コロナを発って、2日。森を抜け、道もない深い山を谷筋に沿って分け入ること、半日で…。
目の前に、谷を遮って、切り立った灰色の絶壁が現れる。
絶壁の下には、大きな洞窟がぽかりと口を開けている。
そこから、水晶のように透き通った水がゆるゆると流れ出して、
小さな淵を作り、その先端から流れの速い渓流となって、谷を流れ落ちていく。
渓流がしぶきを上げるすぐ脇の、大きな平らの岩で、僕とリュッタはゆっくりと休憩を取った。
昼でも薄暗い峡谷にも、真夏の真昼ともなれば、緑と金の木漏れ日がちらちらと明るくさして来る。
だけど、水と共に穴から流れ出てくる空気は、驚くほど冷たかった。
…やめときゃよかったかな…。
ここに来ると、いつものことだけど、一瞬、かすかに、そういう思いが頭をかすめる。
リュッタは相変らず元気一杯だが、何となく先に進むのは気が進まないように見えるのは、
僕の気のせいだろうか。
「コリューン、薪はこれでいいだろ? それじゃ…って、コリューン!
まだ準備できてないの? 早く行こうよぉ!」
…気のせいらしいな。
靴に藁縄を縛り付け終わると、僕はリュッタにうなずいて見せた。
小さな目の細かい篭を腰にくくりつけて待っていたリュッタは、僕の背中に素早く這い上がって、
肩に乗った。
リュッタを肩車したまま、僕は淵に足を踏み入れた。水は、しびれるほど冷たい。
水の流れ出す洞窟に向かうと、淵は急に深くなり、あっという間に胸まで水に浸かってしまう。
「わあ、おもしろーい! あ、あそこ、魚! ね、コリューン、見てよ!」
リュッタは楽しそうに歓声を上げるが、僕はそれどころじゃなかった。
注意深くゆっくり水の底を探りながら進むうちに、体が冷えて歯がカチカチいい始めた。
洞窟の入り口をくぐる頃には、水は僕のあごまで届くほどになる。
お尻が濡れたリュッタが冷たい冷たいとはしゃぐ声が、洞窟の中に反響した。
がちがち言う歯を食いしばって、さらに奥に進むと、水は少しずつ浅くなる。
その代わり、流れは幅が広くなり、速くなる。行く手の闇から吹き付ける風は、氷より冷たい。
洞窟の入り口の光が届かなくなったところで、僕は立ち止まった。
そのまま、じっと闇に目が慣れるのを待つ。
「わあ、寒い! 寒いね!」
リュッタは騒ぎっぱなしだけど、ちゃんと闇の中で目を凝らしているらしい。
「あった、あった!! あったよ、コリューン!」
突然、ひときわ甲高い声をあげて、小さな両手で僕の頭をぐいと回した。
「ほらほら、もうちょっと左!」
「ん」
僕は口を開けずに答えて…下手にしゃべると、舌をかみそうだったのだ…
回された方に目を凝らした。
僕にも、見えた。
天井に、うっすらと緑がかった青白い光を放つものがたくさん張り付いている。
これが、今回の冒険の目的…こういうところにしか生えない、珍しい薬草だ。
ぼくは、用心しいしい、薬草の真下に移動した。
肩の上でリュッタが起用に立ち上がった。
伝わってくるごそごそとした動きで、
リュッタが高い天井からコケのような薬草をかきとっているのが分かった。
さらに目が慣れてくると、洞窟の天井のあちこちに、薬草が固まって光っているのが見えてきた。
薬草に飾られた洞窟の天井は何度見ても、きれいだ。
…神秘的なもの、美しいものは、今までたくさん見てきたし、
この光景はその中で取り立ててすばらしい、という程のものでもないのだが、
なぜか忘れがたい。
充分な量の薬草を手に入れて、元の岩の上に帰ってくる頃には、
さすがにリュッタも冷え切ってぶるぶる震えていた。
「ひゃー、冷たかった! うわ、さむさむ! 外に出ても寒いねえ!」
「ぐぐぐぐ…」
僕はもう、ロクに口もきけなかった。
代わりに、リュッタの首筋に頭に感覚の消えた手をぺたりと当ててやる。
「わあ、コリューンが凍ってる! 早く溶かさなきゃ!」
リュッタは笑いながら、準備しておいた薪で火をおこしてくれた。
「…なんで毎年、この依頼を受けちゃうんだろうなぁ。こんな思いすると分かってるのに」
乾いた服に着替え、火と、カップに並々と注いだ、熱いお湯…生姜と火酒をたっぷりぶちこんで
ある…で、ようやく口がきけるようになると、僕は思わずぼやいた。
リュッタはくすくすと笑った。
「ここに来るといっつもそう言うよね、コリューン。
でもさ、毎年コロナに帰ったら、その日の夜にはここが恋しいって言い出すじゃないか!」
僕は、苦笑した。
「たしかにね。コロナの猛暑が懐かしくなれるのは、今だけだもんな」
暑くなると、学生時代(軟弱ながらワンゲルでした)真夏の山の上や谷筋で寒い思いをしたことが、懐かしくてたまらなくなります。
ことに熱帯夜には、寒くて寝られなかったことが懐かしく思い出されて…。
で、冬には熱帯夜が懐かしく…なるわけでも無いですね。眠れないのは勘弁…。
日本では渓川を歩くときには地下足袋にわらじ履き、が定番ですが、欧米ではどうなんだろ…。
とりあえず、コリューンには藁縄を靴に巻かせて見ました。
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