第21回講演会   平成12年6月4日  於 高砂市勤労福祉会館
高砂・加古川ブロック発足30周年記念講演会
「自閉症児・者の育ち方、育て方」
「けやきの郷」理事長 日本自閉症協会副理事長 須田初枝先生
 
はじめに
自閉症児・者の育ち方
私の子育て
32例のアンケートから
TEACCHから学ぶこと
 





 
 
はじめに
 高砂・加古川地区を中心とした兵庫の皆さんおめでとうございます。私は今、おめでとうと言う心境より、本当に30年ご苦労様と言いたいです。なぜならば今から34年前に私たち母親が、自閉症親の会を設立したときは、自閉症が現在のような状態でなく、もっと適応がよくて、親の会を必要としなくなり、会が解散できることを願っていたからなのです。30年過ぎたにもかかわらず、現在のような自閉症症状のような状態で自閉症児・者が生活するとすれば、やはりご苦労様の連続で今後過ぎるのではと、私は思っています。
 この看板に私を先生と書いてありますが、私は現在42歳になる自閉症の息子の母親であって、その立場でお役に立つお話ができることが、大変うれしく思います。
 息子は私の手作りの宝だと今では、思えるようになりました。障害を持たない子どもとはひと味違った喜びを、大変私に現在与えてくれております。たとえば、適切な場で今まで使ったことのない言葉を発したとき、行動を見せてくれたとき、こんなことを理解していたと思うときなど、今まで積み重ねてきた共に苦労したことが、そして駄目だとあきらめていたことが実現したときの喜びは、障害のある子を持たない人には計り知れない大きなもので、その陰にはそこまで行くための、血の滲むような努力があるからなのです。ここにお出での年長のお子さんをお持ちのご両親なら、この気持ちを理解してくださり、頷いてくださると思います。そして私のように、少しの発達にも喜びを感じてくださる親御さんが、数多くなることを願わずにはおれません。なぜならばこの親心が、子どもの心を育てるからなのです。
 先程、通所施設で働いている増田さんが、経過報告をしておりましたが、彼女は私が理事長をしております「けやきの郷」の開所時からおりました指導員でしたが、自閉症児に魅せられた人でして、私が中心で全国に先駆けて埼玉の親の会が、1泊2日の療育キャンプをしましたが、その何回目かに15歳で参加して以来、自閉症の人たちのために人間と人間としてつきあってくれた人です。今度4人目のお子さんができてもがんばるそうですが、ここまで育ててくれた高砂の親御さんたちに心から感謝申し上げる次第です。
自閉症児・者の育ち方
 それでは本題に入らせていただきますが、まず自閉症児の育ち方、育て方という演題をいただきましたが、私の息子の育て方の中から、皆さんに伝えることがなにより親として役に立つことと思いますので、育てる上で基本になることは是非伝えたいと思います。そして私は専門家ではありませんので、理論的ではありませんので、話の中から皆さんが心の中に感ずることがあって、それを個々のお子さんにあわせて育てていただきたいと願っております。私のお話が現在役に立たないかも知れませんが、10年たって須田さんが言ったことはこれだったと、気がついてわかってくださることもあると思っております。現実にそのように言ってくださる会員も数多くおります。それはお子さんが、私と同じように変化したとき、はじめて気がつくからなのです。そのためには毎日の努力が必要であることを忘れないでほしいです。
 まずはじめに育ち方について私が考えるとき、育ち方は障害の程度によって一概には言えないと思います。個々障害を受けた部分が異なり、最重度・重度・中度・軽度・高機能と判定上は言えますが、育ち方はその子なりの育ち方はすると思います。その育ち方の格差はあると思いますが、最重度から高機能の自閉症の人たちの持つ、特性である「対人関係」「コミュニケーション障害」「固執性・想像力の欠如」という社会で自立するための大切な機能障害は、現れ方は個々の障害の程度によって異なるが、最重度より高機能の人たちの方がある意味では、大変な問題を抱えているケースも、厚生省研究班で、私が受け持った研究の聞き取り調査の中にありました。
 育ち方・育て方の違いは、個々の障害部分を把握して我が子の育ち方を理解して、どのように育てるかであると思っています。これを正しく理解し把握することが、親の育て方の創意工夫して育てる基本だと考えております。また親として将来、親なき後に人として生きていくためには、どのように育てたら少しでも、人間らしい喜怒哀楽を感じられるようにしておくかということも、育てる上での基本的な考えだと思っています。
 私たちが子育ての時代は、母親の育て方に原因があるといわれて、非常に悩みました。母親が努力して、自分自身を変えれば治るものだと思っておりました。しかし今から約20数年前に世界的に、脳の機能障害であるということになって、母親たちはほっとしました。それと同時に、自閉症協会は自閉症を心の問題ではなく脳の障害と認めて、社会や行政に対して自閉症児・者の将来までの援助対策の運動を展開していったのです。個々の重度、軽度は異なってもそれなりの援助が必要だと訴えたのです。
 言葉があってもなくても、そのことで個々を判断するのではなく、それぞれがどれだけ心の中に理解度を持っているか、いくら言葉を持っていても、自分の中だけの言葉で相手とコミュニケーションをとって使用することができないのであれば、それは言葉ではないと私は思っております。ですから誰が重くて誰が軽いかということは、判定上はあっても、子どもの適応を改善することで、その子の将来は随分違ったものになると思っております。
 そのためにはその子をよく理解して発達する環境を作り、創意工夫して親たちが努力することであり、日本に一番欠けている幼児教育から、義務教育終了までの一貫性を持った療育、教育が絶対必要であることを、TEACCHプログラムを見学して痛切に感じました。
(私は前々からそれを主張し続けておりました。)
 日本の学校現場にも、すばらしい先生がたくさんいらっしゃることはよく知っておりますが、2年か3年でやっと担当の自閉症生徒と信頼関係ができて、これからというときに担任がかわってしまう日本の教育現場では、子どもの発達のためには大変マイナスになっている問題だと残念に思っております。おそらく自閉症の生徒にのめり込んだ先生だったら、私と同じ思いだと思っております。そのように思わない担任だったら、担任は交代することを私は願います。担任をやめてほっとすると思う先生も多々あることも私はよく知っております。また親がそのような担任に子どもが当たったとしても、迷いながら努力していらっしゃる先生でしたら、たとえ「ああもしてほしい。こうもしてほしい。」と親は思っても(自閉症児の親はよく勉強しているので)、信頼関係を作るための努力をまず初めはするべきだと思います。先生が頼りですよという気持ちで接してほしいです。これは自閉症の子を育てるより難しいことかも知れませんが、義務教育のうちは生活の半分ぐらいは学校で過ごすことを忘れてはいけません。
 育ち方はそれぞれ異なると思っているが、主体はあくまで母親であると考えます。そして父親は、父親という姿勢を崩さずに子どもと接することを願います。なぜならば認知能力の悪い自閉症児には母親父親の区別がつきずらく、思春期を迎えたとき父親という姿がとても必要になるケースがあるからなのです。と申しますと、父親は子育てに不必要なのではなく、母親の悩みを温かく受け止めて、父親らしい遊びの中でしっかりと子どもに、信頼される姿になってほしいと願うのです。思春期を乗り越えるためにも・・・。
 少子化の今日、父親が我が子がかわいくて母親以上に、母親が示さなければならぬことまでやってしまう方を時々見受けます(私の娘夫婦にも見られます)。障害のない子どもでしたら自然にわかることが、自閉症の子には認知の問題で混乱するのです。思春期に暴れ出したときに、この父親の姿が必要であったなと思うケースを幾ケースも見ております。
 私がこれまで過ごした人生は戦後に生まれた方たちとは、自分自身は望まなかったにもかかわらず、精神力や人間の極限の世界を経験しておりますので、耐える凄さ、それから生まれる命の尊さなど、戦後人生を送っている方とは精神力は違うと思います。私は3月10日の東京大空襲(10万人亡くなった)で、川の中で九死に一生を得た人間です。戦後に成長した母親たちとはちがい頑張れたと思いますが、子を育てる主体は母親だと言ったからには、今の母親たちには、やはり心や体力を支援するシステムが、欠かせないものだと考えます。それを協会支部がどのように構築していくか、今後の支部が総力を挙げてやらねばならぬ課題だと、私は提言します。TEACCHではそれを実現しておりました。
 それによって、子育ての子どもに対する育ちの平等性を確保したいと願います。このことで母親たちも、精神的・体力的に救われて、余裕もできて創意工夫も考えられるし、子どもの発達も促されるので、発達に喜びを味わえる母親になることができると思います。
それが親にとって一番の幸せではないかと思います。私がそうであるように・・・。
 
私の子育て
 私の子育てに入りたいと思います。息子は今、42歳でIQが28しかない重度判定を受けた子どもです。言葉は単語に「てにをは」が入る程度ですが、それでもオーム返しは全然ありません。心の中の複雑な思いは言葉で表現は難しいですが、単語での受け答えはよくできるようになっています。私が子育てをする頃は、子育てで自閉症の人たちを上手に適応をよくした先輩は、全国の組織の中にあまり見あたりませんでした。ですから自分で考える以外に手だてはなかったのです。ですから子どもと生活する中から創意工夫をして育てたのです。中には失敗を繰り返しながら、学校の先生もクラスメートも巻き込んで多様な経験とよい環境を作って、その中で息子なりに考えて(どうしたら息子が脳を動かしてくれるかということ)努力させられて、今日のような生活ができるようになったのです。
 重度ではあるけれど、まだまだ努力させて改善しなければならないことはたくさん残っておりますが、今周りの人から自閉症の優等生と言われるゆえんは、今息子が生活の中で見せている姿がそれを現していると思うのです。育てる上での私の目的としたことは、息子を社会自立させるためには、どんな人間にしておいたらよいかという目的を基本に据えて育てました。
 当時の専門家は「発達を待ちなさい。その子どもの言いなりになって理解しない。」という指導をされましたが、ある時期から私は、「先生のような育て方をしたら、普通の子どもでも難しい子になってしまう。まして自分で育ちきれない自閉症の子をこの育て方をしたら、自立させたい私の思いは果たせなくなるので(親亡き後の生活を考えても)、信頼関係ができつつあるので、よく状態を見ながら、しつけ・物事の善悪・社会ルール・楽しみ方・我慢すること・悲しむ心・すなわち人間としての喜怒哀楽が、感じられる息子にする努力を2人でやっていきたい。」と申し上げて実行していったのです。それは小学5年の時からでした。先程高砂の支部長が話されたおりましたように、「あの子たちの発達はちょっと発達してまた長い間発達しないけど、思いがけないときに発達する。それを長い期間どれだけ待って、努力を懇切丁寧に試みていくかということなのですね。」とご挨拶されましたが、まさにその通りでして息子もご多分にもれず飛び出しが激しく、ガラスは割る、砂やクレヨンは食べる、自動車には飛び込んでいく、電車の踏切がしまっているのに渡ろうとする、今考えるとよく命があったなとつくずく思います。
 息子の多動には私は負けませんでした。飛び出しがすぐにわかれば、あらかじめどこへ行くか想像がつきますので、息子が通る道でなく、彼の目的地にはやく着くことをしました。私は学校時代短距離の陸上選手でしたので、100メートルを13秒2で走っておりましたので、これが大変役に立っておりました。私が先に目的地にいるのを見て、彼は大変びっくりした表情でよく私を見ておりましたが、何度となくそれを繰り返しているうちに、自然にやらなくなりました。小学校の時は2年ほどついて通級しておりましたので、付き添わなくなってからは学校の中で教室を飛び出すことはたびたびあったようですが、クラスメートと一緒にいることがとても楽しくなってからは全然やらなくなり、皆と行動を共にしておりました。普通学級のクラスメートがとても面倒を適当に見てくれていたからだと思います。
 ガラス割りなどはたびたびありましたが、その理由には言葉で表現できない心の不満があったようでした。それが判るように私がなって、彼の目つきや顔色がおかしくなったとき、ガラスを割る前にすぐに外に連れ出して、電車を見に行ったり、ブランコに乗りに行ったりと、彼の好きなことに環境を変えてやることを心がけました。これがパニックを止める秘訣になりました。でも間に合わなかったり、私が彼の心を理解できなかったりしたこともたびたびありましたが、いろいろなことが判るようになり、言葉も増えて少し対話が成り立つようになってくると、いろいろな行動異常がなくなってきました。
 このように言ってしまえば簡単ですが、1日や2日で変化するものでなく、2年3年いや10年の長いスパンで変化していくことを忘れてはなりません。小学校5年の頃から適応が、徐々によくなっていきました。
 息子は小学校に入学を許されず1年就学猶予をしましたが、主人が埼玉大学に工学部を作るために東京工業大学から転任をすることになったので、埼玉大学付属小学校養護学級に籍なしで私が付き添うことで通級する事を許可していただいて、3年間指導していただきました。その間に姉が通っていた地域の小学校で広報部長を引き受けて、先生方に息子のことを理解していただき、3年の後半から地域の小学校に入学を許可されました。
 そして理解ある担任とクラスメートの中で、当時周りの人の真似をするようになっておりましたので、大変成長しました。また私たちが自閉症の学級として文部省に働きかけて、情緒障害学級を息子の通っている学校の中に設置していただき、普通学級と通級による情緒障害学級で指導を受けました。この学級が埼玉県下第1号の情緒学級となって相当数が埼玉県下に設置されていって、自閉症児が学籍を持つことができて、在宅児がなくなっていきました。
 小学校卒業の時、私は中学は特殊学級に通わせたいと息子のことを思っておりましたが、どうしても一緒に中学に連れていって面倒をみたいと言われ、皆に息子を委ねました。しかし担任の理解があまり芳しくなく、中学2年から特殊学級に通級する事になりましたが、息子は皆と一緒がよかったらしく、教室に朝行かず陸橋の上で自動車を見ているようになって困ったことがありましたが、中3まで特殊学級にいて卒業しました。卒業後30年たって小学校の時よく面倒を見てくれたクラスメートが我が家を訪ねてくれて、「中学で宏君を守れなかったことが残念で、今日浦和にきて宏君の家がまだあったので、懐かしくてよりました。今どうしているか教えてほしい。」と言って訪ねてくれたことは、私の心に大変な喜びを与えてもらいました。
 私は統合教育をすることを30年以上考え続けておりますが(今の普通学級体制では無理なことは判っておりますが)、基礎構造改革の基本理念である障害者が社会の人々とともに生活することを実現するためには、社会の人々の障害者に対しての正しい理解ある援助のための受け皿は、息子の友達のような人たちがあってこそ、障害者の人生が明るく幸せに過ごすことになるのだと思っております。それには小さいときから肌と肌と接して遊んだり、学んだりする中で、副読本で教えなくても、自然に培われるものだと考えております。
 少し具体的な育てる上で役に立ったことと、いくつかのエピソードを参考になるのではと思ってお話しいたします。
 息子は今までのお話の中で、自閉症の症状を改善させていることはおわかりだと思いますが、字を覚えたり数を数えたりということには全然興味を持たなかったので、学校に入学するために、私は机上でそれを一生懸命教えました。しかし息子は私の期待には応えてくれませんでした。せめて名前ぐらいは書けるようにと考え、どうしたら字が書けるようになるかと悩みました。その結果、当時息子は5歳で、電車と蒸気機関車に凝っておりまして、山手線や京浜東北線の駅名を全部覚えておりましたので、興味のある電車に乗って一駅ずつ降りて名前を書かせてみようと思い立って、それを実行しました。柱に書いてある駅名、たとえば「うらわ」の「う」と言って書かせましたら、柱の下で一字だけ書き始めました。それを家に帰ってから線路を書いて書かせましたら、大変な時間を費やしましたが、やる気になったらするするとひらがなが書けるようになりました。これで机の上でも書けるようになって、カタカナやアルファベットも覚えたのです。現在は漢字も小学1年くらいのものは書けるようです。ですから今一人で自宅から川越のグループホームへ、一週間に一度の帰宅も、この16年間一度も乗り物でまちがいを起こしたことはありません。幾系統のバスや電車に乗り継いでもです。漢字は書けないけど、形で覚えているようです。高機能の自閉症の人でも、何遍も系統を川越駅で間違えているのに、私は不思議だなあと思っております。小さいときから蒸気機関車が大好きで、最後は島根県の松江駅まで2人で見に行きましたが、このような経験の中で私は社会ルールやマナーを教えてゆきました。それが今大変役に立っております。自閉症の人たちにはよい環境の中で多様な経験をさせて、彼らそれぞれの理解できる範囲で、人生を生きるためのスキルを教えることが大切だと私は育てる中で教えられました。そして2人で楽しむこともたくさん息子から与えてもらいました。
 お金を出して好きなものを買うこと、ホテルでのテーブルマナー・電車で空席がなければ人を退かさないで立っている・騒がない・異常行動を自分の意識で止める(自閉症は嫌いと自覚してから、私との会話の駆け引きで異常を止められるようになった)。
 このようにして小さいときから、身辺自立・物事の善悪・息子にわかる対話によるオーム返しの是正・社会ルールの大切さ・我慢することの大切さ・人生を自立して生きるためには嬉しいこと・悲しいこと・楽しいこと・苦しいことがあることが判るように、その場その場の場面ですぐに教えた。息子が現在42歳になるまでと、今でも理解できていないこれらのことは、私が生きて共に生活している限り教え続けるつもりです。今でも心の発達を思わぬところで見せてくれていますので。このためには長い長い積み重ねがあってこそ、思わぬところで現れるのだと思います。1日1日を大切にしてください。
 エピソードを少し話します。5歳の時息子は近所のお寿司屋さんの立派な提灯を破るのに固執しておりまして、さすがに身のこなしの早い私でも止められず、5回ほど破かれました。お得意であった私どもでもさすがに血相変えて怒鳴ってきました。破くたびに謝って弁償しておりましたが、お寿司屋さんも腹に据えかねたのでしょう・・・。
 私は「本当に申し訳ない。自閉症なのでなかなか人様の迷惑が判らず、困っておりますが・・・。」と言って、思わず涙を流して頭を下げて、息子にも手を頭に添えて謝らせました。そのとき息子の心の中になにが起きたのかわかりませんが、それ以来ぴたりと提灯破りをやめてしまったのです。今でも私の弟がその近所に住んでおりまして、1年に何回か実家に参りますが、私はわざとそのお寿司屋さんの提灯の前を通るようにしておりますが(これは私の息子をからかう楽しみです)、息子はニヤッと笑って、「僕提灯を破った。」私が「いつ頃破ったの、また破る?」と言いますと、「破らない、5歳の時やぶった。」と言って、過去を思い出しております。「どうして今やらないの?」と申しましても返事はありません。今でも心の中に起きた変化の表現は難しいようです。
 自閉症の人たちには、どんな重度の者にもプライドがあることを忘れないでほしいです。そのプライドをくすぐって褒めて育てることを私はよくしました。
 何か不得手なことを教えるとき、まず息子が得意とすることや、過去には不得意であったことでも、現在はできるようになったことをさせて、褒めてやってからできないことをやらせるという手法を使って、いろいろなことを教え込みました。これが大いに効果をあげております。今でもこの手法は効果があります。彼らは決して心に感じないのではなく、感じていてもそれを表現する言葉や手だてを判らないのだと思います。
 息子が死ぬということを知ったのは私の父が亡くなったときでした。ちょうど5年生の時でとてもかわいがってくれていたおじいさんでして、癌で入院している時よく私と見舞いに行っておりましたのが、突然口をきかなくなって、自宅から見たこともない自動車に乗せられて、人がたくさん集まって、お寺(私とよく奈良へ行っておりまして、お寺やお経は聞いておりましたが)へ行って、それから火葬場に行き、最期の別れの時はおじいさんの顔はあったのに、出てきたときは息子はびっくりして、「おじいさんは?」と言いました。私が初めて死ぬことを判るように説明しました。それ以来道を歩くときや信号を見て渡るときなど、また病気になったとき熱の出る30分前くらいから、「おじいさんと同じに死ぬか?」と言って心配するようになりました。このような悲しいことを知ることはよいか悪いか判りませんが、私は現状からしか覚えない人たちなので、このことで自分の身を守ることを覚え、心配する心を知り得たことは決してマイナスではなかったと思います。人生を終えるまでに起こることは上手に教えるべきだと思っております。
 歌舞伎観劇の一件を話しましょう。実は息子がたぶん小学3年の頃だったと思いますが、いつも私は息子の喜ぶことにつきあっていたので、この辺で私の趣味にもつきあわせようと思い、歌舞伎見物に行くことにしたのです。行く前に息子に、「歌舞伎を見たら、銀座のとりぎんに釜飯と焼き鳥を食べに行くから一緒に行くか?だから我慢して見物するか?」と問いかけて、静かに見る約束をして出かけました。しかしなかなか我慢ができず、何度か廊下に出ましたが、それでもとりぎんの釜飯が目の前にあったのか、最後まで見物できて、釜飯と焼き鳥を本当においしそうに食べて、好きな京浜東北線に乗って帰りました。それ以来年に一度は、歌舞伎見物に行きますし、浄瑠璃語りに興味を持ちました(あの舞台脇でクルリと出たり入ったりすることに興味を持ったようです)。あの語りのリズムが好きなようです。今では私が仕事をしているとき、テレビで歌舞伎放送をし始めると、とんできて「歌舞伎やっている!」と言って知らせにくるまでになりました。これで興味のなかったことに興味を持ち、筋書きは判らずともあのムードを楽しめるようになったことは、余暇の広がりになったと思っています。このごろでは、自分の月給を貯めておいて、歌舞伎ととりぎんに行くと言って、私の企みにのせられて全部自己負担で行っております。私の大きな喜びの一つです。嫁に行った娘はそんなことはしてくれません。
 先程ご挨拶をなさったお母様のお話の中に出てきました床屋の件ですが、息子も床屋が大好きで、家から歩いて20分ほどの所にある、小さいときから行きつけの床屋に2週間に一度行くことも楽しみの一つになっておりますが、福祉工場で6万円の月給をもらって、家賃1万円食費その他で3万円支払い、残りは小遣いにしておりますが、それで床屋賃3800円支払っております。はじめはあまり月給をもらうことに興味がなかったのですが(お金の勘定ができないので)、千円を4枚がま口に入れて床屋へ行き、200円お釣りをいただいておりましたので、千円札が息子にとって一番大切だったのです。そのような状態の息子に何とか5千円や1万円の価値を教えようとして、千円札が4枚ないとき5千円札を持たせましたが、どうしても納得してくれなかったのですが、私が床屋へ行かなくてよいときつく言いましたら、渋々出かけていき、帰りに千円札1枚と100円玉2個をもらってきて、初めて5千円の価値が判ったのです。同じように1万円札を持たせたときは、ニコニコして千円札をたくさんお釣りとしてもらってきて、1万円の大きさを知りました。それ以来、今までは月給をいただいてきても私に袋ごとよこしていたのに、自分でがま口に入れると言ってお札を管理するようになり、帰宅するたびにお金を数えるようになりました。40歳になって働いて月給をいただいて、それを自分で使うようになって初めて知り得たお金の大切さだったのです。
 自閉症としては重度の息子ですが、辞典が読めなくても時計が判らなくても、人間として生活するための手だてや社会ルールをしっかりと身につけさせることは、人生を送るためには重要なことで、個々によって発達の度合いは異なると思うが、できるようにする努力は生涯してほしいと願うと同時に、内在する能力を見いだしてそれを手がかりに生き甲斐となるものを発見でき、それを伸ばせたら大変幸せなことだと思います。「けやきの郷」で30歳で単語が少し出始めた人もおります。ですから、何事もあきらめないでほしい。
学校や施設の職員も「この子はもうここまでだ。」と思わず、常にアタックしてほしいし、ここまでと思ったら子どもの発達は止まってしまいます。
 これから親が心がけてほしいことをいくつかお話しします。親御さんたちはくよくよせず、前向きに開き直ってください。これを申し上げても、小さいお子さんを現在抱えていられる方は、なかなか難しいことだということは、よく承知しております。私だとてこの開き直りの心の状態になるのには、相当の年月がかかりました。しかしこの気持ちになって初めて、子どもの状態像が正しく理解できるようになり、我が子との信頼関係ができて、しつけや物事の善悪も教えられ、2人で余暇の楽しみも生まれることを知りました。
 自閉症と診断されて悩み続け、2人で死にたいと思ったことも何度かありました。あの提灯破り、入学拒否、他傷、自傷、自動車への突撃、電車の乗客へのメガネ取りなど、数え上げればきりがありません。しかしそれを乗り切れたのは、家族の協力や世間の方たちの理解と援助があったからこそ乗り切れたのだと思います。それからなにより忘れてはならないのが、自閉症児・者親の会の存在でした。
 世間の人たちは障害児を抱えて頑張っておられる母親の姿を見れば、心ある周囲の方たちは決して薄情ではありません。私はずいぶん助けられました。それは前向きに子どもと一生懸命生きているからなのです。
 それからお母さんに申し上げますが、我が子に対してかわいそうはやめて欲しいです。なぜならば、それは対等の人間として扱って欲しいからです。このかわいそうの気持ちを持つことはよくわかりますが、これでは過保護になって子どもの発達を助ける上において、マイナスになることが多いからです。親は子に教えやらせるよりやってしまった方が、時間がかからず楽かも知れませんが、子どもにとっての将来の生活を考えるとき、これは決して親切ではないことだと思うからです。
 重度の子を抱えておられる母親の中に、大人になった我が子をいつまでも幼児の扱いをして面倒をみることに、自分の生きがいを感じておられる方を見受けます。成人になった自閉症者を見捨てる親もおりますが、それよりはまだ、手放さず頑張っている方のほうが少しは親としてよいかも知れませんが、子どもははたしてそれを望んでいるのでしょうか?やはりそのことをよく見極めてどこに手をかしてやればよいのか、考えてみる必要があるのではと私は思います。母親の独善的愛情でなく、子どもが今どんな愛情を求めているかを見極めて愛して欲しいのです。
 施設入所の母親で、施設は食事がよくないと考えて(カロリー計算はきちんとしていて、むしろお料理の上手でない母親より、私はおいしいものを食べているとみている)、帰宅の時もうこれ以上口には入らないほど、肉などを詰め込んでしまい、施設に戻ると、下痢や吐いてしまったりで困ってしまう母親がおります。私は子どもが気の毒で、母親に思わず、「あなたもお子さんと同じだけ食べてごらんなさい。どんなに苦しいかわかるはずだ。」と言ってやったことがありました。しかしその親は今でもそれをやめません。母親の愛情の難しさをつくづく感じました。子どもは今でも苦しんでいることがあります。残念ですが!自閉症の人は障害の重い人ほど満腹感がないことを知って、周りで調節してやらなければならないのです。これがいわゆる先程話した、母親の満足感が伴う独善的愛情で、子どもの求める本当の愛情ではないのです。
 自閉症の親たちは大変勉強家で、世界的な自閉症情報を現在インターネットを通してよく勉強しておりますが、知識を得ることは大事なことですが、情報過多で迷ってしまい子どもそれ自身を見忘れてはいけないと思います。そのためには、支部の会員の中におられる自閉症の子どもを上手に育てられた方から情報を得た方が、私は具体的で役に立つことが多いのではないかと考えます。自閉症の専門家になるのでしたら別ですが!世界の情報が現在医学的に自閉症をどのようにとらえているか・・・。療育の方法がどのように変化しているか・・・。ということは情報として知っておくことも必要だとは思いますが、我が子にまず信頼されるための努力は、何があってもそれなくして療育はあり得ないと思っています。親は専門家にならないで下さい。
 兄弟・姉妹のことを少し話したいと思います。私は息子の上に2歳年上の娘を持っております。現在は幸せな結婚をして、私にとっては孫に当たる子どもが一人おります。10年目にやっと授かった孫ですが、娘は自閉症の弟を持ち、毎日母親が大変な苦労をしている姿を見て、もしや自分にも障害のある子どもができたらと、心の隅では思っていたと思います。娘はあまりからだが丈夫でなく私ほど活力のある子どもでなかったので、子どもを授かることを躊躇したのかも知れません。つれあいは大変子ども好きで、子どもを遊ばせることが大変上手なので、子どもをほしがっておりました。現在は自慢するわけではありませんが、あまり努力しないでも学力も運動も人並み以上のように孫は見受けられます。しかし息子が育っていく中で、姉の果たした功績を私は忘れてはいけないと思います。よく友だちを連れてきて(息子は美人が好きで、なかなか綺麗なかわいい子がおりました。今でも息子は美人が好きです。顔の美しさかムードかは定かではありませんが・・・)、一緒に遊んでくれたり、悪いことをすると叱ったりしてくれました。私が娘のやったことで一番感激しているのは、娘の大学のクラブ活動が美術部で、陶芸をしておりまして、息子は粘土いじりが大好きだったので、たくさんの仲間のいるクラブの部屋につれていって花瓶を作らせたことです。障害のある兄弟を連れてそのようなところへ行ったということは、大変な度胸だと・・・。普通でしたら恥ずかしくてとてもできないはずです。息子は今でもその花瓶を大切にしております。今娘のつれあいとなっている義理の息子は、そのクラブの仲間だったのです。その息子は早稲田の理工学部の建築を卒業して、設計事務所を持っておりますので、私は「けやきの郷」の事業拡大のとき、建築をするときには相談にのってもらえて大変ありがたく思っております。
 息子はその孫には、お年玉を3千円月給から毎年あげております。孫に関心があるようなのですが、孫はまだ小学3年生なので、変な叔父さんだと思っているようです。父親の協力、兄弟姉妹の協力など、自閉症の兄弟は皆私の知る限りでは、障害児に関係ある仕事をしている方を多く見受けます。そしてよき伴侶を見つけて現在幸せな生活をしておりますが、小さいときの家族の協力は母親を助ける意味で必要なことです。
 私が障害のある子とつきあったのは結婚してからですが、兄弟姉妹は本当に物心つく頃から一緒でしたので、親亡き後まで兄弟姉妹に世話を頼むことはできません。世話をしてくれると言っても親としてさせたくありません。それでも兄弟姉妹はきっと自分たちのできる範囲で、努力してくれると思います。そのように思えばこそ私は世話の最小限を考えて施設を作ったのです。それが「けやきの郷」であり、その中で人間らしく少しでも幸せを感じて生活するための環境作りを私はしてきたつもりです。そのための法人としての事業を前向きに展開して、今日に至っております。後は自閉症者の老後の環境をどのように整備してゆくかが仕事として残っております。
 先日、32人の全国の会員で、私の良く知っていらっしゃる適応をよくした18歳以上の子どもを持つ母親を対象にして、アンケート調査に協力していただきました。これからその集計のお話をしたいと思っておりますが、その前にひとこと言ってみたいことがあります。それは自閉症の子も、兄弟姉妹も皆親を見て育つということです。「親を見て育つ」という言葉は遠い昔から言われておりましたが、自閉症の子でさえ日常生活をしている姿は、息子などまさに私を見ているような、動き、素振り、几帳面、我慢強さ、美食家、遊び好きなど、いくら遺伝子のことがあるにしても、育て方がそのようにしたにしても、この32例を読ませていただいて、お子さんが私の知る限りのお母さんそしてお父さんに、似て育っていることを痛感しました。それゆえに、他の兄弟姉妹が親の障害のある子に対しての、自分の人生を自閉症の子にかけて生活している姿を見れば、それなりの親亡き後は、考えてくれるものと願っております。
 
32例のアンケート
 先程、このことについては少し説明してありますが、この対象者の内容を説明させていただきます。年齢は18歳〜42歳で、最重度1人、重度11人、中度14人、軽度1人、療育手帳無し(高機能自閉症)5人の32名の障害程度です。その中で一般企業就労しているのは、重度5人、中度8人、軽度1人、高機能2人、福祉工場は最重度1人、重度は2人、中度は1人、通所授産は重度1人、中度3人で、その他に、切り絵で身を立てたり、大学1人、企業失業2人、施設1人、在学中がありました。
 この母親達は、私が今まで皆さんにお話ししたようなことを、子にあわせた創意工夫をして、日々努力しており、子どもの成長に大きな喜びと、生涯諦めないという信念を持っていらっしゃいました。年齢の高い母親は、老骨にむち打って今でも頑張っておりました。ただ自閉症状が大変改善されておりますので、そのがんばりも余裕を持って、子どもと少し楽しみながら生活しているところも見受けられました。
 高機能の人に失業率が少し高いのは、やはり重度の人より言葉で自分を表現できるだけに(理屈が多い)、対人関係に問題を持つ自閉症の人にとっては、余程理解がなければ難しい問題があるのだということを感じました。むしろ黙ってよく仕事ができる人のほうが、企業側としては扱いやすいのかも知れません。
 TEACCHプログラムでも、良い環境をつくって、その中で療育教育をすることが基本になっていて、このアンケートの母親達は皆それを実行しておりました。とても共通していたことでしたが、義務教育の時代では、先生と大変良い関係を作っていたことがとても印象に残りました。なかなか心ある先生にあたることは難しいことかも知れませんが、それを上手に作ったことの窺えるケースが多くあり、それによって素敵な能力を母親と共に伸ばしたケースが何ケースか見受けました。
 切り絵の名人、クロスステッチ刺繍の名人、母親の着る洋服を上手に仕立てて着せる人など、皆母親と共に先生が才能を育てる芽を見出してくれているのです。義務教育時代は、自閉症児の発達にはかかせない環境だと思いますので、この環境を作り上げることは自閉症児を育てるより難しいことかも知れませんが、ここに全力を尽くすべきだと思います。これには押しつけるのは駄目で、なんとか先生と信頼関係をつけるために、また先生からも親から信頼されて何でも話し合える態勢作りをしていく努力を忘れてはいけません。先生が頼りであり尊敬もしているという姿が、大切なことだと考えています。
 このアンケートの中の親たちは、なかなか上手に行動しているようでした。人間同士が何かしようとするとき、成功するためには心が繋がらなければ成功しないのと同じです。また、アンケートの中には「働く」ことで、社会の方たちから社会ルールを教えられ、そして言葉の必要性を知り、努力すること、耐えること、月給をいただいて、余暇を楽しむことなど、人間として生きる幅の広がりを、身につけたことを書かれた親たちも多数おりました。
 私の息子も前にも述べたように、働くことで仕事をして、見学者から「自閉症者が、2人組んでこんな危険を伴う、ピストルエアーガンを使って、大きな荷台を作るとは!」と褒められて、うれしそうに誇りを持って働く姿は、人間としてすばらしい生き方だと思います。それには親たち全員が、全指導員を信頼して、福祉ホーム・グループホームで生活することや、福祉工場で働くことを、協力しながら今日まで努力して、苦しいこともうれしいことも、分かち合ってきたからだと思っています。
 最重度から中度まで、お互いに助け合って働き、生活し余暇も十分楽しみながら、これからの社会福祉基礎構造改革の理念「共に生きる」を、社会福祉法人「けやきの郷」の中で、自閉症の人たちが実現しています。その中で一番思いがけない発達をしているのが最重度の判定を受け、言葉として単語がほとんど話せない2人なのです。その2人が一番苦労したと私は思っておりますが、その発達があって皆とともに生きる人間としての喜びを感じていると確信しています。
 そこまで皆と生活とし、働くためには1対1で指導員が、愛情を込めて努力してくれたからだと思います。またこの2人の親たちは、心の中ではきっと「こんな大変な無理を!」と何十回思われたかわからないと思いますが、それを乗り越えて今生活している息子達を見て、苦しんだ甲斐があったと現在は思っていると、私は考えます。苦しみを親子で乗り越えてこそ、はじめて山の向こうに明るい未来が開けるのです。32例のアンケートにもそれが滲み出ておりました。このアンケートのまとめは、次号の「心を開く」に載ることになり、私が編集するのでここでは省略しますが、次号を読んで子育ての参考にして下さい。
 
TEACCHから学ぶこと
 ノースカロライナで行われているTEACCHプログラムについてお話しします。このプログラムの創始者のショプラー先生と国立特殊教育研究所主催の研修セミナーでお会いしたとき、「是非チャペルヒルにいらっしゃい。またお会いしましょう。」とおっしゃていただき、忘れられぬうちにと思い立ち、5月中旬から一週間ノースカロライナへ見学に出かけました。私はカードを使用することに疑問を持っておりまして、現場でどのように利用しているのか、それを自閉症児がどのようにそれを受け止め、どのような環境で適応をよくしているのか、私が肌で感じてきたかったからなのです。私が何回となく、今日の話の中で申し上げている自閉症児・者を育てる上で、基本となる相手方との心のつながりや信頼関係がどのように培われているのか確かめたかったのです。ショプラー先生と日本へご一緒されていらっしゃたローリー先生の教育現場で、私のその疑問がすっかり解けてしまいました。小学校でしたが7人の自閉症児に対して、2人の先生で指導されておりました。1人の先生はあくまでローリー先生の助手という形を取っておりました。7人の生徒は大変よい表情をしおり、とても楽しそうに午前中の授業をしており、私も音楽の時間には皆と一緒に体を動かしながらリズムに乗って楽しみたくなり、バナナボードの曲の時など思わず曲を口ずさみました。
 このローリー先生の授業については次号の協会出版の「心を開く」に掲載するので、省略させていただきますが、生徒一人一人になにを理解させ、自立のためにどこを発達させて社会の中で生活しやすくするか、そしてなによりも本人自身が、障害を持ちながらも楽に社会の人たちにあまり迷惑をかけないような人間に、そして自分自身生きる人生もできるだけ豊かにするための生活と直結した内容が、個々にあわせて幼児期から学校卒業まで一貫されておりました。それが強制的でなく、先生も生徒も楽しそうな雰囲気で行われていたことは、日本の障害児教育とはひと味違ったものを感じました。
 日本にもすばらしい先生はたくさんおられますが、なにが違うかと考えますと、やはり一貫したシステムが幼児期から学校卒業まで、そして成人のために作られた受け皿も、TEACCHシステムの中で行われているような環境がないからなのです。グループホームも通所授産施設も見学してきましたが、重度で一般企業では働けない人たちともお会いしましたが、日本のような行動障害を起こしている人は見かけませんでした。しかし大変重度だなと感じた方たちは何人かその中にいらっしゃいました。企業に出て働いておられる方たちにはジョブコーチが派遣されており、企業にも理解されており相当数の人たちが働いておりました。日本で私が一番TEACCHにおいて疑問に思っておりましたのがこのことでしたが、これからだと納得したのはジョブコーチの派遣の体制のことでした。日本ではとても実現不可能なことですが、自閉症者が働くために1対1で、生涯ついている人・何人かについている人・はじめはついていたが今はついていない人などがおり、日本でも生涯一対一でジョブコーチがついて企業が理解を示してくれたならば、ノースカロライナのようにはならないまでも、もっと社会の中で働きそれなりに責任を持って生活することができると思いました。
 しかし、私が今までお話ししたようなTEACCHのような幼児から一貫性を持った育ち方がなければ、このような体制ができても、ノースカロライナのようにはならないと思います。日本であってもこれに近づける努力は絶対にしなければなりません。なぜならば、ノースカロライナで実現しているならできないはずがないからです。ショプラー先生と個々の親たちとのつながり、そして子育てへの協力、親の会支部の団結など、日本でも支部が全員我が子のために団結して、日本の風土にあったシステムを作って前向きに努力しなければなりません。協会本部と共に皆さんも英知をかたむけて、21世紀を生きる我が子、自閉症児・者のために最善の努力をしなければ、親として私は死んでも死にきれないのではないでしょうか・・・。
 私たちは「けやきの郷」という自閉症者が一人で生きるための最低限の生活の場を作りましたが、私はこの場をこれからも充実させて、人間として生まれてきてよかったと思える場にしていきたいと思っておりますし、私が自分の人生を自閉症の人たちのために34年かけてきた証をこの中につくって初めて、私の人生も充実したものであったと感じられるのだと思います。どうか皆さんも私と同じ思いで、これからの人生をおくられることを願って、お話を終えたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
 
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