由    緒

 旭神社の鎮ります大阪市平野区加美正覚寺の地は、古くは“河内国渋川郡賀美郷橘嶋荘(里)”と称されており、その賀美(加美)澁河(渋川)の地名は、早くも『日本書紀』や『類聚和名抄』などに見え、古くから栄えてきた地であった。また“橘嶋”の名が示すとおり旧大和川の本流であった長瀬川とその支流の橘川との間に出来たデルタ地帯であったと考えられている。 その産土神(うぶすながみ その地を守り給う神 氏神)旭神社には、その創祀を今に伝える縁起『河内国渋川郡賀美郷橘嶋荘正覚寺村旭牛頭天皇若宮八幡宮縁起』(外題には『橘嶋庄両社縁起』と記載)が伝わっている。
 『縁起』によると、若宮八幡宮は、孝謙天皇の御世 天平勝宝6年(西暦754
年)8月、風雨がやまず人々が大変困っていたが、「水上より櫛笥と橘を流しそのとどまった所を祝い、祭るのであれば水難を避け人々を安穏にさせよう」との八幡宮のお告げが有り、大和国河内国の境からお告げのとおり“櫛笥(くしの箱)”とを流した。“櫛笥”の流れ着いた所には「玉櫛明神(現東大阪市花園鎮座 津原神社)」を祭りし、また“橘”は当神社の鎮座地、賀美郷の川中の小島、すなわち当地に流れ着き、そのことが孝謙天皇のお耳に達し「東大寺の八幡宮(手向山八幡宮)」を勧請して“若宮”と仰ぎ祭り、“橘”をご神木と定めた。とその御鎮座の様子を伝えている。
 
旭神社御本社については(『縁起』には旭牛頭天皇と記されている)、聖武天皇の御世 天平5年(733)頃に当地にお鎮りになり、“旭”と言う呼び名については、「つき旭と称し侍ることは、此郷の嶋戸に橘のながれとゞまりたるに、朝日さしかがやきてその光社頭に映じけるにより旭牛頭天皇と申なり」すなわち、この里に先述の「橘」が流れ着いたその光が朝日の様に社頭にてり輝いた事によると『縁起』は伝えている。また神社の鎮座地については、元々は現加美小学校のあたりにお鎮まりになっていた
が、今から約300年前の元禄14年(1699)9月、若宮八幡宮鎮座地であった現境内にお移し申しあげた。
 さて、現在および近世においてこの地が“正覚寺”と呼ばれるようになった事
についても『縁起』は「往昔此地に弘法大師開基したまへる密教の霊場 正覚寺と号されし伽藍ありて」、弘法大師の開かれた“正覚寺”と言う大きな伽藍があったが、明応年間(1492〜1501)畠山義就(よしなり)義豊の親子が誉田城にたて籠ったのを、同姓の畠山政長が応仁の乱での恨みをはらそうと、将軍足利義植に頼んで攻めようとこの正覚寺に出陣したが、逆に義就に攻めら政長は敗れ(世に言う正覚寺合戦)正覚寺の寺塔はもとより民家に至るまで焼け灰となり再建される事もなったが、自然に“橘嶋荘”と言う古称が忘れられ“正覚寺”が地名となったことを記している。