1.傷のない痛み、痛みのない傷 「少佐、どうか無事のご帰還を…!」 部下たちの必死の押し殺した叫びに静かに頷いてみせ、男は遠のく一団に目をやった。 夜中に馬たちをなだめながら戦場から退くことは簡単ではない。もしかしたら敵の見張りに 見破られるかもしれないのだ。馬には声を漏らさないようにと枚を噛ましてはいるが、不用意なことで 敵に気づかれないとも限らない。男は心配そうに彼方を見つめたが、やがて空となった自陣に戻った。 男にはまだやらねばならないことが残っていたのだ。 ――そして何があっても死ぬわけにはいかなかった。自分には待っている人がいるから… 「失礼します!猿飛アスマ、はたけカカシ両大佐殿にご報告があって参りました。例の作戦の件について…」 「おう、今行く。」 伝令係の畏まった口上をアスマは軽く遮り、本陣へと出向いた。 「おや、アスマの方が遅いなんて珍しいじゃん。」 広い本陣で数十人が待機し、整列している中、真っ先に口を開いたのは、銀髪の細身の男だった。細身とはいえ長身で、 驚くほど整った顔をしている。だがその左目は眼帯に隠されていて、彼の本当の表情を窺うことは困難だった。 軍人とは思えないほど軽い口調の彼は、待機している者とはやや離れたところに立っていた。アスマもその隣に立つ。 「うるせーよ、カカシ。…それで、報告は?」 アスマが周囲を見渡すように尋ねると、部隊長らしき人物が前へ出て膝をついた。 「…申し訳ございません!作戦は失敗いたしました!」 報告する男の顔面は蒼白で、全身をがたがたと震わせながら、更に報告を続ける。 「日の出を見計らって一斉に総攻撃をかけたのですが、すでに安騎軍は撤退した後で、陣内はもぬけの殻でございました。 挙句の果てにトラップを仕掛けられまして、味方に甚大な被害が出ましたっ…」 「トラップ?」 「はい、松明用の油を藁に含ませていたようで、一気に火をつけられました…」 「……」 アスマが不機嫌に黙り込む。 「妙だな?やつらの中にそんなに頭の切れる人物がいたか?」 報告によると、安騎が撤退したのは昨晩中ということになる。ぎりぎりの戦局を見極めるのは難しい。相当戦慣れしているか、 頭の切れる人物だ。 「…そして、もう一つお知らせしたいことがございます。戦闘現場近くで、トラップを発動させた男を捕獲いたしました。」 「連れて来い。」 アスマの命令に、程無くして衛士が一人の男を引っ立ててきた。安騎軍の黒い軍服に身を包んだ男は、衛士の乱暴な扱いに、 崩れ落ちるようにしてアスマとカカシの眼前に跪いた。周りに控える他の軍人たちも、どよめきを隠せない。 捕らえられた男は若かった。普通ならこのような役は使い捨てのような者たちが使われる。よほど計画が正確に実行できる有能な 人物だったのだろう。それでなければこんな若い人材を使うはずがない。 ふいに、男が顔を上げた。結い上げていただろう髪は紐が解けたのか、漆黒の髪が肩へと流れている。顔の中央には、 横一線の印象的な傷跡が走っていた。何より印象的なのは、澄んだ黒曜の瞳。はっきりとした敵意を怯むことなく表した視線は、 敵の手に落ちてもなお鋭い。 薄汚れた様相ではあるが、何処となく辺りを威圧する雰囲気を秘めていた。 突然何を思ったのか、カカシは男に歩み寄った。アスマが止める暇もなく、軍刀を抜き、ためらいもなく男へ振りかざす。 「……」 男の鼻先に、切っ先はピタリと押し当てられた。だが、男は瞬き一つせずに、カカシを睨みつけたままだった。 そのまま無言で睨みあったのはどのくらいだったか。睨み合いに飽きたのか、ふいにカカシは殺気を収め、軍刀を鞘にしまった。 そしてそのままアスマの元まで踵を返す。その口元にはうっすらと笑みが刷かれていた。 その表情をちらりと見やったアスマは、心の中でため息をついた。 こいつの悪い癖が出てきた、と。 |