巻  頭  言

茂木 完治

 海外溯行同人を設立したのが1998年正月、今年は10周年ということになる。また、同人設立のきっかけとなった台湾溯渓は1982年から始めたので今年は満25年である。会報を作ろうという話は最初からあったが怠けてしまった。ともかく台湾溯渓の始めをまとめて欲しいという若い仲間の要望であった。確かにこれが出ないと若い仲間にはやりづらいだろう。私ももはや若くない。これが最後の機会という思いで台湾溯渓創成期の10年をまとめさせてもらった。

 それにしても台湾の渓谷は凄い世界である。標高差3000m、溯行に1週間以上かかる渓谷である。始めてから25年、いまだに開拓途上である。なんと素晴らしいことであろうか。振り返って見れば最初の10年は黎明期で、台湾五岳を中心に中規模の谷を溯渓した。1993年からは台湾らしい巨渓を探る本格的開拓期となり、現在もまだ続いているのだ。その本格的開拓の記録は次号以降で若い仲間達の熱筆を待って欲しい。

 かつて日本には沢登りの黄金時代があった。1950〜1960年代である。当時、地域研究が盛んで地方の山岳会は毎週末には地元の未記録の沢を踏査したものである。それまでは沢登りは岩登りの前の訓練くらいにしか見られていなかった。地域研究の中で沢登りに魅了され独自の分野とみる考え方が出てきた。私はこれが一段落した70年代始めに大阪わらじの会に入会して沢登りの世界に入った。そして未記録の沢へ行きたいのに先輩に聞くと大方登られていて気勢を削がれることはなはだしかった。沢を巡る世界も沢登りのマンネリ打破のため渓谷登攀が提唱され沢登りの高度化が考えられたりもした。しかし、沢の醍醐味は未記録の沢にある。何かないのかと考えるうちに台湾が目に留まった。九州ほどの小さな島に4000m近い山々がある。当然海岸近くから登れて、しかも樹林限界も高いので標高差3000m以上の沢登りができるに違いないと思った。何とかして行きたいとあがくうち念ずれば通ずであろう、82年に念願の台湾の渓谷に入ることができたのだった。

 海外の沢というと1、2度は行ってもいいと考える人がほとんどで、台湾へのめり込んで毎年通ったのは3人だけだった。10年たって3人参加してきた。もちろん所属会はばらばらである。このままではいずればらばらになって雲散霧消していくのではないか。山岳会によって活動することの限界を感じた。台湾の渓谷の開拓を継続したいという思いが、会を離れて活動できる同人組織を設立させた。同人のおかげであろうか、最近は新たに台湾の渓谷の開拓に参加する若い人達が出てきているのは喜ばしい。

 台湾の開拓で一言念を押したい。台湾の山は台湾の岳人のものであり、台湾の渓の開拓をもっとも熱望しているのは台湾の岳人であるということである。我々はその台湾の岳人と共同で開拓させてもらっているということを忘れないで欲しい。主は台湾の岳人であり、我々は従なのである。いずれ台湾の溯渓は台湾の素晴らしい文化として開花するであろうし、そうあって欲しいと願っている。

 台湾の谷は未記録と登攀の高度化ということでアルピニズムに憧れる先鋭にとっても納得できる世界である。同じような渓谷は世界には他にはないだろうか。そんな思いでニューギニアや南米ボリビアへも行ってみた。南米アンデス山脈の東面、アマゾン源流はその気になれば標高差4000mの沢登りが可能だと思った。中国本土の雲南、チベットにもとんでもない渓がありそうだ。沢登り、世界に目を向ければとんでもない登攀ができる可能性を秘めている。対象は無数である。

 さて、先鋭の世界ばかり語ってしまったが、それでは片手落ちであろう。渓のいろいろな魅力を求めて海外へ出掛けるというのも素晴らしい。歳をとってくると渓と格闘するよりも渓に浸りたくなるものだ。渓は命に満ち溢れてその国の固有の個性を持って待っている。そんなことで韓国の白い花崗岩の渓谷に魅了されて毎年通っている。南洋のグアム島も最高峰が400mしかないのに100mの滝で迎えてくれた。椰子林の沢もなかなかおつである。ニュージーランドの苔蒸した美しい渓も忘れ難い。欧州の谷にもぜひ行ってみたいと考えている。

 海外の渓谷はまだほとんど知られていない世界である。大きな喜びもあれば危険も潜んでいる。海外溯行同人を一つの足場にして、お互いの信頼関係を築き情報を交換しながら、新たな世界を切り開いて欲しいと切に願うものである。