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竜とネズミの勝負


 その朝、研究所の前を通りかかったのは、図書館へ行くためだった。
 だが、ちょうど研究所から出てきたレラと鉢合わせをしてしまったために、その日の予定は大きく狂った。
「ちょうど良い時に会えたわ。コリューン、夕べ、またネズミが出たの。
一匹か二匹だと思うけど、放っておくとどんどん増えるから、今のうちにまた退治してくれない?」
「…いいですよ」
 研究で徹夜明けとおぼしき顔のレラに、ネズミへの苛立ちが見え隠れする鋭い目を向けられては、断る訳にも行かなかった。

 で、早速研究所の屋根裏に這いこんでみると、案の定、秋口に塞いだはずのネズミ穴が破られていた。
「やっぱり、板で塞いだだけじゃだめだな」
 とりあえずその辺のぼろぎれをつっこんで、臨時に塞いだが、
「多分、もうネズミはねぐらに帰っちゃって、ここには居ないだろうな。
進入路を塞いでしまえば一件落着ってとこだろ。鉄板かなんか、捜してきて…」
 ところがそのとき、視界の隅を、灰色の毛の生えたかたまりが駆け抜けた。
 見ると、そこにあった麻布の包みがぼろぼろに破られ、いかにも高価そうな羊皮紙の破片が散らばっている。
 僕は、舌打ちして、短剣を抜いた。
 「まて、このドロボー!」
 狭い屋根裏で、悪戦苦闘しばし。追いつめたネズミは、驚くほどでかく、憎たらしい顔つきの奴であった。
 「…ようし、やっと捕まえたぞ!」
 短剣で一刺し。あっという間に、片がつく…はずだった。が、いきなり顔に飛びつかれて…
 「ぎゃあ、いててて!」
 危うく、目をやられるところだった。頬骨のあたりを食い破られ、血が噴き出した。
 「野郎、ネズミのクセに、しぶとく人間様に………!」
 上げかけた罵声が、ふと、止まった。
 ?……………このセリフ、どこかで聞いたような?……………
……………………!!!あ!
 僕は、はっとしてネズミを見つめた。
ネズミは、目をぎらぎらさせ、毛を逆立ててこちらをにらみつけている。必死の形相に見えた。
思わず短剣を取り落とした。そのまま、向きを変え、ネズミ穴を塞いだぼろぎれを引っこ抜く。
 「ほら、逃げろよ、とっとと…」
 ネズミは、向こうの隅でじっとしていたが、僕がわざとゆっくりと、足を踏み鳴らして寄っていくと、 矢のように穴をくぐって逃げていった。

「ネズミには逃げられましたが、鉄条網を丸めたやつで穴を塞いどきましたから。当分は大丈夫だと思います」
 後始末を終え、レラにそう報告しながら、僕は頬の傷口に、手をやった。
小さな命が、とうていかなわぬ巨大な敵へ、死を賭した一撃の、ささやかな成果。
必死の反撃がむなしく外されて、それでも奴は、あきらめていなかった。
自分の命を少しでも高くつくものにしようとしていた…。
あの時の、僕のように。

 「ちっぽけな人間の分際で、偉大なる赤竜様に逆らった」相手に怒り狂った、赤いドラゴンの凶暴な眼差しが脳裏に蘇る。
 自分より遥かに弱いはずの相手から、思いがけない痛手を受けて、理不尽な被害者になったかのように逆上する。
…そんな強者の傲慢さは、僕の中にもあった。
 だけど、それに気付いたとき、僕には赤いドラゴンの弱さも見えてきた。
 かつて戦ったとき、奴は僕が思っていたよりずっと手痛い傷を負っていた。傷が深い分だけ、奴の怒りもすさまじかったのだ。
 奴が僕に止めを刺さなかったのは、僕の、命と引き替えの最後の反撃で、さらに痛手を受けることを恐れたからにちがいない。
 その日、僕の中に、赤いドラゴンに勝てる、という揺るがない自信が生まれた。

 そんな僕の内心を知ってか知らずか、レラは、
 「…そう、ご苦労様。
でも、ちょっと待って。その傷、消毒した方がいいわよ。ちょっとこっちに来なさい」
と、薬箱を出してきてくれながら、
 「ようやく研究が一段落ついたから、気分転換に行こうと思うのだけど、コリューンも来ない?」
 そう誘ってくれた。
 僕はありがたくその誘いに乗り…
その結果、今度は自分より遥かに冷静なはずの相手から、思いがけない痛手を受けることになるのだった。



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