最近、『宗教と人生』という文章を読んだ。
それを読んで俺の宗教に対する考え方が変わった。
今まで俺は宗教はなんていうか、「神様、助けてください」とか「極楽浄土」とか聖書を読んで神を信じてお祈り、儀式をするものとしか見ていなかった。
俺の勝手なイメージ多くの人がそう考えてるんじゃないだろうか。
しかし、『宗教と人生』この文章を読んで考え方に少し変化があった。
こんな話がある。
もし、あなたが外国人から
「あなたの信仰する宗教はなんですか?」
って聞かれたらどうしますか?
外国の人からすれば、何かの宗教を信仰していることが当り前なんです。だから、聞かれてもおかしくない。
その人が聞く意図としては、「この人は一神教を信仰しているのか、はたまた多神教か」
* 一神教とは、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などの神様は唯一の存在、つまり一人と考える宗教。
多神教とは、仏教や、ギリシャ神話みたいに神はたくさんいると考える宗教のこと。
そういう意図があるんです。
あなたはなんて答えますか?
仏教ですか?
仏教だとしたら、あなたの宗派は何ですか?
そして、どのような宗教行為を行っていますか?
どんな宗教でも宗派でも宗教行為はあるものです。それを行っていますか?
「宗教は信じてません」っていいますか?
だったら、あなたは神社でお祈りをしませんか?
仏壇の前や、お墓の前で手を合わせませんか?
それとも、多神教ですか?
クリスマスにはキリスト教の宗教行為の偽物を行い、神社でお祈りをし、何かあれば祈るというのは多神教ではなく、自分の都合のいいように神頼みしているに過ぎませんよ。
このように、おそらく日本人の多くは戸惑うはずです。
そこで、日本人は日本教を信仰しているのだと言う人がいます。
これは特にいつもは宗教行為を行っているのではなく、困った時の神頼みというような考えを持つ日本人独特の宗教性だと考えるというものだと言われています。
あなたはどう思いますか?
宗教は神にすがりたい時にすがるものだと思いますか?
それとも、他の宗教のように常に信仰儀式を行い、神のおぼしめしを待つものだと思いますか?
俺が思ったのは本当の宗教ってのは違うんです。
宗教を語る前に一つ文章からの引用です。
『仏教においての「空」とは、諸物とわれわれの心意識の底に引かれた限界の一線を、つまり虚無を破って開かれるところである。それは虚無を破るものであり転換である。そういう転換として超越である。それは新しい目で見られる人生、新しい生命で生きられる人生である。諸物と自己との根底にある虚無を打破した所からみられるのであるから、諸物がも自己も、両者の関係も、全く新しく見られる。』
この意味はわかりますか?
またこの文章の後に書かれているこの「空」の境地というのが、
「白いものは底無く白く、悲しみは底無く悲しく、水を飲んで感じる冷たさは底無く冷たい。
底がないということはあるものが自らのうちに根拠をもっていない、根底がないということである。」
とある。
つまり、自分に存在する感情であったり、心情であったり、感覚であるものが、『空』の境地に達すると全てが根拠、根底が無いものであるということである。ということは全てが無に帰するということである。
しかし、自分が生活している中の全ての諸物に対して根拠、根底がないということがいえますか?
実際に悲しいこともある。怒ることもある。冷たいとも思う。暑いとも思う。
それではなぜ、『空』の境地に達することができないのか?
それは、自分の意識につなげてしまうからだという。
悲しいと感じた時に自分が悲しいと感じる対象として、自分で認識してしまうから悲しいと感じるのだ。
それを、自分で意識せずに『空』の境地へつなげることを目的とするのが、宗教の境地だ。
例で仏教の『空』というものを出したが、キリスト教にしても『神のお慈悲』を求めることで、自分が感じた例えば悲しいと言う感情をどこか、超越したところへ飛ばしてしまう、つまり、根底のないところに悲しいと言う感情を飛ばすのだ。
俺はこれが全ての宗教につながるものだと思った。
キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教もそうだ。
はたまた、オウム真理教というものにしてもそうだ。
すべての感情を無にしようとしている。
ことわざに「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのがあるが、まさにこれは境地に辿り着くべしということを物語っている。
こういったことから、日本人も同じことをしていると言える。
困った時の神頼みということにしてもそうだ。
自分の感情を神に託すことで、困ったという状況を無にかえそうとしている。
これが宗教の目的だ!!
人間ではどうすることも出来ない感情をどこかに飛ばすのに、宗教によってやりかたが違うだけであって、目的は同じだ。
私の宗教観が変わったと言うのはこういうことである。
宗教とは、神に頼ったり、自ら修行したり、巡礼したりすることで、自分たちの不安や悲しみ、あるいは、すべての感情を無にしようとしているものである。
つまり誰もが宗教というものを備えているのである。
だから、日本人も宗教を持っているのだ。
それが一神教でなくても、多神教でなくてもいいのだ。
キリスト教や、ユダヤ教といったような名前がなくても、宗教を持っていると堂々と答えればいい。
むしろ、神という存在を作り出さなくても、自らの力で行っているのだから、一人一人が宗教の開祖である。
そう自信を持っていいのではないか。
少々理不尽なところもあるが、これが私が今持っている宗教観と言えるだろう。
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