判を押す音だけが聞こえる執務室。 机の上の、今にも崩れてきそうな書類の山々(一つじゃない)。 現実逃避に窓の外を眺めれば、既にどっぷりと闇に染まった色。 そろそろ子供は寝る時間。任務終わりの忍び達は居酒屋に集まり、舞台が反転するように暗部が動き出す。 「あー…」 あまりに日々が忙しすぎて、賭け事も酒盛りも出来やしない。 「ダメですよ、俺はシズネさんと違って甘やかしたりはしませんよ。」 突然の声に、驚いて顔を上げると、そこにはうみのイルカの顔があった。…気配は全くしなかったのに。 「…イルカか…」 「なんですか、残業を強要したのは綱手様でしょう。」 そう言いながら机の上に置かれたのは黒塗りの盆。その上にはおよそ不釣合いなマグカップ。 「…ホットミルク?」 「コーヒーでもいいんですけどね、ホットミルクの方が弱った体に優しそうですからね。あーでも、寝ないでくださいよ。」 続いて取り出されたのはブランケット。…どこから借りてきたのだろうか。 「夜は冷えますからねー。綱手様、常に薄着だし。」 「あ、ありがとう…。」 甘やかしてるくせに。 ちょっと感動してしまう。 ――なんなんだ、この細やかさは。 そもそもイルカは普段もこんな感じだ。たまにお菓子を差し入れしてくれたり、呼んでもいないのにふらっと執務室にやってきて 書類整理をしてくれたり。 けれど、その細やかさが…。 (マダムとツバメって噂になってるんだぞ…!) 別にあたしゃ困りゃしないが。 折角持って来てくれたので、そのブランケットを肩に羽織り、こっそりイルカを盗み見る。 (うっ…) 彼は窓枠に寄りかかり、机の上の大量の紙を、重要書類と普通書類に選り分けていた。 端正な顔は真剣そのもので、書類の束にさらさらと指が滑る。 ある程度の量を分け終えると、たいした重要項目のない普通書類に目を通し、裁可不裁可を吟味してゆく。 「…本当に、あたしの元で秘書を務める気はないか?」 「嫌ですね。」 ぎらぎらと光る綱手の両目に危機感を募らせたのか、イルカはきっぱりと断った。 「給料がいくら良くてもあなたの秘書にはなりたくありません。…きっと早死にします。」 「…ハイハイ。言ってみただけだ。」 5代目火影にも物怖じしないイルカの言動は嫌いではない。カカシも同じく物怖じしない物言いだが、 彼の場合は幼少期に刷り込まれた恐怖心を心の深奥にひた隠しにしているのだ。 (それはそれで面白いけどな) 綱手はイルカの実力に気づいていないわけではない。 常に3代目の隣にいた彼を、階級やくだらない中傷で見誤ったりしない。 何より3代目の性格を知っていればこそ、イルカを『ただ有能なだけの中忍』としては見ない。 隠された過去があることも承知で、尚も内勤としてとどめている。 本当はこんな場所に置いておくのは勿体無い人物。 彼はその黒瞳に、そこらの暗部より多くの真実を捉える。 けれど、彼は真実自分がなすべきことを知っているから…その時まであたしの側にいればいい。 早い話が、あたしはイルカを気に入ってるンだ。――だから。 あの噂はそのまま否定せずに、カカシをヤキモキさせてやろう。 |