第20回講演会     平成11年6月27日(日) 於 姫路市文化センター
「未来が希望あるものに」
        うめだ・あけぼの学園 施設長 加藤 正仁先生
 
はじめに
基礎構造改革について
ノーマライゼーションについて
今後の施設のあり方
子どものことについて
 





 
はじめに
 ただいまご紹介に預かりました加藤です。今日は日曜日の午後、みなさん本来ならば、ゆっくりとご家庭で御くつろぎの時間だと思います。なのに今日ここに、こういう形でおいでいただいて本当にご苦労様です。みなさんの日頃のこういった努力に少しでも応えるような意味のあるお話をさせていただければうれしく思います。私は、今岩本さんにご紹介いただきましたように、うめだ・あけぼの学園という就学前の小さな0歳から6歳までの発達が気になる、子どもさんたちが通う通園施設の施設長をさせていただいています。開園当初からそこにおりましてそこで20年強の時間を過ごしております。そういう立場で先程もお話がございましたように、ここの地元のルネス花北の宮田先生、小島先生なんかとは非常に懇意にさせていただいていろんな場で一緒に勉強させていただいたり、活動を一緒にさせていただいたりということで、姫路には比較的なじみがあるというか、気分的に近しいものを感じているもののひとりです。そういう意味で今日みなさんとお会いできることをとてもうれしく思っております。基本的には私自身は発達が気になる子どもさんの発見といいますか、それからその子どもさんへの発達支援・援助、それから子どもさんをお持ちのご家族への支援あるいはそういう方たちの地域生活に対する支援といいますか、その辺のことをいろいろ考え、実践をしているものです。その活動の延長線上で、みなさんご存知かどうか解りませんけれども日本知的障害者愛護協会という組織がございます。全国でいま3000前後の施設が加盟している財団法人の団体です。この兵庫県にも県支部がありまして、三田谷の坂井先生が兵庫県の会長をされていると思います。また、近畿地区の会長でもあられますけれども、その団体の副会長、副会長というのは3人おりましてそのうちの1人を仰せつかっております。そういう立場でまたいろんな活動に繋がっていきまして、みなさんの手元に肩書きが配布されているということで気恥ずかしいのですけれども、全日本特殊教育研究連盟という特殊教育関係の教員の団体、教員・研究者の団体ですね、全特連といいますけれどそうした教員の団体、それから全日本手をつなぐ育成会といいまして知的障害をお持ちの御家族の方たちの団体、私たちの施設の日本知的障害者愛護協会と研究者の団体であります日本発達障害学会という4つの団体で構成された日本知的障害福祉連盟というのがあるんですけれど、それの理事をさせていただいたりとか、あるいはもう少し大きな団体の日本障害者団体連絡協議会という73の団体、たぶん自閉症協会もその団体会員の一つではないかと思いますけれども、それの理事もさせていただいたりと、運動関係ではそういう役を仰せつかって、いろいろ働かせていただいております。そしてあと学会関係では、特殊教育学会とかあるいは発達障害学会なんかの編集委員をさせていただいたりとか、あるいは連盟の発達障害白書というホワイトペーパーが毎年出されておりますが、それの編集委員をさせていただいたりとか愛護誌という愛護協会の月刊誌の編集委員をさせていただいたりとか編集関係もいろいろさせていただいてますので、そういう意味でもいろんな情報を一応全国レベルで、北海道から沖縄までいろんな情報を比較的入手しやすいといいますか、そういう立場にあります。それからあと、大学で教えておりまして、今東洋大学というところで発達障害児心理という心理学を教えたりとか、あるいは私の母校であります早稲田大学で発達障害学という福祉・教育・医療をひっくるめたような授業を持っていたりとか、あるいは大学院で発達障害論という授業を担当したり、ゼミみたいな授業ですけれども、担当したりということで、教育・研究それから運動といいますか、3つの領域にまたがって活動をさせていただいています。今日はこういう場で、私がそういう立場の中で今知り得ている新しい情報といいますか、そうしたものをみなさんにご紹介させていただきながら、これからのみなさんの子育てといいますか、一緒に生活していく上で若干の見通しといいますか、あるいは若干の気付きといいますか、発見があったらなということで、お話をさせていただきたいなと思います。
 
基礎構造改革について
 現在、私たちの国会ですね。その辺の動向からみなさんにご紹介させていただきたいと思うんです。といいますのはみなさん日々子どもさんと向き合う中でですね、現場の職員の方であろうが、親御さんであろうが、大変なご苦労されてまたそのことに頭が一杯でなかなかそういう今自分たちが置かれている地球的規模での動向とか動きとかについては、なかなか情報も入りにくいこともあるでしょうし、意識的にもなかなかそういうところに注意・関心が向かないということにもなりがちかと思います。そういう意味ではちょっとご紹介させていただきたいと思います。まず最初大きな土俵の話からだんだん話を最終的には子どもさんの話へとお話しさせていただきたいと思っているんです。最初は私たちが今生きているこの時代といいますか、この世の中とりわけ我が国におけるというところでのお話をちょっとさせていただきたいと思います。今145通常国会といわれている通常国会が開会中です。実は今月の6月17日に150日間の通常国会は本来は終わるんですけれども、重要な法案・案件が目白押しであるということで、例年だいたい10日間から2週間くらいの延長国会というのが通例です。ですからだいたいは6月の中旬ぐらいに終わって6月の下旬ぐらいまで延長国会やって閉会と、夏休みというような感じになって最終的には7月の1日付けで中央省庁の次官級の人事異動が発表されるというような流れです。今年の場合は重要なまさにこの20世紀を締めくくる21世紀を新たに開くという意味での、本当に多領域にわたるいろんな分野のたくさんの基本に関わるようなまさに各領域における基礎構造その辺をいじる重要な法案が、目白押しになっているということもありまして、いっとき80日間の延長国会をするというような話がありましたが、最終的にご案内のように落ち着いたのは、8月13日までの57日間という数年来なかったような大型の延長をしまして、国会は審議を継続しているという状況ですね。そういう中で実は私たちにとって一番大きな課題と言いますか、私たちがこれから子どもたちのことだけじゃなくて、私たち自身のことも含めまして、まさに我が国における福祉そのあり方・考え方・制度それを根本的に見直し考えようという法律改正が社会福祉事業法と言われているんですけれども、その法律を中心に9つの法律、知的障害者福祉法とか児童福祉法とかいろんなその関係福祉法が9本改正を控えて、今待機中であるんですね。その法律がどう変わるのかということが私たちにとって、まさに21世紀どうなるか、私たちの老後の生活も含めてですね、どういうことになるかということが決定されていくわけですけれども、実はそれに先だってもっと国規模では重要な大きなさまざまな法律が、今申し上げましたように改正が目白押しなんです。それが終わらない限り、社会福祉事業法の改正は国会に上程されないということで、順番が回ってこないということなんです。57日間の会期延長ということで最終的に社会福祉事業法を中心とした法律の改正は、間に合うのかとこの通常国会でということなんです。今の情勢では、ほとんど難しいというふうに言われております。最終的には秋に始まります臨時国会には、なんとか間に合うだろうと。へたをしたら来年の146通常国会、来年の1月末から始まりますその国会に延びる可能性もないわけではないと。しかし厚生省としては、基本的には何とか最悪の場合、秋の臨時国会には上程したいということで、今準備を進めております。その前の社会福祉事業法の改正の前には何があるかというと、7月2日に衆議院の法務委員会で民法改正が行われます。それは成年後見制の改正。それがほぼ2日の日に衆議院を通過する予定という見通しが立っています。そして3日の日に参議院に送られ、参議院で審議され、たぶん民法改正については成立するだろうということとか、後もう一つ大きな問題は年金法の改正の問題なんです。これは今自自公と言われている連立内閣の中で自民党と自由党が一番大きく対立しているテーマなんですね。これからの老人高齢化あるいは少子化の中で、年金問題をどうするかという大変な問題ですね。私もベビーブームの最初の走りの世代ですけれども、今たくさんの年金取られていますけれども、厚生年金取られていますけれども、へたしたら私たちがもらえる時期にはなくなっているじゃないかといわれているくらい。もらえないかも知れない。そんな危険をはらみながら、今年金はある訳なんです。これを根本的に見直す。このまま行ったんじゃじり貧になっていって、我々の受給年齢になったときにはどんどんその財源尽きているみたいな状況になりかねないというような状況があるわけで、そういう意味では年金法の改正というのが、この延長国会の最大のテーマですね。そういう意味ではこの年金法問題、これから自民党と自由党、小渕・小沢がどういう話し合いをするか解りません。今までほとんどしていないらしいです。そこが問題と言えば問題ですけれど、それほど大きなテーマなのに。最終的にはこの延長国会の大半を使ってその審議が行われるだろうと。あるいは中央省庁の再編の問題、今の23省庁が12省庁に、厚生省も厚生労働省になるというような話がほぼ決まっているんですけれど。例えばその辺の問題もありますし、それから例の国旗・国歌の法案もそうだし、あれやこれやで大変な、どれ一つとっても大変な議論が沸騰するようなものが目白押しになっている。そのような状況の中で、年金法先程申し上げましたように、非常に大きなテーマです。それが私たちにどう関係するかというと、私自身という意味もありますし、障害のある方たちの生活暮らしに直接関係してくるんです。それはなぜかというと、基礎構造改革のなかで最終的には、福祉・サービスを必要とする人たちの地域での暮らしをどう支えるか、どう支援していくかというときに、重要な問題はその方たちの所得保障をどうするか、お金もないのに地域で暮らせ、あるいはお金もないのに地域でいっぱいサービスを用意してそれを使えと言われても、それは絵に描いた餅になるわけで、そういう意味ではお金財源所得、障害のある方たち・福祉を必要とする方たちの財源をどうするか、所得保障をどうするかという問題ですね。これは大変な問題です。私も実は昨年度の基礎構造改革の審議検討の中で、厚生省の社会援護局というところが中心になってやっているんです。その援護局と半年の間に6回話し合いをしました。そのなかでも再三にわたってその所得保障の問題についてはどうするんだという話をこちらから持ちかけているんですけれども、そのときに決まって援護局から出てくる答えは、年金法との絡みがあるので、それと関連した形で議論をしないといけない。障害者基礎年金という障害のある人たちの1級・2級という9万弱・7万弱の今年金があるんです。たとえばその9万とか7万の年金で地域で生活できるはずがない。だからそれどうするんだということを考えたときに、最もシンプルなものは年金を上げよと。単価を上げろと。増やせよ。倍ぐらいにしろ。いう話が一番手っ取り早いんです。しかしその障害基礎年金を切り離して単独には議論できないと。それは年金法全体との絡みの中で検討していかなくてはいけない問題なので、障害基礎年金についてはここでは議論をしないで欲しい。局長の方からいつもそのようなことが出てきて、だからそのような意味、この年金法の改正がどうなっていくかという絡みの中に障害基礎年金の問題も含まれている。だからそういう意味ではこの年金法の改正もありようによっては障害基礎年金が減ったり増えたり、あるいは制度的に変わったりということもあり得るんです。しばらく年金法の改正というこの延長国会の最大の局面であるこのテーマについては目が離せないというのが実態です。ぜひ注目し、注意していたいと思うわけです。いずれにしてもそうした年金法を中心とした改正問題が大きな山場にさしかかろうとしている。こうしたことに代表されるように、またあと来年の平成12年の4月1日から思考されます介護保険の問題、これもこのまま予定通り進めるのかあるいは実施を延期するのか、あるいは手直しするためにしばらく時間を設けて、先延ばしにするかいろんな案が出ています。遠からず実施されるのは間違いないわけで、私たちの周りというのは申し上げておりますように本当にいろんな意味で大きく変わってきている。そういう実態があるです。これをどういうふうに受け止め、どういうふうに我々自身がそれに対して考え向き合っていこうとしているのかということについては、われわれ福祉関係者といいますか、今ひとつ何か他人事のようなうわのそらというか、関心が薄いというかそういう状況実態があるということです。これは私自身もそういうものを実感しています。そしてまた残念ながら一方では多くの人たちはいいと思うこの問題は、ほっといてくれと。私たちは今までこれでずっとのんびりやってきたんだから、ほっといてくれと。寝てる子を起こすようなことをしないでくれみたいな、迷惑がられているみたいな、むしろその変革を否定したり反対したりブレーキかけようとしたり、むしろ無関心だけじゃなくて、むしろその反対の側にまわりかねないようなそんな姿勢の人たちが多いような気がします。これとても私自身は関係者のひとりとして、残念だと思うんです。といいますのは変わらないでくれ、変えないでくれこのままでいいというのは、誰の立場に立った視点かということです。例えば私たちが援助したり介助したり支援したりしている人たちの立場に立ったときに変わらないでくれと本当に言えるのかどうか。変わらないでくれこのままでいいというのは、すくなくともその健常者側と言いますか、施設側と言いますか、サービス提供者側の視点・価値観であって、自分たちにとってはこのまま相手の利用者のことを考えなければ、昨日のように今日があり、今日のように明日があれば安心で呑気でのんびりやってられる、なんとくなくそれこそ基本的には措置制度と言われて、制度に守られてぬくぬくと惰眠をむさぼっていた。だからそういう意味で惰眠をむさぼらせてくれというのは明らかに経営者側と言いますか、提供者側の論理であって、そのサービスを本当に必要としている地域で暮らしたい暗そうとしている人たちの視点に立ったものではない。明らかなんです。ですからそういう意味でそんなことがあってはいけない。今大きくこの時代を変えよう、とりわけ福祉関係に置いては事業法の改正を中心とした、構造改革と言われているものが、一部の人はお金財政支出を削減を目指したものであって、あれやこれやもっともらしいことを言っているけれども、みんなうわべのことであって、本音の部分では金銭の切りつめ財政支出の切りつめ給付の切りつめという削減というところにあるんだというようなことを言う人がいます。確かに今時代がこういう世の中不景気で、税金税収入も、国の財布も乏しくなっていて、そういうなかにあってみれば確かにそういう見方もできなくはない。しかしこれは私自身6回にわたってですね、昨年の6月から12月までの半年の間に意見交換をさせていただいた中で実感している思いは、確かに今までのいろんなつぎはぎだらけの制度それに伴うお金の使い方という意味でいけば、いっぱい無駄があると思います。それは確かなんですけれども、それ以上に今の改革を議論している思いというのは、基本的にはお金の問題ではなくて私たち自身のこれからどう生きようとしているか、どんな社会を作ろうとしているのかという、そこを議論している話だと私は確信しております。だからよく穿った見方をする人たちはへたしたらこれで施設はつぶれていく。そうすると職員がくびになってどうするんだというようなことを言われる人もいます。それについては私立場上あんまりおおっぴらには言えませんけれど、言っちゃいますけれど、評判が悪いというか質の悪い施設なんかはつぶれたらいいと私は基本的には思います。つぶすべきだとむしろ。そんな施設はあってはいけない。そんなサービス供給体はあってはいけないと思います。だからそういう意味では、そこで淘汰が行われるということは、基本的には賛成なんですけれども、しかしそれじゃそこでつぶされた施設のあふれた職員は本当に路頭に迷うのかというと、そこで本当に善良な優秀な職員であったとしたならば、私はむしろ地域の中で一杯雇用の場はあると思います。それはなぜかと言いますと、施設の中で自己完結的にたこつぼの中でやっているサービスと違って、地域の中でその人たちが暮らす、その生活を支えるということになれば、たくさんのさまざまな形の支援者、そういう方たちが必要になるのは明らかです。ですからむしろ人手は足らなくなってくる。今まで以上に人は必要になってくる。ただしかし質の悪い人は淘汰されていくというのは大前提です。質の悪いのまで救ってという話ではないことは確かです。でもしかしいい職員で有れば喉から手が出るほど地域は必要としているという時代が来ると、またそういう時代にすべきだと私自身は思うんです。
 
ノーマライゼーションについて
 大きな流れがあるわけですけれども、その背景にあるものというと、今時代が福祉関係に限らず、大きく時代がターニングポイントにさしかかって変わろうとしている。この背後にあるものはなんなのかという、今お金の問題が全面にでてきがちですけれども、確かに今この時代この時期であってみれば、お金のことを無視しては何も論じられませんけれども、私はそれはたまたま世紀末の中で、経済が危機的な状況になってきたという、後からくっついてきた話であって、バブルの最盛期の大盤振る舞いをしていた頃からもうすでに福祉の基礎構造改革、さまざまな我が国における諸制度の基礎構造改革については議論はスタートしているんです。例えば現行の措置制度といわれている制度は、我が国の福祉の基本的な制度であるわけで、これについてはつい最近までは厚生省自身も大変な自信を持って、豪語していたんです。我が国が世界に誇れる制度として措置制度がある。これは厚生省が中心となって頑張ってきた成果である。自信たっぷり、自慢たっぷりだったんです。なぜそういうことを言ったかと言いますと、ルネス花北の宮田所長さんなんかも一緒になって、厚生省の心身障害研究という、私も一緒になってやってきたんです。そのときに私は措置制度の問題を研究テーマに取り上げたんです。なぜ取り上げたかというと、要するに議論されているようにこの制度が、今の現状の私たちの意識感覚あるいはこの生活レベルと言いますか、社会状況と言いますか、そういうものにそぐわないとあわないと、制度疲労を起こしているという、そういう実感が嫌というほど感じていたわけなんです。諸悪の根元はこの措置制度にあるというふうに、私は思い続けてきた。そしてその研究班に入ってチャンスをいただいたときに、ぜひこの措置制度の問題を取り上げようと思って、それをテーマに掲げた訳なんです。そしたら当時の厚生省の役人は私に何を言ったかというと、「やめてくれ」と「厚生省のお金を使って研究するのに、厚生省が自慢している制度を批判するような研究をされたんでは困る。」と言われたんです。それぐらい厚生省は当時、今から10年ちょっとぐらい前、自信を持っていた制度なんです。ところが心ある人たちと言いますか、私も含めまして、当時の主たる研究班のメンバーは全員がほとんど一致してこの措置制度については問題があるということで、早急にこれは見直さなければいけないと、そうしない限り本当に支援サービスを必要としている人たちの支えにはならない。いろんな角度から議論をし、意見をさせていただいたんです。だからそういう意味ではその頃は、今のような経済危機、危機的な状況ではなかったんです。昨日今日に今の制度を見直そう、基礎構造改革云々ということは起きたことではないんです。ちょっと考えてみていただいたら解るように、例えば我が国の社会福祉の最も基本的な制度を支えている法律は社会福祉事業法と言われている。社会福祉事業法というのはいつできたかというと、昭和26年にできているんですね。昭和26年というのは時代としてどういう状況だったかというと、私が生まれていてあまり記憶にはないんですけれども、戦後のまさに第2次世界大戦のどさくさの中で、戦災孤児とかあるいは被災児あるいは被災者あるいは戦争傷病者あるいは海外からの引揚者とか、そういう人たちがどっと我が国の中にあふれ出たような時代なんです。だからそういう人たちの生活を支える命を支える保障するという意味で、ある意味では現行のまさに措置制度に代表されるような行政処分としての制度は必要だったわけです。そしてそれはそれなりに役割を果たしてきた。それは認めるんです。十分役割を果たしてきたと思います。結果として大変な悲劇的な結末を迎えた世界大戦においても、結果として戦後の処理は比較的順調に、二次的な被害も出さずに経緯してきたと評価していいと思うんです。でもしかしそれが50年たとうとしている今日において、まだなおかつその意味・意義があり続けているのかとなったら、全然違うと思います。ですからそういう意味では現状の50年前の社会情勢あるいはわれわれの感覚・意識、あるいは資源、多様さとか量的質的な豊かさという意味でも全然違うと思います。ここで抜本的に見直すということは、私は遅きに失していると、なんでいままで措置していたんだということです。だからそういう意味では今金が不足しているから、金を切りつめるための話として、ごちゃごちゃにしてお茶を濁して、この動きを止めたりあるいは歪曲したりなんてことは、あってはいけない。一刻も早くとにかく今のあるいは新しい時代につながる制度を理念といいますか、そういうものを構築するという時代に今われわれは直面している。そういう意味でも事業法の改正については、まさに議論の真っ直中にあるわけです。みなさん自身も臨時国会、延長国会のなかで秋の臨時国会の中で、その話が登場してきますので、ぜひ具体的には答申という形で1月の14・15・29日の3日間にわたって、4種類の答申が出されていますので、それにもとずいて法改正が行われてほぼ法改正は終わっていると、内閣の法制局の方で法の文章のチェックをしていると言われていますので、もうできあがっていると思いますが、それを注目していていただけたらと思うんです。いずれにしましてもそうした背後にある大きな変革の動かしているものというのは、なにかというとお金ではないということです。つまりそのお金によって、構造を変えるという話ではない。無視はできません。お金があっての話ではあるんですが、確かなんですが、それ以前にもっと大きな時代の要請と言いますか、そこから来る変革なんです。お金の話にすり替えてはいけないと思うんです。大きな変革の理念とは何かというと、みなさんご存知のノーマライゼーションということだと思います。要するに私たちの今までの福祉に対する考え方見方というのは、先程申しましたように行政処分、措置制度に代表されるように、御上が貧しき者あるいは救済を必要としている者に対する施しなんです。上から下への施しという発想で塗りつぶされている。処分なんです。国民として憲法25条・13条・89条とかでいわれている国民としての権利としての福祉サービス受給権といいますか、福祉サービスを市民として国民として当然の権利としてそれを利用し、自己実現を目指して生きると、地域の中で主体的に生きるという話ではない。あくまでも一方的に行政処分として、行政命令で自分の生活をする場所と生活のスタイル内容を決定されてそれにひたすら感謝をもって従うという話ですね。文句を言うなという話です。だから措置については文句は言えないわけです。そういう意味ではそういう制度ではなくて当たり前のことだ。一人一人が自分らしくもっと生きたい、もっと主体的に生きたい。まさにノーマライゼーション、人間観といいますか、まさに人間が20世紀までにさまざまな過ちを繰り返しながらやっと到達しえた総決算、人類の総決算だと思います。ノーマライゼーションという考え方は。だからその一時のはやり病みたいが、流行病みたいなものではなくて、消えたりつぶれたりするものではない。それだけ意味の深い、大きい考え方がこのノーマライゼーション。このノーマライゼーションという発想をどう具体的に自分の生きてる社会・生活・暮らしの中に実現するかということ。これがいろんなジャンルの基礎構造改革はもちろんですが、他のさまざまな改革にしても、私は基本的にはその背後にあるフィロソフィ、哲学というのはノーマライゼーションという人間観だと思います。だからそういう意味ではこうしたノーマライゼーションということを今ここではっきり自分の言葉で他人の請け売りではなくて、自分の実感をもって自分の言葉で、ノーマライゼーションということを考えるということが、今等しく必要になっているのではないかと思うんです。だからこの混沌とした一寸先は闇みたいな時代の中にあって、誰もこの5年先予測できる人はいない。そういうなかにあってまさに混沌とした一寸先は闇みたいな見通しが悪いこの時代のなかにあって、少ない一つの光としてノーマライゼーションということがあるのではないかと、だからそういう意味では私たちが混沌とした中で、迷うことが多い中で進むべき一つの方向というのは、ノーマライゼーションという一つの光を目指して突き進むことだと思うんです。だから一人一人が私にとってノーマライゼーション、私はこのノーマライゼーションをどう生きるのかということを、もう少し自分の言葉で実感をもって自分の言葉でつかまえているということが今等しく求められていると思うんです。その流れの例えば、教育とか保育とか私のプロパーであるその領域を見ますと、インテグレーションあるいはメインストリーミングというような動き、そしてさらにそれは先程ご紹介いただきましたうちのセミナーが今年そのテーマであるインクルージョンという発想です。ノーマライゼーションの究極はインクルージョンにいくと思います。インテグレーションよく教育においても保育においても障害のある子とない子に分離されて、効率能率に基づいてハンディのある子ばかりが集まって生活をするという、ハンディのない子はそういう世界には立ち入らない。そういうあり方をずっとしてきた訳なんです。ところがノーマライゼーションという考え方の中で、これはおかしいとどっか違うぞという話になってきた訳なんです。そしてその人たちが地域の中で、障害のあるなしに関係なく共に生活する・暮らす・生きることが大事なんだと持ち上がってきて、インテグレーションとかメインストリーミングとかいわれている話。ところが実際、まだまだインテグレーションとかメインストリーミングということにはならない。そこまでまだ至ってないのが現実ではある訳なんです。具体的には交流とか混合のレベルなんです。ミックスという状態です。入り交じっているというだけの話であって、それは裏を返せばダンピングと、要するに安上がりでいいんです。施設なんかを作ってたくさんの職員を雇用してそこでサービスをするよりは、親もその方が希望に添っているし、地域もそういうことをいっているし、じゃあみんな地域の保育園・幼稚園・普通学級に入れたらいいじゃないかという話です。その方が遙かに安上がりです。養護学校は大変な金使いますから。1人の子どもに東京ですと、年間1000〜1200万円使うといいます。普通学級はその3分の1か4分の1ですむといいます。だからそういう意味ではその方が安上がりである訳なんです。でもしかし、ミックスすればこの育ちを保障するかというと、違う訳なんです。だから交流とか混合という言葉にだまされてはいけないんです。文部省は統合という言葉を使わないんです。交流教育とか混合教育とは言いますが、統合教育とは文部省絶対に使わないんです。なぜかというと、交流混合と統合は違うからなんです。巷では統合統合と言うんです。インテグレーションと言っているのに、行政用語としては統合というのは成立していないんです。なぜかというとそれは、交流混合と統合が違うからなんです。そこに金と人が関わってくるんです。統合教育、インテグレーションをするには、人と金がいるんです。そこに固有のプログラムが用意されなければいけない。人もいない、金もないプログラムもない中で一緒になっていれば、ミックス混合でしかない。物理的な状況を言っているだけで、価値的なものは何も入らない。物理的な記述概念。入り交じっているだけであって、統合だと言うためには入り交じっているだけでは統合にはならない。そういう意味で今地域の中で、遅れのある子とない子が一緒に生活するということは比較的進行はしてきていますが、ノーマライゼーションという崇高な理念、進んでは来ているんですが実態はインテグレーションという段階には到達しえていない。でもしかし時代はもう先をいっている。それがインクルージョンです。つまりインテグレーションというのは、世の中には遅れのある人とない人とが、障害のある人とない人がいるということを前提にしているわけです。そしてそれらが分離状態になっているから、それらをまさにインテグレートしなくちゃいけない。ところがインクルージョンというのはそういう考え方を否定しているんです。世の中に遅れのある人とない人がいる、障害のある人とない人がいるということ自身否定しているんです。世の中にはいろんな人がいていい。いろんな人がいるという一元論。区別できない、線は引けない。速い人もいる遅い人もいる、大きい人もいるし小さい人もいる。それをかってに人間が線を引いてですね。こっから右が障害のある人、左は障害のない人と、線を引いていると線なんてのは相対的な問題。そういう意味では人間を障害のあるなし、白・黒に分けること自体ナンセンス。それがインクルージョンです。でも必要なのは障害名であったりとか診断名であったりということではなくて、その人が地域の中で生まれ育って生きていくのに必要なサービスは何かということです。それが大事なんだということです。障害のあるなしというのはどうでもいい。みんな誰しもですね、自分一人では生きていけないことは確かなんです。それぞれにそれぞれの固有のニーズをもって人は生きている。必要としている訳なんです。そういう意味ではただその違いだけであって、それをあえて障害児・障害者とか、そのことを言う必要があるのか。人は等しく自分らしく生きていく、ノーマライズされたパーソナルでソーシャルな生き方をしていくうえでさまざまなニーズを持っている。等しく誰しも十分に保障される。その仕組み制度が必要であって、障害別の制度とか仕組みとかはある意味ではナンセンス。例えば私どものところにダウン症の子どもさん300人くらいいます。措置児が159人、0〜6歳までそのほかに外来児、卒園した子どもたち地域の保育園とか幼稚園に移った子どもたち、あるいは他の施設に措置児としていながら、私どもの施設を利用している子どもたちが150人います。トータル300人ぐらいになります。例えばその中の3分の1ぐらいは自閉症の子どもさんなんです。ダウン症の子どもさんというのは身体障害とは言わない。でもしかし0歳・1歳・2歳あたりは、間違いなく運動発達のニーズをもっているんです。しかし今の制度でいきますと肢体不自由児と認定され通園施設に行けば、機能訓練はしてもらえるんです。知的障害児というカテゴリーでくくられれば、そこでは機能訓練は受けられない。これはおかしいです。あるいは、わたしどものところではダウン症の子どもはたくさんいる。自閉症の子どももたくさんおられるんですけれども、例えばダウン症の子どもたちは屈折検査なんかしていきますと、毎年チェックをするんですけれど、機械を使ってですね、レーザー光線を角膜に当てて反射光で測定するんですけれど、それで測定しますけれど7割8割がたが、遠視・近視・乱視何らかの屈折以上をお持ちなんです。その研究論文で私どものところでは日本発達障害療育賞という本賞を一昨年いただいたんです。自閉症協会の審査委員が石井先生とか山崎晃資先生とか高橋昭彦先生とか江草先生とかそういう先生が審査委員でした。それでいただけた訳なんです。ダウン症の子どもたちに聴覚のEP聴力検査を春と秋全員にやるわけなんです。それで聴覚、中軽度の聴覚のハンディを持つ、これ統計的にはっきりしています。それを今度論文にして今度またもらいました。授賞式有りませんけど、返事もいただいていますし、発表されています。だからそういう具合にダウン症の子どもさんの場合には肢体不自由児とは誰も言わないし視覚障害児とも聴覚障害児とも誰も言わない。そうやって多様なニーズを持っているダウン症のAちゃんでありBちゃんでありということなんです。自閉症児のAちゃんでもBちゃんでもそうです。みんなそれぞれ自閉症児だから同じようにくくられて金太郎飴みたいなサービスを受けることは、誰も望んでいない。みんな一人一人そりゃー診断名は自閉症かも知れませんが、一人一人有り様は全部違うんです。ですからそういう対応の仕方、それがこれから大切になってくると思います。その問題で今、また国の話になるわけですが、実は社会福祉構造改革の次に来る大きなテーマは何かというと、障害に基づく欠格条項の話なんです。欠格条項とはどういうことかというと、我が国のいろんな法律、79あるんですが、条例まで含めると500くらいあるといわれているんですけれど、障害とか疾患によって資格がなかったり、社会参加が阻まれたりということがいっぱいあるんです。てんかんといわれただけで、運転免許が取れないとか、聴覚障害ということで薬剤師になれないとか、そういうふうな話がいっぱいあるんです。てんかんといわれてもピンきりです。いろんなタイプがあります。てんかんと言われても弁護士の人もいますし、てんかん協会の常務理事は吉田さんと言いますが弁護士ですけれど、我が国の法律制度ではてんかんというその一言で、いろんな社会参加を資格取得を阻んでいる。これも最終的にはおかしい。来年の通常国会でその辺の法改正が行われるという、それに象徴されるように、これからはそういう障害疾患によるカテゴライズではなくて、本当にその人が地域の中でノーマライゼーションに基づいて生きていく。一人一人が主体的に個性豊かに自分らしく生きていく。そのために必要なサービス、支援サービスは何かというかたちで、これから制度とか仕組みあるいはサービスが考えられていかないといけない。そういう意味では自閉症協会も、実は私あんまり知っているわけではないんですが、障害名に基づく団体の持つ意味がなんなのかということを考えていかなくてはいけない。本当にそれだけでくくってて動いているわけではない。足らない部分不充分な部分というのがいっぱい出てくると思います。またそれが場合によって必要なこともあるかも知れません。それよりは広くもっと考えることがより生産的であろうと個人的には思います。いずれにしましても、ノーマライゼーションというこの大きな流れの中で今時代が動き始めている。その意味では私たち自身がノーマライゼーション、どっかで聞いたことがあるよみたいな第三者的な受け止め方ではなくて、一人一人が国民一人一人がノーマライゼーションということはなんなのか、自分はそのノーマライゼーションという理念に基づいて、どう生きているのか。それを考えていく必要があると思います。
 
今後の施設のあり方
そういうことを考えたときに私たち自身は比較的健常者と言われている人たちの場合は、そんなこといちいち深刻に考えなくても、まあ何不自由なく生きているわけですけれども、問題はマイノリティの人たち、とりわけいま共通の話題である障害のある人たちの場合にはどういうことか今までのあり方というのは限りなく、そのことがペンディングになっていたというか、犠牲にされていた。とりあげられていた。そういうあり方だったと思うんです。彼ら一人一人が自分らしく主体的に、みんなの中で等身大のもっと自信を持ってプライドをもって生きていく。みんなの中で生きていくということが保障されなくてはいけない。そのために我々が何ができるかということなんです。そういう意味でいきますと、今までの制度が莫大な福祉予算を費やしてきました。でもしかしその費やし方は、ノーマライゼーションとは逆の、かれらのまさにその人権を剥奪したようなそうした有りよう、生命的な生物的な命だけを保障するような、そういう制度仕組みの中で莫大な金を湯水のように使ってきているんです。だからそういうあり方を止めるべきです。だから私は最終的には厚生省との意見交換の時に申し上げたのはバウチャーシステム、クーポン券制度を主張したんですけれど、それは早い段階で却下されました。例えば私どもでは、159という数の措置実数、定員です。159番までの人は国が用意した制度に基づくお金が、全部私どもの学園に振り込まれてくる。159人分の措置費が。そうすれと160番目の子どもはどうなるのってことになります。0です、入れません。そうすると国が25条で保障した「国が最低の文化的な生活を保障する」といったところに基づくお金が、159番までの人は100%保障されて、160番以降の人は0円。これは差別です。あるいはそういう箱ものは太平洋側に一杯あるんです。先程言いました知的障害の場合、3000カ所ある訳なんです。だいたい太平洋側地帯なんです。日本海側地帯には、あまりないんです。同じ国民として、憲法25条に保障されている国民同士が、日本海側に住んでいると、その権利が保障されず、太平洋側に住んでいるとそれが潤沢に保障される。この差別。だからそういう意味では地域間格差はものすごいものがある。たぶん兵庫県もそうだと思います。この辺の太平側、瀬戸内海側と日本海側とで、資源が全然違うと思います。どんなに必要としてもどこにもない。そんなサービスどこに探してもない。この姫路近辺来るといっぱいあるという話になっていると思います。例えば兵庫県と岡山県と比べると、県の間で差があったりとか。同じ県の中で同じ施設の中で、格差があったりとか、バラバラなんです。でもそれはどんなに粗悪な、劣悪な、めちゃくちゃなサービスをしていても、一応スタート時点で認可を受ければ、監査という書類上の表層的なチェックは受けるものの、最終的にはその施設間においては、措置費という形での差はないんです。一律、金太郎飴なんです。そういう状態で保障されているわけです。だからそれ止めようよという話です。159番目までの人も160番目以降の人も、等しく今本人がもっと豊かに生きていくために必要なサービスが欲しいと。160番の人に保障するためにはどうしたらいいかということです。あるいは地域資源の貧弱なところと劣悪なサービスしかもらえないところの人たちはどうしたらいいかということです。最終的には私は全部それは必要としている人に、国が用意したお金は全部差し上げたらいいと思うんです。理想的には100%。例えば東京の場合にですね、ある東京都立の児童施設、150人の子ども、正確に言うと160人ですけれど、実際150人で抑えられていますので、150人。正規職員が306人、そのほかに組合の裏協定でプラスアルファー、そしてさらに掃除・洗濯・炊事、全部外注。アウトソースということです。そして年間34億円というお金を使うんですね。150人の子どもに34億円のお金を使うんです。34億円ですよ。そこで生活している人、どういう生活しているかというと、わたし3日間、ショックで飯が喉を通りませんでした。まさに今までの日本の福祉というのはそういうあり方だったんです。建物に莫大な金をつぎ込むわけです。じゃそこで生活している一人一人は、一人あたり年間2000万円強の金にふさわしい生活ができているか、とんでもないです。むちゃくちゃな生活です。だからそのノーマライゼーションとはほど遠い。わかりやすく言いますと、普通の暮らし、みんなの中で生きる自分らしい生活ということです。兵舎みたいな、一万坪の東京の高級住宅地、一万坪の更地の中に、15人ずつの10棟が並んでいるんです。窓は全部アクリル鉄格子、カギはその人のところにたどり着くまで、玄関から4つぐらい必要です。ほとんど裸同然、ボタンも全部一つもついていない。なんでかと言うと、食べちゃうといけないと言うんです。ベットは裸のベットが。それは汚すといけないからというので、起きると布団を全部撤去しちゃうんです。木のベットが並んでいる。それで年間2000万円もどうやって使っているのか。変な話ですけれど、私はお札で尻拭いているじゃないかと思いました。だからそこに象徴されるように、「止めましょ。そういう話は」と思いますけれど、それでも処遇が批判されると、「金がない。人がない。」と言うんです。金でも人でもない、ないのはハートであるし、人権意識であるし、工夫する知恵がないだけなんです。金も人も有り余るほどいるわけです。3日間ぐらい職員が休んでいても誰も気がつかないと言うんです。それでも人が足らないと言うんです。だからそういうのを見直すというのは、リストラであるとしても、是非やるべきです。そんなバカな話はありません。最終的には東京都の場合、都立は全部いま事業団に移行しました。もうやる必要ないです。都立都営、公立公営なんてのは、これからはもう止めるべきです。従来の黎明期と言いますか、創設期の段階で有れば、お役所が採算度外視して、税金をつぎ込んでというのは解りますが、これだけ戦後50年、民間も成熟し、意識も成熟した中で、親方日の丸でやっている時代は、もう終わったと思うんです。最終の場合、私は教育もそうだと思います。ニュージーランドというのはみなバウチャーシステムで教育が行われていると言います。聞くところによると、80人ぐらい校長が首つって死んだと言うんです。責任感じて。だからそれぐらいに、市民一人一人の権利といいますか、それが尊重され、大事にされるか保障されようとしている時代なんです。それをまだ親方日の丸で、施しのようなサービスをやる、そういう感覚は絶対止めるべきなんです。そこにいかに無駄が多いか。民間がやったら、同じお金で3〜4倍のサービスができるんです。だからそういう意味では今、私たちの通園施設なんかでも、公立が6割ぐらい有るんです。全国に226カ所有りますけれども。公立公営の時代ではない。やっぱり、官尊民卑と言いますか、あるいは、主官民補といいますか、民間は補助と言いますか。民間は足らないところを補う、すき間産業のみたいな話です。そういう体制もこの構造改革の中で変えるべきだと思うんです。民間が中心でいいと思うんです。どうしても民間ベースにのらないところは、官がやったら、公立がやったらいいと思います。ところがなかなかそういうふうにはならない。役人たちは自分の天下り先も確保しなくちゃならない。だからそういう意味では、誰のための施設か、誰のためのサービスかになってしまいます。いずれにしろそういう話が多すぎます。だからそこをクリアーするためには、今のこのあり方をクリアーするためには、最終的には、私は国が保障したお金はその人たちに全部差し上げて、そしてその人たちが主体的に、自己決定・自己選択の中で使ったらいいと思います。そして評判のいいサービスのところには、お客さんが殺到する。そして、それに努力している機関は潤っていく。今みたいに何やっていても、さぼっていてもどんなに頑張っていようとも、なんの差もない。お金もどう使われているのか、訳がわからない。そういうあり方をしているというのが、今の制度です。最終的には、東京都の場合私が提案したのは、2000万円、150人の人にあげたらどうですかと言ったんです。そしてその人がまず1500万円使って、500万円ずつで3人の自分専用のヘルパーを雇う。そして残りの500万円で、自分の生活費に充てる。自分一人の生活費を500万円あてがうというのは、そんなにないと思います。十分豊かな自分らしい生活ができると思うのです。そんな裸同然の野生人みたいな、屈辱的な生活はしなくて住むと思います。お金は有るんです。誰のためのお金かというんです。怠惰な職員を養っているだけの話であって、そういうあり方を今、私たちの業界というか世界には、いっぱいあるような気がするんです。本当に今利用者を中心に、利用者の視点に立って、どんなサービスが、どんな仕組みの中で、どういうふうに利用できたら、この人たちは幸せに暮らせるのか。そこから考えるべきだと思います。上から考えるのではなくて。自分たちの都合、自分たちの生活とか、自分の天下り先とか、そういう話ではなくて。だからそういう話をこれからもっともっと進めていかなきやいけないと思います。そういう意味では究極はバウチャー制度だと思います。全部当事者にお渡しする。行政は何を言うかというと、「そんな当事者に渡して、親に渡したら、パチンコに全部使ったら、どうするんだ。」というようなことを言い出すわけです。大きなお世話ですよ、それは。愚民政策なんです。民はバカである。民衆はバカである。ほっといたら何をするか解らない。だから御上がきちっと親心でコントロールしないといけない。そんな発想なんです、行政というのは。今の時代はそんな時代ではないです。もしそうなったときに救うか、サポートするかに、一生懸命やればいいのであって、大半のひとはちゃんと自分で主体的に、自分に本当に必要なサービスを選択して利用して豊かに生きていけると思うんです。だから私は一日でも早く、そういう仕組みができたらいいなと思います。残念ながら今回の事業法の改正、基礎構造改革の流れの中ではそこまではいきません。却下されました。しかし、時代はそういう方向に動いていると私は思います。結果として、多様な事業体の参入、従来は公立公営、公立民営、公立事業団、民立民営というようなかたちの福祉を独占した事業体があったわけですが、この基礎構造改革の中で、多様な事業体の参入、民間の事業体の参入ということが出てくるんです。これも私は大賛成です。どんどんやったらいいと思います。なぜならば今このままで行けば、在宅で地域でという大きな流れに対して、地域の中で本当に彼らが必要とするサービスがあるのかと考えたときに、ありません。なぜならば今までのそうした独占企業みたいな事業体みたいなところでは、工夫も努力も何もしていないです。体制にあぐらをかいて、それで十分生活成り立っていた訳なんですから。努力する必要ないわけです。だから結果として、地域の中ではそういうものないんです。でもこれで大きく変えますし、とりわけお金の流れを若干いじります。それはもう必ず変わります。私は変わらざるを得ないし、変えなきゃいけないと思います。そういう動きが今起ころうとしている。結果として、いろんな事業体が参入してきて、多様ないろんなサービスが出てくると思います。それでいいと思います。じゃあ冒頭に言いましたように、サービスを利用するだけの財源がきちっと保障されないといけないわけです。そこをきちっと保障しながら、そういう仕組みを作っていくということが、これから大変になってくると思います。
 
子どものことについて
今日は自閉症協会ということで、基本的には親御さんが多いということで、ぜひ私がいつもこだわっているのがひとつあるんで、ご紹介させていただきたいと思います。それはですね、私もそうやって年間たくさんの子どもさんあるいは親御さん、お父さんお母さんにお会いするんですけれど、それが20何年間続いている訳なんですけれど、そういう中で本当に思うのは、私どものところは子どもさんが小さい、へたしたら私自身が宣告をするというようなことまでやってきた訳なんですが、そういう中で考えていることが有るんです。それはひとつは我が子の障害の受容、障害の受容、例えば突然に青天の霹靂のように、お医者さんから子どもさんはこうですよ、と言われる。びっくりする。大変なショックでもあります。混乱は想像を絶するものがあります。そういう意味でそういう中から、直って行かれる立ち上がって行かれる、そのなかでお父さんお母さんは何をされるかというと、我が子につけられた、まさにその忌まわしいと言いますか、あってはほしくないその診断名、レッテル、ラベルと言いますか、それをなんとか理解しようということに一生懸命努力される。結果として私たちもですね、私どものところにはスタッフが全部、お医者さんも看護婦さんもST・PT・OT・心理士・訓練士・栄養士全部いるんですけれど、例えばそういう人たちは、そういう親御さんお父さんお母さんの我が子につけられた障害について理解をしようと、そしてそれを受け止めようと一生懸命なわけなんです。それは一つは原因です。なんで私に、この子が生まれたんだ。どうするとこういう子どもが生まれるんだ。という原因。程度。私の子どもはどういう育ちをしているんだ。それから見通し。小学校いけるんだろうか。親亡き後は、自立できるだろうか。その将来的な見通しを知ろうとするわけです。それからもう一つは、具体的な指針。何をすればいいのかということです。家で何をしたらいいんですか。だいたいその4つだと言われています。それはそれで大事なことですし、それについて私たちは最先端の最新の最適な知識技術情報を提供する。当面の私たちの役割であるんですけれど、しかしそれはゴールではない。そんないくらレット症候群・アンジェルマン症候群なんだそれ、そうかそういうことかそういう原因で。そんなこといくら知ったて、決して自分はハッピーじゃないですね。自分の人生ハッピーじゃないです。最終的に自分が、よくある『私はこの子と生きてしあわせでした。』『私たちの家族にとって、この子がいなかったならば・・・。』とよくおっしゃるんです。でもそれはすべての親御さん、そういうふうに言われるかというとそうではないです。最後まで、我が子の存在を否定し、呪って死んで行かれる方もいます。例えばあの有名な大江健三郎、長男の光君が生まれたとき、彼は何をしたか。彼は原水爆禁止世界大会広島で行われたときに、あの時に太田川で灯籠流しがあります。そのときに自分の名前、息子の名前を書いて流しているんです。受戒するわけですけれども、自分の生まれたばかりの息子の名前を書いて、灯籠流しで流してしまおうなんてことは、何を意味しているかというとですね。大江健三郎ですらそうです。ましてや我々凡人にしてみれば。でもしかし最終的には、大江健三郎の文学はあの光君がいなかったら、というぐらいに、大きな影響を与えていくわけです。かと思えば、ある有名な政治評論家が63歳で、癌で亡くなるんです。その人には3人の息子がいて、長男が知的障害で施設に入っているんです。自分の臨終の枕辺に、長男呼ばないわけです。なんだそれと言うことです。自分は確かに社会的には名をなし、成功者として評価されているかも知れないけれども、自分の本音の人生、自身の人生はなんだったのか、死の間際にまで長男を認められない。その存在を許せない。受け入れられないで、死んでいったその父親の人生はなんだったのかと言うことです。私はそんなことがあってはいけないと思います。父親が確かに社会的に著名な政治評論家だったかも知れませんけれども、その人の人生は本当に成功だったのか。幸せだったのか。幸せではあり得ないと思います。その間彼が死ぬまでの、息子が33歳になるまでの間に、父親はなぜそれを受け入れられなかったのか。その間に関係者が何もそのことについて触れてこなかったのかということです。父親の責任も問われなければいけないし、その間に関わったであろうたくさんの関係者の責任も問われなければいけない。誰もそのことに触れないで、爆弾ゲームのようにそこを避けて先送りして、最後まで来ちゃた。そんな悲劇的なことはあってはいけないと思います。そういう意味では私たちは目先の障害の受容ってことはやりますけれども、必要なのは障害のある、障害というなんだかわかんないけれど、ラベルの付けられた我が子、太郎なら太郎を受け入れる。どんなラベルを付けられようが、どんなあり方をしていようが、その我が子を丸抱えで受け止めていく。共に生きていくという決意と言いますか、それもしかも肯定的に受け止める視点というか、それを持つということが究極の親としての仕事があると思うんです。それは大変な時間がかかります。大変しんどい話です。でもこれは避けてはいけないと思います。逃げてはいけないと思います。とりわけ関係者も、なぜみんな知らない訳じゃないのに、あまり口にしないんです。それは自分に帰ってくるからなんです。要するに自分のことなんです。自分にとって人生何に価値をおいて生きていくかと言ったときの、その答えになるからなんです。だからそういう意味では最終的には私は、まさに価値観を変えるということだと思います。強者の論理でひたすら一等賞なることを目指してですね、幸せを感じて突っ走っていくみたいな、本当はいつもオリンピックの金メダリストが世界で一番幸せではないのは解っているのに、なぜか私たちはひたすら一等賞目指して突っ走っているんです。へとへとになっている。私たちの日常のあり方そのものを問うといいますか、積極的に変えるというあり方を模索しないと、私は最後の評論家みたいな話になるんじゃないかと思うんです。やっぱりだから最後はこのこと生きてよかった、幸せだったと言って欲しいです。捨てぜりふではなくて、心の底から言って欲しいし、言いたいし、そのためには私はやっぱり時間がかかる。大変しんどい話かも知れないけれど、そのことを日々見つめ続けていくという作業ですね、これは模範解答がないんですね。みんなこれは個人作業なんです。夫婦の間でも一致しないことがあると思うんです。とりわけ父親が大事だと思います。お母さんはまだ比較的早くされる場合が多いです。問題は父親です。父親が蚊帳の外におかれて、企業戦士でのたうちまわっているときに、なかなかそういう発想、そういう視点に立つ、精神的なゆとりも物理的な時間もなく、なかなか無いという、一種の逃げであったりもするんですけれど、仕事が忙しいということにかこつけて、なかなかそこに踏み込もうとしない。そういう有り様をしている父親です。この父親をどうするかというのが、我々なんかの専門の仕事としていつも考えさせられる問題です。いつも悩まされている。結論は私自身も出せていませんし、きっと私も死ぬまでそのことを考え続けなくてはいけないと思うんです。そんなあり方をぜひ、だから障害の受容でなくて、我が子の受容、言葉でいうと簡単なことですけれど、中味は大変な作業なんです。そしてしかも多くの人が、なかなかそのことを語ら無い、語りたがらない、避けたがると言いますか、そういう話題テーマであるだけに、難しいでもとても大事な根本的な問題だと思っているんです。そうした作業始めておられる方たくさんおられると思いますけれども、政治評論家のような人がいてはいけないと思いますので、あえてお話しさせていただきました。それとあと、もう一つはもっと中心の、子ども、当事者自身のことを、話したらきりがないんですけれども、一つだけ申し上げます。これから先程から申し上げておりますように、大きく施設の中で、箱ものの中で、社会の目から隔離されたようなところで、自己完結的に生きていく、人生を終えていくあり方ではなくて、まさにいろんなことができたりできなかったり、凸凹した中で、地域の中でみんなの中で生きていくというような状況が、保障されよう、そんな仕組みを作ろうと、今世の中が動いている。そういうときに、実は私たち、子どもに関わる当事者として、ちょっと考えなきゃいけないことがいくつか出てきている。今までの私たちの彼らに対応する考え方では不足する。あるいは不充分であることが、いくつか出てきていると思います。私は5つぐらいあげているんです。1つは障害の自己覚知の問題です。障害というかはともかくとして、誰もスーパーマンなんかはいやしないんです。私たちを含めてですね。できることできないこと、それぞれ凸凹。限りある訳です。だからその人がいったい何ができて何ができないか、何が苦手なのかということを、やっぱりある年齢になったときに、しっかり気付かせる。自覚させるといいますか、そういうことをしていかないといけないと思います。いつまでもバラ色で、夢一杯、希望一杯、可能性を信じてということも大事なことですけれども、もう一方ではやっぱり、何があなたの場合はこういう場合、こういう状況の時には、計算の時には計算機使いなさいとか、筆算なんかさせる必要はないんです。筆算なんかできなくたって、計算機が使えれば十分社会生活できるわけで、聾唖者のイエローカードじゃないですけれど、適切にヘルプコールをする。自分のできることできないこと、できない場面・状況・内容については、適切にヘルプコールをするスキルといいますか、ソーシャルスキルといいますかを確保していくかということです。私たちはいつまでも可能性を信じて、いつまでもお勉強・訓練・指導をするわけですが、限界が有るんです。じゃあ養護学校卒業したから、やろうといっても間に合いません。だからある時間をかけて、多くの場面・場数をみながら、そういう気づきを与えていくという、チャンスを与えていくということをやるということが、これからたぶん大事なことになってくると思います。頑張っていけないこともたくさんある。あるいは頑張らなくてもいいこともたくさんあるということです。我々は口を開けば、「がんばれ、がんばれ。」はげまして尻追い立ててみたいなことやりますけれども。頑張っちゃいけないこと世の中に一杯有るんです。もういいと、そこからは素直に助けを求めなさい。できないことは、恥ずかしいことではないということです。その辺を誰がいつ、どういう形で伝えていくかということです。だからある意味では、教育の世界ではなかなかその辺が難しいですよね。やってもらえないです。教育の世界はひたすら可能性を信じて、形成積み上げ一点張りで行きますから。とりわけ最近の教育の世界は、ブラックボックスですから、これだけ基礎構造改革と叫ばれているのに、教育の基礎構造改革は何も始まっていないのです。基礎構造改革というのは、あらゆるライフステージをカバーした構造改革のはずなのに、6〜18歳まではエアーポケット、ブラックボックスです。誰も何もやっていないです。障害児教育だけでなくて、普通教育だってそうです。あれだけ混乱しているのに、誰も何も提案もしない、提言もできないむちゃくちゃな世界です。莫大な金と人を使って、誰も満足していないです。教師すらも満足していないです。親はもちろん、関係者ももちろん、誰も満足していないのに、何も変わろうとしない、何も提案が出てこない不思議な世界です。いずれにしろ、言葉は悪いですが、子どもに引導を渡す、「もういいよ。あなたはとてもよく頑張ったし、できたし、いい。でもしかし残念だけど、この部分はもう頑張っちゃいけない。そういう場面になったらすぐ、助けを求めなさい。周りの人に声かけて、助けを求めなさい。」と言うことを伝える必要があると思います。口を開けば頑張れとしか言っていない私たちのあり方というのは、どっかで切り換える必要があると思いました。それからもうひとつは、「NO」と言えるということです。「はい」と言える素直な子みたいな教育標語みたいなことなっていますけれど、そしてなまじいつも逆らう子は親まで批判されたりして、教育の世界では。そうじゃなくて、「NO」と言えるのは大事なことだと思うのです。いい意味でずる・さぼり・拒否・拒絶・浪費、こんなことを表だって誰も教える人は誰もいないですけれども、私たちは100%全員がうまく生活の中に取り込んで、メリハリつけて生きているわけです。でも彼らには私たちは、口を開けば、「がんばれ、がんばれ。」としか言っていない。じゃあ彼らにそれだけで、我々のようにメリハリつけて生きてるのかってことです。「NO」と言えなかったら、体いくつあっても足りませんよ。しかもそれもですよ、いろんなTPOで、いろいろ表現の仕方があるわけで、そうした非常に微妙な人間関係を保ちながらそういう態度をうまく表現していく。これは大事なことだと思うのですけれど、これいったい誰がどこでやってるの。全くそのことを誰も伝えないで、ただ、「がんばれ、がんばれ。」だけでほんとにいつまでもやっていいのと思います。それからもうひとつは、わたしたちは形成ということを中心に考えるんです。できてない、わからない、不完全、不充分。そこをできるように、わかるように、強固なものに、完全なものに、へこんでいることを補って、あまりあるほどに強固なものにという努力は、一生懸命するんです。でもそれじゃそのことをいったいいつまで続けれりゃいいのということです。さっきから言っていましたように、我々だってできないこと、解らないこと、不完全なものいっぱいあるはずなんですなのに、なぜか子どもの前に立つと、スーパーマンを養成しているような視点になる訳なんです。でも先程から申し上げているように、できないことがあってもいい、助けを求めることは恥ずかしいことでもない。そうしたなかで、うまく上手に周りの人たちと人間関係を保ちながら、人生を生きていく。つまり関係性です。形成一本槍の中で、私たちは生きているようなところがある。子どもに対しては。でも、できないながらも本当に多様な人間関係のなかで、豊かな人間関係の中で人間関係を楽しみながら生きていくという、そういう部分を私たちは、いったいいつどこでどういう形で、彼らに提供できているのか。ずっとある意味では、分離教育の中で進んできたら、なおさらですよね。その非常に均一集団のなかで、同じような施設の中で人生終わればそれでいいかも知れませんけど、これからは施設の中ではなくて、地域の中で生きていくというときに、本当に悪いのもいればいいのもいるわけですよ。そういう意味での予防注射というか、抵抗力というかをつけながら、豊かな人間関係をどこでどういうふうに、私たちは形成できているのかということです。提供できているのかということです。明らかに分離、分離の中では、その豊かな関係性という意味でいけば、決定的に欠落していると思います。あとひとつは、有用感という問題です。私いろんな場所でお話しさせていただくんですけれど、特に必ず申し上げることですけれど、ゆうというのは有という字です。ようというのは用いる、かんは感覚の感です。要するに、人は誰も無視されたり、否定されたり、叱られたりして、幸せではあり得ないということです。だから、誰しもどんな子ども・どんな人も、人に注目されたい、認められたい、評価されたい、期待されたい、見つめられたい、愛されたい。そういう中で人間は生きている。そしてまた私たちは一般的には、等しくどこかでそれが満たされている。自分は居ていい。生きていていいんだ。ところが、1つ間違うと、障害のある人たちの場合、そういう思いがどこで実感できているだろうかということなんです。へたしたら、あいつなんか居ない方がいい。あいつが居なければ。そういうなかで、彼らが存在してしまっている可能性がないのか。私たちだってつらいことは一杯人生の中である訳なんですけれど、それをクリアーできる力はどこからもらっているかということです。それは私は有用感だと思うんです。100%のみかたではないにしても、100人のうちの99人が敵であっても、1人が味方であってくれたら、その人がしっかり支え、自分を見つめてくれたら、その99の敵に立ち向かうことができるんです。でも、100人が100人とも誰も自分のこと、評価も注目も支えもないとなったら、このつらさ・しんどさに耐えられるかということです。だからそういう意味では、この有用感、それはべたで一日のべつまくなし、そういう瞬間が必要だということではないと思います。一日どこかで一時たりとも、一瞬でいいから、本人に実感できる場面・状況が有れば、それでいいと思います。そういう場面が一日のどこかで、一方的に本人が気づいていないところで提供するんではなくて、本人が実感できているということが大事だと思います。どんなにやってやってるのに思っても、本人が気づいていないんじゃ、やっていないのと同じ、0だと思います。だからそういう意味では、本人がそういう実感をもてるような瞬間を、今日一日自分はこの目の前にいる我が子に対してできただろうか、そういうあり方をしえただろうかという問いかけですよね。そういう有用感を実感できている人は、たぶんいろんな意味に積極的に意欲的にチャレンジする意欲も出てくると思います。有用感を感じないで意欲的に、生き生きとなんてのはあり得ないと思います。逆に言うと生き生きと意欲的にということは、有用感がきちっと保障されているということです。だからそういう意味でも、ついこう私たちは、もちろんだれも否定したりということはないと思うんですが、例えば学校の中でも、極端な場合、Aちゃんが休むとですね、クラスのみんながほっとしているとか、先生までなんか表情が明るいとか、そういう実態が現実有りますから、あの子が休むとクラスが明るいとか、そういうようなあり方をしてしまっている子が本当に有用感を実感できる場が有るだろうか。としたならばせめて、家庭の中だけでも、一時そんな瞬間があったらいいなと、いうことをですね。子どもということに関しては、大急ぎでいくつか話させていただきました。ご静聴本当にありがとうございました。
 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