北アフリカ、モロッコの旅
 縁あって、2月の初旬から3月の初めまで、「モロッコからタンザニアを巡る、アフリカ旅行」に出かけました。
最大の目的は、アフリカの最高峰(5895m)キリマンジャロの登山です。
先ずは、モロッコの異邦巡りに参加しました。
旅行の詳しい報告は漸次公開しますが、先ずは今回のモロッコ旅行を計画、段取りしていただいた、
カランクルンのH隊長製作の、「旅行の案内」を引用させて頂こう。
モロッコ国旗


日程
Itinerary

モロッコの概要
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北西アフリカの3国、モロッコ、アルジェリア、チュニジアを総称してマグレブと呼ぶ。マグレブとはアラビア語で“陽の沈むところ”の意。その西の端にあるのがモロッコだ。
 まず、簡単にモロッコの歴史から。マグレブの地には太古よりベルベル人が住んでいた。古くはカルタゴ、ローマ、バンダル、ビザンチンの支配を受けたが、それは沿岸部や都市部が中心で全国的にはさほど影響はなかったようだ。ところが7世紀以降、イスラム教布教のためにやってきたアラブ人によって、言葉、町の造り、宗教すべてがアラブ化へと大きく変化していく。その後、ベルベル人、アラブ人による各イスラム王朝が興亡を繰り返す。それと同時に大西洋や地中海沿岸の港町はスペイン、ポルトガルの支配を受けることもあった。そして近代。フランスの保護国を経て、第2次世界大戦後の1956年に現在のモロッコ王国が誕生する。
 マグレブが今の3国に分かれたのは13世紀の初め。モロッコがほかのマグレブ国と違うのは、15から16世紀にイスラム世界の覇者となったオスマントルコ帝国の支配を受けなかったことだ。そのせいか、チュニジアやアルジェリアに比べて先住民ベルベル人の住む割合が全人口の半数以上ともっとも多い。さまざまな歴史の波にもまれながらも、人々は決して民族の誇りを失うことなく「モロッコ人」であり続けてきた。初めてこの地を訪れ驚くことは、ヨーロッパにこれほど近いにもかかわらず、独自の民族文化に溢れていることだ。歴史を知るとさらにその思いは強くなる。また、モロッコはヨーロッパ、アフ リカ、アラブをつなぐ交易の十字路として重要な役割を果たしてきた。その結果、ベルベル&アラブ文化に各国のエッセンスが加わり、多彩なミックスカルチャーが育まれたといっていいだろう。実際、モロッコという国は地域によってかなり異なった文化をもつ。北部へ行けばスペインカラーが強く、大西洋沿岸へ行けばポルトガル色、砂漠へ行けば遊牧民文化、南へ行けばサハリアン&ブラックアフリカと、実に変化に富んだ旅が楽しめる。食事も北から南それぞれに郷土色豊かだ。ほか建築物、衣装、音楽、踊り……とにかくすべてにおいて強烈な個性を放っている。

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正式国名

モロッコ王国 Kingdom of Morocco

面積

45万9000km2(西サハラは除く) 日本の約1.2倍

人口

3220万9101人(2004年)

首都

ラバト Rabat

元首

モハメッド6世国王 Mohammed VI

政体

国王を元首とする立憲君主国家

民族構成

アラブ系65%、ベルベル系35%。

宗教

イスラム教(スンニー派)














通貨

単位はデテキスト ボックス:  ィラハムDH。補助通貨はフランスと同じサンチームCとリアルRIAL。1DH=100C=20RIAL。紙幣は20DH、50DH、 100DH、200DHの4種類。硬貨は5C、10C、20C、50C、1DH、2DH、5DH、10DHの8種類。












両替
 
両替は空港、市内の銀行、両替所、ホテルなどで可能。いずれにも対円レートが表示されており、日本円を両替することができる。両替時にはパスポートの提示要。モロッコでは通貨が厳しく統制されているため、銀行レートはどこでも同じ。ただし、T/Cは地方では両替できない銀行もあるので、都市部で両替しておくこと。基本的に現金とT/Cのレートはほぼ同じ。ホテルではT/Cの両替は宿泊者のみのところが多い。どこで両替してもレシート(両替明細書)をくれる。端数(小銭分)は切り捨てられる場合もあるので、レシートを確認、保管しておくのを忘れずに。また、DHはモロッコ国外では両替できない。したがって 出国時にはDHを外貨に再両替しなければならない。このとき、元の外貨が何であるかを証明する両替明細書が必要になるので保管しておくこと。ATMも普及しているので、クレジットカードにより、DHのキャッシングも可能(ピン=暗証番号必要)。

2007年11月30日の為替レート】

1DH=14.3円、1EUR=11.3DH、1USD=7.7DH、1EUR=162.7円
モロッコの気候
気候気候

マラケシュと東京の平均気温                マラケシュと東京の降水量
時差

日本との時差は-9時間(イギリスと同じ)。スペイン、フランスより1時間遅い。

ドバイは日本時間-5時間。
入出国とビザ

【ビザ】日本国籍で3カ月以内の滞在はビザ不要。
【パスポート】パスポートの残存有効期間は6カ月以上必要。

税関

【免税で持ち込めるもの】免税の範囲は、タバコは200本(紙巻は200本、葉巻は50本、刻みタバコは50g)、蒸留酒1L、香水5gまで。カメラの持ち込みは2台まで。
電圧とプラグテキスト ボックス:  
SEタイプのプラグ
電圧は110Vと220Vで周波数は50Hz。110Vは古い建物に多く、最近は暫時220Vに切り替えられている。プラグタイプは丸穴ふたつのCタイプと3つ穴のSEタイプ。
またモロッコは特に砂漠地方では停電が多いので、懐中電灯が必要だ。









モロッコの水
水道水は避け、ミネラルウォーターを飲用したほうがいい。ペットボトルのミネラルウォーターが商店やキオスクで売られている。【郵便料金】

日本への郵送料金は、ハガキ(5g)が6〜7DH、封書(10g)は8.50DHとなる。到着までに最低1週間はかかる         
言語
アラビア語。アラビア語は、一般に「フスハ」と呼ばれるアラビア語圏で共通の公用語と、国や地方によって差がある方言「アンミーヤ」とに分かれる。モロッコで話されているのは「アグレブ方言」と呼ばれる アンミーヤ。これはエジプトやシリア、ヨルダン、湾岸諸国のアンミーヤとはかなり違っている。フランス語も広い範囲で通用する。スペイン語や英語も都市部や若い世代には通じる。

安全とトラブルテキスト ボックス:  
水売りのおじさん
 
観光国であるモロッコは、アフリカ大陸の中でも治安はよいほうだ。ただし、悪質な自称ガイドやスリ、引ったくりには充分気を付けよう。

年齢制限

 ラマダンや宗教的な祭日以外は、18歳以上であれば、飲酒や喫煙は特に禁止されていない。







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マラケシュ

マラケシュは「赤い街」と呼ばれるサハラ砂漠入口のオアシス都市。「マラケシュに行けばモロッコのすべてを見られる」と言われ、ここにはモロッコの歴史、自 然、人々の営みが集約されている。マラケシュはフェズについでモロッコで2番目に古い町で、11世紀の後半にベルベル人による最初のイスラム国家、ムラビト朝に よって開かれた。その後ムワッヒド朝の首都として栄えるが、テキスト ボックス:  1269年、マリーン朝によって首都はフェズへと移る。

ジャマ・エル・フナ広場
メディナの中心にあり、にぎやかさの源。「ジャマ・エル・フナ」とはアラビア語で「死人の集まり」というような意味で、ここはかつて公開死刑場だったことに由来している。昼間はアクロバットや蛇使い、民族楽団など大道芸人のパフォーマンスが繰り広げられ、夜には食べ物屋の屋台が軒を並べる。昼と夜ではまったく雰囲気が異なるので、できれば両方を味わってもらいたい。

クトゥビア
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192年ムワッヒド朝のアブー・ヤコブ・エル・マンスールによって建造されたミナレット。メディナの西に高くそびえたつその巨大な塔は、マラケシュの象徴と言われる。

クッバ・バディン
ベン・ユーセフ・メデルサのすぐ脇にある霊廟。1120年ごろのアルモラビト朝時代に建てられ、小さなドーム状の屋根が個性的。クッバとはもともと「ドーム」を意味している。

エル・バディ宮殿
16世紀サード朝時代に建てられた宮殿。18世紀に破壊され、現在は一部が残っているだけで広大な廃虚となっている。パビリオンからはマラケシュの町並が 手にとるように見える。毎年マラケシュ・フェスティバルがこの宮殿の池の上の特設ステージで開催され、にぎやかな音楽や踊りが繰り広げられる。

バヒヤ宮殿
1894年から1900年にかけて建造された宮殿。メラーの北にあたり、豪華な装飾の大広間やレセプション(旧ハーレム)、ムーア式の庭園は見るものを魅了する。

メナラ庭園
メディナの城壁の西側にある庭園。12世紀のアルモハッド朝時代に造園されたもので、オリーブの木が茂る。中央のパビリオンは1820年にアラウィー朝の アブデル・ラーマンによって建てられたもので、貯水池に映るその姿はいかにも涼しげ。早朝や日没の趣はこれまた格別である。

テキスト ボックス:  
アイトベンハドゥ
マヨーレル庭園
メディナの北東にある庭園。フランスの風景画家マヨーレルによって設計され、現在はデザイナー、イブ・サンローラン(庭園のすぐとなりに私宅がある)の所有だが、一般の人も入園できる。
アイトベンハドゥ

ワルザザートの西20kmにある日干し煉瓦の古いカスバです。アラビアのロレンス、インディ・ジョーンズなどの映画の舞台として有名なだけでなく、ユネスコが保護する代表的なカスバ。

ワルザザード

テキスト ボックス:  
トドラ渓谷
ワルザザートはナツメヤシのオアシスが広がり、砂漠への入り口を思わせるに十分な景観が楽しめるカスバ街道最大の町。カスバ街道沿いの雄大なアトラスの峰々と青い空、どこまでも続く土漠の道は、異国情緒を誘わずにはいられない。また、ワルザザートはサハラ砂漠の最前基地として軍事的にも重要な町であり、外人部隊の駐屯地でもあった。

フェズ

1200年もの歴史をもつ古都フェズは、モロッコの 思想・宗教・芸術の中心地で、9世紀にできたフェズ・エル・バリ(旧市街)と13世紀にできたフェズ・ジャディド(新市街)のふたつの部分にわかれている。旧市街のメディナは世界一複雑な迷路と言われ、ユネスコの世界遺産にも指定されている。

フェズ・エル・バリ
旧市街は新市街よりも面積が広く、周囲は11世紀に作られた塁壁で囲まれている。ブー・ジュルード門をくぐると、野菜、果物、羊肉、香料、日用雑貨などを売る活気のある店が並び、あふれんばかりの人でごったがえしている。


ブー・イナニア・メデルサ
ブー・ ジュルード門の東100メートルほどのところにある元神学校で現在は礼拝堂。14世紀、マリーン朝時代に建てられたムーア建築様式の代表的な建築物のひとつ。ブロンズ製の扉から中に入ると、大理石を敷き詰めた中庭に出る。中央には生徒が授業の前に身を清めるために使用した水盤がある。建物の側面の壁はタイ ルのモザイクと漆喰やヒマラヤ杉に彫られた幾何学模様で飾られ、上部はヒマラヤ杉に細かな彫刻を施したひさしが迫り出している。彫刻の繊細と華麗さは息をのむほどである。2階から屋根越しにメディナの街並みが見え、ケラア・ケビーラ通りに面した学校の門の反対側にはり出た木にはブロンズの「イナニアの鐘」がついている。

ネジャリン広場
モザイクの上に漆喰と木に細かい彫刻を施した泉があり、その奥には18世紀に建造されたホテル、フォンドゥク・ネジャリンがある。ネジャリン広場一帯は、ネジャリン・スークと呼ばれ、建具や家具職人が多く、細かな彫刻を施された家具が店先に並んでいる。

ムーレイ・イドリス廟
フェズの創始者ムーレイ・イドリス2世をまつった修道院。ムーレイ・イドリス2世はフェズの守護聖者として崇拝されており、聖者をたたえる祭(ムッセム) が年1回盛大に繰り広げられる。聖堂は18世紀に再建され、その後改修が加えられている。ドアごしに中をのぞくことができる。

アッタリーン・スーク
メデルサ・ブ−・イナニアの近くにある香料のスーク。このあたりはメディナの中でも特ににぎやかな一画。近くにはイドリス2世を記念するムザラの碑や壮麗な塔をもつシェラブリン・モスクなどがある。

メクネス

メクネスは、10世紀頃ベルベル系のメクネッサ族によって作られた都市で、周囲には果樹園やオリーブ畑が広がる。17世紀、アラウィー朝のムーレイ・イスマイルがメクネスを王国の首都とし、数多くの城壁、城、門、モスクなどを建設した。
マンスール門
北アフリカで最も美しいと言われる有名な門。アラウィー朝のムーレイ・イスマイルが着工し、息子のムーレイ・アブダラーによって1723年に完成した。キリスト教からイスラム教に改宗した建築家マンスールの設計と言われる。門の全体は青と緑のタイルで飾られ、中央に馬蹄形の大きなアーチの通路がある。華やかな近世建築の典型。

クベット・エル・キャティン/キリスト教徒の地下牢
クベット・エル・キャティンは、かつてムーレイ・イスマイルが各国の大使を接待したり、さまざまな儀式に使用されたパビリオン(館)。クベット・エル・キャティンの西側にはキリスト教徒の牢と呼ばれる地下牢があり、17〜18世紀にスペイン、ポルトガルのキリスト教徒をはじめ、モーリタニア人など約4万人が収容されていた。
ムーレイ・イスマイル廟
中央に大理石の水盤のある広い中庭や、モザイクの壁面、漆喰の彫刻などはイスラム芸術の最高傑作と言われている。ムーレイ・イスマイルの墓や夫人たちの葬られている部屋を見学することができる。

ムーレイ・イドリス
メクネスから北へ30キロほどのなだらかな丘陵地に白い家々が並んでいる。8世紀に開かれた、モロッコにおける最初のイスラム王朝であるイドリス朝の首都で、創始者であるムーレイ・イドリス1世の廟が残っている。毎年8月か9月に開かれるムーレイ・イドリスのムッセム(ムーレイ・イドリスの祈祷式)はモロッコ最大のムッセムで、モロッコ中からたくさんの人々が集まり、大テント村がつくられる。期間中の3日間はガイバル広場でファンタジア(騎馬ショー)が催される。

ラバト
紺碧の空 と海を臨むモロッコの首都ラバト。褐色の城壁に囲まれた町には、白壁の建物、ヤシの並木通り、緑豊かな公園や広場が点在し、静かで落ち着いた雰囲気を醸し出している。王宮、官公庁、議会、外国公館の集まる近代的な町並みだが、自然との調和が感じられる。ラバトの歴史は古く、12世紀、「勝利王」と呼ばれた ムワッヒド朝のスルタン、ヤコブ・エルマンスールが、その栄光の証としてこの地に都をおいた。エルマンスールは巨大なモスクの建設を企てたが、その死によって計画は中断し、現在ではハッサン塔と呼ばれているミナレットの部分だけが残っている。ムワッヒド朝の没落とともにラバトも衰退し、マリーン朝はフェズを新しい都とした。しかしその後、ラバトは商業貿易の中心としてふたたび勢いを取り戻し、1912年にモロッコの首都となり、今日に至っている。
モハメッド5世廟
建国の父と呼ばれる前国王モハメッド5世の霊廟。モロッコの伝統工芸の粋を集めた美しい建築は見逃せない。

ハッサン塔
モハメッド5世廟と同じ敷地内にある。12世紀のムワッヒド朝の時代に構想された巨大モスクの一部で、約360本の石柱とともに未完のまま残されている。ハッサン塔はマラケシュのクトゥビアの塔とともにムーア式建築の代表と言われている。

王宮
現ハッサン2世国王の居城。ライトアップされた美しい夜景は異国情緒をかきたてる。

カスバ・ウダイヤ
カスバ・ウダイヤを囲む茶褐色の城壁はムワッヒド朝時代に建設されたもの。ウダイヤ門をくぐり中に入ると白い壁の家々が続き、迷路のような細い路地を抜けると対岸のサレや大西洋が一望できる広場に出る。アンダルシア風のウダイヤ庭園は植物が生い茂り、ラバトの人々の憩いの場になっている。庭園東側のムーア風のカフェも人気。庭園内のウダイヤ博物館には、モロッコ各地から集められた民族楽器と、ベルベル人の家具や衣装が展示されている。

シェラ
古代ローマの遺跡。ローマ時代の邸宅跡や浴場のモザイク画などが残っている。ブー・レグレグ川に面しており、シェラの外側の高台からは対岸のサレの街が一望できるほか、眼下には渡し船が行きかう様子が見られる。

ブー・レグレグ川の対岸サレは、ラバトより古く11世紀頃建設されたと言われ、現在でも13〜16世紀に作られた古い建物が多数残っている。シディ・アブダラ・ハッサン廟やグラン・モスクがあり、外部からでも美しいイスラム彫刻が見られる。グラン・モスクの隣のアブー・アル・ハッサン神学校は細かい彫刻の施された門や円柱式の回廊が有名で、屋上のテラスからはサレの街と大西洋が一望できる。

アルジャディーダ

アルジャディーダは大西洋に面した古い貿易港で、 カサブランカやアガディールとともに今でもモロッコで特に重要な港湾都市の一つである。 この港街は1502年にポルトガル人が建設したことに始まる。 そして1513年には、 今では街のシンボルである巨大な城塞を建設され、 このときから街はポルトガル人達によってマサガンという名前で呼ばれるようになった。 そして1541年から1769年まで、 モロッコで唯一のポルトガル領であった。
  1769年、 モロッコのスルタンが蜂起し、 この街がイスラム教徒に占領されると、 街はアルジャディーダと呼ばれるようになった。 しかしその戦争の際に、 ポルトガル人はこの街を徹底的に破壊して去っていったため、 アルジャディーダ街の再建は1820年頃からようやく始まった。 なおアルジャディーダの再建途中からこの街に多く流入し、 街の再建に大きく貢献したのがAzzemour出身のユダヤ人達である。 また1850年代にはヨーロッパからも多くの移民が住みつき、 街は再び活気を取り戻した。 そのためアルジャディーダの街の雰囲気はイスラム建築から古代ローマ風、 コロニアル風、 ユダヤ風と、 いくつもの建築様式がみられる。 そして1912年にフランスがここを植民地にすると、 このアルジャディーダに行政施設が次々に整備されていき、 観光地としても開発が進んだ。
  現在のアルジャディーダの人口は約15万人で、 観光産業のほかにも、 イワシの水揚げや農作物の出荷港として有名である。

アズムール

アル・ジャディーダからカサブランカ方向へ約17km、ウム・アル・ルビア川のほとりにたたずむ古い小さな町。ポルトガル人がアル・ジャディーダやサ フィ、エッサウィラの町を支配していた16世紀に、戦略上最も大切な要塞としておおいに活用し、川の土手を利用したすばらしいメディナも造った。