朝鮮通信使の歴史 | |
1.牛窓で考えた | |
オリーブ園より牛窓西港 |
今年の1月の末、うまい魚を食って週末を過ごそうと、日生[1]に行きました。その翌日、牛窓[2]も訪ねた際、偶然に「海遊文化館」に立ち寄りました。この博物館で見たのが、「朝鮮通信使」の展示でした。 「朝鮮通信使の最初の仕事は、秀吉の朝鮮出兵により日本に強制連行された、7万人の人質の返還交渉でした。」 |
この町の名、「牛窓」?その由来を以前から疑問に思っていました。今回この謎[3]も解けました。 当日は冬型の気圧配置で、晴れて風の強い日でした。時期的にシーズンオフでしたから人出も少なかったですね。 澄み切った青空と、青い海。 |
オリーブ園から瀬戸内海東方 |
リゾートホテルと風車風トイレ |
陽光の元、霞む小豆島が遠くに見えます。湾内で浮かぶヨットもゆっくりと眺めたかったのですが、あまりの風の強さに海べりのホテルに入りました。 そこは、エーゲ海風(?)の、リゾート気分満点のホテルでした。大きく開けた窓の先には、ウエディングホールやプールも見えます。漁船やクルーザーの係留してある岩壁も一望の元です。 漸く体も温もり、車に戻ろうとしますと、昔懐かしい建物が正面にあります。 |
それは牛窓警察署の旧庁舎で、見るからに重厚な佇まいでした。入り母屋造りの破風に、金色の桜の紋章がまぶしく輝いておりました。 大げさに言うと、私はここで運命的な出会い(!?)をしました。それがこの博物館-「海遊文化館」-でした。 入り口の掲示板には、「朝鮮通信使資料室」と「だんじり展示室」の2つのコーナーが紹介されていました。私にとって、両方とも興味深い内容でした。 |
牛窓-「海遊文化館」 |
オリーブ園にて-休園でした |
現在、朝鮮(韓)半島は北緯38度線(DMZ:非武装地帯)を境界にして、韓国(大韓民国)と北朝鮮(PRK:朝鮮民主主義人民共和国)に分断されている不幸な現状です。 |
日本の植民地時代[5]以前、江戸時代の日本と朝鮮の関係は極めて良好だった、のを再確認しました。朝鮮王朝は12回にわたって、400〜500名の使節団(朝鮮通信使)を江戸に派遣しています。その道筋は、対馬から瀬戸内海を兵庫・大阪まで船旅で、それから京都経由で陸路、江戸に下ったとのことです。 |
牛窓港にて |
牛窓海遊文化館表示 海遊文化館の展示 |
1592(文禄元)年から7年に渡る豊臣秀吉の朝鮮侵略[8]により、必然的に朝鮮と日本の間の国交は断絶[9]した。戦後、日本国内の実力者であった徳川家康は、朝鮮との国交回復に向けて積極的に働きかけた[10]。 一方、朝鮮側も長期の侵略戦争による破壊からの再建が急務であった。また北方の脅威、即ち中国(余真族)の侵略も防備する必要があった。早急に日本との敵対関係を終わらせたい情勢であったが、日本の新政権の(対朝鮮)外交方針を見極められなかった。 同時期に日本の再侵略の風聞が伝わり、朝鮮政府としても早急な対応が迫られたのであろう。また日本側としても、平和政策を外交の基本として交渉した成果があったのだろう。今で言う機は熟していた[12] |
即ち、冒頭に述べたように、通信使の当初の目的は、秀吉軍の強制連行の犠牲になった、今で言う「拉致被害者」の安否確認と帰還であった。
その後、回を重ねるたび拉致被害者も日本に定住したり、そこで自分の特技を伸ばし始め、必ずしも朝鮮への帰国を望ま無くなったりしました。 |
だんじりの展示 |
通信使をを描いた錦絵 |
外交はあくまでも双方向のものです。 それでは、日本から朝鮮への外交使節はどうしていたのでしょうか?それは対馬藩(つしまはん)が幕府を代行して行った[14]と、されています。 |
先の戦乱[16]に対する真摯な反省を基として、 |
船型だんじり |
現代の半島情勢と日本の関係を見るたび、朝鮮通信使の時代の友好関係の時代から、日本の半島、大陸進出に伴う支配、被支配関係に陥った後遺症が今なお渦巻いています。人間はなかなか歴史から学べない[17]ようです。 若い人たちはもっと歴史から学ぶ姿勢が求められるのではないでしょうか? |
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脚注:
[1] 岡山県西端の瀬戸内海側の町。小豆島行きのフェリーが出る。海産物の豊富なことで有名である。特に牡蠣の養殖で有名。 [2]岡山県邑久(おく)郡牛窓町。現在は町村合併で「瀬戸内市」に変わっている。岡山県東南部の、瀬戸内に面した港町。古くから瀬戸内海運の、風待ち、潮待ちの港として栄えた。直ぐ南は小豆島である。 [8] 「文禄の役」(現地名「壬辰の役」)1592〜、「慶長の役」(同「丁酉の」役)1597〜 [9] この乱以前には、日本からは国王史、朝鮮からは通信使が互いに行き交っていた。 |
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