのだ。親方が僕たちの前に案内すると、彼は口を開いた。

「お若いの、ここに来て長いのに、わしのとこに戸口の流動の報せにも来んで、ここにふたり若者が来たと聞いたもんで、こんな風に一山一山捜して、少なからず時間を無駄にしたぞ!」。その中年男はちょっと面白くない様子で、親方はあわてて執り成そうとした。

「おやじさん! もう来てしまったんだから、一緒に飯でも喰いましょうや! 仕事は切り上げよう。お前たちふたり、火を熾して白菜を煮て、はるばるやって来たお巡りさんにお礼を言うんだ」

「結構だ! 今帰れば、まだ日暮れまでに間に合う。この二枚の兵単は転々とわしのとこまで転送されて来た。君たちのものに間違いないな! 封筒の中にはいくらか金も入ってる。多分、家族がついでに寄越したんだろ。ちょっと数えて受け取ってくれ!」

僕と細漢仔は、その兵役通知書を手の平にのせたまま、親方とその警官が去って行くのを目で追ったが、彼には尋ねることもしなかった。この手紙がどのようにして、風の中の塵のように、はるばると山の中まで送られて来たのか。しばらく考えてみても、思い出せなかった。僕たちが一緒にここへ来たのを、誰が知っていたのだろう?

みんなは早目に仕事を切り上げた。寮には感傷的な気分が加わり、親方は魂を失ったかのような細漢仔をちょっと押すと、パチパチと音を立てている薪を眺めて言った。

「みんな酒を持って、ふたりの小さな兄弟に敬意を表そう。わしはやつらを見くびっていた。三日も持たないと思ってたが、ちょっと数えてみても半年余りだ。ありがとよ。でなきゃ、わしの白菜畑は恐らく少なからず廃棄処分になるとこだった」

「飲んでくれ! 明日、もし起きられなければ、わしが山道に穴を掘ってバスを停め、お前たちを待たせてやるさ。ハッハッ・・・・・」。草が生えそうになった山塞の頭目のように笑い出す。

僕たちは大いに飲み、一座の人々は笑いさざめき、しばらくすると、すぐに別れが来るという感傷も溶けて消えてしまった。ただ細漢仔はじっと薪のそばに座ったきり、僕たちがどんなにからかっても、全く反応しなかった。

眠りについたあとも、彼が何度も寝返りを打ち、時には起き上がる気配さえして、心の中で思った。細漢仔はどうも辛い決定を下そうとしている。

夜が明けると、彼は両手で顎を支え、ベッドの縁に座って言った。

「老大、ここでの日々は、俺の一生で最も他人を必要としない、そのうえ、本当に充実感のある時間だったと思う・・・・・、卒業したあと、俺には分かったんだ。俺たちが子供の頃、絶えず紡いでいた夢は、実際にはあまりにも遠いものになってしまった・・・・・」

僕は口一杯に歯磨粉を含んで、洗面台の前に立ち、鏡の中のなおも頭を垂れ、ベッドの縁に座っている彼を眺めていた。

「細漢仔! 現実的に言えば、ここが多分もう世界の果てだよ。責めるなら、責めろ。俺たちの暮らしはずっと行き詰まっていた・・・・・。あんなに長く一緒にいたんだから、お前の心の中にどんな考えがあるのか、俺に分からないなんて思わないでくれ。兵役にはやはり就くべきだよ。たった二年じゃないか・・・・・」

「俺が恐いのは、全てのことがそんなに単純でなくなることさ・・・・・」

「お前は小説を読み過ぎたんだ。世界は一枚のカバーのようなものさ。どうしたって逃げられっこない。たとえ初めはそう思っても・・・・・。船に乗るのもいいけど、いつか岸に上がる日が必ず来るんだ。少し現実的になれよ!」

彼の老いた母を思い、早くに死んだ父親を思った。責任を負うつもりなどないかのような彼の態度を思うと、突然、少し怒りを覚えてしまった。

「それに兄弟、最初に決めたことだ。俺が行くところへ、お前も行くって!」

彼は頭を振り、拳を握って絶えずベッドを叩きながら、顔を歪めて言った。

「もう構うな。お前ひとりで行け。今度はお前ひとりで行くんだ・・・・・」

僕は怒鳴りつけた。うがいの水をズボンに飛び散らせながら、怒りと恨みから彼を罵った。

「くそっ! 気でも狂ったのか。ここは天国だって本当に思ってるの。馬鹿言うな。忘れちゃだめだ。俺たちにはまだやってない事がたくさんあるだろ!」

「ここに住めば、半年もたたないうちに、お前は完全な腑抜けになっちまう!」

この瞬間、口をついたのは、実は僕自身が心配していたことである。異なる場所で生活すれば確かに違いがあるが、その違いがどこにあるのか、僕は決して理解してはいなかった。十九歳のガキは、不確かな夢を抹消するために、ほとんどどんなことでもやってのけるものなのだ。

ここで生き、雪と泥の混じった匂いを呼吸するのに比べると、過去の都会での生活は、確かに「いい加減なもの」だったと言えるだろう!

僕は彼の満足を嫉妬していたのだ。細漢仔が一夜のうちに少なからず成長したことを知った。これほど長く一緒にいて、これが初めて、彼が自分の人生のために下した決心だった。


石ころ道に立ちバスを待ちながら、彼は煙草に火をつけ、口の端に咥えると、両手をだらしなく上着のポケットに突っ込んだ。何か月も剃っていない髭はやっと黒く伸び、洗ったことがない衿はテカテカと光っていた。そのため彼はいかにも奇怪な誇りに満ちているように見えた。

「後悔するなよ・・・・・」。僕は彼を揶揄した。

彼は少し肩を聳やかすと、頭を谷の方に向けた。カラスの群れが、白菜畑を鋤き返した時に露出した、泥の中の虫を争って突付きながら、カアカアと一団になって飛び回っている。

「言伝はあるかい?」

彼はポケットから分厚い封筒を引っ張り出すと、僕の面前に差し出し、あっさりと言った。

「お袋に渡してくれ。もう金は送るなって。面倒だけど伝えてくれ。何もかもうまく行ってる。正月には帰るからって・・・・・」

バスが石ころ道をガタガタと動き出した時、彼があのカラスの群れを追い回しているのが見えた。地面の出っ張りやかかり始めた靄の中に身を隠し、驚いたカラスは一斉に鳴き声を上げていた・・・・・。


道に迷った感じがずっと何年も僕を悩ませていた。多分、卒業後に始まったのだろう。送別の歌をそっと歌ったあの時、少年たちが教室の隅で輪になって、互いに慰め励まし合った時、臍の緒を断ち切られるような痛みを少し感じた。気持ちは弾んでいたが、考え過ぎると、また行き場所が分からないという憂いに囚われるのだった。

まるで楽しいパーティが終わり、ひとりで暗い家路を辿っているようだ。

「もう意外なことは起こらない!」。どこへ行っても、誰かが僕にこう言っているように感じた。除隊してから、また放浪の旅を始め、方々で職を探したが、いつも拠り所となるものを見出せず、しばらくして、その感じが本当に死ぬほどいやになった・・・・・。

二十五歳の時だっただろうか、僕はある広告会社に落ち着いた。

また冬だった。会社にひとりの農夫が現れた。軍用ジャケットを着て、髪は肩まで伸び、皮膚は炭のように黒い。僕を見つけると「ヘッヘッヘッ」と朗らかに笑った。同僚たちはみな横目で、この文明世界では見かけない怪人を盗み見た。

「ハハ! これはいったい何だ! まことに不思議だ!」。彼は僕のネクタイを引っ張りながら笑った。

「珍しいな! 暇つぶしにも来ないで、どうやらうまくやってるようだね」

「やり切れないほどいい! 修練ももう悟りを開くところだ・・・・・」。言い終えると突然僕の手を掴み、思い切り握った。ごつごつとして力がある。僕はただ頭を振りながら、無言で馬鹿みたいに愛想笑いをするしかなかった。

なおも少しばかり悪ふざけと古臭い話題を交わしながらも、互いに心の中ではすでに推し量っていた。この数年の間に、生活が僕たちの友情から何を吸い取ってしまったのだろう。時間が確かに僕たちの距離をまた少し遠ざけたのだった。

大部分の時間、僕はただ聞いていた。しかし彼もまた自分が用心しながら話していることに気づいていた。その夜の話が終わろうという時、彼はこんな心を昂ぶらせる結論を出した。

「老大! お前気づいてる? 大部分の人間はみな、台北こそが台湾だと思い込んでる。見ろよ、この山、この水を。俺に教えてくれ、人間は要らなくなった物を放棄したいと思ってるのだろうか・・・・・。ハンバーガーに挟んだ肉と野菜、食べる時、それがどこから来たのか想像しようとする者なんていない・・・・・。本当に変だ、いったい文明が土壌から逃げようとしているのか、それとも土壌が文明から逃げようとしているのか・・・・・」

僕には分かった。細漢仔は頭の中に自分に合った生活哲学を醸成している。それは正しかったし、また間違ってもいた。

僕は兵役を済ませるように勧めた。その話を、彼は一言も真面目に聞いていなかったと思う。その夜、一緒に夜を過ごそうと、彼を引き留めたりはしなかった。

彼を階下まで送り、車に乗せようとした時、ふたりとも固くなって黙り込んでいた。ただ全ての話はもう話し尽くしたとでもいうように。やっとのことで、彼は絞り出すように言った。

「今回はお前が俺を送ってくれた。暇が出来たら山に来いよ・・・・・。都会人・・・・・」

僕は憂鬱な気分で、その「都会人」という三文字に込められた特殊な意味に気づき、急いで彼のために車を停めようと手を振ったが、彼は言った。

「必要ないよ。俺は少し散歩する・・・・・」。しばらくするとまた空を見上げ、小声で言った。

「台北には雪が降るのかなあ・・・・・」

僕が彼に会ったのは、それが最後だった。去って行くその後姿を眺めながら、ひとり道端に立ち尽くしていた。タクシーがしきりにそばで探りを入れたが、突然、空っぽの気分になり、どこへ行けばよいのか分からなかった。冷え冷えとしていた。遥かな棲蘭山には恐らく雪が降っているだろう!

細漢仔は寒帯に生きる生物だったが、その血は熱くたぎっていた。彼は当然凍る山野、乱れ飛ぶ黒ガラスに属すべき人間だ・・・・・。そして自分自身に属している・・・・・。

しかし僕は? 事務机、混雑する都市に属している。そして他人に属している。夜中を過ぎてもまだ賑わっている人や車を眺めながら、自分が自分に対して責任を負っていないと感じた。

僕は手を筒のように丸めると口のそばにあて、細漢仔が去って行った方向に向かって、イーヤーイーヤーと叫び声を上げ始めた。あの年、彼が山でしたように・・・・・。

一台の救急車が動転したように、風を追いかけるように、僕のそばを飛び去った。

「Somebody is dying!!」。僕は思った。

凛冽な風の中に長い間立っているうちに、自分がなぜ全てに対してあれほど無関心になったのか、不思議に思えて来た。その夜、細漢仔が去る前に言い捨てた言葉を何回も思い返した。

「台北には雪が降るのかなあ」

ぼんやりと分かった。この言葉の中には、まだしばらくの間、僕にはよく理解できない道理が隠されている。

しかし僕の兄弟細漢仔は、こうして目もくれずに見切りをつけ、背中を向けて行ってしまった。誇り高く、自分勝手に、無責任に・・・・・。


再び別れてから四、五年がたち、やっと耳に届いたのは、またしてもこんな突然の便りだった。

向かいのネオンサインはなおも賑やかに輝いている。僕は煙草に火をつけ、親方が電話で力を奮って口にしたことを思っていた。

「あいつは峠の検査哨兵を避けるために、人の通らない運柴便道を選んだんだ。・・・・・何年もいつもそうだった・・・・・。実際には山の管区警員はみんな知っていたのになあ。お前が行ってしまった年から今まで、細漢仔が兵役から逃げてるってことを・・・・・」

「あいつもすっかり自分の分に安んじていたのに、誰が余計なことをして構うものか?」

「何年も行き来した道なのに、あいつは車を谷に向けて何丈も落ち、渓谷に一晩放り出されたんだ。二日目に運柴車が通りかかったからまだよかった。谷底に群れ飛ぶ黒ガラスを見て変に思い、車を停めて調べてみたので、やっとあいつが発見された・・・・・」

「人が担いで戻った時には、頭がぶち割れ、べたっと一塊になっていたが、まだ息はあったんだ。慌てて山の下へ運んだが、収容しようとする病院はひとつつもない」

「わしらはその夜のうちに、あいつを南部の故郷まで運んだのさ。お袋さんに会ったとたん、やっと息を引き取った・・・・・」

「本当にすまないことをした。二日も辛い目に会わせちまって・・・・・。もう少し早く発見していたら、きっとまだ望みがあったのに・・・・・」

指の間に挟んだ煙草が燃え尽きて手を焦がし、我に返った。

窓の扉の上を水がすーっと滑り落ちている。天気予報によれば、今日は寒気流が襲来し、雨の降る冷たい夜になりそうだった。

「雪が降るのだろうか? 台北!」。僕は突然、心の中で期待を始めた。

向かいのネオンサインはなおも懸命に光を振りまいていたが、僕は何か軽やかな音が聞こえるのを感じた。その音は、しとしとと降る雨に呼応するかのように、僕に向かって呼びかけている。

上着を引っ掛け、煙草の箱をポケットの中で握りつぶすと、何も感じないままドアを回転させて階下へ降り、本降りに変わった雨の中で立ち止まった。

雨は蒼白な街燈の下を軽やかに飛び交い、燈光を取り巻く無数の虫のように見えた。僕は目を細め、もっとはっきり見ようとした。

睫毛に何か重くまつわりつくものを感じ、自分の話す声が聞こえた。

「細漢仔、今度はどこへ逃げようというんだい? 世界は一枚のカバーだ。その上には多分、もう逃亡できる場所なんてなかったんだろ? 馬鹿なやつ・・・・・」

通りかかったパトカーが向かい側でゆっくり停まると、車上の人が窓を下ろし、警戒するような目で、雨の中に突っ立っている僕を見ている。

 力いっぱいポケットから手を引き出し、友好的に手を振ろうと思っていたのだが、突然・・・・・一粒の透明な冷たい氷の珠が手の甲に舞い降りた。

僕は息を凝らし、用心しながらそれを街燈に近づけ凝視した。力を入れて息をすると、溶かしてしまいそうで恐かったのだ。

手の甲の氷の珠は、針が皮膚を刺すように、心の中に絞るような痛みを引き起こした。

「ありえない・・・・・、ありえないよ・・・・・」。僕は低く溜息をついた。

かさかさとまた音が聞こえた。袖の上、髪の上、睫毛の上、広げた手の平に、そっとまた真っ白な粉末の結晶が落ちて来た。

「雪だ! 雪だ!」。僕は雨に濡れた夜の街頭で、狂ったように叫び出した。あの年、細漢仔と遥かな棲蘭山でしたように。

向かいのパトカーはまた慌しく走り去って行った・・・・・。残された僕はひとり、紅い煉瓦の上を狂ったように舞いながら、地面に落ちてすぐに溶けてしまう氷の珠を拾い続けた。

両手を筒のように丸め、暗い空の遠い果てに向かって、僕は狂乱したように叫ぶ。

「細漢仔! 雪だ! 細漢仔! 台北に雪が降っている・・・・・」

「お前、聞こえたかい?」

−−1989.12.14 すでに沈黙した僕の友を悼んで−− 新世

Vivien's note :
死んでしまった友への追憶ほど、切ないものはありません。もう伝えることが不可能になってしまった思い、その行き場所のない悲しみが伝わって来て、何度読んでも、ラストでは涙がこみあげます。
「しかし僕の兄弟細漢仔は、こうして目もくれずに見切りをつけ、背中を向けて行ってしまった。誇り高く、自分勝手に、無責任に・・・・・」。この部分は何度か読んだあと、急に涙がこぼれました。無責任に去って行った友を責めているかに見えて、実は、陳昇は自分自身を責めているのではないか、と思い至ったからです。友をそんなに風に行かせてしまった自分自身を咎める、取り返しのつかない悲しみが、この「無責任」という言葉にはこめられている、そんな気がします。

ふたりが棲蘭山で別れを告げるまでのエピソードにも心惹かれます。ふたりの男の子の放浪、山での生活など、今だに青春映画が大好きな Vivien は映画にしたいなんて思います。主演は陳昭榮と任長彬の「青春神話」コンビにしようかな。親方は誰がいいかなあ。兵役通知を持ってやって来るお巡りさんは、絶対、顧寶明よね。



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