創業20周年記念誌「すまいる」

1.住まいを考える
 住まいに学ぶ「人格形成の場として」戻る

 住まいは「人・家族の居住生活基盤」として、雨露をしのぎ、プライバシーを守り、団欒の場を創り、現代では個別の快適さを求める独自空間として創造され改良されてきました。

 
その変遷の中、大きな変化として核家族化があります。経済の発展と共に都市化が進み、私達の求める住まいは時代とともに欧米化から独自プレゼンテーション化へと変化しつつあります。しかし、住まいは変貌し、その価値を評価されるものとなったのでしょうか。住宅展示場、新築の建売住宅やマンション、マスコミに乗せられている番組では発見できたでしょうか。マイホームに何を求めているのでしょうか。私達は、こうした環境から一度立ち止まり「住まい」に求めるものを見つめ直す時が来ているのではないかと考えます。

 人間は社会的動物であり、社会に依存し働きかけて存在しています。

 住まいは人が単に住まうだけでは不十分です。そこに生まれた子供たちにとっては、家庭は第二の子宮であるという人もいます。本来、人がそこに戻り、くつろぎ、家にいると感じる事の出来る安らぎを持った「庇護された空間」でなければならないのは当然のことですが、そこに育った人が心身共健康で、充分な教育(学校教育・社会教育・倫理教育)を受け、やりがいのある仕事を持ち、穏やかで良好な人間関係を築く等、住まう家族全体が日常生活の経験を基盤として社会との円滑な関係の構築がなされ、幸福な人生を送る事が出来る空間こそが住まいの原点だと考えます。

 見た目や流行に縛られず、マスコミや企業の策に動じず、形式的にならない、真の住まいを創造したいものです。

「人格形成の場として」

 人は社会的動物であり、社会に依存し働きかけてその存在を有する以上、家庭における役割は重要となります。人は成長する過程において人格がかたちづくられます。ここでは、人格形成を大局的に考えてみます。

 私は、ここに仏陀の教えから、人の生涯における人生の機微に触れる事を試みました。「住まいに学ぶ」とは、後述でも示しますように、住まいそのものや、そのしつらえから学ぶ事ではなく、そこに住まう人達が、個々の家庭生活や社会生活を通じて培われた人生の機微に学ぶ事であり、その規範的な要素となり得る仏陀の教えを引用させて頂きます。出来れば、難しく読まないで、日々を通じて、よく似た状況を目のあたりにされたり感じられたりされている事柄が多くあり、日常に置き換えていただく事で発見があるのではと思います。

 仏陀(釈迦)の教えに「中道」に生きるという言葉があります。

 中道とは適正な生き方、的を射た生き方。漢訳仏典では至要の道、丁度要点にかなった事に至った道と説きます。
 これは概念として考えるのではなく、具体的な人間の生活の場面の、何処に於いてどう生かすべきかと言う事を考える積極的かつ的確な生き方を求める道と考えます。

 仏陀の教えの中道に似た考え方に中庸があります。仏教学者によりますと、中道と中庸は違う概念であると言われていますが、私にとっては実生活における規範的要素として考えれば、出家修行者で無い私が読む場合において、こだわらなければならない変化は感じられません。

 (中国では儒教思想に中庸という教えや書物が存在し、ギリシャ人は中庸とか調和を重んずると説き、アリストテレスの倫理論にはメソテース(中間にある事。=人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳。例えば、勇気は蛮勇や臆病の中間的な状態である時はじめて徳として現れる。この両極端の中間を知る徳性が思慮である。)として、ニコマコス倫理学では詳しく述べています。)

 仏教での中道は、四諦 (シタイ)を見極め、八正道 (ハッショウドウ)を実践する事を言い、両極端を共に否定した正しい道が中道。例えば、両極端とは楽と苦、良と否を言います。

 四諦とは、諦めるという意味ではなく真理の事で、仏教の基本の教えです。仏教がとらえる人生の4つの真理は、苦諦、集諦、減諦、道諦、を示します。

 @苦諦 (クタイ)。人生の本質は苦、四苦八苦の中で、決して思い通りにならないという真理。

 A集諦(ジッタイ)。苦が起きる原因は煩悩と言う真理。この世は無常である事を知らずに、物事に執着すると苦が招き寄せられてしまう。

 B減諦 (メッタイ)。苦を滅した境地。苦の原因である煩悩を消し去った境地で、心の平安を得る事が出来る。この境地が涅槃で、仏教が求める究極の境地である。

 C道諦 (ドウタイ)。減諦涅槃に到達する為の道が存在しているという意味。具体的には八正道を指し、八正道を実践することで、煩悩を滅する事が出来る。
 

 八正道とは、苦しみから解き放たれる修行をさします。

 @正見 (ショウケン)。正しい物の見方、真理を正しく知る為の基本知識。

 A正思惟 (ショウシイ)。自分の立場を正しくとらえ、正しい意識を持ち、怒りや憎しみを持たない事。

 B正語 (ショウゴ)。正しい言葉を使う事。嘘、悪口、中傷を慎み、相手にとって有益な事を言う。

 C正業(ショウゴウ)。正しい行い。殺さない、盗まない、色欲に溺れない、嘘をつかない、酒を飲まない、の五戒を守り、人の為に尽くす。

 D正命 (ショウミョウ)。正しい生活。規則正しく、欲張らず、自分に相応しい暮らし方をする事。

 E正精進 (ショウジョウジン)。正しい努力。真理を学び、悪行を防いで、善行を行うよう懸命に努める。

 F正念 (ショウネン)。正しい意識を持つ事。仏陀の教えを常に念頭に置き、無常、無我を知り、いたずらに欲望にとらわれないようにする。

 G正定 (ショウジョウ)。正しい瞑想、精神を集中し、穏やかな心を保って、それを日常生活に生かすようにする。

 私の解釈では中道は仏陀の教えの実践をいい、実践には法の理解が前提となります。法はこの場合、仏陀の教えに基づく守るべき正しい規則ですが、これは日々の生活において人としての道徳観や倫理観の実践につながります。


 ここで、もう一点ご紹介しなければならないものがあります。それは、「人生の苦」=誰にも避ける事の出来ない現実です。仏陀の言う「苦」の本来の意味は、現代でいう苦しみや苦悩や苦痛とは少しニュアンスが違って、「思い通りにならない」事です。思い通りにはならない人生の現実を苦で示し、その苦をしっかりと認めて原因を探り、苦を乗り越えて解脱を得る事を説きました。

 四苦八苦という言葉があります。思い通りにならない人生の実態(生老病死)を仏陀は四つの苦で示されました。それは、 
 
 @生(シヨウ)誰も思い通りの環境に生まれてくる事は出来ない。

 A老(ロウ)老いる事は避ける事が出来ない。

 B病(ビョウ)病の苦しみは避けられないものである。

 C死(シ)誰にも必ずいずれ死が訪れる。

 これら全てが思い通りにならない事から、人生全てが苦であるとし、人生の実態を四つの苦、「四苦」であらわされました。さらに、四つの苦を加える事があります。

 D愛別離苦(アイベツリク)どれほど愛する人でも必ず別れがやってくる。

 E怨憎会苦(オンゾウエク)怨んだり憎んだりする人と出会う事は思い通りにならない。

 F求不得苦(クフトクク)求めても思う通りには得られない。

 G五蘊盛苦(ゴウンジョウク)心も体も思い通りにすることはできない。

 これらの苦を合せて四苦八苦と言います。誰も避ける事が出来ないこれらの苦の現実をしっかりと認め、その原因を探る事を仏陀は教えました。そして、思い通りにならない事実の原因を、思いを抱く心のあり方に求め、心の様々な発動を抑制する事で思いを消し去り、苦を乗り越える道を示されたのです。
 
 私の思いでは、「四苦」生、老、病、死、は思うに任せぬ事として捉え、人間共通の運命的な条件であるという考え方は、究極のマイナス思考であり、これまで言われてきたプラス思考は、実は安易な楽観主義であり、漠然とした希望であって、真に生きる力になるとは思えない究極のマイナス思考と背中合わせなのではないでしょうか。


 究極のマイナス思考を背負った人間が、生き生きと希望を持って生きていく道は、まず直面する現実や大きな魂の危機を直視し、人間とは何かの追求だけではなく、この状況の中でどうすればいいのかが問われなければなりません。

 マイナスの勇気、失うことの勇気、捨てる事の勇気、現実を直視した究極のマイナス思考から出発して、最終的には人間の存在を肯定するに至る事で、確かなプラス思考をつかむことが出来る道があると信じたいものです。そして、まず生きる事。どんなにみっともなくても生き続け存在する事。自ら命を捨てたり、他人の命を奪わない。それを覚悟の一つとすれば、人間はどう生きるべきかが問題ではなく、人間は、今こうして生きている事こそ価値があるのではないでしょうか。

 人は生を受けてからその環境により、様々な考え方が生まれ、具体的な生き様にも違いが生じます。キリストや仏陀の弟子の様に、常に教えに触れ、目的や希望に向って規律を重んじ、日々精進し、共に行動する事が可能な環境にあるものは別として、一般的にはその様な教えや規律はありません。しいて言うならば、家族や親族、学校や社会での恩師や先輩、友人、そして隣人達との関わりの中で培われた経験から生まれる個々の社会性や社会規範が、法であり、中道に導かれる道徳観や倫理観を伴った実践ではないかと考えます。人は何等かの因縁が関わる事で個人を創り、家族を創り、地域や社会を形成しています。そして、人は人生において常に何かを選択し、それを受け入れ、時に覚悟します。日々そうした選択から覚悟の連続が、具体的な生活の場面を創り出し、経験を積み、生かされています。


 ヒンドゥー教の宗教的人生区分に四住期があります。

 アーシュラマ(住期)とはヒンドゥー教社会(古くはバラモン教にさかのぼる)において男子に適用される理念的な人生区分の事で、解脱に向けて4つの段階を経過する事から四住期と言われます。

 四住期とは

 @学生期(ガッショウキ)は、特定の師に弟子入りし聖典を学習する時期を言います。日本では、この時期は学校に入学し卒業する事、会社に入り社会であらゆる勉強と経験を重ねる事。人として成長過程の学びの時期。因みに学生期の始まりは13歳頃と考えられています。それまでは、親の加護の基、大切に育てられ、学生期を迎える為の準備期間となります。

 A家住期(カジュウキ)は、家業に努め結婚して家族を養う時期。家長は家を繁栄させ大いに儲け、その金を喜捨(惜しむ事無く喜んで財物を施捨する事で、仏・法・僧を守る為と、財物に対する執着や物欲からの離脱の意味。)することも重要と考えられています。社会人として人並みに認められ、結婚もし、子供を授かり、親を送り、社会人・家庭人として自信をつけ、家業・家庭を支える。男女差に関係無くそれぞれの立ち位置で懸命に努力し人並みの幸せを得る時期。

 B林住期(リンジュウキ)は、家住期を終えると解脱に向けた人生段階に入る。孫の誕生を見届けた家長は家を離れて林に住み、質素で禁欲的な生活を営みます。例えば還暦を迎え、子供達の巣立ちを確認し、家業を全うし、「悔い無き人生」を仕上げ・確認する時期。そして、晴耕雨読の人間らしい生活を営み内面生活に親しむ時期ともいえます。

 C遊行期(ユギョウキ)は、林住期を終えると住いを捨て、遍歴行者となって放浪し、解脱を目指します。人はその人生の中で、日々多くの選択と決定を繰り返してきました。大切な事はその選択と決定に覚悟が伴う事だと思います。その一つ一つの覚悟が自身を支え、結果として人生を生かしてくれるのだと考えます。そろそろ天寿を全うする日も近いと悟った時、死を迎える最後の選択と覚悟が伴えば、その日が来るまで有意義に過ごす事が出来るのではないでしょうか。


 仏教では人間や世界は、五蘊 (ゴウン)と呼ばれる5つの要素が集まって一時的に存在していると考えます。

 五蘊とは色、受、想、行、識を言います。色は客観的な物質世界を表し、受、想、行、識は、主観的な精神世界を表します。

 @色とは物質の事で、人間でいえば肉体そのものです。

 A受とは、瞬間的な感覚の事で、例えば薔薇のとげに触れて、痛っと言葉にする前に手を引っ込めている時の様な感覚の事です。

 B想は、心に思い浮かべるイメージの事で、まだはっきり認識していない段階の事です。

 C行は、意識の働きの事で、人が持つ精神的な傾向を言います。

 D識は、対象をはっきりと認識した段階の事です。 

 仏教では、五蘊の要素のうち一つでも欠けると人間や世界は存在しないとされます。つまり、人間や世界は、確固たる実態を持っていないという事になります。五蘊は諸法無我の根拠となる思想なのです。

 全てのものが変化すると考える仏教では、その変化には必ず原因があると説きます。これを縁起と言い因縁生起の略語で、あらゆる事は因 (直接の原因)と、縁 (間接的な条件)の2つの働きによって縁起と言う結果が生じるとします。
 植物で例えるならば、因は種子、縁は土や水や太陽光、縁起は花や実と言えます。つまり、この世の全てのものは無数の原因と条件が関係しあって成り立っているものだということです。人間もこの縁起の中にたまたま生じたものであり、確固たる存在ではない。それら要素のどれ一つ欠けても存在しないということです。 


 次に前段で諸法無我という言葉が出てきましたので、関連する仏陀の教えを紹介します。

 あらゆるものは常に変化し実態が無い。仏陀は人間を苦から救う為、4つの絶対的な真理を四諦 (シタイ)として説きました。そして、四諦と共に仏教を特徴づける基本的な思想、「四法印」 (シホウイン)を示されました。四法印は諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静の4つから構成されます。

 @諸行無常は、平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」でおなじみですが、あらゆる物事=諸行は、縁起によって仮に成り立っており、不変なものは存在しない。 (無常)と言う意味になります。 

 鴨長明は方丈記で

   
ゆく河の流れは絶えずして

   
しかももとの水にあらず

   よどみに浮かぶうたかたは

   かつ消えかつ結びて

   久しくとどまりたるためしなし 

と無情の真意を表現しています。無常だからこそ限りある生を、精一杯生きる事が出来るのです。 

 A諸法無我の諸法もあらゆる物事を意味します。
 この世に永久不滅、不変の実態や本体は存在しない。
 例えば、人間の体は水分や炭素、カルシウム等で構成されているが、人間という不変な実態が存在しているわけではありません。富、権力、人の心など全てがかりそめであると知れば、執着から解放され苦から遠ざかる事が出来る。

 B一切皆苦は、人生は全て苦であるという教え。人間は誰であっても老いて、病気になり、死ぬ運命から、どんなに願っても逃れる事が出来ない。思い通りにならない。不安定、不完全と言うのがその教えであります。 

 C涅槃寂静は、悟りの境地涅槃が、絶対的な心の平安である静寂をもたらすという意味です。

 この世の全ての事物や現象が移り変わり、実態が無い事を知り、人生の本質は苦である事が分かると、煩悩は消え去り、苦しみのない安らぎの境地である涅槃が訪れる。 
 仏教の目的は、涅槃に到達することであり、その為に諸行無常、諸法無我、一切皆苦の法印を心に留め、八正道を実践し、煩悩を消し去らなければならないと仏陀は説いたのです。
 四法印の法とは、真理の法と言う意味で、仏教を指します。印は証明・標識と言う意味である為、法印は仏教の証明と解釈します。 


 「住まいに学ぶ」に書いている事柄は、仏陀の教えですが、視点を変えて考えてみると、私達が幼い頃に身近な人達から聞かされ、教えられ、学び、体験した事柄に遠からず通じているのではないかと思います。

 私の浅い知識の中で、この様な事柄を書き示す事に抵抗はありましたが、住まいを舞台に人・家族の生活や社会活動がある限り、住まい創りの過程で考慮される要素になるのではと考え、この機会に書かせていただく事にしました。

 人は人を生み育てます。そして、人は社会を創り、社会は人を育てます。その社会の最小単位が家族であり家庭生活です。人がいかに尊厳ある人生を創造し全うするかは一人の力では成し遂げる事はできません。家族や社会の相互協力と相互理解により成し得る可能性を秘めています。そして、住まいは、家族や家庭生活や社会生活を通じて、より良き人生を育む為の手助けをしてくれる宝石箱にもなり得ます。 

  最後に、もう一度、柳田國男氏の一説をご紹介します。

   広い世界の中でも

   我々日本人の来世観だけは

   少しばかりよその民族とは異なって居た

   もとは盆彼岸の良い季節毎に

   必ず帰ってきて飲食談話を共にし

   帰る事を信じて

   世を去る者が多かっただけで無く

   常の日も故郷の山々の上から

   次の世代の住民の幸福を

   じっと見守って居る事が出来たやうに

   すなわち霊は

   いつまでもこの愛する郷土を

   離れてしまうことが出来なかったのである

<2014年4月作成、2014年11月現在確認済>

上に戻る