楽曲解説エッセー
〜随想的雅楽曲辞典〜
Believe In Snow

南都楽所(なんとがくそ)の楽人(がくじん)信雪(のぶゆき)が実際に演奏したり、舞ったりする中での発見をまじえて、なるたけ分かりやすく雅楽曲にまつわるエピソードを随想風にのせました。雅楽の専門用語はなるたけ、くだけた言葉に言い換えるようつとめました。
南都楽所の公式ホームページ(外部)と合わせてご覧下さい。曲もだんだん増やして、校正、増補もしていきます。ここでは、南都(奈良)の雅楽を中心に説明しています。


*このページの南都の雅楽の記述は、現在伝わっている慣例を含みます。伝統と慣例を区別して使っていきたいと思います。
*南都楽所は伝統を何よりも重んじる団体です。伝統行事の中では厳格に古儀に基づいて、行われます。ホールでの演奏も基本的には地明かりのみで行います。エッセーの中に散見する特殊な演出は、例外としてとらえてください。

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右方 蛮絵
uhou bane

このページの無断転載、引用は禁止します。

・甘州・五常楽・新靺鞨・打毬楽・春庭花・八仙・太平楽・賀殿・王昭君・蘭陵王・落蹲・納曾利
・還城楽・長慶子・越殿楽 ・越殿楽残楽三返・陪臚・御神楽・東遊・貴徳・振鉾・傾盃酔郷楽

甘州
kansyuu

唐楽・平調・準大曲・新楽
延四拍子・拍子十四
四人舞・平舞
番舞「林歌(りんが)「仁和楽(にんならく)」
 

唐の玄宗皇帝の作だといわれています。

曲名から、シルクロードの甘粛省甘州に由来する曲かと思われます。教訓抄には海がある国で竹がたくさん生えているなど不思議な記述もあります。また、竹の根にくる毒虫のために人が多く死んだとあります。甘州を演奏して、舟に乗ってきて竹を切れば、金し鳥の鳴き声に似ているので、毒虫が恐れをなして逃げるとあります。
竹の毒虫で人が死ぬ?甘州に海?など謎は多くありますが、何らかの関係する要因が由来にあったのでしょうか。1000年以上前の曲なので演奏法も諸説あって現在の形になるまでにずいぶんと紆余曲折があったように思われます。

この曲にしかない「種まき手」という種をばあっと撒き散らすような舞の所作があります。教訓抄(きょうくんしょう)という古い書物の由来には見えないことから、動きが種をまくようだということで、舞人の間でよばれた通称が定着した呼び方だと思います。甘州は、現在は張掖と呼ばれる中国の街で、水と土がよく、農業が盛んな所だそうです。なんだか「種まき手」と土地を耕し、種を撒くという、昔も今も行われていたであろう人間の営みとの結びつきを勝手に想像して、うれしく感じました。

・全体としてゆったりとした曲ですが、後半の「種まき手」だけがすばやく動く舞の手です。 どうしても、特徴的な「種まき手」だけがおおげさになってしまう傾向があるので種をまき過ぎ?ないように注意してます。

 

五常楽
gosyouraku

唐楽・平調・中曲・新楽
序 拍子八 序吹八拍子。
詠 拍子三
破 延八拍子・拍子十六。
急 早八拍子・拍子八。
四人舞・平舞
番舞「登天楽(とうてんらく)「地久(ちきゅう)」等
 

五常というのは、人が大事にしないといけない「仁・儀・礼・智・信」という道徳の教えをあらわしています。蛮絵装束(ばんえしょうぞく)という衣装に、巻嬰冠(けんえいかん)という冠をかぶります。平安の公達(きんだち)を思わせる優雅な舞です。絶えてしまった曲が多い中で、序破急のすべてそろった曲です。入綾(いりあや)という舞いながら舞台から降りるという左方(さほう)の舞楽では珍しい特徴をもっています。雅楽曲の中では「五常楽の急」はよく演奏される曲で、現在は道楽(みちがく)に使われます。

・雅楽の序破急(じょはきゅう)の三部構成は能の構成や、文章の構成にまで名前を残すことになりました。五常楽(ごしょうらく)という曲の序はゆったりとフリーリズムで進んでいきます。破はリズムを刻みながも、ゆったりと、急につながっていきます。急ではテンポアップして舞の手もはやくなります。そして、それぞれがいつの間にかそうなっているような、ゆったりとした移ろいの中で袖が翻されます。客観的には長い曲だけれど、舞っていると一瞬の出来事。わかりやすいストーリーはないのに、舞の流れとしての物語を感じることができる曲です。
・序破急そろった舞は手ごわい。とにかく長い。たいていの曲は伝承の過程で序破急が絶えてしまった。その中でも残ったものにはそれなりの理由があるのだろう。 平成17年11月に二十年ぶりに五常楽の序破急を南都で演じました。

新靺鞨
shinmaka

高麗楽・壱越調・小曲・新楽
唐拍子・拍子十六
四人舞・平舞
番舞「採桑老(さいそうろう)」

靺鞨族(まっかつぞく)に由来する曲名です。もともと、渤海楽(ぼっかいがく)であったものが、平安時代に右方の舞楽(高麗楽)に編入されました。『教訓抄』には法勝寺の舞楽の時につくられたという説や、散楽(さんがく)という曲芸や物まねなどを中心とする芸能との関係も書いてあります。舞台の上に横たわり、片手をあげるような所作は、舞楽においてはとても珍しくおもしろいものです。きらびやかな舞楽装束とは違い、衣冠(いかん)を基本としたもので、手には笏(しゃく)を持ち 、厳かに舞われます。蜻蛉の羽のようなものが頭に付いた唐冠というかんむりもかぶります。南都楽所では、明治時代以来の公演が平成16年11月3日に行われました。

「新靺鞨」は曲調なども唐楽とは明らかに違います。篳篥と龍笛のメロディを比較しても、洋楽で言うところの不協和音が多く出てきます。これによって、独特の雰囲気を作り出しています。伝来や由来などでは不明な点も多い曲です。先日テレビで韓国の宋廟の王朝儀式における祭礼楽をみました。直接は関係はないのですが、あまりにもその雰囲気が似ていてびっくりしました。舞の中にある拝(はい)の所作や衣装などもとてもよく似ています。アジアの伝統芸能を目にする時、通説とは違う場所で日本の舞楽の面影を発見することがあります。学術的に安易にそのことで結び付けてしまうのはできませんが、時代や空間を越えて遠いどこかでつながっているような感覚に興奮することがあります。

打毬楽
tagyuuraku

唐楽・太食調・中曲・新楽・延八拍子・拍子十一
四人舞・平舞
番舞「狛桙(こまぼこ)」

中国の黄帝がつくったといわれています。昔、打毬(うちまり)というスポーツがありました。打毬楽はそれを模したものではないかと思います。 万葉集などにも「打毬楽」という記述があります。かつては四十人で舞ったという記録があります。現在の舞は、一揩セけが途中から玉掻きとよばれる手を舞います。曲の途中で一揩ェ懐(ふところ)から玉をおもむろにとりだし、西欧のポロのようにその球を打つような動作をします。始めてこの舞を見た人がクリケットというスポーツをスローモーションでやっているようだと言っていました。スポーツを模した舞 ですが、この舞の動きはとても緩やかです。

初めて舞わせていただいたのは四臈であった。一揩ェ中央に送った玉を持って帰るのだ。一揩フ「玉かきて」のところは、舞いながら思わず本当に球を打ってしまおうかなあという衝動に駆られる。だって、7回も玉を打つ所作をたまに当たるすれすれのところでやるんだもの。見ているほうもいつになったらたまを打つのだろうと思ってご覧になる場合が多いらしく、それでも最後まで打ちそうで打たないのだ。
球は宝珠のような形で五色に彩色がほどこされています。まんまるじゃないので、もし打ったとしたら、とんでもない方向に転がっていくんじゃないかなあ。舞いながら 、いつも、そんなことを考えているんじゃないですよ。

 

 

春庭花
syunteika

唐楽・双調・中曲・新楽
延八拍子・拍子十。
番舞「白浜(ほうひん)」
四人舞・平舞

「しゅんでいか」と濁って発音するところもあるようですが、南都では「しゅんていか」と読んでいます。遣唐使が太食調の曲を持って帰ったようですが、今伝わっているのは、双調の曲です。一帖(いちぢょう)だけの演奏を春庭楽 (しゅんていらく)。二帖(にぢょう)まで演奏する場合、春庭花といいます。春庭花の舞では、花が開いたり閉じたりする様子をあらわしています。太刀をはき、冠に挿頭(かざし)をつけます。造花をつけることもありますが、南都では今も季節の花をつけるようにしています。春の万葉植物園では、「つつじ」や「藤」などを、楽屋からでる直前に手折ってさします。蛮絵装束四人舞です。神前に限り最後の場面でひざまずいて、拝礼するような形をとります。

南都楽所の二回目のオランダ公演では、挿頭(かざし)を現地で用意していただいたミニバラにしました。薄い桜色のものを選んだので、まったく違和感はありませんでした。ホールでの演奏ですが、現地で調達する季節の花という意味において、古儀にのっっとた方法だと思います。国内の公演で関東のほうに出かけたときに、これも現地の人に調達していただいた、梅をもちいました。まだ少し早く、蕾の多い枝ばかりでした。しかし、今のご時世、暖房と照明であったかくなっ た舞台で挿頭の梅が咲き始めたようです。その公演は、初めて一揩させていただいたときでした。舞の最中にまわる手のところの「押し足」という手のところで、花びらが、ひとひら冠から落ちていきました。小さな劇場でしたので、その様子を見た観客から「わあ」という声があがったのを覚えています。

 

八仙
hassen

高麗楽・壱越調・小曲・新楽
破 四拍子・拍子十三
急 唐拍子・拍子十四
四人舞・平舞
番舞「北庭楽(ほくていらく)」

崑崙八仙(こんろんはっせん)(ころばせ)といったりもします。

面は鶴だというのだけれど、どうみても、河童じゃないのかと思ってしまいます。野鳥に詳しい人が見ると、確かにこれは鳥だといいます。しかも、冠をかぶることから、冠鶴であるというのです。伎楽の迦楼羅(かるら)の面ともよく似ています。鳴き声をあらわすという鈴がくちばしの先についています。八仙のように雅楽の中には、幻の王国「渤海(ぼっかい)」から伝わった曲もあって、それらは右方の舞楽に入れられています。この曲は面だけでなく舞いもユニークで途中、かごめかごめのように4人で手をつないでまわります。どんな由来なのかよく分かりませんが、雨乞いの曲であると聞かされています。装束は南都楽所は濃紺で網のメッシュのかかった衣装です、宮内庁や天王寺は水色のような色です。俵屋宗達が屏風に描いた八仙はちょうど南都で使っているものと同じ色をしています。

雨乞いの曲ですが、南都楽所ではこの効果は恐ろしいぐらい絶大です。奈良の伝統行事は屋外が多いのですが、つらつら舞台に出て雨がいきなりざっときたので、そのまま、入る手で入ってしまったことや。極めつけは、イタリアでの公演で、この曲の途中雷が落ちて停電し、非常灯の中で舞いつづけたことなどがあります。右方の舞人は八仙を舞うとき、雨が降ると日頃の行いがよいために成果が出たといい、晴れ渡っていると精進が足りないというようなことを言っています。一度かんかん照りの中で八仙をして、その時の舞人はさんざん、いやみをいわれていましたが、その夜、大雨となりました。こういう場合、じわじわ効いてきたというか、どういうことだろう?

 

太平楽
taiheiraku

唐楽・太食調・中曲・新楽
道行 朝小子(ちょうこし)延四拍子・拍子十二。
破  武昌楽 延八拍子・拍子二十。
急  合歓塩 早四拍子・拍子十六。
四人舞・武舞
番舞「陪臚(ばいろ)胡徳楽(ことくらく)」

舞楽の中では衣装、編成など最も豪華なものです。太刀をはいて、鉾を持って、おまけに矢まで背中に背負う。身に付けるものは半端ではありません。南都の舞楽装束は、兜を合わせると20キロぐらいあるんじゃないかな。
項荘鴻門曲ともいう。「鴻門の会」にちなんだ楽曲であるともいわれています。太刀をふりながら舞うときなどは、かなり危険で、太刀は「真剣」なので舞っていると、楽人同士であやまって、きりつけてしまいそうになります。(それはいいすぎました。刃もうってあります)枕草子に「太刀などぞうたてあれど、いとおもしろし」とあります。中国の鎧の形状でそれを舞用に「ど派手」にしたものです。完全に戦闘用にみえるのですが、曲名が示す通り、平和を願った舞です。背中の矢もつかえないように逆にさして取れないようにつくってあります。

賀殿
katen

唐楽・壱越調・中曲・新楽
破 延八拍子・拍子十。
四人舞・平舞
番舞「長保楽(ちょうぼうらく)」

遣唐使が琵琶譜として持ち帰って、それをもとに、平安時代のはじめに楽と舞が日本で作られました。

南都楽人の千年ほど前の大先輩で、神様的存在の狛行光(こまのゆきみつ)がいます。行光はこの舞を教えてもらった後、春日社の林檎(りんご)の庭でひそかに練習を重ねていました。あるとき死んでしまうのですが、生前に春日社で舞を舞っていたので、雅楽の好きな春日大明神の取りはからいで、閻魔大王の許しを受けて、地獄見物までさせてもらったうえに、息を吹き返します。このお話は『春日権現験記絵巻』にあります。

舞楽の平舞はゆったりとしたものが多いのですが、賀殿は動きのはやい舞でおもしろいものです。南都では襲装束の諸肩を脱いだ状態(つけ裾と前垂)で舞われます。おん祭の左の舞で萬歳楽の次に舞われる曲です。芝舞台では装束の後ろに長く延びた裾(きょ)をさばくのが難しく、動きがはやくても、左の舞らしく、ゆったりと舞う工夫が必要です。曲名にあてた漢字からの連想で、新しい建造物が出来たときに演奏されること も多い曲です。その他、いろんな祝賀のときに舞われます。僕の春日大社のりんごの庭での初舞台は賀殿でした。

蘭陵王
ran ryou ou

唐楽・壱越調・中曲・古楽
破 早八拍子・拍子十六
一人舞・走舞
番舞「納曾利」

昔々、中国の北斉という国を治めていた蘭陵王長恭(らんりょうおう ちょうきょう)があまりに美青年であったために、敵に侮られないように、恐ろしい龍の面をつけて戦いに出て、大勝利をおさめたことから、その様子を舞にしたものであるといわれています。

春日権現験記絵巻には『教訓抄』をあらわした旧南都楽所の狛近真(こまのちかざね)が春日大社のりんごの庭で舞う姿が描かれています。そこには蘭陵王の今はない舞の手「拝む手」の場面があります。

平成四年九月に蘭陵王の墓の前で南都楽所と奈良大学雅楽研究会のメンバーが里帰り奉納をしました。千数百年ぶりの里帰り公演で、その蘭陵王墓がある場所は当時、中国でも外国人未解放地域で、特別許可を得て磁県に招待される形で演奏に行かせてもらいました。今現在、蘭陵王の墓の前に、黄金色の蘭陵王像が立っているのはその時、現地の方が歓迎の気持ちを込めて作ってくださったものです。そのかっぷくのいい蘭陵王像が手に持っている面は現在、南都で使用している天下一越前作の面がモデルになっています。北京〜石花荘〜邯鄲〜磁県とかなりの距離を汽車に揺られながら、行きました。舞楽がこんなに遠くから日本の奈良に伝わってそして、伝えた国の中国では絶えてしまっている。 絶えてしまった芸能の里帰りに対する感慨。現地の方も同じ思いなのでしょうか。何万というひとが、普段は集まらないであろう、田園の中の小山の蘭陵王墓の周りに集まってくれました。つめかけた人があまりに多く、近くを走る線路の上にまで人が及び、列車が止まってしまうというハプニングもありました。黄土の大地に雅楽の音を響かせること。夢の一つがかないました。

落蹲
rakuson
納曾利
nasori

高麗楽・壱越調・小曲・新楽
破 揚拍子・拍子十二
急 唐拍子・拍子十二
走舞
番舞「蘭陵王」

二匹の龍が遊びたわむれる様子を舞にしたといわれています。毛べりの裲襠装束(りょうとうしょうぞく)を着て銀の桴(ばち)を持って、舞います。

南都(奈良)では二人舞を「落蹲」(らくそん)、一人舞を「納曾利」(なそり)とよんでいます。天王寺、京都、宮内庁式部職楽部ではその逆で一人舞を「落蹲」、二人舞を「納曾利」とよんでいます。また、舞の手もひざまづく場面が多いのが特徴です。『枕草子』に「落蹲は、二人して膝踏みて舞ひたる。」とあります。南都の落蹲はこの記述に合っていて、旧南都楽所の右方楽人の大神(おおが)氏の舞であるといわれています。春日若宮おん祭では、競馬の勝敗によって、その後の舞楽の順番を決めます。右方の馬が勝てば納曾利から、左方が勝てば蘭陵王から演奏します。

個人的に好きな舞の手は、斜に向き合って、手をぐるぐる回すところ。ひざまづいて手を地面すれすれのところから、天に向かってぎろりのところ。180度ジャンプして回転するところ。僕は左方舞人なので右の舞の手の名前は、詳しくありません。専門的な手の名前を書くよりは、わかりやすいだろうから、あえて、このままおいておこうかな。

還城楽
genjyouraku

唐楽・太食調・中曲・
右方・・八多良拍子・拍子十八
左方・・早只八拍子・拍子十八
一人舞・走舞

中国西部に蛇を好んで食べる人がいて、蛇を見つけて喜ぶさまを表している曲です。舞楽は様式化されているので、舞の意味が漠然としたものが多いのですが、この舞は比較的ストーリー性のある曲です。蛇を見ながら蛇の周りをぐるぐるまわり、鹿婁(ろくろ)という舞の手で、手を上げたりさげたりする激しい動きの場所が、特徴的です。最終的にその蛇をつかんで舞います。毛べりの裲襠装束(りょうとうしょうぞく)で舞います。

南都楽所には左方の還城楽と、右方の還城楽が伝わっています。左方はかなりリアルなとぐろを巻いた蛇、右方は金色の蛇を使います。左方は早只八拍子、右方は八多良拍子です。早只は二拍と四拍の繰り返し、八多良は二拍と三拍の繰り返しです。舞ぶりも違います。

楽曲はおん祭の還幸の儀で使います。そのときには早只八拍子で演奏します。

平成13年は巳年なので、蛇にちなんだこの曲がよく演奏される年になりました。

長慶子
tyougeisi

唐楽・太食調・小曲・新楽・早四拍子・拍子十六・
舞なし

源博雅の作曲で、舞楽の演奏会の最後にお客さんに帰っていただくときのバックミュージックとして演奏されます。それを退出音声(まかでおんじょう)といいます。リズミカルな曲で 、通常の管絃曲よりもテンポアップして演奏されます。この曲を聴きながら退場するのが通だというのですが、最近は、最後まで聞いてから帰られる方も多くいらっしゃいます。 海外公演ではアンコールの曲として使用しました。普段の南都楽所の演奏はテンポの面では比較的ゆったりと演奏することのほうが多いのですが、この曲については最後のあたりで激しくスピードアップをすることを慣例としています。 雅楽はゆっくりと演奏することのほうが難しいのですが、この曲に関してははやく演奏します。

個人的に練習のときにどれだけ早く演奏することが可能かということに挑戦したりしたことがあります。笛の手は多いけれど、いくらでもはやく吹くことが出来る。ところが、篳篥は塩梅(えんばい)などがある関係で、速く吹くのに限界があるようです。あんまりこんな変な練習はしないでおこう。(-_-;)普段の練習にはゆったりした曲を練習しないといけないと教えられています。

越殿楽残楽三返
etenraku nokorigaku sanben

三返繰り返し演奏していきます。その間に、だんだんと楽器の演奏をやめていき、最後は楽筝だけの演奏になって終わります。篳篥は最後のほうで途切れ途切れに演奏して、その休んでいる部分を、聞いている人の心の中で演奏させるという面白いものです。残楽の場合、楽筝には、普通とは違う特別の手があります。他の曲にも残楽の演奏方法はありますが、多くの人の耳になじんだ越殿楽だからこそ、残楽としての面白さが出るのだと思います。

伝統行事ではありませんが、お茶室の庭で演奏したことがあります。その演奏の演出を工夫しました。楽人の前にろうそくを置きその周りを和紙で囲って簡単な行灯のようなものを作りました。和紙には秋だったので紅葉を貼り付けたと思います。残楽の演奏で、それぞれの楽器の演奏が終わると自分の前の行灯の灯を消していきます。最後に楽筝の演奏者が灯を消し、闇に包まれて、月明かりがあることを聞いている人が感じるというものです。学生の頃でしたから、雅楽のこともよく分からないまま、洋楽の弦楽四重奏で舞台の灯を消していくという演出や、テネシイウイリアムズの演劇の終わりがろうそくを吹きけして、舞台が溶暗するというところからヒントをえて考えました。この演出の成功で雅楽が自然の中で自然とともに存在してこそ、生きてくるんだということを実感しました。どんなレーザービームも、ドライアイスもライトもいりません。自然の中にあることこそが、最高の雅楽にとっての贅沢な演出だと知りました。

越殿楽
etenraku

唐楽・平調・小曲・新楽・早四拍子・拍子二十
舞なし

越殿楽は最も有名な雅楽曲の一つです。入門曲のような扱いをされています。しかしこれをゆったりとした管絃吹きで吹きこなすのはなかなか難しいことです。有名なのに由来のよく分かっていない曲です。平調(ひょうぢょう)の越殿楽のほかに、盤渉調(ばんしきちょう)、黄鐘調(おうしきちょう)などがあります。慣例として、おめでたいときには、平調の越殿楽を、悲しい出来事があった時には、盤渉調の越殿楽を演奏します。今様(いまよう)や、黒田節(くろだぶし)に旋律が使われています。

雅楽を始めたばかりの頃、笛の唱歌で「トラロ」と吹くところでなかなかトラといってロまで吹けなかったのを思い出します。代表曲とされているけれど、他の曲を覚えると結構雅楽っぽくない曲なんじゃないかと思えてきます。奈良の西大寺のあたりに住んでいたときに、平城宮跡の大極殿に練習によく行って、酸欠でフラフラになるまで吹いていました。吹いても吹いても音を限りなく、吸い込んでいく高い空、まだ朱雀門も復元されていなかったころ、ただ、いにしえの人々の息づかいだけがそこに感じられただけ・・・。

陪臚
bairo

大阪ドーム(現在の京セラドーム)での設営風景

唐楽・平調・中曲・古楽
早只八拍子・拍子十二。
番舞「太平楽(たいへいらく)」
四人舞・武舞

林邑(りんゆう)という国が今のベトナムの南あたりにありました。そこから奈良時代にお坊さんの仏哲たちが奈良時代に伝えたといわれています。
この曲の説明はややこしい。管絃のときは只拍子(ただびょうし)で、舞楽では八多良拍子(やたらびょうし)で演奏する。このリズムの説明は別にあげます。しかも、唐楽で高麗笛ではなく龍笛を使って、または笙を使って合奏するので、左方の舞楽のようだけれど、陪臚については右方の舞人が舞います。左方の裲襠装束をきて、巻嬰冠。太刀をはき、矛と盾をもって舞います。南都では巻纓冠をかぶるけれど、天王寺 楽所さんは仏事で鳥兜をかぶられるようです。破で陪臚を、急で新羅陵王の曲を使います。

大阪ドーム(現在の京セラドーム)オープニングセレモニー南都楽所公演で舞楽・陪臚を演奏しました。このときはだ太鼓を持っていったのですが、ドームの中ではあの巨大な南都のだ太鼓が小さく見えました。残響音が長い間響き、少し演奏がしにくかったと思います。ドライアイスがたかれていて、演奏していてスモークに埋まってしまいそうでした。退場したら舞台によくロックのコンサートで使うような花火があがりました。そのあとの僕等と入れ替わりに出てこられたのが、和田アキ子さんだったと思います。その次の日はglobeだった。そんなの雅楽であり?

{東遊}
azumaasobi

春日若宮おん祭で奉納されます。昔からの伝統で、おん祭では、南都楽所の子供がやることになっています。「駿河歌」「求子」を演奏します。京都の平安雅楽会が奉仕されている葵祭や宮内庁楽部の東遊は大人によって演じられます。「求子」 の歌詞がそれぞれのところで違います。
歌と笏拍子、和琴、高麗笛、篳篥で演奏します。

「駿河歌」
や、宇度浜(うとはま)に 駿河なる 宇度浜に
打ち寄する波は 七種(ななぐさ)の妹(いも) 言(こと)こそ佳(よ)し
「駿河歌二段」
言こそ佳し 七種の妹 言こそ佳し
逢へる時 いささは寝なんや
七種の妹 言こそ佳し
「求子歌」
千早ふる 春日の山の 三笠松(みかさまつ)
あはれれん れれんやれれんや
れれんやれん の 三笠松

歌なんていうのは「う〜〜〜〜」とか「あ〜〜〜〜」とかいった具合に低い音をひたすら伸ばすようなのを連想するかもしれません。催馬楽(さいばら)などでは、実際はそのような部分が多いのですが、東遊は、高麗笛と篳篥の伴奏に乗せてさくさくと、比較的、軽やかに歌われます。「求子」の「みかさまつ」のところには、ものすごく高い音があって、歌い手は幾分血管が浮きそうになって歌っています。それから、雅楽の歌の基本は地声です。決してオペラ風に「ええ〜声〜〜〜」には歌わないのです。

メモ・南都楽所では「春日の山の三笠松」、平安雅楽会さんの演奏する葵祭では「賀茂の社の姫小松」、宮内庁式部職楽部では「神の御前(みまえ)の姫小松」という歌詞になります。

 

貴徳
kitoku

高麗楽・壱越調・中曲・新楽
破 四拍子・拍子十
急 唐拍子・拍子二十
一人舞・走舞
番舞「散手」

別甲(べつかぶと)に白い顔の面を使う。威厳のある人面ですが、おん祭ではこの鼻から白い息が出るのが見えて、こういった顔の人物が生きているような錯覚に陥ります。

おん祭りで散手の番舞として舞われる。袍が二種類あって、黄緑色のもの、もう一つは濃紺のもので、最近はあまり使ってい ません。かつて、明治の頃、南都で濃紺のほうの装束(しょうぞく)をある所に貸し出したところ、 貸し出した先が紛失してしまい、新調して戻ってきたそうです。ところが、装束の色が黒になってしまっていたというのです。濃紺を黒と勘違いするほど、深い色の紺だったというのです。

南都に残る面に貴徳鯉口というのがあるけれど、あれは一体なんなのでしょう。使ったためしがありません。その場で「ホ」と言ってみてください。そうです、その「ホ」の口をした面はちょっと間の抜けた感じですね。現在使っている人面の勇ましい方とは、まったくイメージが変わります。まだまだ謎の多い舞楽です。『龍鳴抄』という古い雅楽書をみていると、鉾を渡す役の番子(ばんこ)という役がいて、鯉口の面をつけるときにはその番子の面もかわったとかいてありますが、現在の南都の貴徳には番子はありません。

振鉾 三節
enbu sansetu

舞楽の会の始めに、舞台を清める意味で、左方、右方の襲装束の肩脱で舞います。肩脱は一番上につける袍を右腕だけ脱ぐことで脱ぐと下襲が見えます。一節(いっせつ)で左方の舞人が一人で舞い、二節(にせつ)で右方の舞人が一人で舞い、三節目で左右の舞人が二人で舞います。鉾を持ち、襲装束の片脱ぎで、舞楽の演奏の最初に演じるもので、舞台を清めるといわれています。三節目を合鉾(あわせぼこ)とよんでいます。振鉾では、左右の舞の特徴をくらべることが出来ます。とくに違うのは舞の手の「すり足」です。その他微妙に違う箇所もあります。

王昭君
ousyoukun

唐楽・平調・小曲・古楽・早四拍子・拍子十
舞なし

王昭君は中国の前漢の元帝の宮女の名前です。大変な美人であったそうです。『西京雑記』(後漢期)にこんな伝説がのっています。当時、元帝は宮廷画家に描かせた肖像画をみて、宮女を召していました。他のものは画家に賄賂(わいろ)を贈って自分を美しく描かせたのに、王昭君は賄賂を贈りませんでした。それで、醜く画家に描かれてしまいます。醜いと判断した元帝は王昭君を北方民族に嫁がせることにしました。いよいよ嫁ぐ日になって現れた王昭君の美しさに元帝は驚き大変悔やんだというのです。そして、その画家は処刑されました。数奇な運命をたどった女性として古くから戯曲や詩などに多く取りあげられています。
「明妃曲」(「明妃怨」)という楽曲が日本に伝来し雅楽曲になったともいいいます。もと性調の曲で日本で絶えてしまったので9世紀ごろ改作されたそうです。
次の唐の漢詩は王昭君の悲しみをうたったものです。

王昭君 白居易
面に満つる胡沙(こさ) 鬢(びん)に満つる風
眉(まゆ)は残黛(ざんたい)鎖(き)え 臉(かほ)は紅(べに)鎖ゆ
愁苦辛勤して 憔悴(しょうすい)し尽くれば
如今(じょこん) 却(かへ)って画図(がと)の中に似たり 

自ら望んで単于(ぜんう)の妻となったともいい、単于の死後には正妻の子供と再婚します。歴史上の有名なヒロインの女性に、悲しい運命の中で生き抜く大変な力強さを感じます。史実はともかくとして、日本で改めて王昭君の雅楽曲が作られたときには、すでに多くの伝説のイメージの中の人物でした。悲しい旋律だという人もいますが、そんなことを考えてこの曲を吹くとき、僕は、その美しい旋律のなかに、しんのとおった凛とした女性の力強さを感じます。
毎年、南都楽所では正暦寺の人形供養で管絃として「王昭君」を演奏します。女の子の大事にしてきた人形を燃やすという女性に関係した行事だからなのかもしれません。

傾盃酔郷楽
keibaisuikyouraku

角調 復元新作

中国の敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)第17くつに塗りこめてあった壁の中からお経の経典が大量に見つかりました。この様子は井上靖原作の映画『敦煌』でうかがうことができます。その、経典の裏に、琵琶の譜が記されていたのです。そこに記されているのと同じ曲名の「傾盃楽」が今の日本の雅楽曲にあります。表記方法も今とほとんど同じで、琵琶の譜面だとわかります。現在の中国では雅楽の伝承は絶えてしまっています。雅楽は中国から伝わったものなので、日本で現在使用している雅楽譜と敦煌の琵琶譜は大変近いのです。その琵琶譜を元に現在日本に伝わっている雅楽曲風に復元作曲したものを「傾盃酔郷楽」としています。南都楽所の笠置侃一楽頭他がその作業に当たりました。南都楽所では現行の古典曲しか演奏しませんが、この曲は例外で中国の敦煌公演の際に、演奏を行いました。
この曲は角調の曲で、現在は奈良大学雅楽研究会が毎年学園祭で演奏する曲目となっています。その際、正倉院にある笙のように吹き口のついたもので演奏をしています。また、かつて使われていた、「はくばん」という楽器や、もともと奈良時代以前に使われていた「う」(竹かんむりに干の字)という大型の笙を使うことがあります。神仙(しんせん)の音からはじまるこの曲には、シルクロードをイメージするメロディーです。

 

鹿踊
sikaodori

春日音頭ともいいます。歌と舞によって構成されていて、かつて、蘭陵王にもあった詠(えい)というものはおそらくこのような形で歌いながら舞われたのではなかろうかと思われます?この曲は左方の舞楽に属するといいます。ただし、舞の指導は右方の楽師によっても行われ、正調鹿踊と俗調のものとがあります。俗調は合いの手が加わっていて、正調のほうが一音低く歌われます。おん祭の装束直しの日に舞われますが、南都楽所における秘曲中の秘曲なので演じられる場所すら公表できません。よって南都楽人の通過儀礼の一つでもあります。歌詞は大和国原、奈良の土地を褒め称えるものですが、いつのころからか、下品な内容が含まれるようになり、ここに掲載するわけにはいきません。舞の手は秘曲であるので公開することは許されませんが 、少しばかり紹介すると、捨肘(すてがいな)の繰り返しの手があります。

鹿踊についての記述は、本気でこれを信じないで下さい。冗談でのせたものです。しかし、記述にフィクションはありません。事実です。?


 

 

 

 

 

以下工事中

{御神楽}
mikagura

長らく途絶えていたものを、平成@年に復興しました。春日大社では陪従神楽(べいじゅうかぐら)と呼ばれています。春日大社の神主さんと南都楽所の楽人を中心として演奏しています。毎年、秋に秘儀として奉納されています。

{和舞}
yamatomai

南都楽所では「和舞」と書きます。宮内庁などの他の所では「倭舞」「大和舞」と表記します。

私がまだ、荷物もちとして初めて外部公演に連れて行っていただいていたときのことですが、沖縄での公演で、現地の沖縄舞踊との競演がありました。その時、和舞が演奏されました。本来は榊(さかき)の枝を用いるのですが、沖縄では榊は一般的な植物ではありません。そこで、なんとその時はガジュマロの枝を使いました。 葉はよく似たものなのですが、白い樹液が出るのが難点でした。当然、これは、特殊なことで、通常は榊で舞われます。 春日大社の神官によって舞われることも多く、春日祭では秘儀ですが、春日若宮おん祭りの時にも、演じられます。

 

 

慶雲楽
kyouunraku

唐楽・平調・中曲・新楽・延八拍子・拍子十
舞なし

両鬼楽ともいう『教訓抄』に@@@@@@。明治選定譜には収められていませんがかつてはよく奏楽で使われた曲です。
平成10年より復興、それまではおん祭の遷幸の道楽は三台塩を演奏していました。

胡徳楽
kotokuraku

 

胡徳楽は今残っている舞楽の中で唯一はっきりとストーリーのあるもので、無言喜劇です。伎楽(ぎがく)という今はなくなってしまった芸能の姿を留めているといわれています。映画「千と千尋の神隠し」に登場する 「春日さま」の紙のお面は、雑面(ぞうめん)といって胡徳楽にでてくるものです。宮崎駿さんは南都のものを見て描かれたそうです。 右方の舞楽ですが、雑面をつけた主人役の「勧盃(けんぱい)」は左方の舞人が勤めます。

以前に勧盃の役をやったことがありました。普通は主人役ですので、それなりの貫禄のある人物が演じるのですが、どういうわけか若輩の私がやらせてもらうことになりました。威厳のないものが威厳をかもし出すのは大変難しいものです。所作は大変少なく 、すぐに退席してしまうのですが、雑面の不可思議な魔力でかなり舞台上でも目立つ存在です。

迦陵頻
karyoupin

唐楽・壱越調・中曲・古楽
急 早八拍子・拍子八。
四人舞・童舞
番舞「胡蝶(こちょう)」

法隆寺や東大寺などのお寺の大きな法要では必ずこの曲が演奏されます。四人の子供が舞台に出て舞を舞っていると、演奏の途中できらびやかな袈裟の僧侶が散華(さんげ)を撒きます。舞台にはらはらと舞い降りる散華、風に乗って遠くまで飛んで行く散華があります。

 

庭上一曲
teijyouikkyoku

未稿  唐楽・太食調・中曲・
右方・・八多良拍子・拍子十八
左方・・早只八拍子・拍子十八
一人舞・走舞

「一曲」という曲。
東大寺や法隆寺などの大きなお寺の大法要にのみ使われる曲です。


 

1.萬歳楽(まんざいらく) 唐楽・左方舞・平調

中国大陸から伝わった曲です。中国の唐の時代、すぐれた王が世を治めたときには、必ず鳳凰がやって来て、「賢王万歳」とさえずったという伝説があります。それを音楽と舞にした大変おめでたい曲として、天皇のご即位の時など、慶賀のときに舞われることの多い曲です。

2.延喜楽(えんぎらく) 高麗楽・右方舞・壱越調

醍醐天皇の延喜8年(908年)に藤原忠房が作った曲で、年号から曲名としたものです。日本で作られた舞楽ですが、右方の舞楽に組み込まれました。萬歳楽とともに番舞(つがいまい)としてセットで舞われることの多い曲です。手を広げて斜めになる所作が印象的な舞です。

 

延喜楽と萬歳楽は、舞楽の中でも、特にゆったりとした優雅な曲です。

 

参考文献は雅楽図書館

メモ