人と人の世の中で生きている限り、人に対してどういう感情を抱くかは自由だ。
これは普遍の事実だ。
これに制約がかけられている国や、時代もあるが、内心に留まる限りはいかなる場所、いかなる時でも自由なはずだ。
これは俺が他人を嫌いになるも自由、愛するのも自由であり、また、他人が俺を嫌いになるも、愛するも自由ということだ。
このことがわかっていれば、相手に対して怒りを感じることなんてない。
自分が好きになった人がどんな感情持っても、どんな行動をしても幻滅することもない。
相手に対して、失望、落胆するというのはこの事実を冷静に捉えられていないという事実。
もし、この事実を冷静に捉えることができるならば、相手に対し、身勝手な期待感を抱くことがどれだけ身勝手なことだということがわかるはずである。
失望、落胆といったたぐいの感情は相手を勝手に美化し、そして、自分の中の枠にはめ込み、その枠からはみ出してしまった時に産まれる感情だ。
つまり、失望、落胆などの感情は相手によってもたらされる感情ではありえない。
こういう感情は自分自身で作り出した感情であるとも言える。
であるから、人を愛するだけでは不幸にはなりえない。
人に愛情を注ぎ、その愛情に答えてくれるという期待の感情を抱く時にのみ、愛することで不幸を感じる。
ゆえに、愛する喜びのみを感じるには、いっさいの期待をもたないこと、つまりは無償の愛を持つことだ。
そして、それがこの世で1番美しい愛の形であると俺は思う。
だが、なかなかこうはうまくは行かないものだ。
実際俺にしても、失望したこと、落胆したこともある。
『愛ゆえに人は苦しまなければならぬ、愛ゆえに人は悲しまねばならぬ』
というサウザーの名台詞も痛いほどよくわかる。
相手の愛情に期待をかけないということは本当に不可能ではないのか。
そんな人間はこの世に存在するのだろうか?
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