第19回講演会の講演録  
                 1998年6月14日(日)
                 於 西脇市総合福祉センター
    共に育つー教育現場の実践からー
                 奈良教育大学大学院生 森下 勇
 
はじめに                            
H君の思いで
Iさんのこと
Y君のこと
チボリ公園への旅
三つの視点
再びY君のこと
親から学ぶ
最後に
 
はじめに
 
 「共に育つ」のテーマから”に”と”つ”をとって共育と読めるわけですが、共育(共に育つ)という言葉は、主体としての子どもと教師が対等の関係で学びあうことですが、ともかく一方的に押しつけて”やりなさい”と学習させるのでなく、共に学んで育っていく意味で共育という言葉が使われています。私は74年に教師になって見る人から見ると古い教師なのかもしれませんが、日常子どもが教えられて育つ、教師が教えて育てられると言う意味でやはり従来から言われている教育(教え育つ)という言葉の方が自分にはふさわしいと思っています。何故このように言ったのか、これからお話しする中で少し分かって頂いたらと思っています。
 「共に育つ」という場合の「共に」という場合の言葉の中には想定される二者関係があります。二者とは、障害児教育に関して言えば、障害を持つ子どもともう一人の障害を持つ子ども、また障害を持たない子どもの関係、子どもと教師の関係、子どもと親との関係、教師同士の関係、親同士の関係など、実にたくさんの関わりの中で「共に育つ」という可能性があります。言葉をかえて言えば、いろいろな関係の中で発達する可能性・条件はいっぱいあるわけですが、その可能性をどれだけ現実的なものにできるかを考えてみたいと思います。そういうことを頭の隅に置いて話を進めていきたいと思います。
 私は先程紹介でありましたが23年間、京都の養護学校で教師をしてきました。1974年開校するときに大学を出て入ったわけですが、最初の二年間は小学部でクラス担任をしていました。三年目から養護学校の指導要領といわれるもののなかに養護・訓練という領域があり、その当時はまだ学校現場では自閉症の子ども達を情緒的な問題をもつ子ども達であるとし、養護・訓練の名称も情緒という名で呼んでおりましたが、その専任教員になって19年間、教師生活の大半は自閉症の子ども達と一緒にやってきたわけです。今日お話しする内容も私が教師をしていた頃に考えていたこと、あるいはしてきたこと、お父さんお母さんとの話が中心になると思います。
 
H君の思いで
 
 私が勤めていた養護学校の話ですが、小中高あわせて百五十名くらいの学校ですが、この中学部の二年生のH君(男の子)が昨年一年間、学校へ行くからとスクールバスのバス停まで連れていこうとするわけですが、学校へ持っていっている鞄を隠し、布団の中に潜り込んで、「起きて」と声を掛けても起きない、いわゆる登校拒否のような状態が一年間あったのです。ところが今年四月以降二年生になってほとんど休まなくなりました。お母さんが少し熱があるので休ませようとしても本人は行くと言ってきかない。スクールバスには間に合わなかったが、どうしてもきかないからと言って、学校までお母さんが連れてこられる。去年まで担任していた教師や先生方は昨年一年間は、「おいで」といってもちっとも来ない。「いやや」と言って登校拒否の状態のような子が、なぜ、今年の四月になってから来るようになったのか非常に驚いている状態だったのです。昨年は学校へ行きたくない、行かないということで、担任の先生も随分心配して、その学校は神経科の校医が週一回、医療相談という形で定期的にまた時々、いろんな問題を持っている子どもの担任とかお父さんお母さんが相談ということで、学校へお医者さんが来られて相談する時間があるんですが、その校医さんに相談したり、あるいは京都市内の医療機関に、たぶん担任の方が相談に行ったほうがいいですよと受診を勧めて、そこでお母さん自身がカウンセリングを受けられるように、いろいろやってみたわけです。ところがあまり改善しなかったわけです。ところが四月以降、特別なことを何もしているわけではないのですが、ほとんど毎日学校へ来て学校で過ごしているとすれば、前の担任は何でやろう、理由が分からない。今担任をしている人・私と一緒に療育指導していた人などから話を聞くと、昨年の担任の先生も自閉症について評判の良い非常に熱心な先生で、自閉の子どもはこうしなければいけないという自分なりのポリシーを持ってやられていたわけです。学校へ来るとそばにくっついて、絵カードを使いながら、次は音楽だから音楽室へ行くよとか、昼休みもできるだけ一人にさせないようにと一緒にあれしよう、これしようとされていたわけです。それだから登校拒否になったかどうか担任の先生はわからないと言っておられるのですが、いくつかのことが考えられると思います。一つは子どもにどういうふうに関わるか。あるいは指導していくかという問題です。自閉症の子どもはコミュニケーション障害で、言われていることがなかなか理解できないので、常に次に何をしたらよいのか彼らに分かる方法で教えてやることが大切だと言われています。また人との関係を持つことが難しい子達だから、できるだけ人と一緒に遊ぶ楽しさを教えてやる必要があるという思いで、その先生も常にそばについて指導されてきたと思うのです。でもH君の立場からすれば、それがやっぱりかなんかったということもあるのではないかと思います。誰でもあれしよう、これしようと、ときにはすべきと誘いかけられたら、やっぱり、うるさい、うっとうしいと思います。まして自閉の子どもが思い始めたらよけいにその気持ちは強くなる。彼は学校へ行きたくないと言葉で表現できないので、行動で表現したのだと思うわけです。関わりの中で子どもの問題を捉えることをしていかないと、問題の本質はわからないのではないか。家庭に問題があるとか、思春期に入りかけているので何か出てきたのだろうか、教師にわからないから医療相談にかかってとか、お母さんがカウンセリングまで受けるとか、ついいろんな形で頼ってしまうということになってしまうわけです。
 
Iさんのこと
 
 もうひとり紹介します。六〜七年前に高等部を卒業して、今は通所授産施設に通っているIさん(自閉のとても可愛らしい女の子です)小学部一年に入った頃、すごい多動でした。お母さんが高等部一年の懇談会で言われたことがとても印象に残っているのです。「最近また、ときどき怒って私に手を出してくるようになりました。」と、「また」というのは小さい頃私も何回も殴られましたが、なぜか理由がわからなかったのです。お父さんとの関係が小さい頃からあまり良くなくて、どこへ行っても男の人は徹底して駄目で、本当に彼女が警戒することなく関わりを持てるようになるまで六年かかりました。小さい頃、怒って叩いたり、蹴ったりしたことがあったのですが、高等部一年生の頃になったらまた出てきたという話を聞いて、私がまず思ったのは、一般にいわれる思春期パニックが頭に浮かんだ訳です。彼女もそういうときが来たのかと一瞬思ったのですが、その後、お母さんが続けてこう言われたのです。
 初めは何故、怒っているのかわからなかったのですが、よくよく考えてみると、どれもお母さんが言葉をかけた後に怒ることが多い。つまり、どんなときに彼女は良く怒るようになったかと、いろんな日常生活で見ていかれたんです。私がどんな言葉をお母さんがかけられたときなんですかと問うと、たとえば「顔洗いや」とか「お風呂はいりや」と、いうことです。お母さん自身も気づいておられたんですが、その言葉をどうも「さあ顔を洗おう」と思って座った状態から立ちかけたとき、あるいはお風呂に行きかけたときです。小さいときからずっと育てておられるお母さんにはわかるんです。タイミングというかそろそろ顔洗わないかん時間やなあ、お風呂にはいらないかん時間やなあと相手の方もわかるんです。そのタイミングが合うわけです。言葉をかけなくても良いわけです。ところがお母さんは今までの習慣というか、十何年間作り上げてきた生活の中でつい言われてしまうわけです。お母さんはそれに気がついて「私が先回りしすぎやった」と。多分、その時のIちゃんの気持ちを言葉で表現すると、今しようと思っているのに腹立つ、最近の流行語で言うならば「むかつく」それに気がついてお母さんが、それからついつい声かけたくなるのを一瞬我慢して待つようにしました。そうすると少なくともその点に関して訳の分からなかった「怒り」とか「パニック」・「手を出す」と言うことはなくなった。障害を持たない子ども、つまり健常児という子どもたちの場合でもときどき、何かしようとしているときに「勉強しいや」と言われると「腹立つ」・「もうしてやらへん」と言いますが、特に思春期とか青年期はそんな時期です。この時期、自閉の子どもの場合でも知的レベルの高い、知的な力を持っている子どもは自分の障害に気がつき始めます。自分の周りを比較し始めます。比較する中で悩み始めます。要するに思春期・青年期というのは自分にプライド・誇りを持っていて、自分からせっかくしようとしているのに、先回りしてお母さんから言われるのは傷つけられたような気持ちになってしまって起こる。そういうことがあるのではないか。高等部の15〜16歳くらいで発達的には2〜3歳の力くらいの子どもの状態であっても、その一方で15〜16年生活してきた年数の活動の流れ・思いが、いわゆる年齢に応じた生活とか感情を持っているわけです。だからいろんな問題が起きてきたら、一つはこの人は15〜16歳の人間なんだという理解の仕方も必要なのではないかと思います。
 
Y君のこと
 
 私がしていた療育指導は自閉の子どもたちだけ、例えばいろんなクラスから3〜4人別の教室で学習指導するわけです。ある時、授業参観があって、終わってからお母さん達と懇談しました。その時、中学三年だったと思うのですが、「Yちゃん今日ものすごく頑張っていたね」とお母さんに何気なく言うと、少し遠慮がちに、「先生、Yも中学部ですし、いつまでもYちゃんYちゃんというのは少し・・・」と言われました。やっぱり私は「はっ」としました。生活年齢が大事だと思いながら、実は小さいときと同じ様な言い方で彼を見ていた。その問題点をお母さんにやんわりと指摘されたような気がしました。これはお母さん達もやはり同じですね。歩き回るようになってから片時も目が離せずにいつもそばについて育ててこられて、そういう意味では、間のない関係というか関わりの中で長い年月一緒に過ごしてきておられるわけです。だから子どもが例えば自分の背丈より大きくなったり、髭がぼつぼつ生えてきたり、声変わりしたり第二次性徴の特徴が出ているのに小さい子どもの様なつもりで接してしまうということが割とあります。赤ちゃんから幼児、小学生、中学生、高校生、青年、そのときどきの生活年齢に応じたふさわしい生活であるとか感情であるとか思いを持っていかなければならない。周りもそのときどきの対応とか関わり方とかをしていく必要があるんじゃないか。その意味で「ちゃん」という呼び方から「くん」・「さん」とか呼び方を変えていくというのは生活年齢に応じた呼び方、関わり方を示していく、作り出していく、新しいそういう関係を作り出していく、そんな思いが込められているのではないかと思うわけです。
 
チボリ公園への旅
 
 話しが変わりますが、今年の四月一日、二日と旅行に行く機会がありました。みんな自閉症ですが25〜26歳七人(女一人男六人)と、その家族、お父さんは二人しか来られていませんでしたが、お母さん達と一緒に倉敷のチボリ公園へ行きました。夜は瀬戸大橋の近くのホテルに泊まり、20人くらいで食事をするわけですが、飲める子どもはビールを飲みカラオケもし、二時間位過ごしたそういうようすを見て思ったことは、小さい頃は本当に多動でお母さんは絶えず手首を持っていないといけない、手だと離れやすい、手首だと手のところでとまりますから意外と大丈夫なのです。私が教師になったときに一番最初に言われたことは「手首を持つな」でした。ついついやりたくなるのです。子どもがウロウロしていてどこへ行くか。危ない場合は手首を持っていると教師は一番安心なのです。だけども「絶対するな。子どもが見えなくなる」と言われました。手首を持っても子どもが見えるんではないかと思いながらも、偉い先生が言われるのでと、そうしていました。手を繋ぐと非常に不安です。巧みにすり抜けて、手を離してどこかへ行きますから。でも、最終的には向こうが手をつないでくれるようになる。そういう関係はこうして作っていくのかという意味で手首を持つなと言われた。もう一つは彼がどこかへ行きたい、例えば学校の中でブランコがしたい。あるいは面白そうなものがあるというふうに思っても手首を持っていると、それが見えない。わからなくなる。止めてしまう。だから手首は持つなと言われたのを思い出します。話を元に戻しますが、本当に片時もじっとしていられなくて、周りで非常に大きな音が、あるいは自分の気に入らない音がするとパニックを起こすという子供達だったわけですけど、二時間くらいそういうところに座って、「次誰が歌う」というと「ハイ」と言って自分が出ていってカラオケをやるというふうな様子を見ていると、やっぱりそんなふうにして大人として成長していくんだなあと改めて実感したわけです。もちろん知的なレベルはそんなに高くなっていってるわけではないけれど、少なくとも社会的な場面で自分なりの楽しみかたができる。自分なりの見方ができる。そこにいることができる。そういう力が大事なんだなあと思いました。お父さんが二人しか行かれないので、ボランティアみたいなことで私も行ったのですが、一番何がたいへんかというと毎年のことですが、お風呂です。お母さんは一緒に入れませんから・・・。お母さんが中学部くらいの男の子を連れてプールに行くと着替えるのにとても困る。一人で行っておいでと着替えさせたら、どこに何を脱いだかわからない。そういうことがいっぱい出てくる。だから何年か前ですがある自治体では、市営のプールに障害者用の更衣室が整備されたようですが、旅行で一番困るのはお風呂です。添乗員は毎年同じ方が来てくれるわけですが、だいたい様子がわかっておられるのでその方も自分は風呂はボランティアで行くんだと、四人で六人の男の子と風呂に入ったのですが、結構大変です。どこで脱いだか、どんな服を着ていたかで始まるわけです。中に入ったら入ったで、プールをやっていると潜って飛び跳ねる人や、何回も繰り返してする子がときどきおられますが、それを大浴場でやるわけです。青年によってはもちろん、周りにいろんな人が居るので気を遣ったりもするのですが、風呂に入れて洗って着替えて出るまでが一苦労、終わったらホッとします。夜入ったときは本当に自分一人でお風呂に入っているような感じで、泳ぐまねをしたりジャンプしたりで周りの人に顰蹙を買っていた子が、次の日の朝、私もちょっと朝風呂に入ろうとはいっていたわけですが、ふと見ると一人見慣れた子が居るわけです。その子は視線回避で、彼なりにそこに行き着いたと思うのですが、絶えずサングラスをかけて、夜お風呂に入ったときも掛けていました。本当に色の濃いサングラスで目がどこにあるかわかりませんから向こうは見たくないと見なくて済む。それと同時に耳押さえを十何年やっていますから、かなり赤くなって変形しています。夜入ったときはその二つをしていたわけですが、朝ふっと見ると彼が居るということが気づかなかった。サングラスを外している。非常に静かなのです。本当に朝風呂を楽しんでいる。私もここにいるということを悟らせてはいかんと思って遠慮がちに隅に背中を向けていました。ひとりでおとなしく入っておとなしくつかって、ニコニコしてあがっていって非常に不思議だなあ、そんな楽しみ方ができるんだと改めて思いました。旅行で思ったのは実に自動販売機で飲み物をよく買って飲みます。必ず自分のお金を持っているから自由に買えるわけですが、女の子ひとりを除いてサービスエリアに降りると必ず手に持ってバスに乗り込んでくる。あれだけ飲んだらお腹がダブダブにならないかと思うんですけれど、喉が渇くのでしょうか。七人の中で今もしんどいなあと思う青年の話ですが、二日間殆ど何も食べずに過ごした人がいるんです。小さいときから偏食だったんですが、ご飯は勿論そのままでは食べられない。ふりかけをかければ食べる。お父さんがお母さんを叱っておられるのです。「何故ふりかけ持ってこなかったか。あそこに出していたやろ」と。それはわかっていたけど今回は忘れた。小さいときだったらお母さんは文句なしにふりかけを持ってこられた。と言うことは裏返して言うと、二日間食べなくても死ぬことはない。要するにお母さんがあれこれ先回りして気遣うけど、お母さんも疲れたのか、やめにしようと思われたのかわかりませんが、その人は二日間何も食べていない。飲むことは飲みましたけれど、その青年は結構きついパニックがまだあるんですけれど、ハラハラしながら見ていたんだけれど、意外とそんなこともなく過ぎていきました。
 
三つの視点
 
 私は障害児教育をやっていく中で、障害を持つ子ども達を三つの視点・観点から捉えていくという事を大事にしてきました。第一は障害という問題、今の科学で明らかになっている障害の状態というのは正確に捉えていこうと。自閉症というのは感情認知の障害とか、心の理論の障害である。つまり他の人がどんなふうに思っているかを推測する。推測して理解する力の障害だと言われていますが、まだまだ明らかになっていない。明らかにされている障害の実態をできるだけ理解して捉えることです。第二はやはり発達の問題です。持っている障害からどんな発達の制約、困難を受けているか。発達というと何歳くらいの力だとすぐ言うわけですが、基本的には自閉症の子どもも私達と同じ筋道をたどって発達していくという考え方を、私自身は持ってみようとしてきました。そうじゃないと今どんな発達段階にいるかということは全然意味がなくなるわけです。勿論自閉の子どもの発達の経過を見ていると、とてもこれは普通の発達とはいえない特徴も一方ではあります。一歳二歳のレベルの課題ができない。一方で九歳くらいの課題がポンとできる。それは通常の経過からすると理解できない問題があるわけです。かつてはそのところを捉えて、自閉症の子ども達の知的能力は普通に近いほぼ障害を受けていないと言われた時期もあったわけですが、実はそうでなかったというわけです。非常に独特なプロフィールをある局面、ある時期持つことがあります。ひとりの子どもを12年間検査、診断していくと、本当に着実にそういう筋道を通って行くんだということがわかります。ある時、急激に伸びる時期もありますし、2〜3年プロフィールが変わらない時期もあります。第三は生活の問題です。生活実態と言いますが、その子どもさんがどんな生活をしてきたか。年齢的に大きくなってくる中で付けてくる力とか抱える問題とか生活との関係で理解していく捉え方が大事だと思います。障害、発達、生活の三つの視点から常に見ていくことが大切です。例えば登校拒否になった子どもの場合でも、あの子は自閉症だからという障害だけの観点から見るとやはりおかしいし、三歳くらいの発達段階だからと問題の原因・理解の仕方をしてしまうとおかしいです。結構現場の教師で多いのは家庭のせいにしてしまいます。子どもが学校でいろんな問題を持っていると、お母さんが甘やかすからだとか、こんなふうだからとどれかひとつにわりと原因を求めたがる傾向があります。三つの視点から、問題が非常に困難になればなるほど、常に見ていく必要があるのではないかと思います。そんなふうにして子ども達を丸ごと捉える教育をしていこうという努力したわけです。そのためには子どものいろんな問題について、共通理解をお父さんお母さんと作っていくという事も必要になってくると思います。お父さんお母さんの関係で教育においていろんな事がわかりあえる関係が、教育を進める基本的条件の一つだと思います。自閉症の子ども達の難しい指導であっても、子どもをどうしたという責任はありますが、取り組んでいく条件はかなりできた。いろんな話ができる教師になっていけばと思ってきました。
 
再びY君のこと
 
 私も若い頃、結構言いたいことを言ってきました。先ほど話したY君は中学部一年生から養護学校に来たんですが、それまでは小学校の障害児学級に通学していたんですが、障害児学級の先生が一度教育相談を受けたいということで、当時地域の障害児学級の先生達の教育相談、お母さんの教育相談を受けるということでやっていましたから、話が持ち込まれてきました。よくよく聞いてみると、お母さんにひとこと言ってほしい、婉曲的にでなく、「ビシッと言ってほしい」と言われたのです。私も若かったので、「よし」と引き受けたのです。彼は当時、ある意味で有名だったんです。いろんな家に入り込んだり、学校から抜け出していろんな事をしたり、学校の中でも牛乳瓶を投げつけたり、池に入って金魚を捕まえたり、窓ガラスを破ったり、そんなことが耳に入っていたんです。担任の先生はお母さんの指導方針・療育方針・しつけの方針が納得できない。あのお母さんにどう言ってよいかわからない。だから「先生代わりに言ってほしい」と。今だったら、「自分でやりなさい」と突っ返しますが、お母さんがつい最近言われたのですが、「あの頃一番腹が立った。腹の中では何を言ってるのだ。給料貰っているんだろうと思ったけど言いませんでした。私は自分の子どもだから育てざるを得ないし、先生達みたいに大学で勉強してきたわけでもないし、自閉症について勉強してきたわけでもないけれど、何とかしなければいけないと意識している。それに比べて先生は少なくとも大学を卒業し、資格を取って試験に合格し、就職しそれで飯を食っている。それだのにその苦労が何もわからない。もう先生に何も言う気がしません」と。ある意味で非常に厳しいお母さんですが、「その当時は思いました」と言われました。話を元に戻しますが、Y君を連れてお母さんが来られて話をしました。当時は校長室が自由に使えて、Y君はもう見知らぬ所に来ていますからソファの上でピョンピョン飛び跳ねますし、あちこち珍しくて開けまわるので、私もちょっとハラハラしながら見ていたんですが、いろいろ話したんですが、最終的にお母さんにこういうことを言いました。「このまま3〜4年生の状態のままでいったらたぶん中学部・高等部くらいからたいへんになりますよ。それからでは遅いです。今の内にお母さん自身の考え方をもうちょっと違う方向に持って行かれた方がいいんじゃないんですか。」と。その当時は、お母さんは学校ではあてにならない。障害児学級では勉強教えてもらえないから私がやると、家ですごく頑張ってやっておられたんです。彼はお母さんの言うことはものすごく聞いたんです。私達が見ているとお母さんは偉大だと思いました。逆にそれが非常に私は不安に感じたんです。体格が逆転した場合、そのままの状態でY君の方が身体が大きくなった場合、やっぱりたいへんなことになるんじゃないかなあと思っていたんです。お母さんは当然のごとく怒られました。「私は私の考え方でやってきました。会って1〜2時間の先生がわかるのですか。私は先生にそんなこと言われる筋合いはありません。」と、そう言って帰られました。私はショックを受け、話をしていく自信がなくなりました。でも頭の隅っこではずっと、そのことはいろんな意味でそういうやり方をしたのは、私がいけなかったなあと。あのままではあの親子はとってもたいへんで、何とかしなくてはいけないなあという二つの思いをずっと抱えながらいったんです。地域の中学校の障害児学級に入れないということで、中学部から私の学校に来ました。お母さんとその時再会しました。お互いに思いはいろいろありましたが、「どうぞよろしくお願いします。今日から頑張りましょう。」と。それからずっと十何年、今日に至るまで付き合いが続いているのですが、お母さんがそれもずいぶん後になって、その時の話を振り返って、「やっぱり、あの当時は大変だったんです。中学部・高等部は。」高等部の卒業式、今でも覚えています。三月十日小雪が舞っていました。もうひとりの担任の先生と二人で卒業式の最初から最後まで、もう本当にハラハラしました。体育館の横の出口があるのですが、卒業生が前にずっと座っているんですが、なんべん連れ出したかわかりません。連れ出したといっても暴れたから連れ出したのでなく、もう限界だとわかる、身長180センチでも彼は蚤の心臓非常にデリケート、ちょっとしたことで本当にイライラする。それが貧乏揺すりになったり、自分の腕をカッと噛む。私達をつねるという、それでも伝え方はまだましになった方です。「先生、私はもう駄目です」という伝え方、そういうふうになる直前に見かねて二人でそっと連れ出すんです。中庭で今体育館ではどんな事をしているかを見ながら、そろそろ入れてもいいかなということで入れてみる。卒業式が終わるまでそんなことをしたわけですが、めでたく卒業していったわけです。お母さんが言われたのは「私は後悔していません。確かにこんなふうにしたら、あるいはYの気持ちを受け入れ受けとめて、もっとゆっくりした方がよかったんじゃないかと思ったり、先生に言われて喧嘩別れしたけれど、あの当時はこんなふうにするしかなかった。誰も頼るところがなかった。お医者さんに聞いてもわからない。じゃ自分で考えてやるしかないと。自分がこんなふうにしたいからと、とにかくそれがいいとも悪いとも別の問題だ。だけどあの時、先生にあんなふうに言われたのは自分にこたえました。」と言われました。何が言いたいかというと、要するにお互いやっぱり思っていることを言える関係を作っていくこと、そんな関係があれば、子どもはもっともっと伸びてゆけると思います。お互いに、お母さんはとか、あの先生はという仲間内だけで言い合っているのでなく、やっぱりお互いの立場を理解し合いながら、言いたいこと思うことを言い合える関係を作っていくことが大事なんだと思います。それができれば、自閉の子どもの教育の80%くらいたぶんうまくいくのではないかと私は思います。それで、子ども自身の問題が即解決されるわけではありませんけれど、その時、関係をどういうふうに作っていくかということで一番大切なのは、共感(共に感じる)共感的理解と言葉で言うとかんたんですが、共感的理解ができるかどうかが大切じゃないかと思います。私が教師をしていたときは、一応小学部一年生6歳で、子ども達もお母さんにも出会うわけです。その時に一番に思うことは、子どもの状態より何より「大変だなあ、よく頑張ってここまで頑張ってこられた」という気持ちです。教師として、どうのこうのという問題ではないような気がします。
 
親から学ぶ
 
 誰かが言っていますが、親、別に障害児の親に限らず、親というのは初めから親なんじゃないんです。例えば生まれた瞬間に即親になる。もちろんお母さんの場合、本能的にそういうことだと思いますけれど、それでもやっぱりすぐ親になるわけじゃないですね。私たちでもそうですが、少しずつ親になっていくわけです。子どもが大きくなっていろんな問題を抱えたり、いろんなことをするようになってそれと共に、私たちも親になっていくわけです。障害を持つ子の親は、まず自分の子が障害を持っているということがわかった時点で、強いショックを受けて、そこから始まっているわけです。今まで私が関わった自閉症の子ども達のお父さんお母さんに話を聞きますと、その中でかなりよく出てくるのは、子どもを道連れに死ぬことを考えたという方達がたくさんあった。考えただけでなく実際そうしようとした。宇治川という大きな川が流れています。上の子は中学一年で自閉症、下の子は小学生で知的障害で、お兄ちゃんの手を引いて弟をおんぶして川に入ろうとしたこともある。もう一人は、ガスの栓をひねったこともあるという。ガスの栓をひねったときに、お兄ちゃんがたまたま帰ってきて、ものすごくお母さんを叱った。それでハッとしたという話もありました。淡々とお母さんは笑いながら、「何度もしてきましたよ」と言われます。そんなところから子どもと一緒に生き抜いてこられたことに対し、共感というかそれができるかどうか、障害のことはよく知らないといけないと言いましたけれど、基本的にまず私はそこが大事なんじゃないかと思っています。そこから先は尊敬を含めて「本当に頑張ってこられたんだなあ」という気持ちで、ともかく一緒に頑張っていこうという思いで、そこから出発するんじゃないかというふうに思っています。お父さんで頑張っておられる方もあるんですが、懇談・参観でお母さんとのやり取りが多くなって、ついお母さんが先に出てしまう。お父さんの存在を無視しているのじゃありません。誤解のないようにしていただきたいと思います。
 自閉症の子どもを持つお母さんから教えられたことがいっぱいあります。開校したばかりの当時小学部一年生で自閉症の子が三人学齢になって入ってきました。非常に多動の子どもがひとりいました。この人は今は、入所更生施設で毎日ブロック塀のブロックを作ることを仕事にして、相変わらず自閉症のいろんなこだわりがあって、同じ部屋の人たちと悶着を起こしたりいろいろしているみたいですけれど、頑張ってやっています。この人のお姉ちゃんも自閉で、お姉ちゃんはもう40歳近いですが作業所で働いています。当時昭和40年過ぎですが、学校の入学の条件にお母さんの付き添いがありました。お母さんはお姉ちゃんを小学校に連れていって、弟はちょうど動く時期ですから背中に常におんぶしていた。「この子がこんなふうになったのはあれが原因だ」とお母さんは言われましたが、まあ影響はしているけど基本的には違うと言ったことがあるんです。けれどそのお母さんがあるとき連絡ノートにこんなことを書いておられました。「毎朝新しいジーパン薄っぺらいのではなく、新しいジーパンをはかせて行ってるのに、帰ってきたら膝とお尻にもう穴があいている。一体これは何でしょう。」私たちにしてみたら腕白にたくましく育って、彼にとっては学校中が教室なのです。いたるところにおもしろいものがある。斜面をすべりおりる。溝に入って、ドロをかきだす。そんなことが楽しくてしかたない。窓からとびだす。そんな状態で、新しいズボンも一日で破れたり、穴があいたりするわけです。「このままの状態がずっと続くのか」とずいぶん悩みました。でも、一年くらいでやっぱりそんなふうに思うのは間違いですね。三年ぐらいたつと、おちついて、人との関係もできて、名前を呼ぶとふりかえったり、戻ってきたり、一緒にいろんなことができるようになり、ずいぶん変わりました。最低でも三年ですね。私たちがよく学校の中で言ったのは三年・六年・十二年この単位で見ていこう。小学部一年生ではいった子が12年間を通してみていくとどんなふうに生き、高等部三年生で卒業するときにはどんなように変わっていくか、いろんなケースが経験できるわけです。三年とか六年経ったら変わってきている。いろんな力を付けてきている。もちろん難しさも付け加わっているときもあると思うんですけれど、発達してきているということが確認できるのではないかと思います。やっぱり長い単位で見ていく必要と先程のY君のお母さんがポリシーを持った育て方をされたと言いましたが、そのお母さんが間違っていてもこんなふうになって欲しい、育てたいという思いを持っておられたのです。教育というのは障害児教育に限らず、こんなふうな人間に育って欲しいという姿を思い描きながらやるわけです。例えば自閉症の子どもで毎日毎日困っている場合は、将来のことを言われてもとてもじゃないけど思い浮かばない。今大変なのに誰が考えられるか。そういうふうになりたいけれど、今そのためにやっていることをどうするかということを考えていくことが大事、位置づけることが大事です。先程言った兄弟が自閉症で、上がお姉ちゃんというお母さんが言われましたが、ある時私が授業でやっていてなかなかうまくいかないものですから、こうやっていてもこの子に力になるかどうかわからないと、ポロッとそのお母さんに言ったんですね。そうすると慰めの言葉だと思うんですけれど、「今すぐ役に立つことだけを先生考えないで下さい。五年先十年先、或いは大きくなったときに、こういう力になっているんだとわかったら、私は納得します。嬉しいです。」と。私はそれ以後、そういう発想で将来的に、皆さん各々に自分の子どもさん、或いは自分が担任しておられる子どもさんのいろんな姿から具体的に考えていくことが必要、こんなふうに育って欲しいという願いを持つことがとても大事だと思うのです。それがあればその時々いろんなことがあっても立ち戻って考えられる、そういう力を私たちは持っているんだということになります。
 
最後に
 
 障害児者を取りまく状況も障害児教育を取りまく状況も、ここ十数年の間に大きく変わってきています。条件的にも十年前に比べて、随分進んできている時期に入ってきていると思うわけです、ところが障害児教育においても、例えば自閉症の子ども達の発達の可能性が本当に実現している。或いはこんなふうにすれば実現できるんだという見通しを残念ながら教育の現場は十分持ち得ていないと思うんです。どうかすると最近も昨年あたりも滋賀とか大阪とかで、子ども達の権利が踏みにじられる動きがおきています。科学的にやっぱり障害とか発達とかをとらえる目と、それを教育で発達の可能性を十二分に保障していく、或いは保障していける力量を付けること、それから何よりも同じ人間として一緒に頑張っていこうということを大事にできたらなあと思っています。
 私は今でも思い出す光景があるのですが、先程話をしていたY君・Iちゃんという子どもさんです。びわ湖にキャンプに行った時のことです。夕飯がすんでお母さん方は一生懸命後片づけしているわけですけど、だいぶん薄暗くなったときですけど、砂浜のほとりに二つシルエットがあるんです。ぽつんと距離は約3メートル、ところがもうずっと座ったまま夕陽が落ちかけのところなんですが、そっちの方をずっと見てるんです。彼らが何を考えていたか分かりませんが、少なくともあんなふうに何にもしないでぼんやりできる時間を彼らは持てる。彼らだけでなく人間にとって大事だと思うんですけれど、そういう力を付けてきていると私は非常に感動を覚えたというか、すごいなあと思ったんです。それは障害を持つ持たないを越えて、同じ人間として共感できる、わかりあえる部分ではないかなあと思っているわけです。そういうことを大事にしたいと思います。私は今学生の身ですが、これからも障害児教育にたぶん関わっていくだろうと思いますが、私自身の経験を含めてその際大切にしたいことをお話しさせていただきました。
 
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