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うたうたいの貸し


さして広くはない部屋を、それでも半分以上は埋めている客席から、 暖かい拍手が湧き起こりました。
ドーソン・トードの顔に、わずかに血の気が戻ってきました。
記憶にある限り…と、言ってもたかだか十ヶ月そこらですが、 少なくともずっと平穏だったとは言えない月日…の中で、最大の危機を脱したのです。
ドーソンは、ぺこりと大きく、取ってつけたようなおじぎをすると、 震える膝を押さえ込むように脚を踏みしめながら、簡素な小ステージを2歩で超え、 床へどさりと落ちるように降りました。
そして、脇の小さなスツールを引き寄せ、その上に崩れるように座り込み、 額の汗をぬぐいます。
舞台脇に控えていた吟遊詩人のミーユが、手を叩きながら寄ってきました。

「お見事でした」
ドーソンは、ぐったりと座ったまま、黙って首を振りましたました。
「とても素人とは思えませんよ…どうですか、今度はデュオでやってみませんか」
ミーユのいつもの涼しげな笑顔を、恨めしげに見あげたドーソンは、
「冗談じゃない!」
低いうなり声で即答を返しました。
「…俺が、こんな所で見世物になるほど苦手なことはないって、知ってるだろうが…」
弱弱しくうなるドーソンに、ミーユはクスリと笑おうとして …のどの奥から押し出されてきた小さなセキを、眉をしかめてかみ殺しました。
「失礼。ですが、そこまで嫌いだとは思いませんでしたよ」
「むう。…俺もだ」
ドーソンは、小さく苦笑いしました。
「ここなら場所が小さいから大丈夫かと思ったのだが。
舞台にあがったとたん、あんな風に目が回ると、最初からわかっておれば…」
いくらミーユが風邪を引いて困っていようと、絶対に代理なんぞ引き受けなかったでしょう。
「残念ですね」
ミーユは、本当に心底残念そうに言いました。
「そんなにいい喉をしていながら…もったいない」
「…とにかく!」
と、ドーソンは、まだ震えが残る手で、一言ごとに強調するように膝を叩きながら、
「こんなことをするのは、これが、最初で、最後だ。二度と、舞台には、あがらんぞ!」
「そうですか」
とドーソンの強い調子を軽く受け流して、 ミーユは、本気ともからかってるともつかない調子で、
「本当に舞台に出ずに済めばいいのですがね。
人間、先に何があるか分かりませんよ…特に貴方は。
記憶が戻ったとき、どうしても人前に出なければならなくなるかもしれません。 少しは慣れておきませんか」
ドーソンは聞くなり、首をすくませて、ぶるっと身震いをしました。
「だめだ。慣れる前にどうにかなってしまう。
もし、万が一、そんなことになっても、俺はやらん。 ミーユ殿に代わってもらうぞ。今日の貸しを返してもらうからな」
それから、ぐいっと腰を持ち上げると、
「それより、喉がからからだ。ビールが一杯欲しい」
そう言うと、ミーユの方を振り向きもしないで、 カウンターの方へふらふらと歩きだしました。
ミーユは苦笑して、その後を追いました。


ミーユの代理イベントを見てしまうと、どんな職業であろうと「主人公が音痴である」 という設定が作れなくなってしまいます(笑)
今思えば、ドーソンの声の設定…響きの良いいい声… が決まったのはこのエピソードのためかもしれません。
に、しても。一体どんなTPOで歌ったのか…実に気になります。 「かえほん」本体を、ここしばらくやってないので、記憶もあいまいで(苦笑)。
ここでは、コンサート(ライブ)が聞ける酒場(クラブみたいなもの)を想定しています。



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