四国名山ーお気儘登山の旅ーその2
2006年3月17(金)〜21日()      同行者:OM、IS
記録
3/20()   石鎚山(弥山ー1982m)登山

6:00起床ー7:30西之川出発…10:30成就社…14:00山頂…16:30ロープウエイ終点17:00ー17:10西之川n-
新居浜を経てー別子マイントピア(幕営)


朝は快晴です。
ロープウエイの出発時間まで1時間半以上もあるので、西之川から登山道を登ります。
(これがこたえた?)
晴天と霧氷の歓迎で、快適に登頂出来ました。



昨夜は西条の運動公園で快適な幕営でした。
朝早くから石鎚山、登山口の西之川に向かいます。
ロープウエイは9時からのようです。
まだ2時間近くもあります。

今日は素晴らしい快晴に恵まれました。
取り敢えず、西之川からの登山道を詰めます。
最初は嫌になるほどの植林帯の九十九折の山道(植林用の作業路?)
です。
(正直なところ、ロープウエイに乗ればよかったかな?との疑問、不安も多少あり。)
続いて尾根道に出て、ロープウエイよりの登山道の合流点を
目指します。気持ちのよい自然林の斜面の登りです。何処からか音楽も聞こえてきます。西側の斜面がスキー場で、そこからの音楽でした。

最後の凍った林道を登ると、成就社でした。
神社とみやげ物売り場民宿、旅館が立ち並んでいます。
成就社の鳥居と神殿

ここからはいったん100mほど下らねばなりません。
八丁坂です。
道の両側には巨木が建ち並び、行く先には霧氷を纏った石鎚山が威圧的に聳えます。

「それにしてもいい天気だが、圧倒的な迫力だ!
何処を登るのかな?」

本当に、いささかビビリそうになるほどの迫力です。
それにつけても素晴らしい天気です。
雲ひとつありません。霧氷はここ数日の冬型気候の賜物です。
木の間隠れに、四国の中央の峻峰の山々が見渡せます。
霧氷に彩られた山肌ーすごいスケール迫る!
八丁坂を下りきると、いよいよ登りです。
先行の女性2人組と出会います。
何処から登ってきたのか?不思議そうです。

「西之川から登ってきた」

といいますと、驚かれていました。
写真目当てだそうで、大きなビデオを撮影しておいででした。
神戸から来たというと、いっそう驚かれていました。

登山路は北面ゆえ、しっかりと雪が着いています。
暫く葛篭折れを登った後、躊躇することなくアイゼンを着けます。
斜面をトラバース気味に登ってゆきますと、「試し鎖」に出てきました。
雪に埋まっています。
尾根に出ると最初の小屋が出てきますが
、先行の男性登山者にお出会いしました。この方も途中までのようですが、もう1名先行されて居るようです。
最後の急登を前にして寛ぐ
天気もよいので、焦らず一歩一歩、登るのみです。
途中の小屋がま近に見えてきました。斜面も急になってきます。
所々、急な斜面のトラバースです。
下はすっぽりと切れ落ちています。

2および3の鎖は,傾斜も急です。
雪に埋まっているので迂回路を行きますが、これが鉄製の桟道です。
手すりもつけられていますが、積雪で足元くらいの位置にあります。

[こら〜、気を付けて行かんと、アキマヘンで!」
あまりあてにせず、ピッケルとアイゼンを信じて進みます。
幸いにもトレースがしっかり残っているので、ルートの不安は無用でした。

急坂を喘ぎ喘ぎ登り、漸く最後のトラバースに出ました。
目の前に頂上の建物群が見えてきました。
驚くほどの建物が建てられています。
稜線直下の急なトラバース
 とうとう石鎚山(弥山)山頂に到着しました。
広い広場になっており、一段高いところにお社の本殿(?)があります。
その横の巨石には太い鎖が幾重にも巻かれています。
何かの悪霊を閉じ込めているのでしょうか?

天狗岳までの稜線は急なアップダウンがあり、
今の時間からでは、往復しての明るい内の下山はなかなか困難なようです。

「天狗岳は時間切れ、割愛だな!」
何度も言いますが、山頂からの展望は最高です。
殊に瓶ケ森の山頂の一面の笹原の景観が素晴らしい。
黒森山も、石鎚スカイラインも一望のもとです。
弥山山頂の標識の前で
十分眺望を満喫し、写真を撮ったら、さあ出発です。
正味10分ほどの滞在時間でした。
ぐずぐずしていると雪も硬くなり、滑落の危険が増します。
登山口に着くまでにヘッドランプが必要になるかもしれません。

「行くデー!気をつけて下りましょう」

いつもながら雪の下りは緊張します。
急傾斜のトラバースを慎重に下ります。
所々ある桟道の柵も半分以上雪に埋まっており、支点に持つには
不安定です。アイゼンとピッケルだけが頼りです。

傾斜が緩くなると一安心です。
緊張から開放されます。
残念ながら咲き誇った樹氷たちも、落花盛んです。
最後は時間節約のため(ISさんの希望も)、ロープウエイで下りました。
なんと、たった9分で下ってしまいました。

「行きもこれにすれば良かった?」

ウーム、如何でしょうか?
山頂にてーバックは天狗岳
3/21(火ー春分の日)  銅山越(1336m)登山

今日は別子銅山(旧別子地区)巡りから、西赤石登山の予定です。

6:30起床、朝食8:00出発ー8:40登山口…11:30銅山越12:30…14:30登山口ー高松を経てー帰神

新居浜市・別子山村地域に別子銅山が開坑したのは元禄4(1691)年である。
以降、昭和48(1973)年の閉山までの約283年間、連綿と65万トンもの銅を産出し、地域社会とともに発展してきた。


朝早くにマリントピア内を見て回る。
別子銅山は350年ほどの歴史があるというが、
昭和48年(1973年)に閉山となったよし。
当時使われていたトロッコが展示してある。
といってもレールは一部分残っており、観光用の列車が運行されている。
それ以前は人力でここまで降ろしたという。

その峠を越えて行くのが、今回の目的である。
いろいろな声なき声が飛び交うようです。

Bergen:「西赤石の登頂が目的でーす!」
OM:「銅山越くらいで休んでおけば良いのに!」

IS:「うーむ!」

一同それぞれの思いがあるようです。
銅山で使用していたトロッコ
 
夕べは良くわかりませんでしたが、マイントピアとは、
マイン(鉱山)とユートピア(楽園)の合成語です。
その昔からこの鉱山を経営してきた住友グループ。
その歴史を後世に伝えるため、建設された由。

「これは近代日本の発展の歴史そのものですね」

中をいろいろと見て回ります。
入り口の案内のおじさんは、このあたりの山にも詳しいらしく、
山に登りに来たというと、いろいろと教えて頂けました。
廃鉱になったのは、掘り尽くしたというより坑道が深くなりすぎ、
地熱で掘削出来なくなったためという。

マインピア別子の建物
建物の中に入ると、先ほどの観光用のトロッコの駅がありました。
終点はこの先300mほどで、直ぐ先だそうです。
まだ早くなので、ほかの施設も開いていません。
金の原石(ルーペで拡大して金脈を指示)も展示されています。
興味深い展示が一杯ですが、残念ながら開館まで時間がありすぎです。

「(開館まで)かなり待たないとといけないな!?」


今回はこの史跡見学もしたいのですが、取り敢えずは山の中の遺跡を
めぐります。早々に車で出発です。

マインピア別子のトロッコ列車の乗車場
  峠をトンネルで越え、登山口から登山開始です。

「今日の予定は?」

「まあ、(当初予定していた)西赤石でしょう?」

といっても、今まで3日間のぼり詰です。
まあ今日は無理をせず、遺跡めぐりを楽しみましょう。

途中、過去の繁栄を物語る遺跡が目白押しです。
ここが昔の劇場跡の石垣です。
350坪ほどの広大な倉庫を劇場として使用し、労働者の
精神的、肉体的疲労を大いに癒したのでした。
劇場跡の石垣


「うむー、これが歓喜抗ですね?」
「こんな名前を付けるからには、よほど感激したのですね!」


元禄4年に開抗された別子銅山の最初の抗口が、歓喜抗と命名されている。切り上がり長兵衛という渡り工夫が有望な露頭を発見し、
通報を受けた住友家経営の備中吉岡銅山の重役の田向重右衛門が、
調査して豊かな鉱脈を確認した由。

当時の喜びと将来に向けての期待感が想像されます。
勿論、今は坑道は閉鎖されています。

この後、ダイヤモンド水やパイプ橋など、見所が続きます。

歓喜抗にて、IS(左)OM(右)さん
最後の急坂を登り終えると、漸く銅山越に到着です。
昔はこの1300mほどの峠を、男は45kg女は30kgの荷物(粗銅)を肩に担いで越えた由。厳しい気候に遭難した人々の霊を慰めるため、
無縁仏の碑が作られています。

ここで休憩します。
西赤石まではかなりの登りと距離です。

「かなり歩かないといけないな!?」

今日はここで昼食です。
ここで満足して帰りましょう。
早速、宴会です。
4日間を思い出して皆満足の思いで一杯です。

銅山越にて 蘭塔婆
暫くまどろみました。帰りは山肌を巡って帰ります。
この周囲は大きな木は無く、所々禿げている山肌も見られます。
今からは想像も出来ませんが、別子地区は全山ひどい荒涼とした禿山だったのです。

明治27年、採掘や製錬で荒廃した銅山を元に戻すため、伊庭貞剛は毎年100万本の植林を行った。この時点から、現在に至る環境復元の事業が継続されている、という。

下山の途中で立派なブロック塀に出会いました。

「かなり立派な建物があったのだな!?」

 ほかの建物と違い、塀の意匠も凝っています。
レンガを積み重ね、銃眼を思わせる複雑な模様があります。

接待所跡の壁
漸くもとの登山口に戻ってきました。
歴史の重みに圧倒されました。
掲示されていた種々の看板に、遠い昔を思い浮かべます。
一時は鉱毒(精錬の際の亜硫酸ガス)で山々は禿山だった由。
それが長年に渡る植林事業で回復した!
いまではかっての状況は、残された写真でしか偲ぶ縁がありません。

「いやー、歴史の重みを感じますね!?」
往時は数万もの人が生活した鉱山!
人々はどのように生き、そして如何のように死んでいったのか?

当時、鉱山の周囲は要塞のように厳重に警備されていたという。
先人の労苦の末に日本の近代化があったのだろうが、精錬に伴う有毒ガスのため、健康を害したことは疑いないだろう。
先人の偉業に大いなる敬意を払うものです。
案内標識の一部