「今、何て言ったの?」
耳に入った言葉が信じられず聞き返すも、神妙な顔をした両親の表情が緩むことはない。
つまり聞き間違いではないということだ。
「だって……」
「ごめんなさいリョーマ。どうしても私でないとダメらしいのよ……」
アメリカから日本に帰国する時、最低でも三年は日本にいることなる。そう言っていた
から帰国に反対することもなく素直に従った。それは途中で転校せず、三年間はテニスに
集中出来ると思ったからである。
「リョーマ。すまんとは思うが分かってくれ。母さんだって好きで……」
「……ってる。分かってるよ。でもっ!!」
倫子が悪いわけではない。頭ではしっかり分かっている。けれど感情がついていかない
のだ。これ以上話せば感情を抑えきれず喧嘩腰になってしまうのは避けられない。傷付け
たいわけではないのに酷い言葉を言って倫子を傷付けてしまう。そう判断したリョーマは
家を飛び出した。
「リョーマっ!!」
背後で叫び声が聞こえるが無視し、日が落ちた夜の道を脇目も振らず走った。
どこをどう走ったのか覚えていない。けれど気付けば部活の先輩と良く来ていたストリ
ートテニスコートに来ていた。
「さすがに誰もいないか……」
一応ナイター設備とまで言っていいのか分からないが、照明はついているので十分テニ
スが出来る状態だ。しかし時間も時間なだけに誰一人としてコートにはいない。ふと目に
ついたのは片隅に忘れ去られた真新しいテニスボール。それほど汚れていないボールは鮮
やかな黄色のままである。それを手に取り、リョーマは備え付けのベンチに腰を下ろした。
「どうしたらいいんだろ……」
手にしたボールを投げてはキャッチする。ボールの軌跡を追いながらこれからのことを
考える。今更自分が何を言ってもどうしようもないことは理解している。話があった段階
で倫子もなんとかしてくれようとしたのだろう。それでも出来なかったのをまだ中学生の
自分が出来るはずもない。学校は諦めるしかないのだろう。どうしても諦められないのは
学校ではない。今のリョーマにとってはそれよりも大事なこと。どうしたって諦めること
なんて出来ない。
「日本とアメリカなんて遠すぎ……」
「何が遠過ぎなんだ?」
背後から突然響いた声に反射的に後ろを振り返る。そこにいたのは……。
「……サル山の大将」
「跡部だ! いい加減その呼び方は止めろ」
慣れとでも言うのだろうか。一番初めの印象が強くてリョーマはいまだに跡部のことを
サル山の大将と呼び続けている。
「……で、その跡部サンがなんでここにいるんスか? しかもこんな時間に」
「それはテメェもだろうが」
「……」
やばいと感じた。この人と話していたら絶対に気付かれると。無言で立ち上がるとその
まま去ろうとした。けれど腕を掴まれ逃げることは出来なかった。
「何故逃げる?」
「……別に…逃げてなんか……」
表情からも何かを読まれるかもしれないと視線が合わないように下を向く。けれどその
態度が益々跡部に不信感を募らせるとはリョーマは微塵も考えない。普段なら強気な態度
で相手を睨みつけるほどに真っ直ぐ見据えるのに、後ろめたいことがありますというよう
にあからさまに不審な態度を取るのだから気にならない方がおかしい。
「おい、何があった」
「……アンタには関係ないじゃん。いいかげん離して下さ……っ」
掴まれた腕が悲鳴を上げる。掴んでいる手が異様なまでの力を込めた。それは正直に話
すまで手は離さないという無言の言葉なのだろう。けれどリョーマにとっては何故跡部に、
ライバル校の生徒にプライベートなことを話さなければいけないのかと思うのだが、力が
緩まる気配はない。寧ろこれ以上引き延ばせば更に厄介なことになるかもしれない。リョ
ーマは重い溜め息を吐いた。
「……戻るだけっスよ」
「?」
「アメリカに戻るんス。ただそれだけ……っ」
はっきりと口にすると堪えていたはずの涙が零れた。他人の前でなど泣きたくはない。
なのにどうしても涙は止まらない。
「ぇ……」
突然温もりに包まれた。涙を止めようと必死になっているところに更にわけの分からな
いこと。リョーマは混乱する。すると考えられないくらい優しい声が上から降ってくる。
「我慢するな……」
「っ……ふぇ…」
堰を切ったようにリョーマは泣き出した。そして跡部は普段の傲岸不遜な態度はどこへ
行ったのか静かにリョーマを抱き締めながら、リョーマが落ち着くのを待っていた。
「で? それだけじゃねぇんだろ」
「……何がっスか」
やはり一筋縄ではいかないと思うが一応惚けてみる。
「俺様を甘く見んじゃねぇ。お前がアメリカに戻るだけで泣くわけねぇだろ」
跡部のインサイトはテニスに限ったことではないようだ。高級そうなシャツを涙で汚し
てしまった手前このまま誤魔化し続けて逃げるのも後味が悪い。心を決めて、けれど渋々
とリョーマは本心を語り出した。
「……離れたくない人がいるんス」
上手く隠すことは出来たが跡部は衝撃を受けていた。理由は簡単。一年にも関わらず青
学でレギュラーの座を勝ち取った実力を持ち、部長である手塚を始めとした曲者揃いのレ
ギュラー陣に可愛がられているリョーマに跡部も落ちただけだ。だから気付かれずにリョ
ーマを見ていた跡部は知っている。リョーマの視線の先にいる人物を。
「!?……手塚か」
「どうして部長の名前が出てくるんスか?」
「違うのか?」
リョーマの声は心底驚いたものだ。それは言い当てられたという感じのものではなく、
どうしてこの場面で出てくるのかというもの。
「お前、ずっと手塚を見てただろ……」
「……確かに見てたけどそれは部長のプレーを見てただけっスよ。俺はあの人に一度負け
た。公式試合じゃないけど負けは負けだ。でもいつか絶対に勝つからそのために。まぁ、
今回のことでいつになるか分かんないっスけどね」
寂しさは隠しきれない。平気でいようとすればするほど聡い跡部にはリョーマの本当の
心が見えてしまう。
これ以上聞けば自分は間違いなく振られることになるだろう。けれど中途半端に逃げる
のもプライドが許さない。己の心を隠し通すのがリョーマにとっても自分にとっても一番
なのかもしれない。
「ま、誰であろうと俺には関係ねぇが……、まさかテメェが恋愛ごとでそこまで悩むなん
てな」
「……正直言うと俺の気持ちが恋愛の意味のスキかどうかは分かんないっス」
「あぁ? でも、付き合ってんだろ?」
何で自分がこんな言葉を……と思うが、そうしなければ話は先に進まないだろう。
「……たぶん」
「はぁ? なんだそのはっきりしねぇ回答は」
「だって俺も良く分かんないってさっきから言ってんじゃん! でも一緒にいると癒され
るっていうかホッと出来るし、テニス強くて上手いんス。もっと一緒にテニスやりたいっ
ていうのが一番強い気持ちっスね。だから……」
「……」
それはまだ跡部にもチャンスがあると告白しているようなものではないのだろうか。リ
ョーマ自身に自覚はなくとも跡部にはそう取れる。相手はどうやら手塚ではない。リョー
マも己の気持ちを掴みきれていない。ならまだ勝ち目はあるだろう。というかたとえ可能
性は少なくても見事に勝ち取ってみせる。そう確信するのが跡部景吾という男である。だ
ったら今取るべき行動は……。
「……? 跡部サン」
「別にテニスは今じゃなくても出来んだろ。お互いが続けていればどこにいてもな。ダメ
ならその程度の気持ちだったんだよ」
跡部とて離れたいわけではない。けれどリョーマが日本に残れば、若しくは想う相手と
何かを約束しては気持ちに変化が現れるだろう。それは必ずしも跡部にとっていい方では
ない。寧ろ厄介な確率の方が高い。だから今は親と一緒にいることが大切なのだと本心と
は真逆の言葉を紡ぐ。相手に直接伝えることが出来ないリョーマを相手に卑怯だとは自覚
しているが譲れない。どんなことをしてでも手に入れたい。醜い感情が心を支配する……。
「……やっぱりそれが一番いいんスよね」
「所詮俺たちはまだ親の脛を齧ってるガキだからな」
「ふ〜ん。アンタでもそう思ってるんだ」
「当然だろ。それが自覚出来ないほど俺は傲慢じゃねぇ」
「十分だと思うけど?」
「あぁ? 何か言ったか」
「別に。それよりも……アリガトウゴザイマス。一応言っとくっス」
恥ずかしげに少し顔を紅くしている。その瞳は跡部からは逸らされているが先ほどまで
の迷いはもうなかった。決めたのだろう。それを跡部に告げることはないだろうがもう言
うこともない。たとえ言ったとしてももう決意を変えることはないだろう。
「一応ってなんだ一応って」
「そのまま」
「…………。おら! ガキはもう寝る時間だろうが。とっとと帰れ」
余りにもな言葉に呆れ返る。これ以上一緒にいるのは自分の理性がどうなるか分からな
いため得策ではない。お互い明日も学校のある身なのでさっさと帰らせることにする。
「……! もうこんな時間じゃん。そー言えば何しに来たのか知らないけどアンタも早く
帰った方がいいんじゃないっスか。じゃあね!」
携帯電話で時刻を確認してリョーマは正直驚いていた。いつの間にか日付が変わる間際
になっている。4時間近くストリートテニス場にいたようだ。挨拶もそこそこに心配して
いるであろう家族の元へ急いで帰るのだった。
跡部と会ったことでリョーマの心は決まった。未来はどうなるかは分からないが自分は
まだまだ親の庇護が必要な子ども。もし彼と出逢ったことが運命ならば、別れた道は再び
交わるだろう。そうでない可能性も勿論ある。それでも運命だと信じたい。
だからサヨナラは言わず次の約束を。
明確な時は約束しない。
次の出逢いはいつかの未来……
◆◆コメント◆◆
途中で何が書きたかったのか良く分からなくなってしまいました……。
突発で書き出したもので、とにかく跡部の横恋慕!!
だけが思いを占めていました(笑)
すごい尻切れトンボの話ですがこれで終わりです。はい。
リョーマの相手も分からないままです。もちろん今後も分かりません。
跡部が見事恋人の座を奪い取ったのか、元の鞘(?)に納まったのか……
お好きに想像して下さいませ。
それではまた
2006.09.16 如月水瀬