「なっとう(納豆)」言葉に思う

年をとってくると些か気が短くなり、最近の日本語の乱れはどうなってるんだ!と思わざるを得ない。その典型として挙げられているのが、所謂「あいまい言葉」という。
あいまい言葉

若年層を中心に浸透している、言葉じりをはっきりさせない、あいまいな表現。
相手の反応をうかがうあいまいな言いまわしや、ぼかすような言い方が特徴。

@「お荷物、お預りします」を「お荷物のほう・・・」
A「鈴木さんと話をしてました」を「鈴木さんと話とかしてました」
B「わたしはそう思います」を「わたし的にはそう思います」
C「とても良かった」を「良かったかな、みたいな」
D「やっぱり帰ることにします」を「帰ることにします、うん」など
背景にあるのは「傷つきたくない」という気持ちや、相手と距離を保とうという心理だと分析している。

文化庁:平成11年度「国語に関する世論調査」より

最近日本語を巡る書籍がブームであるという。
その背景には、この国が陥っている閉塞状況の中で、国の文化の本質である
言語のことを究めたいという心理があるのかもしれない、と著者はいう 
 上記のあいまい言葉には、「〜ってゆ〜か」「〜っぽい」もあるそうだ。
これらの言葉の流行る背景にはマスコミの影響も多いにあるのだろう
 しかし根源的な問題として、日本の若い人たちは基本的な常識の面で
(知っておかなければならない事項なのに)知らないことが多すぎるためではないのだろうか?
彼らの知識、一般社会常識、語彙、イマジネーションの不足が、こういった自信無げな
言葉遣いの要因ではないかと思う。
 彼らと同世代の世界の若者達が、歴史的、地理的背景の十分な知識を元にして、
自分の意見を十分に主張するのを見聞きする度に情けなく思う。
(そういう自分も、日本人の特性としての「自己主張が苦手である」のは否めない。
それに対して「嘘つき」との批判も重々承知している。でないとこんな原稿は書けない?)
 詰まるところ、これは改革を怠り、先送りを重ねてきた日本の社会制度-
ひいてはその一端である、教育制度の根本的な欠陥の為であろう。
書き言葉と話し言葉の区別が出来ない。
その訓練が子供の頃からなされていない!
究極は、「自己表現がへただ!」に尽きるのではなかろうか?
それを助長しているのがテレビゲームであり、携帯電話である。

最近、この曖昧表現が目に付きだし、家庭でも職場でも口うるさくなってきている。
そう思うことが、自分自身「若年層」でない何よりの証拠であろう。
それでは諸先生の著作や私自身経験した中から、気になる言葉の例を挙げてみよう。

中では

「わたしの中では」あるいは「自分の中では」というのもあるそうだ。

「その風景は、わたしの中では、潜在的に原体験として残っているんです。」
「あの体験は、自分の中では、やっぱ(これも若者表現)感動的って言うか・・・」
というらしい。

本来なら「わたしにとっては」「自分にとって」と言うべきであろうが、

「〜中では」となると、当事者としての自分の気持をも客観視しているようだ。まるで「自分を冷静に客観的に見ることの出来る男」 ゴルゴ13(*1)のような話だが、これは暑い時に汗臭くなる生理現象やひたすら競り合って勝利を得ること、などを“ダサい”考える心理があるのでしょうか?

「 先生の中では、どの程度の比重を置かれているのですか?」
私自身はそうは思わないが、この言い方をやや不快に感じる人もあるかもしれない。
心理的に、いとも簡単に「心の中」を問題にする無神経さを不快と感じるからかもしれません。「あなたの中では」どうですか?

〜じゃないですか

むしろ私が一番気になるのは、
「○○○って、○○○じゃないですか?」
             との言い方だ。
これはまず疑問文の形をとっているが、実際には断定的な文である。
しかもその主語があまりにも不明確であることが特徴だ。
すなわち(話している)本人が実際にそう思っているのか?
あるいは一般論がそうなのか?あるいは婉曲に同意を求めているのか?
何れにせよこれもどちらにも解釈しうる、立派な、あいまい言葉である。
自分の言いたいことだけを述べ、しかも言いたいこと自体はあいまいにしているので、
相手に反感を与えることもなく聞いているほうは聞いているようで、
ほとんど聞いていない。

 断定をさけるあいまい言葉は、自分の立場を守りながら相手の反応をうかがったり、相手とほどよい距離を保とうとするもので平和な時にはいいかもしれないが、危機的な状況や、厳密な話の中では通用しないことは言うまでもない。

 平成12年の街角での『「ワタシ(私)的には…」のコトバの使い手として一番ふさわしい有名人は?』の質問で受賞した、TVタレントの飯島 愛さんが更に広めたとされているが、ほんとにこの表現が市民権を得てよいのだろうか?

こういう文章を書いていると、自分の頭の中が整理されてくる!?

から
 スーパーやコンビニでの買い物の支払いで1万円を渡すと、「1万円からお預かりいたします」と言う。
「1万円お預かりいたします」でよいと思うが、癖なのであろう。そういえば、施設のカンファレンスや会議などでもこの言葉を多用する若い人がいる。

〜のほう
 これもカンファレンスでしばし多用される。
「それではリハビリのほうは如何ですか?」
「次は療養棟のほう、お願いします」
「Kさんのほうは、右片麻痺があり、上肢のほうは廃用手です」などなど、例に困りません。
ひどい場合にはケース(入所者)を解説する際に、20回ほども「のほう」を使っている
療法士もいるが、本人は全く気にしていない。
というより不自然さに気付いていないのだ。
自分の言葉を文章にしてみるとその冗長、重複に恥じ入るに違いない?

皆さんお気付きのように、文章上、「のほう」はなくとも意味は十分に通じ、
これを省略しても一向に構わないでしょう。

なっとぅ(納豆)語

これは私の造語である。看護婦(今では看護師であるが)が使うことが多い。
今ではあのNHK(「日本の変な言葉使い」、ではなく「日本放送協会」をさす)
のアナウンサーまでが使っている。
これは一番気になる言葉使いだ。

「私は〜〜したいなーっと、思います」
「○○となってほしいなー、と思います」
 
この「なっーと」が納豆言葉の由来です。
皆さん!この言葉を発している方は、本当に何処まで自分の意志がおありなのか、
判断できますか?聞いていると願望(wish)のようであり希望(hope)のようでもあります。
そこには自分の(何としても成し遂げるとの)強い意志(will)が感じられず、
そのくせ婉曲に、してもらうことを他人に期待する心が感じられるのです。
これも甘えの表現ではないでしょうか?日常生活ならいざ知らず職場で管理職が
部下を前にして言う表現でないと思いますが、この表現をする年配の管理職が
多いのに驚かされます。

この表現も英語他その他の外国語では十分に表現できないでしょう。
この表現が会話のなかでどしどし出てくる人との対話は、お断りしたいものです。
思わず{So,what?(それでどうしたの?)}と言ってしまいそうになります。

カナカナ語
 上の納豆語と組み合わせて使われる場合が多い。
「○○○は○○○かな?と思います」とあいまいに言われると
「どうなの?」と思うのは私だけでしょうか?
カナカナ蝉は夏だけにしたいものです。
 医者のあいまい言葉

 えてして医者もあいまい言葉を使う機会が良くあるものです。

その昔は「ガン告知」が一般的でなかったことから、明らかなうそをつく場合もあり、末期になったりするとどうしてもあいまいな表現が多用されることになりました。最近は告知が一般化したこともあり、ガンでの問題は少なくなってきています。これには医療側の自己保身の側面も否定出来ません。

しかし以下の記述はあるホームページから引用したものですが,患者さんの意識はどんどん変わってきています。曖昧な表現が許されなくなるのも時間の問題でしょう。このような指摘があることも十分に考えておかねばならないところです。

(前略)「少し様子を見ましょう」とか「とりあえず検査してみましょう」です。これらは、どんなことを意味するのか考えたことがありますか?
 「少し」というのは、どのくらいの期間なのか、「とりあえず」とは、今すぐなのか、それとも一ヶ月以内でよいのか、非常にあいまいです。
(中略)医者への質問を具体的にすることです。答えが的確なものになるはずです。患者と医者の間に必要なことは、あいまいな会話ではなく、具体的な会話なのです。診察室で医者があいまいな言葉を使う原因は、患者が医者に症状を訴えるとき「最近、腰が痛い」とか「最近、胃が痛い」といった調子で、患者が医者にきちんと自分の症状を訴えていないからです。(中略)
 医者と患者の間には「しばらく」とか「とりあえず」といったあいまいな言葉があってはいけないのです。日本の医療現場からいいかげんな、あいまい言葉を追放しなければいけません。そうすることによって、はじめて医者と上手なコミュニケーションがとれ、上手なインフォームド・コンセントにつながって行くのです。あるホームページのBBS(掲示板)より 
会話は人間関係の潤滑油と言いますし、これらの曖昧表現を全て否定するものではありませんが、
ものには全て節度が必要でしょう。
傷つくのを恐れる余り、自分の意志を明確に表現できない若い日本人が将来、
どうなってゆくかは他人事ではないからです。
しかし多数の意思ある若い人が世界を舞台に頑張っているのも確かです。
こういった方たちの意見ははっきりしていますし、表現する言葉もはっきりしています。
昔もあいまい表現はありましたが、意図は明らかであったと思います。
最近のあいまい言葉の氾濫は、つまるところコミュニケーションの貧困さの象徴と考えられます。
 それを助長しているのが、携帯電話などのメールです。
便利な面もありますが、所詮は一方通行です。これでコミュニケーションしている
思い込みが危険でしょう。互いに目を見あい、表情を確認して話するのが本来の対話でしょう。
電話で感情面の行き違いが起こるのはよく経験するところです。
でも若い人たちは面と向かって言いにくいことでも電話なら喋れる、と言いますが
これは本来本末転倒だと思われます。
 便利な道具には落とし穴が有ります。その有用性を全く否定する物では有りません。
要は十分な判断力がない人(子供や...)には危険な(?!)道具になるとの認識が
必要だと思うのです。「息子の携帯電話代が月に3万円もなる」と平然と話している親は
正常なのでしょうか?
 最後にD.M.P. (Dynamic Management Program)の原理・原則集から、「頭を良くする言葉使い」を紹介して本稿を終わります。これを見ると話し言葉と書き言葉の差はあるでしょうが、今まで自分の書いたり話した文章を省みると、なかなか反省させられるところが多く恥じ入る次第です。

頭を良くする言葉使い

1.いらぬことは言うな、いることだけを言え。
2.結論を先に言え、理由は後から言え、 又は、聞かれてから言え。
3.あいまい言葉は使うな。
思う、べき、はず、つもり、必要なし、すること、等。
4.無意味音,語は使うな。
あァー、あのー、えーと、まあ、どうも、一応、べき、よし、では、等。
5.飾り言葉、ていねい言葉を打ち切れ。
6.質問された言葉で応えよ。
7.1回で済むことは、1回で言え。
8.呼びかける時は、 必ず相手の名前を言って呼びかけよ。
9.常に意志を言え、状態を言うな。

p.s.小学校英語教育の功罪
 英語に限らず、外国語は話せないより話せたほうが良いのに決まっている。

しかし英語はただの意思疎通の道具の1つに過ぎず、しかも本質的に
あいまいさをあまり許容しない言語なので、あいまい表現では自分の意志を
正確に相手に伝えるわけにもゆかない。
 日本人が6年間も学校で勉強しながら英語を話せない一番の理由は、
日本の文化が「あいまいの文化」であることが大であるという。
外国語の習得には、出来るだけ若い頃からの接触が有用との厳然たる事実があるので、
子供の頃から英語教育するのも理由無きことではないが、本末を転倒してはならないと思う。
まず正確な(日本語での)表現を徹底的に訓練させなければ、
話す中身がない、空虚な外国語となることは火を見るよりも明らかである。
(おわり)