2000年5月24日
里山保全の意義 第2章 環境浄化に必要な里山
金川貴博
2-1.霞が浦の富栄養化
環境浄化は私が専門とするところ(研究テーマは微生物を利用した環境浄化技術の研究)であり、専門的な話が混じるがご容赦願いたい。
茨城県の霞が浦は、夏になるとシアノバクテリア(藍藻)の一種であるミクロシスティスが大量に増殖して湖が緑色になるという現象(アオコの発生)が毎年のように起こっていた。以前に、アオコ発生時に湖岸からバケツをいれたら、お茶室で飲む抹茶のような水が汲み上ってきた。これが表面だけでなくて、かなり下の方の水をくんでも鮮やかな緑色で透明度のない液であった。このアオコがやがて腐って、湖岸に悪臭を放った。現在は、発生するシアノバクテリアの種類が変化して、アオコは少なくなったが、水質は相変わらずひどくて、COD 8.4mg/l、窒素0.9mg/l、リン0.09mg/lという状況である。環境庁が告示している環境基準からいくと、水道水として使える基準の2倍以上の値であり、「薬品注入等による高度の浄水操作、又は、特殊な浄水操作で工業用水として使える基準」や、「国民日常生活(沿岸の遊歩等を含む)において不快感を生じない限度」(COD
8mg/l以下)をも超える汚染である。私はこの湖の水を水道水として毎日飲んでいるのであり、浄水器を通したものを沸騰させてから飲むように心がけているが、安全性には不安がある。ちなみに、琵琶湖の場合は、汚染が進んでいる南湖でもCOD
3.0mg/l、窒素0.4mg/l、リン0.02mg/lで、水道3級(前処理等を伴う高度の浄水操作と臭気物質の除去が可能な特殊な浄水操作を行うもの)の基準以内である。
アオコなどが発生するのは、湖の汚染がひどくなったためで、特に、窒素やリンなどの栄養塩類の濃度が高いこと(富栄養化)が問題になっており、このため、霞が浦へ流れ込む工場廃水や下水処理水については、窒素とリンの濃度を一定値以下にするように義務づけられている。
日本の湖沼や内湾は富栄養化している所が多く、東京湾は、窒素1.3mg/l、リン0.1mg/lで、霞が浦より少し悪い状況である。東京湾の湾内のほとんどの部分でCODは8mg/lを超えている。
2-2.里山の窒素除去能力
雨には、自動車排ガスなどに由来する窒素酸化物が含まれており、そのまま川へ流れ込むと富栄養化の一因となるが、森に降った雨は、森で浄化されて窒素酸化物が減少することが確認されており、里山が窒素除去に貢献していることはすでに明らかになっている。
2-3.里山のリン処理能力
里山がリンを処理するという話は聞かない。里山にはリンを除去する能力があるが、リンは雨に含まれていないので、里山はリン除去に関係がないように思われている。しかし、私は、リンと里山の関係について、重要と思われる事を1つ指摘しておきたい。
水の中に流れ込んだリンは、固体の状態でしか水から除去できない。もしも生物の働きかけがなければ、リンは水の流れとともに川を下り海へと流れて、海に蓄積する。途中に湖沼や内湾があると、そこでリンが滞留して富栄養化を起こすことになる。しかし、何者かがリンを水から引き上げれば富栄養化は防止できる。リンは生物体を構成する重要な元素の1つであり、どの生物にも含まれている。したがって、水中で生育した生物を陸上へ引き上げることは、水中のリンを除去することであり、適正な漁業はリン除去に大いに貢献する。トンボ、蚊、カエルなど水中で育って陸へ上がる生物もリン除去に貢献する。水鳥の存在も重要である。干潟や浅瀬や湿地で餌をついばんで、森へ糞を落とせば、リンが水中から除去されて森へと運ばれることになる。実際のところ、肥料や化学工業で使うリンとして、かつては、海鳥の糞やその化石(グアノ)が使われた。現在ではグアノはほとんど掘りつくされて、現在のリン資源は大陸棚に積もった生物の遺骸の由来するものを主に使っているが、この例からもわかるとおり、リンの除去には生物の作用が大きい。
リン除去に貢献する生物の住みかとしての役割が、里山にはある(自然林にもある)。回りくどい話であるが、この役割が水質保全に大きく貢献していると考えている。
2-4.干潟と水鳥と里山
諸外国で都市化した場所の跡地を見てみると、多くのところが砂漠化している。こんな砂漠になぜ都市を造ったのかと、以前は不思議に思ったものだが、都市が成立した頃は緑豊かな場所で、それが時の流れとともに砂漠化したようである。
江戸は、大都市でありながら、砂漠化しなかった。降水量が多いという事情もあるが、水鳥が多かったことが重要であるという指摘がある。江戸への食糧供給は、そのまわりの農地から行われたが、その農地のそばには里山(武蔵野の雑木林)があった。昔の里山は農地への肥料供給の場として重要なもので、江戸周辺の新田開発では必ず農地と里山とをワンセットにしたという記録が残っている。この時代のリンの動きを見てみると、農地のリンを栄養として農作物が育ち、これが江戸へ運ばれ、これを食べた人が糞尿を排出し、この糞尿が買い取られて肥料として農地へまかれることでリンが農地へ戻される。戻されなかったリンはそのまま川へ海へ(東京湾へ)と流れていった。東京湾へ流れ出たリンを栄養として魚が育ち、これが江戸前の魚として消費されることで、リンが陸地へ戻された。また、水鳥が干潟や湿地の生物を食べて、ねぐらである里山へ帰ってきて糞をすることで、リンが里山へ戻った。もっとも、水鳥の全てが里山をねぐらとするわけではないから、水鳥が海から陸上へと引き上げたリンが里山へ帰るまでには、他の様々な生物の関与が必要であったと考えられるが、このようなリンの循環があって、東京湾は富栄養化を免れ、里山は栄養が補給されて砂漠化を免れたのであろう。
この話は定量的ではないので、どの生物がどれくらい関与していたかが不明で説得力が乏しいが、生物の関与がなければ、海や川へ流れ出たリンを里山へ戻すのは不可能である。里山が栄養不足にならず、東京湾が富栄養化しなかったのは、江戸の街でのリンの循環がうまくいっていたからで、それは生物(ヒトを含む)の作用によると考えられる。
水質汚濁の防止というと、現在では下水道事業のような土木工事ばかりが強調されるが、生物の生態系を良好に保つことによって環境を保全することも考えないと、環境保全にやたらと石油エネルギーをつぎ込むことになる。現在の政治の状況では、環境保全に役立つ重要な部分をどんどん壊す工事、つまり、河川や溝のコンクリート化とかダムや河口堰や水門や港の建設とか埋め立てやらが税金を使ってやたらと行われるが、土木工事に伴う政治家への利権を断ち切るだけではなく、生態系の有する環境浄化力を定量化してその重要性を明確にして環境保全に努めないと、環境悪化がどんどんと進みそうである。干潟や浅瀬や湿地と水鳥と里山という組み合わせが一度崩れてしまうと、再び元の姿に戻すことは不可能である。良好な生態系が有する環境浄化力の重要性が広く認識されて政治に反映される前に生態系が破壊されてしまうと、もう戻せなくなってしまう。干潟や浅瀬や湿地と水鳥と里山とこれを取り巻く生物群という組み合わせを、できるかぎり残すことが重要と思う。これが、私が考える里山保全の第2番目の意義である。
2-5.科学技術と環境保全
環境問題も科学技術で何とかなるのではないかと楽観している人もいる。多少は何とかなる部分もあると思うが、根本的には、環境保全は自然生態系の有する力に頼るべき問題であると考える。
自然環境中には多種多様の生物が存在していて、これが互いに様々な相互関係を有しており、中身が複雑である。科学では、構成要素を1つずつ切り離して、これを1つずつ分析するのが一般的な手段であり、構成要素として切り離せないような対象物や、切り離した後で再構成できないような対象物が相手になると、解明が難しくなってくる。科学は、単純化(数式化)できる分野には強いが、生物とか自然とか環境というような複雑な事柄を相手にした時には、限界を露呈することになる。
私の専門は細菌である。細菌の研究は細菌を純粋に培養することが第1歩であり、純粋培養できないと研究が進まない。第1章で述べた野口英世は梅毒菌の純粋培養に成功したことが彼の一番の業績であり、同じ手法で黄熱菌の純粋培養に励んだのである。このように、純粋培養を基本とするが、自然界の多くの細菌は純粋培養ができない。このために研究が進まない部分がたくさん出てくる。また、細菌が2種類混じっている場合は、研究が難しい。2種類の菌が同時に存在することで特定の働きが出てくる場合、それぞれの菌がその働きにどのようにかかわったかを突き止めることは容易ではない。科学がこんな状態であるから、土壌細菌の生態系などという複雑な相手を対象にした研究の話になると、研究のための手段が乏しくて、データをどの程度まで信用していいのか疑問である。こんなことを書くと研究仲間のデータにケチをつけているようで怒られそうであるが、実際のところ、環境関連の研究において、科学という方法論が持つ力はこの程度しかないのかと困惑する場面は多々あって、環境保全は科学技術ばかりには頼れないという感を強くするのである。環境を考えるなら、科学技術だけに頼るのではなく、むしろ、環境が良好であった時代のことを調べることが必要と考える。昔、人間がどのような生活をしていて、そのまわりにどういう生態系が存在していたのかをしっかり解明して把握しておくことが大切であると思う。江戸時代にまでさかのぼらなくても、ほんの40年前でも、現在とは環境への負荷が全く違っていた。この時代の状況なら、まだ知っている人がいる。似たような生態系も残っている。これを保全しておきたいと思うのである。
こんなことを言うと、また「お前は科学を否定するのか」とまた言われそうであるが、科学でやれるだけのことはやるとして、科学でどうにもできない部分には、それなりの処置を講じなければ人類の生存が危うくなると言いたいのである。環境関係では、科学技術が発達したとしても、どうにも解決がつかないという問題がいっぱいあることを、多くの人がもっと認識すべきである。