海越ゆる歌舞〜雅楽海外公演回想録エッセー〜

ヨーロッパの風 1990秋

1 旅立ち

旅立ちの前に

楽を奏で始めて間もないころ、記憶の奥のほうでベールのかかった、あのころの記憶。かすむ記憶の中にはっきりとした、若いまま熱された冷えることを知らない懐かしく、恥ずかしさを伴う記憶。その記憶はそこから新たに作られた記憶にじわじわとひろがり、やがてやさしく、静かに発光を始めた。発光した明かりを楽の音にひそませて、笛に息を込める。春日の森の木々が吸い込んでいく。はるか遠くに届く雅楽の音、はてしなく連綿とうけつがれる歌舞、雅楽とともに海を渡った記憶はおそらく僕の中で発光する源になったところの一部である。

1990年の暑かった夏の終わりに一通の封筒が届いた。南都楽所ヨーロッパ雅楽公演の団員の依頼状だった。私は舞台経験の最も少ない団員の一人となった。海外旅行の経験もない私がいきなり二週間のヨーロッパ。とまどいと、気負いだけが先行していた。毎週の厳しい稽古が始まった。南都の雅楽を伝承する機関として南都楽所は存在する。南都楽所の楽人が最も大事にしているのが「春日若宮おん祭」での雅楽である。南都の楽人として、そのまま、伝えていくということが一番重要なことなのである。それとともに演者として雅楽という音楽が未知の世界でどんな風に受け入れられるのかという興味は強く持っていた。
このときに、ある厳しい楽師から特別に受けた打ち物と左方の舞の基本を今も大事にしている。

思えばこのころの僕の笛の音は、ある意味で気負いが大きすぎて、とんがっていたように思う。しかし、その音の作り方が今の音色に繋がっているんだろうとも思う。同じ龍笛という楽器を使っていても、舞楽として吹くときと、管絃として吹くときでは目指すものが違う。南都ではほとんどが屋外での演奏のため、舞楽吹きの激しさを追求する。ヨーロッパ公演では屋内のホールがほとんどであることが行程表からわかった。その時、音律に重点を置いた稽古がなされていた。はじめ、ヨルダンのハッサン皇太子の誘いによるアンマン公演もその中にあったかと思うが政情の関係で延期となった。最終的にイタリア、ドイツ、オランダでの公演となった。

↓10/13

前夜

当時、僕は、奈良の西大寺に住んでいた。春日大社が集合場所、朝の5時。タクシーもそんな時間には営業していないという。そこで、免許を取ったばかりの友人が車で送ってくれることになった。前夜に彼はやってきてくれた。しかし、様子がおかしい。なんでも、ビニールテープをかしてほしいという。車のタイヤの空気が減ってきているような気がするというのだ。見に行くと確かにすこし減っているようなきがする。しかしどこがパンクかわからない。でも大丈夫だろうということになった。部屋に戻り、別の話をしていても、タイヤのことが気にかかる。絶対に遅れるわけには行かない。その夜は興奮と心配で、結局ほとんど寝られなかっただろうと思う。明け方、まだ、暗かったが雨が降っていた。懐中電灯で照らすとさらに減ったタイヤの一部分から泡がすこしでている。・・・・・・・・・・。

もうやけくそで、その車にトランクを積み込み奈良へ向かった。意外に何事もなく車は進みだした。しかし、いくらも進まないうちに鈍い震動がお尻のあたりに伝わり始めた。「大丈夫か?」「大丈夫です。」すこしすすむ。「ハンドルとられてないか?」「大丈夫だと・・・」すこしすすむ。「大丈夫か?」「・・・・・・。」すこしすすむ。はげしい雨音と、ワイパーの音のみが聞こえる。そのとき友人は叫んだ「あかん、すんません、もうだめです!」このままでは友人のパパさんの車は壊れてしまうし、事故になってしまう。それにこのスピードではとてもじゃないけど間に合わない。西大寺の駅までなんとか行き、始発で奈良に行くことにした。近鉄奈良駅から春日大社までのことは後で考えよう。「ありがとう!」どしゃ降りの雨の中、心配そうな友人の顔をあとにして、トランクを引きずって電車に飛び乗った。

案の定タクシーはつかまらない。駅から春日大社まで歩いて30分はかかる。昼間は観光客が多い奈良駅もこんな早い時間では人気がない。下っ端の楽生の僕なんかが遅れるわけに行かない。あせりの頂点に達しているときに、ここで偶然の出会いに助けれられる。人気のない駅を歩いているものがいる。その人物は同じ大学の同じ学科で、話をしたことはないが、おたがいに顔を見知っている者だった。彼は寡黙なバンド青年であった。彼がどうしたのかときいてきてくれたのである。僕が事情を話すと、トランクを一緒に押して神社までおしていってくれるという。一人は心細いものだが、こうやって一緒に行ってくれるととても心強い。その道中、これから雅楽の公演でヨーロッパへ旅立つこと、音楽の話などもしたように思う。寡黙であるというのは誤解で、ジャンルは違うが音楽を志すもの同士、お互いに話し込んだ。帰国後に演奏会にも聴きに来てくれるともいってくれた。東大寺の南大門大仏殿を左に見ながらすこし越えたあたりで公演の団員で楽人のFさんが車でひろってくれた。

鹿の鼻むけす

一連のハプニングで気付いてなかったが、あのどしゃ降りの雨は奈良駅についたときにはやんでいたように思う。もし、ふり続けていたら・・・、もし、・・・このもしを考えると恐い。しかし、まさかによっても、助けられて、春日大社に到着することが出来た。当然携帯電話もないころのはなし。まだ、旅は始まっていないが、ずいぶん長いハプニングの多い序章である。
濡れた玉砂利を歩いて団員一同で、春日大社に参拝した。まだ、夜は明けていない。春日の鹿がゆっくりと歩いてきて鼻を空にもちあげている。馬のはなむけならぬ、鹿の鼻の向かう先、楽と舞を携え、空を越えていく旅の始まりである。

旅立ち

まだ関西国際空港はなかったので、伊丹まで行き、そこから成田へ国内線で飛んだ。そして、国際線北ウィングのシベリア周りでヨーロッパへ飛び立った。
晩秋ではあったがそれほど寒い時期ではなかった10月13日。ブラックジーンズと緑のすこし厚めのコーデュロイシャツにジャケット。上空では季節感覚もなく、時差によって時間のながれもとまったようにゆっくりとしていた。雅楽の譜面をあけてみたりもしたが、それにしても長い長い空の旅。シベリア上空で下に雪原が見えた。時差は 8時間。ついたのは夜だった。ドイツのフランクフルト。時差ぼけで、大きいドイツの人々にすこしびっくりしながら、空港のトイレの小便の便器の位置があまりに高すぎるのにショックを受けてホテルに入った。
トランクを開けると目覚し時計が律儀に日本時間を刻んでいた。ぐるぐると針を回転させる。ホテルを駆け上がるビル風が強い。ヨーロッパの時間がながれはじめた。

↓10/14

フランクフルトの白パン

ヨーロッパについて初めての食事。夕食なのか夜食なのか、とにかくそこに出ていた白いパン。すごくそれがおいしかったのである。僕は単純にも『アルプスの少女ハイジ』でフランクフルトにつれていかれたハイジがアルプスにすんでいる大好きなおばあさんのためにロッテンマイヤさんの目を盗んで白パンを食事の最中に隠していたのを思い出した。僕もそのなんともいえないおいしいシンプルな白パンを実はこっそりその場からもって帰った。そのパンはイタリアまで一緒に行くことになる。フランクフルトの街の夜景に走るベンツ車の光の筋を見ながら眠りについた。

翌朝フランクフルトの町を歩いた。土が見えない、地面が石畳である。ドーム聖堂がたくさんあって、その教会の一つの扉をそっと開けてみた。すこしひんやりとしたその中で、厳かに結婚式が行われていた。午後いよいよ、最初の公演地、イタリアのローマに飛行機で向かった。時差ぼけもあって、その日のローマの夜はぐっすり眠ったような気がする。

基礎資料

・平成2年10月13日〜29日 海外
      ・南都楽所欧州雅楽公演
       演目・管絃 「越殿楽」 「陪臚」 「合歓塩」「抜頭」
          ・舞楽 「春庭花」「打毬楽」「狛桙」「陪臚」「八仙」「還城楽」「蘭陵王」「貴徳」
         各国日本大使館{ドイツ、イタリア、オランダ}主催
         ユネスコ主催
         外務省要請
        *ローマ法王謁見 バチカン宮殿ミサ公演(イタリア)    
        *ローマ日本大使館公演(イタリア)
        *ベニス公演    ゴルドーニ劇場(イタリア)
        *ミュンヘン公演  コングレスハレー国際会議場(ドイツ)
        *ベルリン公演   日本大使館公演(ドイツ)
        *アムステルダム公演  トロッペンミュージアム(オランダ)