梟の詩  
  中山道を行く  
 
 
 

007号     2004/10/1(金)

 
 
 
  <関ヶ原〜今須〜柏原〜醒井>  
 
 
 

台風21号は、27人の死者・行方不明者と多くの災害をもたらしたが、今年の暑かった夏を押しやり、涼しい秋風を送ってきた。さあ歩きに行こうと、小学生が遠足へいく気分になって、出かけた。子供等を仕事に送り出してからの出発だったので、家を出たのは8時過ぎ、関ヶ原駅に着いたのは11時半。11時45分駅前スタート。

関ヶ原といえば、「関が原の合戦」の古戦場、誰々の陣地跡がいたるところに散らばっている。 「西の首塚」を右手に見てしばらく行くと、畑の中に、大海人皇子(天武天皇)の兜岩が残っていた。ここは、「壬申の乱」の古戦場でもあったのだということを思い起こさせた。30分で「不破の関守跡」に着いたので昼食にした。
坂を下ると藤古川にかかる20mほどの橋を渡ったが、この川をはさんで大海人軍と大友軍(後の弘文天皇)が最初の激突をしたとのこと。その時大海人軍は敵と区別するために赤いしるしを付けていた。しばらく行くと、その名も恐ろしい黒血川についた。両軍の死者の血で川が真っ黒に染まったからだという。「真っ赤に染まった」といわないところにリアリティを感じる。

鶯の滝を左手に見て新幹線をくぐると、絵になりそうな田舎の風景が広がり、そのはずれに「常盤御前の墓」が右手にあった。牛若丸を追ってここまで来たが強盗の類に殺されてしまい、哀れに思った村人が粗末な墓を作ってやったという伝説に基づいている。
「牛若丸(後の義経)の母という事は頼朝の母でもあるわけで、後に天下をとって鎌倉幕府を開いた頼朝の母の墓にしては粗末だなあ」と思いながら、二人は異母兄弟だったのかも、あるいは、鎌倉には立派な常盤御前の墓があるのかもなどと考えた。

JRのコンテナを積んだ長い貨物列車が脇をガタゴト通り過ぎてゆく道を登り、小さな峠を越えると 今須の一里塚。昼下がりの今須宿は太陽の光が道路に照りかえるだけの静かな街。はずれの駄菓子屋さんでアイスクリームを買って日陰に入り一休みした。
ここまでで2時間弱。「柏原まではすぐですよ」の店の人の言葉に元気を出して歩き始めた。
車返しの坂という小さな坂の横をとうり、21号線を渡りJRを越していくと 、「寝物語の里」にでた。寝物語というから、男と女の何かロマンチックな話があったのかと素朴に考えていた。ところがそうではなく国境の話だった。わずか30センチ幅の小川が美濃と近江の国境になっていて、その両側に「両国屋」と「かめや」という旅籠が建っていて、寝ながらにして他国の人と話ができたことによる。これだけでは面白くないわけで、「義朝を追った常盤御前が近江側に泊まり、美濃側から聞こえる声に気がついて源氏の兵士とめでたくも会う事ができた」という逸話が残っている。

楓並木の続く道を行く。もみじの季節になったらきれいだろうなと思っているうちに柏原宿にはいった。はじめはなんと宿らしくない宿だと思っていると、なんとこの宿は長さ
1.4キロも続く中山道の中でも4番目にはいるくらい大きな宿だったそうで、やがて一軒一軒の軒先に昔の屋号が下げてあって、それが延々と続いた。
柏原駅からJRにのって帰ってもよかったが、まだ2時15分過ぎ。次の醒ヶ井宿まで5キロ、1時間とちょっとだ、がんばって行こうかと、「喫茶店でコーヒーを飲むという誘惑」に引きづられそうになったが、ここで休んだら後歩き始める気が起きなくなりそうだと、そのまま歩き始めた。

醒ヶ井までの道は遠かった。宿に入ってもJRの線路が見あたらないので、駅を通り過すぎてしまったかと心配になり、サイクリングをしている人を呼び止めて聞いたり、自動車の掃除をしている人に聞いたりして、もう少し行けばいいことがわかった。醒ヶ井駅到着が4時10分。休憩を入れて4時間30分(歩数28000歩)のウォーキングだった。