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文月の竜の本


 7月末の暑い日の夕方のことでした。
 研究所で、実験助手のアルバイトをしていたドーソン・トードは、 資料をそろえていた手を、ふと止めました。

「うむう…?」
 独特の響く声で低くうなりながら、机の上の古びた書物に手を伸ばします。
「これは、『竜の本』…?」
 手にとってぱらぱらとめくってみました。間違いなく竜の本でした。
 この地方に実在する、三頭の竜について研究していた、さる老魔術師が、 その成果を著した本…。
 研究員のレラがその様子に気づいて、声をかけてきました。
「それ、あなたが見つけてきた本だそうね。…死蔵しないで、図書館に寄贈したのは賢明ね」
 ドーソンは振り向いて、うなづきました。

 そう、これは一月ばかり前、竜の手がかりを探して、 ドーソン自身が見つけてきた本なのです。
 見つけたとき、すでに本はばらばらになりかけていました …が、今では丁寧に補修されています。
 その背にはコロナ図書館の刻印が押されていました。

「だが、これは、たしか…帯出禁止ではなかったのか?」
 本の背表紙に貼られた赤い印を指先でなでながら、ドーソンは尋ねました。
「ええ。でも、研究所の職員なら、申請すれば、特別に帯出許可がもらえるのよ」
「なるほど……で、もう読んだのか?」
 ドーソンが、目を光らせてレラに向き直りました。
「ええ、ざっとだけど」
「そうか、それはありがたい!」
 いささか興奮気味のドーソンに、レラは不審気な目を向けました。
「でも、あなたは、もう読んだはずでしょう?」
 ドーソンの顔が曇りました。
「うむ…前の方、数ページ…汎文体で書いてあるところは、な。
肝心の後ろの大部分は、学述文体で書いてあるから、読めなくてな…
赤い竜の大部分と、青い竜の章の一部章だけは、何とか読み取れたのだが…」
「そうだったわね」
 レラが、はっとしたようすで言いました。
「私は、毎日学述体の文章ばかり扱っているから、気が付かなかったわ。
…でも、まったくの素人で、そこまで学述体の文章をを読めるなんて、たいしたものね」
 レラに言われて、ドーソンは考えこみながらうなづきました。
「うむ…おそらく、昔、どこかで学述体を学んだことがあったのだろうな」

 それから、また濃い茶色の目をきらりと光らせて、
「そんなわけで、俺はこの本の後ろ半分の中身に、大いに興味があるのだ。 何が書いてあるのか、教えてもらえれば、非常にありがたいのだが」
 しかし、レラの返事はそっけないものでした。
「私は忙しいのよ。本を丸々一冊解説している暇なんかないわ」
「そこをなんとか」
 哀願口調で詰め寄るドーソン。でもレラは、
「あなた、曲がりなりにも自分で読めるんでしょう? もう少し、自分でがんばりなさい」

「むう…」
 ドーソンは、情けなさそうに低くうなりました。そして、
「だが…この本は難しくて…ことに、白竜の章の記述は、あまりに難解で、 俺には手も足も出んのだ。せめて…」
 そこでふと、言いかけた言葉を切って、黙り込みました。 そして、しばらくあごをこすりながら考えていましたが、
「そうだ、俺はこれから、ここで、白竜の章を読むことにする。
決して邪魔にはならぬ。そこの隅っこで、大人しくしているから。
だから、仕事の合間に…ひまがあったらでいい。助けてくれんか。 仕事の邪魔はしない、ほんのちょこっとだけでいい、頼む!」
 拝み倒さんばかりの口調で言いながら、ずいずいとレラに詰め寄りました。

「ちょっと待ちなさい、まだ仕事は終わっていないのよ」
 困惑し、またちょっと怒ったようなレラの声に重なるように、 ドーソンの後ろから低い咳払いが聞こえました。
 ドーソンは、後ろからこっちをにらんでいる渋い顔の研究所長、 オーウェンをちらりと振り返りました。が、ひるむ様子もなく、
「いや、悪いとは思っている。…だが、もう夕方ではあるし、 このやりかけだけはやってしまうから、その後で…
…なんなら、今日の給料はもらわなくてもいい。正直、 バイト料をもらうよりもこっちの方が嬉しいくらいなのだ」
 と、本をしっかりと抱え込んで、さらにレラに迫りました。

「分かったから、離れて…暑いじゃない」
 たまりかねたように言って、レラはため息をつきました。
「ま、いいわ。どちらにしても、白竜の章は、私ももっとじっくり読み込むつもりだったし…
でも、仕事は仕事よ。定時まではちゃんと働いて頂戴。
その後で、白竜の章だけ付き合ってあげるわよ。それでいいわね」
「む、むう…。願ってもない」
 ドーソンは、嬉しそうにニコニコして、額の汗をぬぐいました。が、ふと顔を曇らせて、
「だが、一晩で読めるだろうか…?」
レラは、あきらめ顔で答えました。 「分かってるわよ。明日も定時過ぎに来なさい。 読めるまで、何日でも付き合ってあげるわ」
ため息混じりの声でしたが、その顔にはわずかな微笑が浮かんでいました。
「いや、すまんな…ありがとう!」
 ドーソンは声を弾ませて、抱きつかんばかりの様子を見せて、レラの手を取りました。
「どういたしまして…でも、暑いんだから、そんなに寄らないでちょうだい」
 そういいながら、レラは、そんなドーソンの汗ばんだ手に、 そろえかけの資料を持たせました。
「…まあ、探究心が強いのは、いいことね。もうすぐだから、あとこれだけ、お願い」
 と、いう言葉を添えて。


6月に主人公が探しに出かけた『竜の本』は。その後図書館で読めるようになりますが…
1人の研究者のライフワークにしては、いくらなんでも内容が薄すぎます。
おそらく、ゲームで読めるのは本のごく一部だけなのではないか… そう思ったのが、このお話を書いた動機です。

ここに出てくる「学述文体」は、私のでっち上げた設定です。
正式な学術書等で使われる読み書き専用の言語で…古代日本での漢文や、 中世ヨーロッパでのラテン語をイメージしています。
「汎文体」とは日常や、商取引などで使う普通の口語と同じ言語を使ったもの、 という設定です。
図書館の本も、大部分は汎文体で、 学述文体は聖職者や学者など、特別の訓練を受けた人だけが読める、という…。



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