新学期が始まるまで後数日を残した春休みのある日。
全国大会二連覇を果たした彼等は三連覇を目指し、本日も午前中から厳しい練習をこな
している。そんなコートの一画でちょうど順番待ちで一緒になったリョーマに柳生はふと
気になったことを尋ねた。
「そう言えばリョーマ」
「?」
「気になっていたんですが、自宅から学校まで通うんですか?」
何気ない質問だった。けれどそれはリョーマの目が点になるには十分な効果を持ってい
た。
現在リョーマはテニス部のレギュラー陣に気に入られ、またその実力から特別にレギュ
ラー陣の練習に参加させてもらっていた。しかしそれは午後からの練習の時のみ参加して
いた。午前中からとなると寝汚いリョーマにとっては死活問題に繋がるので、本音として
は赤也曰く「化け物」という強い者たちとの練習は本当に楽しく充実したものだった。い
つも父親やその友人たちを相手にしてきたリョーマにとって年の近い相手との打ち合いも
十分魅力的。ましてやその相手が自分よりも強いとくればもう言うことなしである。なの
で毎日でも参加したかったが悩んだ末今の状態に落ち着いたのである。
縋るように大きなアーモンド型の大きな印象的な瞳で見つめる。自分で考えるよりも柳
生に任せた方がずっと良い案を出してくれるとリョーマは確信していた。それはまだ一月
の付き合いもないがそれでも信用に値する態度を取り続けてきたからこそ勝ち取った信頼
だった。
「そうですねぇ。リョーマとリョーマの両親さえ宜しければ……」
「だったら俺の家に来んしゃい」
柳生の言葉を遮ったのはどこの方言なのか全く不明な喋りが特徴の仁王雅治。柳生のダ
ブルスパートナーである。一応……。
試合の時とリョーマを狙う不届き者を撃退する時のみ息がぴったりと合うが、それ以外
では専らリョーマを巡って争っているのが今の状態だったりする。コンビを組んでお互い
腹が黒いということを嫌というほど理解しているのでいつ何時も油断出来ないのであった。
「何を言っているんですか仁王君。大体あなたとリョ……」
「な、柳生と一緒じゃと小煩いじゃろ? だから俺んとこに来んしゃい♪ 毎日退屈させ
んぞ?」
「人を無視して何を抜け抜けと言ってるんですか!! いい加減にしなさい仁王君!!
リョーマは私の家に来るんです」
先ほど言いかけた言葉と矛盾しているように感じるのは誰の気のせいでもないだろう。
しかしリョーマとしても自宅からよりは誰か知人の、それも学校に程近いところならなお
良しの場所から通えるなど願ったり叶ったりである。
「じゃあ俺……」
リョーマが自分の意見を言おうとすると第六感が働いたのかまたもや仁王が割り込む。
「柳生より俺のトコのが近い。睡眠仰山取りたいじゃろ?」
「それはそうっスけど……」
仁王の言葉にリョーマの気持ちは少しだけ揺らぐ。
睡眠はファンタの次に必要なものにランク付けされているから。けれど現在のリョーマ
の心の奥にはそれよりも重要になるかもしれないものがあったため言葉を濁すしかなかっ
たのだった。
「ほら、リョーマも仁王君の家はあまり気乗りがしないみたいですよ。男なら潔く身を引
きなさい」
「だからと言ってのう……」
「何をさぼっているっ! 次は仁王、お前の番だ。早くコートに入れ!!」
言い返そうとする仁王に横槍を入れたのは副部長の真田だった。その真田の横では部長
の幸村が優しい微笑でこちらを見つめているが決して表面通りの笑顔ではない。仁王と当
然ながら柳生には良く解っていた。それはもう理解したくなくとも強制的に理解させられ
ていたから。彼が何の含みもない笑顔を向けるのは今柳生と仁王二人の間にいるリョーマ
のみ。だから幸村は笑顔の裏で語っていた。堂々と部活をさぼってリョーマ君と何してる
んだと……。
更に仁王に至ってはこれ以上真田を待たせるというか、コートに入るのを遅らせると誰
もが受けたくないビンタが飛んでくることはここ立海のデータマン柳でなくとも分かる確
率100%である。
「タイミング悪いのう。まあ、次の機会を狙うか」
「次の機会などありません!!」
「プリッ♪」
いつもの決め台詞(?)を残し仁王はコートに入っていく。
「……仁王サンだけは相変わらずよく分かんないっス」
「一生分かる必要はありません。寧ろ分かった方が大変です。いいですね」
真剣な顔で念を押す柳生にリョーマも素直に頷く。
先ほどまでは程よい疲労感があったが今はどっと疲れていたリョーマ。無意識にフェン
スではなく柳生の肩にコテンと頭を預ける。内心驚きながらも柳生の気持ちは一気に上昇
し、仁王に対する怒りはこの瞬間だけは綺麗に消え去ったのだった。
「リョーマ。帰りましょう」
「っス」
本日も無事練習を終え、着替えて帰宅の途につくか、成長期真っ只中の男子中学生らし
く何か食べて帰るかをいつものように丸井が切り出すのよりも先に柳生が帰宅することを
告げる。しかも全員のお気に入りのリョーマも一緒に。待ったがかからない方がおかしい
と言えるだろう。案の定次々と不満が部室に溢れる。
「ちっ、仕方ないですね。リョーマ、しっかり捕まっていて下さい!」
「えっ!?」
滅多にない柳生の舌打ちを聞いたと思った瞬間リョーマは浮遊感に襲われ、取りあえず
不安定さを何とかするために縋れるものに縋りついた。
「っ……」
リョーマの体勢が整ったのを確認すると柳生は一目散に逃走した。それはもう立海のレ
ギュラー陣が揃って呆然状態となるくらい見事な逃げ足だったという。
「ひ、比呂士っ!!」
「どうしました?」
「誰も追いかけて来ないから下ろして」
振り返り確認すると言葉通りテニス部の者は誰もいない。
「……仕方ないですね」
至極残念そうに呟くと要望通り小脇に抱えていたリョーマを下ろした。
そう、部室から今までリョーマは柳生に抱き抱えられていたのだった。機嫌が降下して
も致し方ない。
「駅、逆方向なんだけど?」
「あぁ今日は私の家にお泊りですよ」
「は?」
正しく寝耳に水である。そんな約束をした覚えはないし、ましてや親にも許可を取って
いない。
「倫子さんには先ほど連絡しましたよ。宜しくお願いしますということです。そうそう、
その際四月からのことも相談したらリョーマと私の両親が了承すればOKだそうです。良
かったですね」
「……」
もの言わずともやはりリョーマの大きな瞳が語っている。いつの間にと……。
確か一緒に練習を終えて、一緒に部室に戻り、傍で着替えていたはずだった。離れたの
はファンタを買いに行った数分のみ。その間に全てを終わらせるとはさすがと言って済む
問題なのだろうか。けれど練習で疲れたリョーマに余計なことを考えるという選択はすぐ
に頭の中から追い出された。
「お帰りなさいリョーマ君vv」
何か違うとリョーマは感じた。
柳生の家に着き、玄関を開けると待ち構えていたのは柳生の母。発せられた言葉は本来
なら実の息子に向けるべき言葉ではないのだろうか?
少しだけ眉間にシワを寄せて困惑していると彼女が手を引っ張って促す。
「ほらほら、そんなとこで突っ立ってないで上がりなさい。ご飯もうすぐ出来るから、先
にお風呂入っちゃってね。比呂士はリョーマ君の着替えをお願いね」
「はい、分かりました」
リョーマの入る隙を与えず母子でテンポのいい会話で次々と決めていく。気付けばお風
呂を済ませ、柳生に借りたTシャツとハーフパンツというラフな恰好でダイニングテーブ
ルのイスに座って柳生の家族に混じってご飯を食べていた。本日の夕食はリョーマの好物
の茶碗蒸しと焼き魚だった。ホクホクといつになく嬉しそうにしているリョーマを視界に
捕らえながら柳生家も人々もいつも以上に楽しい食事の時を過ごす。
「そうそうリョーマ君。比呂士から事情を聞いたんだけど……」
「……いつの間に?」
食後のお茶を片手にリョーマは今度こそ不審な眼差しを柳生に向けた。
「早い方がいいと思いまして、倫子さんに連絡を入れた際に一緒に説明だけしておいたん
ですよ」
「早すぎだし……」
あまりの手回しの良さにもう呆れるしかなかった。
「でね、お父さんにもさっき話したんだけど私たちは全然構わないわよ。なんだったらず
っといてくれてもいいからvv」
「ずっとって……」
「遠慮しないで。私たちリョーマ君みたいな息子が欲しかったのよ。それなのに内の息子
は中学生のくせに大きいわ可愛げはないわ表情もないわで……」
「母さん……」
本人が目の前にいるというのに彼女は好き放題言い、更に最後には深い溜め息を吐く始
末。しかしどこの家でも母親が最高権力保持者なのか批難を込めて睨むことしか出来てい
なかった。
「じゃあ、お願いします。おばさんたちが迷惑じゃなければ……っわ!?」
その瞬間リョーマは柳生の母親に抱き締められていた。
柳生がその後少しキレて母親と口げんかになったのは当然の結果……。
「比呂士もこれからよろしくっス」
「こちらこそよろしくお願いします。毎日リョーマと過ごせるなんて夢のようですよ」
「大げさだよ?」
「そんなことありませんよ。仁王君たちは悔しがりますよ。何より私が嬉しいですしね」
「俺もっスvv 皆優しくて大好きだけど……比呂士は特別なんだよ」
「え!?」
最後の方は照れているのか聞き取り難いほどの小さな声。自分の耳が都合よく聞き取っ
たと思っても仕方ないだろう。もう一度と詰め寄るがリョーマは顔を真っ赤にして「知ら
ないっ!」とそっぽを向いてしまう。その態度が柳生の耳が正確に音を拾ったことを表し
ている。
入学式当日。
仁王から情報を受け取ったレギュラー陣は式が終わり帰宅しようとする二人を捕まえ、
詰め寄り、誰も彼もがズルイと文句を言うが今の幸せを手放したくなどない柳生は必死で
彼等の言葉を跳ね除ける。部長権限を行使しようとする幸村に対しても見えないところで
冷や汗をかきながらも対抗していた。
「これはプライベートのことです。いくら幸村君が部長であるといっても関係ないはずで
す!」
「へぇ、いつになく強気だね。柳」
「分かっている。柳生の新しいメニューだがこんな感じでどうだ?」
どす黒いオーラを醸し出しながら柳は幸村にA4サイズの用紙を見せる。
「……うん。いい感じだね。来週からそれでいこうか。ということで柳生……」
「ダメっス!」
「どうしたの? 何がダメなのかな?」
最後通告をしようとした幸村を止めたリョーマ。しかし幸村のリョーマを見る目は明ら
かに柳生に向けるそれとは異なっていた。笑顔の質が違っていたのだ。
「比呂士に何かしたらいくら幸村さんでも許さないっス!! 今回のことは俺の我が侭な
の。比呂士はそれを聞いてくれただけ。何か罰があるなら俺が受けるっス」
「分かったよ。柳生のメニューは通常通りだね。で、リョーマはどうして柳生なのかな?
僕じゃだめなのかな?」
この時誰もが幸村に対してズルイという感情を持ったが誰も声に出すことはなかった。
それが幸村が幸村たる所以である。誰も自ら進んで彼の手に掛かりたくない。取りあえず
静観という一番安全な手段を取るのだった。
「……別に幸村さんが嫌いなわけじゃないっスよ? 他の皆もそう。寧ろ好きっス。でも
比呂士は特別だからvv ね?」
「ありがとうございます。私にとってもリョーマは特別ですよ」
「トーゼン! ……ということっス」
「っ……」
おそらく無意識に柳生に普段皆に見せる笑顔とは遥かに異なる甘い笑みを向けるリョー
マ。幸村は咄嗟に反応することを忘れ、見惚れてしまった。
「? 幸村さん?」
「……ぁ、あぁごめんね。そこまで言われてしまったら仕方ないね。“今回は”諦めるよ」
「? ……じゃあそーゆーことで」
今回はということは次回もあるということなのだろうか?と考えるも、柳生と二人だっ
たら大丈夫だろうと気楽に思い一抹の不安を残しながらも柳生の手を引き、同じ家に帰る
のだった。