太陽が昇ってどの位の時間が過ぎたのだろうか、人込みがまばらに出来始めた歩道を全速力で
駆け抜ける者がいた。春だというのに顔中から大粒の汗を流していることから彼の者が途轍もな
く必死であることが窺える。
(うわぁー、完全に遅刻じゃんか。所長に怒られるーー)
腕時計で時間を確認しながら彼、越前リョーマは所属する事務所の若き所長手塚国光の怒った
形相を鮮明に頭に浮かべる。
「……近道するか」
呟くと脇道にそれ、少し先にある公園を突っ切る。脇目も振らず通り抜けようとしたが、ベン
チにちょこんと座るヒマラヤンに自然と目が向いた。
(野良猫? なのかな……)
いつもならそんなことには目も留めないのに何故かその猫から目が離せない。しかし、はたと
自分の現在の状況を思い出し、気には懸かるが、公園を後にした。
「ちぃーっス」
「遅い! 今何時だと思っている」
「すいません、寝坊したっス」
予想通りの反応にリョーマは渋々という態の返事をする。反省の色の無いリョーマに対し、手
塚は更に注意をしようとするが、所属する探偵の一人である不二周助の発する冷気に気付き仕方
なく言葉を飲み込む。そして、明日からは気を付けるようにだけ注意すると自分の机に戻った。
「おはよう、リョーマ君vv」
「……おはようございます。じゃあ、仕事があるんで」
不二の満面の笑み付きの挨拶をアッサリかわしてリョーマも自分の席に着く。ある意味無視さ
れた形となった不二は特に怒るということも無く、いつもと少し様子の違うリョーマに首を傾げ
た。これがリョーマ以外の者なら確実にその者は地獄を見ることになっただろうことを明記して
おきたい。
席に着いたリョーマは書類に目を通しているのだが、それらは全く頭に入ってこず、頭の中を
占めるのは先ほどの猫のことだった。そんなこんなで、殆ど仕事らしい仕事もこなさずその日を
終えた。
「お疲れっした」
遅刻した上に一番最初に帰宅するということを許されるのはリョーマがリョーマたる所以であ
ろう。その上、今日は不二以外の他のメンバーもリョーマの様子がいつもと違うことに途中から
気付き、それが気になって心配で仕方無かった。だから、このような些細なことは全然問題では
無かったのである。
リョーマが帰った後、緊急会議が開かれたが、それはまた別の話である。
帰り道リョーマは朝と同じコースを選んだ。
ベンチには朝と同じ態勢で猫はいた。そして、殆ど身動きせずじっとある方向のみ見つめてい
る。リョーマは意を決して猫の隣に腰掛け、話し掛けた。
「お前ずっとここにいるけど、誰待ってんの?」
「ホアラー」
リョーマの問い掛けに鳴き声を一つだけ返したが、再び元の方向を向いてしまう。その後は何
度話し掛けてもこちらを見向きすらしなく、諦めてリョーマは帰途に着く。
次の日、手塚に注意されたにも拘わらず又してもリョーマは寝坊した。全速力で駆けるという
行為は昨日と同様なのだが、思考は異なっていた。
(あの猫、今日もいるのかな?)
足は考えるより早く、既に公園に向かっていた。
やはりというか、何というか、ベンチには昨日と全く同じ態勢でベンチにちょこんと座ったヒ
マラヤンがいた。リョーマはどうせこのまま行っても遅刻だし、行ってもこのことが気になって
仕事にもなんないし、今日は休んじゃえ等と不届きなことを考えた上決定していた。
「一人で待つのは暇だろ? 俺も一緒に待ってやるよ。それにこんなに献身に尽くすお前のご主
人様がどんな人か興味あるしね」
猫の目の前でしゃがみ込み、目線を合わせて言った。そして、ズボンのポケットに入れていた
携帯電話を取り出し、事務所に電話を掛けた。
『はい、青春探偵事務所ですが』
「あ、所長? 越前ですけど……」
『越前か。昨日あれほど言ったのに又遅刻か?』
相手がリョーマと分かると、手塚の声は即座に不機嫌な色を含んだものとなる。リョーマは予
想していたことであったが、好んで長時間そんな声を聞きたくも無いため、早々に電話を切るた
めに一気に用件のみを伝えることにした。
「突然ですいませんが、俺今日休みます。んじゃ」
本当に用件のみで、理由すら言わずに切ったため、事務所では手塚が受話器を握り締めたまま、
怒りでプルプルと震えていた。手塚がリョーマの名前を口にしたのを耳聡く聞きつけた不二が手
塚を脅していたことも、又別の話である。
内容がどうであろうが、取り敢えず連絡は入れたのでリョーマは心置きなく猫と共にベンチで
誰かを待つことにする。
しかし、一時間が過ぎ、お昼を過ぎても待ち人が来る気配は一向に無かった。職業柄っ待つこ
とに慣れているリョーマでさえも、一言も喋らず黙って待つことに飽きてきていた。そう、いつ
もはコンビを組んでいる不二が何かしらチョッカイを掛けてきて、長時間沈黙が続くことなど滅
多にというか、余程のことでも無い限り無かったのである。
「お前は、ほんとにご主人様待ってんの? もしかしたら捨て猫? 首輪はどうしたんだ?」
語り掛けてもやはり返事は返ってこなかった。
(どうしよう? でも、ヒマラヤン捨てるなんて余程のことじゃないと無いだろうし、捨てられ
たって決め付けらんないよなぁ……駄目もとで所長に相談してみよっかな?)
リョーマはこの時、身を屈めるようにして深く考え込んでいたため、背後に人影が忍び寄って
いることに全く気付いていなかった。
「こんな所にいたんだ、リョーマ君vv」
「……」
リョーマに掛けられた言葉、それに返事は無かった。
「酷いなぁリョーマ君。恋人のこと無視するなんて」
((((((誰が、恋人だ!!))))))
自分勝手な台詞を吐いた人物とリョーマ以外の者のツッコミが心の中で入った。
「何か言った?」
何故心の中の言葉が聞こえるんだ!という常識的なツッコミはこの者不二周助には無駄だとい
うことは今までの経験で理解してはいるのだが、心はついていけてなかった。探偵事務所の所長
及び社員5名は不二の言葉に必死に首を左右に振って、最悪の状況を回避した。
「あれ、不二先輩? それに所長や皆も。どうしたんスか?」
やっと、自分を取り囲むようにして立っている7人に気付いたリョーマは呆然としている。
「どうしたじゃないだろう。理由すら言わずに電話を切って、心配せずにいられるか」
「そうだよ、リョーマ君。君に何かあったんじゃないかって凄く心配したんだよ。もう少し自分
がどんなに魅力的か自覚しないと」
「そうだにゃ! 何かあってからだと遅いんだぞ、おちびぃ」
手塚、不二、菊丸が次々と言葉を浴びせ掛ける。他の者も言葉には出さなかったが、心配して
いたことを目が雄弁に語っていた。それが、痛いほど分かったリョーマは心の底から皆に謝った。
そして、今までのことを包み隠さず全て話した。
「そうか。でもな、越前。もう心配することは無いと思うぞ」
「えっ?」
手塚の言葉にリョーマは驚きを隠せなかった。そして、そんなリョーマの肩を不二が軽く叩き、
ベンチを指差した。リョーマは大量の?マークを浮かべながらベンチに焦点を合わせる。
「あっ!」
視線の先でリョーマが見たものは、今までどんなに語り掛けてもこちらを向かなかった猫が、
リョーマたちをじっと見つめていたのである。更に、その猫はゆっくりとリョーマの下へ近付き、
呆然としているリョーマの膝に乗るとゴロゴロと身体全体を気持ち良さそうに、リョーマの身体
に擦り付ける。
「ホアラ♪」
「ど、どうして?」
次々と起こる予想もしないことにリョーマの頭は混乱を極めていた。
「きっと、この猫が待っていた人、ううん、人たちは、リョーマ君と僕たちだったんだよ」
不二の言葉にリョーマは確認を取るかのように、手塚に視線を向ける。手塚はコクリと頷き、
更にリョーマを幸せな気持ちにさせる言葉を発した。
「名前はお前が決めるといい」
「じゃ、じゃあカルピン!」
手塚の言葉にリョーマは即答した。
周りにいた不二や菊丸たちも良い名前だと頷き、この猫の名前は決定した。そして、青春探偵
事務所に新たな仲間が増えた瞬間だった。
<END>