うつくしい自然にかこまれた、コロナという街の近くに、名もないちいさな森がありました。
そのちいさな森の奥には、一匹のかえるがおりました。
かえるには、名前も過去もありません。
なぜなら、かえるは記憶をなくしていたからです。
そんなものだと思っていた。
名前が無いのも、記憶が無いのも。
かえる仲間との付き合いに…春の恋の季節ですら…全く興味が出ないのも。
それが、当たり前だと思っていた。
これまでも、ずっと、そうだったんだと。
これからも、ずっと、ここで一人でのんびり暮らしていくんだと…
あの日、あの老人に会うまでは。
あの日、あのよく晴れた昼下がり、あの池で。
僕は、スイレンの葉にしぶきを飛ばして遊んでいた。
と、ヒトの足音が近づいてきた。
僕は、動きを止めた。
下生えの間から、一人の老人が現れた。
僕は、いつでも水に飛び込めるよう、身構えた。
と、老人の目が、ひたと僕に吸い付いた。とたんに。
僕は、覚えている限り初めての大きな畏れを感じて、動くことも、目をそらすことも出来なくなった。
「どうやら、おまえはおまえ自身を奪われておるようじゃな」
老人の言葉は、そのときの僕には理解できなかった。
でも、聞いたとたんに、不思議な衝撃を感じた。
突然、見慣れた周りの世界が、すっかりなじみの無い何かに変わってしまったような気がした。
「…ワシについてくるがよい」
僕は、ざわつく心の命じるまま、黙って老人に従った。
ほどなく、たどり着いたのは、古い古い石の神殿跡。
その石の床の真中に僕を立たせ、老人は厳かに言った。
「おまえは、ほんとうはかえるではない。呪いの力で、このような姿になってしまったのじゃ。
ワシの力で人間の姿に変えてやろう」
偽りの明かりは消え去るべし。
照らすは偽りの夢なれば。
闇の底にて目を覚ますべし。
真実の闇の中でこそ、
真実の星の幽かなる瞬きを見得るべければ。
ひかりよめぐれ、
めぐりあわせし、あわきおもいに、おもきこころの、
ここにつなぎし、つなをうちすて、うちよりそとへ、
そっとこえゆけ、こえよみちびけ、みちよひかりよ、
ひかりよめぐれ
呪い? …まさか!? いや、でも、もしかしたら…
僕が戸惑っている間にも、老人の…いや、偉大な賢者、ラドゥ様のことだまの力が僕の周りで光になって立ち上って…
地面がぐんぐん遠ざかっていく。足の下の石の感触も、体に当たる風の感触も変わっていく。
そして、僕の中で眠っていた何かが目を覚まし、新しい目で、世界と僕自身とを見つめ始める…。
『僕は…誰なんだろう?』
こうして、ラドゥの不思議な力で、かえるは人間の姿になることが出来たのでした。
このお話は、書き下ろしです。投稿図書館に投稿したのは、次の話からになります。
が、このお話前半の部分は、その当時から考えていました。
投稿するにはまとまりに欠けて冗長になりそうなのでカットしていたのですが
…この際、書き起こして載せてしまうことにしました。
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