第1回講演会            1980年6月29日
於 神戸心身障害者福祉センター
第1回総会  記念講演
京都精華大学 野上 芳彦 先生








 
はじめに
ゼロからの出発
その後の移り変わり
自閉症児との出会い
わかってきたこと
心配していること
教育に下限はない
早期発見、早期治療ということ
親としての役割








 








 
 
はじめに
 ご紹介いただきました野上でございます。このように一つの親の会を結成して歩み出すには大きなエネルギーが必要です。その兵庫県の第1回の会合にお話ができる機会を持たせていただいて、大変幸せだと思っております。
 雨の日、足もとの悪い中で、みなさん方の集まりはどうだろうなあと、実は自分も主催者の一人になったようなつもりで、心配しながらやって参りました。けれども、こんなにたくさんの方が参加しておられて、私もほっとしたような感じでおります。
 本日、私にテーマがあらかじめ与えられておりませんでしたので、どんなお話をしたら喜んでいただけるだろうかと、迷いながらこちらにやって参りました。私も自閉症児の親の会で、いろんなところでいろんなお話をして参りましたけれども、実を言いますと、今日この会場のように静かな会場は初めてです。親御さんは、子どもさんを連れてでも親の会に参加したい、お話が聞きたいと思いながら、自分の子どもさんを預けるところがない。子どもを連れていると、ゆっくり聞く時間がない。大変だなあと思いながら、そういう中で日々こういう問題を消化して行っているという実状がございます。ところが本日は幸いにして、いろいろと考慮がなされているし、ボランティアの方たちのバックアップもあって、自閉症児親の会でこんなに落ち着いた形でお話しできるのは、本当に初めてと言っていいと思います。このようにいろいろな方々の支えの中で、親の会が発足をされると言うことを、心からお祝いを申し上げたいと思います。
 
ゼロからの出発
 日本が戦争に負けた昭和20年に、ちえおくれの子どもたちを受け止める特別学級は、日本にいくつあったと思われますか。実を言うとゼロなんですよ。
 日本に初めてちえおくれの子どものための最初の学級ができたのは、長野県の松本尋常高等小学校、これが明治24年です。ところが、戦争中は、教育にどんなに金をかけても、どんなに労力をかけても、使いものにならん子どもたちのためにやるのはもったいない。そんなものはやめてしまえといって、全廃処置になった。だから戦争に負けたときはゼロなんです。
 それをゼロから出発させたのは育成会の方たち、全国の親の力を結集して、親御さん自身が勉強しながら、行政の問題に取り組んで参られました。私はその当時、近江学園におりまして、園長先生は糸賀先生、副園長さんはいま「茗荷村見聞記」などで有名な田村先生、私は研究部におりました。その頃、会長さんや親御さん方が近江学園によく勉強にお見えになっておられました。
 それから5年もしないうちに、私たちはその方々と一緒にいろんな所で、このような講演会でお出会いする機会が与えられるようになりました。ところが、もう親御さん方が行政のこと、専門的な問題に毎日取り組んでおられるので、5年ほどの間に学問的な問題、行政の問題、法律の問題などあらゆる事を学んで変わられて参りました。
 
その後の移り変わり
 同時にその頃、親御さんの掲げられたスローガンが3つでしょう。「軽い者には自立、重い者には保護、そして、親なき後の保障」それから4つの願いになり、5つ、6つ、7つというふうに、今まで対応しきれなかった、忘れていた、見落としていたものを、社会との関わりの中で対応させながらの親の願いが、スローガンとしてまとめられていくようになりました。皆さん方の、ここに出ているスローガンは大変良くまとまった形に出てきておりますね。
 最初の頃、ちえおくれの子どもの「軽い者にはその自立を」、これはよくわかります。しかし、「重い者には保護」、これは重度の子どもはもう教育してもどうにもならない。とにかく施設で死ぬまで預かって欲しいという発想しか生まれなかった。人間として資格づけられている育ちや、発達保障という概念までには至っていなかった。
 しかし、その中で糸賀先生は「人間の育ちって何だろう、教育って何だろうということを重症の子どもたちから教えてもらったんだ。」と言われた。これは世界的にも、もちろん日本の国の中でも、福祉の思想を考える場合に非常に重要な概念になりました。発達保障となってですね。
 その糸賀先生も、それ以前は障害の重い者は施設のほうにおいて、死ぬまで面倒をみるよりしょうがないという対応でしたが、子どもたちから学ばれたわけです。また糸賀先生は、「療育」という概念を言われました。この子どもたちのケアーというのは、教育だけではダメで、教育の育と治療の療とが重なった療育という概念がないとダメだということです。
 特に取り扱いの難しい自閉症の子どもたち、その問題を考える場合には、心理学者のことばだけでは、学校の先生の言うことだけではどうもちぐはぐで、そこに医療がなければダメ。そして、医者も心理学者もいろいろな専門性を総合しながら療育というものを考えないといけないと言うことです。
 そして、糸賀先生は「この子らを世の光に」という有名な言葉をおっしゃった。この言葉の要点だけを申しますと、「この子らに世の光を」とこれまで言ってきた私たちの、障害者に対する取り組みというものを180度転換させる。私たちが住んでいるこの地域社会の中でですね、えらい人とかえらくない人とか、人間としての価値があるとか、価値が少ないとかいう、そういう受け止め方ではなく、同じ人間同志としての、関わりの中で、お互いが育ちあうような社会を作らないといけない。そこに、国際障害者年の一番大きな意味合いのあることも考えてみる必要があります。
 障害者の問題に対する権利や保障や、いろんな施設体系やそういったものが整え始められたのは、そう古いことではありません。考えてみますと、ちえおくれの子どもたちの法律そのものが今から9年ほど前の話ですし、障害者に対する法律のできあがったのは、今から5年くらい前ですね。それでゆきますと、国際障害者年には、自閉症の問題が地域の中で、同じ人間の関わりの中で、どのように受け止められるかということを 無視して障害者年の問題はないと思います。
 その辺の問題に焦点を置きながら、私たちがわりあい長い間に取り組んできた失敗、あるいはミステイクをやった経験、それを懺悔を込めてお話ししていくことにします。
 
自閉症児との出会い
 私たちがこれまで自閉症児の問題に対して、どういう取り組み方をしてきたかということについて思い出を話してみます。自閉症という言葉が初めて学問的にみんなに知られたのは、カナーという人が昭和18年に気がついて、いろんな少年の中にどうも取り扱いにくい、治療方法のわからない子どもたちのきめ細かい実例を、昭和19年の学会に発表したんです。そのとたん世界の注目を浴びることになって、「自閉症」という言葉が広がったんです。また、その同じ年に偶然、アスペルガーという人が「自閉症」の発表を学問的にやったんですね。この二人の立場というのが少し違うんですね。
 これらが伝わってきまして、日本で初めて学会に発表されたのは昭和27年ですね。それが専門家の間で取りざたされるようになったのは昭和30年からです。私たちが学生の頃心理学や社会福祉の勉強をしておりました。それから福祉の現場に行って、自閉症の子どもと接触する場を持ち始めるようになったわけですが、当時は自閉症に関する、いわゆる参考書というものがなかったんです。
 それが、今本屋さんに行くと、自閉症の本がたくさん出てくるようになりました。しかし、自閉症の問題というのは、定義や治療方法や対応の仕方というのは、はっきりしてきたんだろうかと言いますと、これは、いまだにはっきりしないんですね。なかなか難しい問題としてあるんです。
 私が最初に自閉症らしき子どもさんにであったのは昭和28年です。私たちは、日本で2番目に古いちえおくれの施設、京都の白川学園で、就学前のもっと小さい頃から、子どもたちに対する治療や教育をする必要があるということで、法律を作り施設を作ることに着手しました。同時に家から通いながら治療や教育を受けられるような形態の取り組みを始めました。そのときに、二人ばかりとっても扱いにくい子どもがおりました。一人は女の子で、他の一人は男の子なんです。
 私はそれまで、子どもの指導や教育にはある程度自信を持っていました。子どもたちは時間をかけていけば必ずのってくる。努力をしてのってこない子どもはないと思っていたんです。ところが、その二人の子どもだけは、一年かかってもなかなかのってこないのです。自分たちの組んだプログラム・カリキュラムにのせようという努力は最後までしました。しかし結果的には、やればやるほど調子外れがひどくなってうまくいかないんです。 私たちは近江学園の頃、チームを組んで、扱いにくい子どもたちに対して、どうしたらいいんだろうと研究討議をやっていたことがあるものですから、その会のところへ親御さんにその子どもさんを連れていっていただいて、何が原因でしょうかと診断していただいたことがあります。その頃京都大学にいらっしゃった黒丸先生も困られまして、もし診断名をつけるんだったら、「小児分裂症」ではないだろうかとおっしゃったことがあり、そして子どもたちの治療法なども教えてくださったこともあるんです。そんな頃から、私たちは「小児分裂症」だとか、「小児自閉症」だとか、「自閉症候群」という問題に対して、いろんな文献や資料をあさって勉強をし始めたんです。ところが当時は何一つないのです。外国から文献を取り寄せて要約する以外に、ほとんど資料というものがありません。それをみんなで勉強しあって積み上げるほか方法がなかったんです。
 
わかってきたこと
 そうして「自閉症」ということばを知ったんですが、心理学者というのは、どうしても頭から先に知識を吸収してしまうもんですから、実際とチグハグになる部分がございます。私たちが心理判定をいたしました子どもたちの中に、今考えてみますと、明らかに誤った判定をした子どもたちが幾人かいます。
 その一人は、知能検査をやりますと、テストにかからないんです。かからなくても知能指数は計算できますから、計算しますと40〜50くらいになる。それなのに、京都市内のバスの名前や路線は全部知っている。それから、子どもたちの行動観察では、危ない塀の上をピョンピョコ跳び回って、運動神経は非常に発達しているのに、心理テストで菱形だとか丸を書かしてみると書けないとか、どう判定していいのかさっぱり解らない子どもたちがいます。私たちは、自閉症というのを知らなかったものですから、精神薄弱児だろうという判定をいたしました。
 そのようにして10年くらいして、あれはひょっとして自閉症の子どもではなかったんだろうかなあと気になったもんですから、追跡調査をしたわけです。ところが、その中に高校に行ったり大学へ行ったりしているのがいるんです。他の人たちとの人間関係は下手ですし、やはり自立心が大変弱いんですが、しかし私たちはそのことを知って、判定というものは難しいと感じるわけです。
 自閉症の特徴の一つに、発達のずれがあるのですね。一面では非常に発達が早いのに、一方では遅れている。そのチグハグというものが非常に強すぎる子どもを、どう判断したらよいかというのはなかなか難しい問題ですね。情緒障害児や、ある種の精神躁鬱的な子どもたちの中には、性格的な問題から知能検査が低く出るものと、ちえおくれが原因で性格的な歪みがきているものとあります。だから特定の専門家の診断の場合でも、鵜呑みにできない部分があるんですね。
 私は、ここ10年来、京都市で適正就学指導委員会の委員をやっているもんですから、情緒障害や体の弱い子、ちえおくれの子、自閉症の子など、いろんな子どもが私たちのところを通っていきます。そして、どのように処置をし、処遇すれば、その子どもたちの教育権を保証できるかという判定の責任を持たされております。ところが、自閉症というのが多くなりましたね。うっかりしていてはいけないのは、幼稚園や小学校の先生たちが少しでも取り扱いに困ったり扱いにくさが出てくると、その専門家に相談しないで、すぐ自閉的傾向と書いてしまうんです。これも多くしてしまう一つの原因なんです。これだけではありませんが、もっと専門家の立場、親の立場、いろんな形の中で、これからは、つきとめていく必要があるように思います。
 昔私たちが福祉現場の施設に入った当時だったら、この子どもさんが自閉症であるといったことは、横に座っただけでは解らなかったですね。今は、食事をしながら10分ぐらいその子どもを横で見ておりますと、ああこの子は自閉症児だなと、お母さんたちの話し合いから、自閉症でずいぶん処遇に困ってらっしゃるなということが、よくわかるんですね。確かに、この専門的な知識・判別・処遇の面で、大変発達した部分と、まだ手の着いていない部分、これらが不均整の中でバラバラにあるわけです。
 
心配していること
 ただ、私たちが一番心配しているのは、行政の方やあるいは専門家の方で、自閉症の問題になると半分逃げ腰になるところが出てきました。うっかり関わり合うと、自分の知らなさ加減が暴露されてしまう。できるなら関与したくないという風潮です。
 そんななかで、障害者の問題の中でも、特に自閉症の問題というのは、みんなが積極的に取り組まねばならない、最も対応の遅れているこの部分というのがわかっていながら、どうしても後回しにされている。私たちが京都で福祉の協同モデルを作ったときもそうでした。高槻市の心身障害者対策の答申の場合でも、「自閉症児」親の会からの要求が出され、問題点を指摘されているのに、最後までそれが残される。
 そういう問題をいったいどうしたらいいんだろうと考えてみますと、ただ理屈の問題だけでなくて、これから先、親御さんたちが結束して取り組まないといけない。残されている問題というのが非常に多いということが解るんですね。
 特に学校の先生、特殊学級の先生たちは、そういう問題のベテランでないといけない。先生たちは自閉症の子どもたちの問題をほとんど知っていないといってもいいくらいです。自閉症児のことを本当に知って受け止めていこうという姿勢が、福祉というものが定着していない。まして、早い時期から自閉症の子どもたちを、集団の中で受けとめ、早く対応しないといけないのに、幼稚園や保育園の中からの取り組みが、具体的にプログラムの中で組まれていない。自閉症という名前を聞いただけで、もう保母さんや園長さんがちょっと待ってくれと言う対応が出てくる。
 こういう問題、いったいどうしたらいいだろうかと考えざるを得ないですね。後手後手になっているんです。けれども、少なくとも学校の先生、特殊学級の先生の中にも、徹底して、自閉症の問題に対する理解を深めるための研修、プログラムを組んで勉強して欲しいですね。
 しかし、私たち自身も、過去にそのような過ちを犯してきたんですね。かつて北九州市立の精神薄弱児通園施設の園長をしておりました頃、その頃はまだまだ対応が進んでいませんでした。学問的にも対応が進んでおりませんでしたからね。文部省も厚生省も。
 今だったら、こんな通達を出したら大変ですが、その当時は不文律で通っていた。IQ50より上は教育可能群、IQ50から下のグループは教育不可能群、IQが30より上は訓練可能なグループ、そしてIQ30未満の者は訓練不可能グループなどと言って、このグループは一生施設に入れて面倒をみてやる以外に方法がないと言われたものです。
 
教育に下限はない
 今は、みなさんよくご存じのように、教育には下限がないのです。どんな重度の子どもでも、精神年齢がゼロ歳に近い、あるいは6カ月に近い、ものも言えない、自分で食べられない、歩けない、そのような重度の子どもでも、教育は可能であるという考え方です。そのグループの中に、実は自閉症のグループが入っています。
 あの教育権保障の問題、日本ではわりあい早く気がついて、そのアピールをして私も、文部省に文句を言っていたグループの一人なんですけれども、それにも関わらず、私が施設の園長をしていた頃は、法律があって、施設を希望する方は「就学猶予・免除の手続きを教育委員会でしてくること」と、つまり教育を受けることをあきらめた人に限って入所させるというひどいものでした。
 今は、終戦の時ゼロだった特殊学級が、昭和49年頃で17000学級ぐらいになっています。また終戦直後には、子どもの施設だけしかなく、それも10くらいの施設で、しかも15人から20人くらいの小型施設だったのが、今は1000くらいになっています。そして教育権の問題が基本的に変わり、法律も変わってきた。福祉に対する取り組みも大変かわってきたにもかかわらず、自閉症の子どもの受け止め方、社会的な背景というのは、あまり変わっていないんですね。学校の先生も同じように、自閉症の子どもたちを、受け止めるのはいいですけど、受け止めたら大変でしょうという、こういう感じ方というのを、観念的に持ってしまっている部分があるんですね。
 国際障害者年に、私たちが気をつけないといけないのは、そういうパターンがそのままずれ込んでいって、一年が終わってしまったら困るんですね。下手をしますと、肢体不自由者年で終わってしまう可能性がある。その中に、ちえおくれの子ども、自閉症の子ども、情緒障害の子どもなどが含まれなかったり、もし含まれていてもですね、肢体不自由者は肢体不自由者、自閉症の子は自閉症の、障害を持たない人は障害を持たない人の、とバラバラの中でプログラムが組まれても、これは国際障害者年と言いますのは「完全参加・平等」ということを唱っているのですね。完全参加とは、人間の一人一人として、同じ人間同志として関われる、そういう社会を作り上げていきましょうということでしょう。社会の中から除外されたり排除されたり、それを許されるような社会は、どんなに施設や設備や制度や法律が整っていっても福祉社会とは言えません。
 しかし、口で言うのは簡単ですね。このことを私たちの住んでいる社会の中で、実現させるというのは、そう簡単なものではないですね。ハンディキャップを持っている人たちが、同じ人間同志として受け止められるような社会を作り上げていくためには、これが他人事のままで終わっては困るんです。
 そのためには、親御さんたちが、本気になって取り組まないと、せっかくの国際的な関わりの中で組まれている障害者年が終わって、結局一年、またプログラムだけのお祭りがあって、何もかわっていないということで終わってしまうわけです。
 
早期発見・早期治療ということ
 時間があまりありませんので、もう一つ加えておきたいと思いますのは、このプログラムのアピールにあった請願の中にも出ております早期発見・早期治療という問題です。昔、ちえおくれの子どもたちの育成会が発足した当時は、この言葉は入ってなかったのです。しかし、その後の取り組みの中で、早期発見・早期治療というのがアピールの中に加えられるようになり、世界でも非常によい制度だと言われたんです。そして3歳児検診というのが組まれてきたんですね。
 しかし、最初できた頃の3歳児検診は、お医者さんだけが関与して、赤ちゃんコンクールに出すような子どもさんばかり来て、本当に相談をしたい、早く治療して欲しいと思われるような赤ちゃんたちはほとんど来なかった。そしてもし仮に軽度の障害を持っている人たちが来ても、ほとんど振り落とされ、見落とされていました。
 それに対して、大きな改革が唱えられるようになり、3歳児検診は、お医者さんと心理判定委員とケースワーカーとが、3人チームになって、また、来られない人のところには家庭訪問してホローしながらですね、検診をやっていこうということが組まれるようになる。これによって初めて、早期発見・早期治療というのができはじめるわけです。
 そのうちに、3歳ではおそいんや、2歳に、1歳に、生まれたときにと言う声が出てきましたね。特に自閉症の場合は、親御さんが気づかれるのは何歳くらいだろうかということを調べますと、だいたい2歳から3歳が最も多いですね。それから3歳前後、それから2歳くらいの時が多いんです。本当は、それ以前はどうでしたかと聞いていきますと、大部分の人がおかしいと思っていたのに、気づかなかったと言われるんですね。もっと早く気づいていれば、もっと早く対応ができる。自閉症の子どもは、その中でも、特に早期発見・早期治療が重要であります。
 ところが、自閉症であるということを気づいたのは、いったい誰なのかということをずっと調べていきますとね、お母さんが気づくのは案外少ないんです。一番子どものことをよくわかっているつもりが、わかりすぎて気がつかないのか、たまたま訪ねてきたおばあさんとか、あるいはお母さんの妹さんとかお姉さんから「この子、何かちょっとおかしいところがある。いっぺん専門家にみてもらったら?」と言われて、初めて気づく場合が多いのです。
 いろんな説があるんですけれども、やっぱり赤ちゃんの時から一つの特徴として出てきているのに、視線が合わないというのが、以前からその徴候はあるんですね。それからもう一つは泣くことが非常に少ない、それから泣き出すと非常によく泣くカンの強い子ども、また、発見が遅れる理由の中におとなしすぎるような赤ん坊。あやしてもなかなか抱きついてこない、たとえばグニャーとなる子ども、あるいは逆に、棒・杭を抱いているような感じの子ども、こういういくつかの徴候というのが出てきますね。
 そうした場合、昔のようにたくさんの子どもを育てた経験のある頃と違って最近は、わりあいにお母さんたちの子どもを育てる数が少ないもんですから、見過ごす場合が多いわけですね。このように考えてきますと、皆さんがここに掲げておられる「早期発見・早期治療を進めるための専門医療の充実と早期教育の場」というものをですね、必要だとアピールと同時に、そういうフォローの仕方というものを具体的に展開されていきますと、もっと早く対応の仕方が見つかるのではないかと考えます。
 その治療の方法にしましても、学習によって違いますし、かなり効果の見られる部分もあるけれども、一方ではみなに承認されるようなあり方でないものもいろいろとあり、確定的ではないですね。治療方法が多いというのは、確定的な方法がないということですね。 しかしながら、私が今、皆さん方に、自閉症児に対する診断や、治療あるいは取り組み方、教育のありかたについて専門的なお話をここでしないでも、神戸市の中では、それにかわるような専門的なお話のできる方が、たくさん増えて参りました。ある人はテンポが遅いと言い、長い目の見方では、30年の間にずいぶん変わってきた、少しでも対応できる部分、入り込める部分が出てきたではないか、という共感の仕方もあると思います。いずれにしても、具体的に少しずつ対応というのはなされてきているのは事実であります。
 
親としての役割
 それに対して親御さんの役割というのは、ちえおくれの子どもを守る親御さんの会が、当時は「全国精神薄弱児親の会」という言い方をしていましたけれども、精神薄弱児というと、子どもしかないでしょう、大人は入らないんですよ。そこで名前を変えて「全日本精神薄弱者育成会」というのにしました。そういうことのなかでですね、「ダウン症候群親の会」が、その中から独立して、具体的な歩みを始めるようになりました。
 親の会ができるということは、ただ、みなが寄り集まって組織を作ったという以上に、非常に大きな意味で、その役割を分担しうるわけです。また分担していくことが、社会に対して持っている役割を果たすということにもなるわけです。そういう中で、本日第1回のこの親の会の結成というものが、今後皆さん方の歩みに、具体的なプログラムを提起するきっかけになりましたら、私が京都から出かけて参りまして、小一時間失敗談を披露した意味も出てくるのではないかと思っております。
 ぜひそのためには、物理的に集まって座るということでなく、皆さん方、親御さん自身も、子どもたちの自閉症の問題あるいは取り組みの問題について、積極的に学びあう形を取られるといいと思いますし、同時に子どもたちにどう関わっていくかという現実の中に、この関わりを生かされることもいいと思います。そして、親の会としての機能を発揮していかれるといいんではないかと思います。
 今後、ますます発展されることをお祈りいたします。
 
 注 精神薄弱については、その当時のことを考えそのまま使用しました。
 
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