夏の始まる、六月のことでした。 その日、コロナは、夜明け前から濃い霧に包まれていました。 街はどこもかしこもじめじめと薄暗く、朝からランプをともさなくてはならないほどです。 いつも朝はがらんとしている酒場も、今朝はちらほらと客の姿が見えます。 この霧で仕事にならないのか、音のない霧に人恋しくなったのか… 吟遊詩人のミーユも来ていて、いつもの片隅で、静かに竪琴を爪弾いていました。 と、酒場の扉が開いて、くすんだ青い髪の男がそっと入ってきました。 ドーソン・トードが、日課の早朝の散歩から帰ってきたのです。 「お帰り…今日は、やけに早く帰ってきたな」 マスターが声をかけました。ドーソンは霧で湿った頭を振りながら、軽く唸って答えました。 「むう…嫌な霧だ。どうも、歩く気になれん」 言いながら、湿ったマントを脱ぎ、カウンターに向かいます。 一番端っこの、ミーユのいる隅に一番近い席でした。 この一月あまり、そこはドーソンの指定席になっていました。 ドーソンは詩や音楽を聞くことが好きだったのです。 ドーソンは、ミーユに丁寧に会釈してから、席に座ってマスターを呼びました。 「マスター、熱いミルクにウィスキーをたっぷり入れてくれ」 「なんだ、ドーソン、風邪でも引いたのか?」 マスターは、ちょっと心配そうな顔をしました。 「いや…霧の中を歩いたら、頭が痛くなってきてな」 ドーソンは、たいしたことはないと笑って、頭を振りました。 「きっと、この陰気な霧のせいだろうよ」 しかし、出されたミルクを半分ばかり飲んだときのことでした。 いきなり、ドーソンは、背後の窓をキッと振り返りました。 窓は霧の色でべったりと塗られたみたいになっていて、何も見えません。 なのに、ドーソンは険しい顔で、灰色の霧を見つめたまま、じっと動きません。 マスターは、他の客の相手をしていたので、そのドーソンの異変に気が付いたのは、 近くにいたミーユだけでした。 ドーソンの暗い茶色の目は、さらに暗く沈んで、かすかに首をかしげた様子は、 じっと何かに耳を傾けているかのようでした。 やがて、その口がもごもごと動いて、声になるかならぬかのつぶやきが漏れました。 (…どうして? どうして僕が? …もう、疲れたよ…) ミーユの形のよい眉が、いぶかしげにちょっと上がりました。 ドーソンは、なおも心ここにあらずといった様子で、一心に耳を傾けています。 …しかし、吟遊詩人の鍛えられた鋭い耳をもってしても、変わった音は何一つ聞こえないのでした。 と、ドーソンの口が、また動きました。 (…この霧…外なんて、あるの? …) 言いながら、今にも泣きそうな目になりました。 ミーユの竪琴が止まりました。酒場は客たちの低い声の世間話だけになりました。 と、ドーソンは、ブルブルっと大きく体を震わせました。 目をばちばちとしばたたき、頭を振りました。 それから、困惑したようにあたりをきょろきょろ見回しました。 せわしなく動く目が、ミーユの目と合いました。 ミーユは何も言わず、表情も変えませんでしたが、 ドーソンは慌てた様子で、きまり悪げに微笑んで見せました。 「…見てたのか?」 ミーユは、目を竪琴に落として、弦を張りなおしながら答えました。 「ええ…」 その落ち着いた調子は、まるで、ドーソンがただ、うっかり居眠りしたのを見ていただけ、 とでもいわんばかりでした。 ドーソンは、そのミーユの様子にほっとしたようで、 「そうか…」と言っただけで、またカウンターに向き直りました。 「おいミーユ、もっと頼むぜ。この天気でこう静かじゃ、どうも陰気くさくっていけねぇ」 一人の客が声をあげました。ミーユは黙ったまま頷いて、再び竪琴を弾き始めました。 さっきと同じ曲を、さっきよりちょっと明るい調子で… ドーソンは、飲みかけのミルク酒に口をつけ…突然、また動きを止めました。 小さく身震いをして、カップを下ろし…それきり動きません。 ややあって、また、口が動きました。今度はゆっくりと、途切れがちに…。 (…でも…行かなきゃ……僕が…………。僕は……) ミーユの弾く弦の音が、ふととびました。 とたんにドーソンは、何かにつまずいたように、椅子の上でつんのめりました。そして、 「う……むう」 妙に甲高い唸り声をあげました。 「ミーユ…すまない。その曲は、やめてくれないか…」 青銅の鐘を思わせる、響きのよい太い声が、今はひび割れています。 ミーユは手を止めて、ドーソンの顔をもの問いたげに見つめました。 「…そいつを聞いていると…霧の中から、妙な幻聴が聞こえてくる」 ドーソンは、ぶるっと頭を振るいました。 「霧の中から、誰かが…小さな子どもが…俺に命令するんだ。霧の外へ出て、みんなを助けろと…」 ドーソンは、顔を上げて、まっすぐミーユを見上げました。 「その曲は、一体…?」 ミーユは、そっと尋ね返しました。 「『さまよいの街道』を、ご存知ですか?」 ドーソンは、ゆっくりと首を横に振りました。 「コロナから数日歩いたところにある街道ですが、その辺りはいつも濃い霧に覆われているのです。 その霧の中ではどんな人でも方向が分からなくなり、たちまち迷ってしまうので、 『さまよいの街道』と、呼ばれているのです」 ミーユは、そう説明すると、ふ…と遠くを見る目になりました。 「その霧の奥深くに入っていくと、向こうに街や城が垣間見えると言う人もいます。 私は、見たことはありませんが…その話を聞いてから、霧の中に立ったとき、 心の中に響いてきたのが、この調べなのです」 「『さまよいの街道』…」 ドーソンは、声に出して言ってみました。 「わからん…記憶にない…だが、もしかしたら俺は、そこをさまよったことがあるのかもしれん。 そして、その調べを聞いたことがあるのやも…」 ミーユは、軽く微笑みました。 「だとしたら…貴方は、楽士の心をお持ちなのですね」 ドーソンは、笑って「まさか」と軽く首を振り、残ったミルク酒を一気に飲み干しました。 ミーユは、今度は別の曲をかなではじめました。 「今、『さまよいの街道』と言ったか?」 言いながら、マスターが、ドーソンの前に戻ってきました。 「…ホントに、今日の天気はそんな感じだな。 それで思い出したんだが、冒険の依頼が一つあるんだ。 『さまよいの街道』で行方不明になった人を探して欲しいって依頼でな」 しばらくためらった後、ドーソンは身を乗り出しました。 「その依頼、もっと詳しく聞かせてくれんか…」 ちょっと半端な話になりました…。 ドーソン編は、本編をプレイしていないとさっぱり分からないものになりそうです。 一応、終わりの方に向けての伏線です。と、言いつつ、最後で上手くつじつまが合えばいいけど… と、書いた当人が心配していたり(苦笑) 「ミルク酒」は、イギリスかどこかで「卵酒」みたいに作られ、 飲まれていると聞いたことがあって出してみました。 ドーソンはノンシュガーで飲んでますが…砂糖を入れるなら、私も飲んでみたいです(笑) |