ブリオッシュ

 

 

  図省略

1763年に描かれた、少し焦げて大きく割れた姿の中央の静物は紛れもなくブリオッシュだ。

ブリオッシュ bri·oche はノルマンフレンチの動詞 breier, boyer ; 捏ねる 由来する。brie, broyeは共に生地を捏ねる「木の捏ね棒」の意である。ドイツ語のbrekan、イングランドのbrecan, イタリア語のbreccia, 古ハイジャーマンのbrehhaは共に 「割れた(接頭語)」 の意味を持ち、ブリオッシュの姿を象徴する言葉である。

 

ジャン・シメオン・シャルダン(仏)Stilleben mit Brioche 1763年画

Jean-Baptiste Siméon Chardin, 11/2/169912/6/1779

 

ブリオッシュはフランスで言うところのヴィエノワズリー ( Viennoiserieウィーンの物の意;クロワッサン、ウィーンブレッド、パン・オ・ショコラパン・オ・レ、パン・オ・レザン、シューケット、ダニシュペイストリィ、ショソン・オウ・ポメス、; ビューニュ ) の一つで、普通のブレッドと作り方は同じだが鶏卵やバター、牛乳、クリーム、砂糖の量が多いペイストリィの総称であり、朝食や菓子として食べる。アルフォンス・ドーデ( Alphonse Daudet, 5/13/1840-12/17/1897, 『月曜物語 Contes du lundi  1873 , 『アルルの女 L'Arlésienne  1872 , 『風車小屋だより Lettres de mon moulin  1869 』、『陽気なタルタラン・ド・タラスコン Les Aventures prodigieuses de Tartarin de Tarascon 1872 』などで有名なフランスの小説家。)が1877年に出版した『ナバブ-パリ風俗- Le Nabab 』の中でウィーン風パティスリー( pâtisseries viennoises という表現を最初に使った。

 

   ドーデ作 河合亨訳 ナバブ、岩波文庫 1952. ではブリオッシュは「巻パン」で登場している。一部分を引用させていただきました。

ジャンスウレの子供たちはいちども面会室に呼ばれたこともなく、人々は彼らの家庭については何も知らなかった。ただ、時おり、篭いっぱいの菓子や山をなす巻パンを受け取った。ナバブはパリを走りまわっている途中で菓子屋の陳列棚を総ざらいしてそれを学校に持たしてやった。それは彼の真情の動きとみせびらかしの交じったもので、これはナバブのあらゆる行動の特徴を裏付けるものだった。

 

「ナバブ」 は、河合亨の 「ナバブ」 の解題によれば、「アルフォンス・ドーデの大作「ナバブ」は「成金物語」とでも題されるべき小説である。十九世紀中葉のフランス第二帝政期に北アフリカの植民地で稼いだ数千萬金をたずさえてパリに上ってきた男が、その人の持ち前の人の良さと、殊にパリと云う大都会にたいするまったくの無智のために、たちまち好悪な者共のえじきとなって、数ヶ月のうちに富を蕩儘して、ついに、自分の持ちものである劇場の道具部屋のなかでのたれ死をすると云う物語である。この悲しい皮肉な物語の筋を縁どって飾るように第二帝政期のパリの風俗が華麗に描かれ、そこに歴史上にも有名な大臣、上流社会の紳士達、美貌の婦人芸術家などが出てくる。この期の上流社會の裏面をドーデは正確な観察にもとづいたするどい風刺の筆で描く。また上流社会の風俗畫と併行して、パリの小市民の平和な家庭とそのなかの幸福な生活も描いている。」 優れた小説で一読をお薦めしたい。

 

同時代の1866年に、ジュリエット・コールソン ( JULIET CORSON1/14/1841-6/18/1897 ) が書いたアメリカの料理と家政 ( MISS CORSON'S PRACTICALAMERICAN COOKERY AND HOUSEHOLD MANAGEMENT. ) の中にブリオッシュリングのレシピがあったので此処に紹介する。彼女はニューヨーククッキングスクールで教育を受けているので彼女のブリオッシュとフランスのレシピとを同列に比較するのは相応しくないだろうが、当時のブリオッシュを知る意味で取り上げた。レシピの中に出てくる 「ブリオッシュペイスト」 については後で述べるアレキシス・ソイヤーのものと重複するので省略する。ナバブの 「巻パン」 の中にレーズンが入っていたか否かは判らないがブリオッシュは、編んだり、巻いて水平に切ったりと様々な姿をしていたことが判る。

 

ブリオッシュリング

のレシピはフルーツを入れたブリオッシュでコーヒーと一緒にランチにいただくものである。上に示したブリオッシュペイストを作り、たくさんのシトロン、種を取ったレーズン、カラントを入れてリング状に形作る。厚くバターを塗った紙の上にのせて焼く。非常に美味しいブリオッシュはセカンドコースの合間に、挽いたパマザンチーズ、或いはダイス大に切ったグリュイエルチーズを添えてサーヴする。

 

1839年にオーストリア人の実業家アウグスト・ツァング August Zang, 8/12/1807-3/4/1888 がパリにウィーン風パン屋 ( Boulangerie Viennoise ) を開いた。これを契機に、フランスでウィーン風の焼き菓子が人気を博すようになった。アウグスト・ツァングはフランスのパティスリーには大きな足跡を残しており、此処で紹介しておく。

 

「砲兵将校であったオーストリア人のツァングが優雅でさっくりとした風味のあるロールパンを扱うウィーン風パン屋を開いた。」とパリ紙が1839年に報じた。ツァングは砲兵将校から出版事業家へ転身し, 僅かな期間でパリにウィーン、オーストリアのブレッド、kipfel ( キプフェル、オーストリアやバイエルン地方で、三日月の形をしたパン。) 等の製法を広めた。彼はオーストリアで検閲が解かれるとウィーンに戻り1848年に日刊新聞 Die Presse」を創設した。「Die Presse」はÉmile de Girardin  ( 22 June 1802 — 27 April 1881、ジャーナリスト、政治評論家、政治家 ) 1836年に創った保守的事業主義を取る日刊紙 La Presse をモデルに発行数と広告で稼ぎ、連載もの、理解しやすい内容で読者を得た。後に彼は「オーストリア日刊紙の父」と呼ばれた。

1864年にDie Press を手放し、新しくNeue Freie Presse を創設するも、1867年に売却する。その後、銀行と鉱山をシュタイアーマルク州 Steiermark、オーストリアの連邦州のひとつ。州の紋章は銀豹。鉄資源が豊富 )に所有した。

 

 オーストリアの外務大臣メッテルニッヒはナポレオンに奪われた領土を取り戻し、1821年に帝国宰相に任命される。ハプスブルク家とオーストリア帝国繁栄のためにヨーロッパ各国と取り決めた「ウィーン体制」の下で、時には謀略を用いて国際関係の維持につとめた。彼はドイツ連邦内において、学生たちによる自由主義を求める運動が盛んになると、反逆行為として苛烈な弾圧を加える。大学を厳重な監督下に置いて学生たちの行動を監視、また書籍の出版の検閲を義務付けた。18482月にフランスで起きた2月革命が、翌月にはヨーロッパ各地に伝搬して3月革命が起きた。もとの絶対王政に戻った体制に対する反動が起きたと言える。これによりメッテルニヒは宰相を辞任され、ロンドンに亡命した。1851年にはオーストリアへの帰国を許され、6/11/1859、ウィーンで死去した。

 

ツァングがパリで始めたウィーン風パンはそれまでとは「イースト」、「小麦粉」、「焼き方」が大きく異なる。

これまではパンを作る際に、残しておいたビールイーストで作ったドウの一部を使っていた。いわゆるサワードウを使ってパンを膨らませてきた。ウィーンブレッドはシリアルプレスイースト法で作ったイーストを使い、ハンガリアンハイミリングで挽いた小麦粉を使い、スティームベイキング法で焼いた

 

シリアルプレスイースト法(Cereal press yeast)とは;

ウィーンで使っているイーストはコーン、大麦、ライ麦で作った麦芽、麦芽汁から作る。イーストを少量麦汁の中に入れて空気を吹き込む。増殖したイーストは表面に浮き上がってくる。これをすくい取る。蒸留水で何度か洗ってイーストだけにする。水圧で押して水分を取り除く。こうして作ったプレスイーストは商用イースト、出芽酵母Saccharomyces cerevisiaeの先駆けである。当初ブレッドはビールイーストと新しいドウを使って作っていたが、パリのウィーン風パンはウィーン、オーストリアの製パン方法を発展させたものでこれまでの様な乳酸菌による酸味がなく1867年のパリ万国博覧会に出品され評判になった。

パリ博では三つのウィーンブレッドを出品した。小麦とライ麦を使ったロール、ビールイースト、細かく挽いた小麦粉、塩、水とミルクを等量使った上質のロール, 大きな凝ったブレッド、スイートケーキである。その他のブレッドにも同じグレードの小麦粉を使い、ティーケーキにはバターを加えてミルクの香りを出した。ギプフェル ( Gipfel ;ウィーンのクロワッサン) には水を使わずミルクとラードを使った。ブリオッシュにはミルクと砂糖を使った。

 

ビールイーストには二種類ある。エールなど上面発酵に使うサッカロマイセス・セルビシエ( Saccharomyces cerevisiae ) とラガーなど下面発酵に使うサッカロマイセス・カールスベルゲンシス ( S. carlsbergensis ; Saccharomyces pastorianusはラガービールの生産に使われており、ルイ・パスツールのマックス・リー ( Max Rees ) 1870年に命名された。サッカロマイセスの雑種で種を特定することはできない。)がある。S. carlsbergensisエミール・クリスチャン・ハンセン ( Emil Christian Hansen5/8/18428/27/1909、デンマークの真菌学者、発酵生理学者、1879年から1909年まで、カールスバーグ研究所の生理学部門長を務め、酵母の細胞を単離し、糖の溶液と合わせて多くの酵母を作った。カールスベルゲンシス1883年に作り出すが、彼自身これを独自株であるとは思わず1908年まで公表されなかった。) が発見したものであるが命名の先取権によりイーストバンクではS. pastorianusの名で登録されている。

 

製パン用のS. cerevisiaeはドイツでは1780年から市販されており、1800年頃にはクリームの形で生産していた。1825年には水分を取り除いて固まりにした。ブレッドに使うビールイーストがたりなくなった時にビールの製造者達は上面発酵から下面発酵へと発酵工程を変更し、1846年には両発酵工程に出芽酵母を使った発酵を採用したので、ウィーンのビール工程は発展を遂げた。イーストを十分に供給されることになったウィーンのベイカー協会は1845年に出芽酵母を使うことを公表した。ビール企業のアドルフ・イグナーツ・マウトナーフォンマークホッフ ( Adolf Ignaz Mautner von Markhof , 10/26/1801-12/24/1889 ) はパン酵母の生産改善の功績で賞を受けた。1867年には加圧濾過することでイーストの生産は増え、1872Baron Max de SpringerLouis Lesaffre ( 1802-1869 ) と共に生顆粒状のイーストの生産を軌道に乗せ、製菓製パン技術の向上に貢献した。

アメリカ合衆国では1876年のフィラデルフィア万国博覧会にチャールズ・フレッシュマン( Charles L. Fleischmann, 11/3/1835-12/10/1897 ) が製品を出品して使用方法を説明するまでは自然界にあるイースト ( airborn yeasts;サワードウ ) をもっぱら使っていた。

 

パリのウィーン風パンはハンガリアンハイミリング ( Hungarian high milling ) を採用した小麦粉であった。ハンガリアンハイミリングとは;

硬質で粘着性のあるハンガリアの小麦を使い、石と鋼鉄の両方のロールを整備した製粉機で粉にした。これは当時としては先端の技術であった。特徴は挽くデンプンによって製粉方法を変化させることである。冷却しながら効率の良い回転数(下の絵で説明すると、左右のロールの回転数を変えて粉を挽く。製粉業者に言わせれば至極当たり前の話であろうが、我々素人からすれば、回転数を同じにすれば、小麦がスルメイカ状態になることに直ぐには想像が及ばない)で製粉するので摩擦熱が小麦粉に伝わらず、デンプンの質が落ちない。その結果、ハンガリアの小麦は風味が良く、グルテン量が多く、品質が向上した。高性能の製粉機で挽くと小麦粉は均質で、白く、品質が一定であった。

                                                                 

                                        

左はウィーン万国博覧会、1873年出展のハンガリー製粉機。鋼鉄製のローラーが3つ並ぶのでワルツセットと呼ぶ。ローラー間の間隔が広く硬質小麦であっても、摩擦熱に影響されることなく製粉できるので、ふっくらとしたブレッドを作ることができる。



                                                

                                             図省略

                   A depiction of three pairs of steel roller mills as used in Hungary's Pesth Walzenmühle, circa 1870s.

 

 

スティームベイキング

ウィーンブレッドはスチームを使って焼くためにクラストに特徴がある。ドウをオーブンのなかに入れると蒸気が上から吹き出す。その為にブレッドが均一に焼け、ひび割れはなく薄いクラストになり中のクラムは空気を含み軽く仕上がる。蒸気が止まると乾いた空気がクラストを焼き、特徴のある薄くてカリカリとした状態になる。ウィーンブレッドは色々な形で焼くことができるが、蒸気で焼くのに適した横長のローフが特徴である。

 

冒頭のジャン・シメオン・シャルダンの絵の中に1763年に描かれたブリオッシュがある。アウグスト・ツァングがパリに1839年に開いたウィーン風パン屋で販売されていたであろうブリオッシュと、絵のブリオッシュとの間には74年の空間がある。ブリオッシュはその間どこで息をしていたのだろうか。これを説明するにはブリオッシュの歴史をもう少し遡らねばならない。

 

ギリシャの ( Tsoureki;ツレーキ ) をはじめ、西、中央アジアの国々;アラビア、アルバニア、アルメリア、アゼルバイジャン、ブルガリア、ルーマニア、トルコさらにはハンガリー、チェコ、クロアチア、ポルトガルには砂糖、卵を大量に使うブリオッシュに似た、編み込み模様のブレッドがあった。イタリアのパネトーネ、ジューィッシュのハッラー、ロシアのクリーチ、ポルトガルのフォラール パシュコアもブリオッシュの近縁であると言える。

 

ブリオッシュについて記する限り、マリー・アントワネット Marie Antoinette, 11/2/175510/16/1793、フランス国王ルイXVI世の王妃、フランス革命中の1793年に刑死。)とブリオッシュの話題に触れないわけにはいかないだろう。何故なら一昔前の日本のお菓子の本には必ずと言っていいほど次のような文面が並んでいたからだ。「パンがないのなら、ブリオッシュを食べればいいのにとは16世の王妃マリー・アントワネット(17551793)の言葉。正当な税制も自由な政治もなく、特権貴族と特権僧侶だけがぬくぬくと贅沢三昧にくれていた、腐敗の時代。貧しい人々は「パンよこせ暴動」を起こします。その暴動の報告に対する反応がこのせりふでした。中略。 常識はずれのこの言葉、しかし実際彼女は、国家の現状をなにひとつ知らなかったのです、オーストリアのハプスブルグ家皇女であった彼女が、当時16才のフランス皇太子(のちのルイ16世)に嫁いだのは、15歳のとき。19歳で王妃となります。が、王妃としての責任や義務に縛られるのきらい、一人の人間として生きることを欲する。当時国家の用向きには振り抜きもせず、少数のとりまきたちと自由気ままな豪奢は生活にふけります。ヴェルサイユのプティ・トリアノン宮では、夜ごと音楽会、また玉突きや賭け事がおこなわれ、とりわけ王妃のお気に入りは、羽根つき、目かくし遊び、仮面舞踏会だったようです。このように厚いとばりの小宇宙に生きていたアントワネットにしてみれば、だけもが自分と同じように幸福である、との錯覚があったのです。」 辻静夫 フランス料理の本、講談社 1985. から引用。

 

今から30年ほど前には、この本から或いはこの本から引用した文章を載せた料理書から再転載した料理書が多くみられた。情報の真偽は時代性を写す鏡であるといえる。ことの真相は眺める方向によって様々な姿を見せる。現在では次のように理解されている。

 

ジャン=ジャック・ルソー Jean-Jacques Rousseau,6/28/17127/2/1778、ジュネーヴ共和国に生まれ、フランスで活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家。)が, 1769年に書き上げた自叙伝『告白』の第六巻の中で、葡萄酒の濁りを澄ませることを依頼された著者は、「機会があると、ときどき二、三本ごまかしては、狭い自分の部屋のなかで、気楽に飲んだ。あいにく私は、食べずに飲むことはけっしてできなかった。パンを手に入れるには、どうしたらよいだろう。貯えておくわけにはいかない。下男に買わせれば、ばれてしまうし、家の主人を侮辱する様なものだ。自分で買いに行く勇気はまったくない。腰に剣を着けた立派な紳士が、パン屋へブリオッシュを買いに行くなんて、できることだろうか? ついに私は、ある王女が『農民にはパンがありません』と言われて、困ったあげく、『"S'ils n'ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche.” ; ブリオッシュを食べればいいわ』と答えたのを思い出した。私は菓子パンを買った。それにしても、そこに来るまでに、なんと手間をかけたことだろう。そのつもりで一人家を出、ときには町中を歩きまわり、三十軒ものお菓子屋のまえ通って、やっと一軒に入る。思い切ってしきいをまたぐためには、店のなかにたった一人しか人がおらず、しかもその顔が大いに私の気をひく必要があった。しかし、ひとたび大事なブリオッシュを手に入れ、自分の部屋に閉じこもると、私は戸棚の奧から酒びんを取り出し、小説を何ページか読みながら、たった一人で、ちびりちびりとやるのは、なんとおいしいことか。」と書いている。

小林善彦訳. ルソー、告白, 白水社 1986.  第六巻から「菓子パン」をブリオッシュと変えさせていただき、引用させていただきました。

 

問題のせりふは第六巻にあり、この巻を書き上げたのは1767年。アントワネット12才の時であり、 お輿入れしたのはその3年後であるからルソーの文中に出てくる「ある王女」とはアントワネットではないことになる。フランス中で振りまかれた中傷は政敵がルソーのせりふから盗み出した民衆にとってセンセーショナルなフレーズであった。極まりない悪意を感じる。

 

「告白」が出版されたのは1782年。ルソーが言われなき中傷から身を守るために176511月から書き始めた自叙伝は1770年に完成した。当初、出版する気はなかったが177012月から17715月の間にこの本のある部分を読むために4つのグループを作り、最後の読み合わせは17時間に及んだ。作家でもあるフランス社交界夫人、マダムエピネー 3/11/1726 -4/17/1783 、啓蒙時代のフリードリッヒ・メルキオール;Friedrich Melchior, Baron von Grimm 12/26/1723 –12/19/1807、ジャーナリスト、美術評論家、外交、外交官、百科全書の寄稿者。 等、複数の男性と親交があった、をルソーは「告白」の中で苦言を呈していた。)が友人でもある警察署長宛に手紙を書いたことで止めざるを得なくなった。下読みを止めさせることで彼女のプライバシーを守ろうとしたのである。ルソーは警察署に呼ばれて中止を同意させられた。

 

話をブリオッシュに戻そう。ブリオッシュの歴史についてまだ何一つ語っていない。実ははっきりと解らないと言うところが本当のところだ。そこで現在の、2000年代のブリオッシュのレシピから話を始めようと思う。

 

これが現在の平均的なレシピだ。

小麦粉        500

砂糖         30

イースト       13

卵          6

塩          4

水          90

バター        350

 

1850年のアレキシス・ソイヤー( Alexis Benoist Soyer2/4/18108/5/1858 ) によるThe Modern Housewife or, Menagere から 
ブリオッシュを取り上げると、
 
11.ブリオッシュロール
小麦粉を4ポンド、台の上にのせて、そのうち1ポンドの真ん中に凹みを作り、そこに1オンスのジャーマンイーストを溶かした暖かい湯を
 1/3 パイント、三回に分けて注ぐ。ボール状に丸める。切れ込みを十字に入れて、粉を打ったボールに入れて暖かい場所に置く。 粉3 ポンドの
中央に大きな穴を作り、そこに塩を1/2オンス、バターを2ポンド、水を1/2ジル、卵を16 個入れて柔らかいペイストを作る
平らに延ばして膨らんだペイストの上にのせて手で折りたたんで包み込む。 
きれいな布に粉を打って ペイストを折りたたむ。一晩寝かせて翌朝、小さなロールに形作りベイキングシートの上に並べる。 
中火で焼く。大きい朝食会でなければ 上記の半分で十分であろう。このロールは非常に贅沢な物なので、私は特別の時にしか作らない。


1907年のオーギュスト・エスコフィエのA GUIDE TO MODERN COOKERY では、


2368—通常のブリオッシュペイスト

(1) 小麦粉をボードの上に1ポンド篩い、その1/4の真ん中に凹みを作りそこにドライイースト 7 g、少量の水を 入れて柔らかいペイストにして膨らませる。ボールに丸めてその上に直角にスリットを二本入れる 。 ボールに入れておく。 発酵するように覆いをして暖かい場所に置く。


(2) 残りの粉(3/4ポンドの粉)に凹みを作り、そこに塩7g、砂糖42g、ミルク2TBSを入れて溶かす。バター112g、卵4

個を入れて混ぜる。しっかりとバター、卵を混ぜてペイストがまとまり、手で引っ張って弾力が出るまで錬る。真ん中にくぼみを作って 卵を1個入れる。ペイストと混ぜてさらに卵を1個加える。合計6個の卵を入れる。

(3) 残りのバター224gをペイストに入れる。先のペイストが柔らかくなったら後のペイストを

広げて二つのペイストを少しずつ錬って混ぜ合わせる。ペイストを返して二倍の大きさに膨らませる。


ソイヤーとエスコフィエの間には50年の開きがある。その間にバターと卵の量が15倍に増え、その分ミルクは 34 g減った。 バターと卵をホモジナイズする技術が整ったと言える。

ブリオッシュの良さは小麦粉の約75%の卵とバターを使った柔らかいクラムとバターの風味の良さにあると私は思っている。

エスコフィエはブリオッシュ生地を上とは別に二つのレシピを追加している。

一つは上の生地1ポンドに付きバターを56g入れた生地 (B) であり、二つは小麦粉112gについてイーストとミルクを混ぜて予備発酵させ、 10時間置いた、いわゆる中種法で作ったブリオッシュ生地 (C) である。(B) は生地の中に果物を入れるために、 (C)はクロケット、 パティを包むために特化したブリオッシュ生地である。ソ イヤーとエスコフィエのレシピをみて解ることは、 ブリオッシュの生地は ブレッドだけではなくその他のいわゆるクラストとしての役割も兼ねていることである。 ブリオッシュ生地はその名が表すように、 ブレッドとしてではなく生地としての役割の方が大きい。

 

 小麦粉の一部に水・イーストを混ぜ合わせて中種或いは元種と呼ぶものを作り、発酵させてから残りの原料を混ぜ合わせて作った生地。2回に分けて混ぜるので、
生地の調整ができて伸展性が良くなる。
一般的な方法は70%中種法で、小麦粉の70%にイースト、水を5分程混ぜて、2時間から3時間程置いた後に、
その他の材料を入れて捏ねる。

 

1676年の料理書の中にあるパフペイストの作り方は今の物とは少し異なる。ハナ・ウーリィ Hannah Wooley )のThe Queene-Like Closetから、


237. パフペイスト

最も細かい小麦粉を1.13L、卵白3個、卵黄2個、冷水少量を用意してペイストを作る。延ばして小さなバター片をのせて何度も折

り返す。延ばして更にバターをのせて折り返す。
10回繰り返して目的のペイストを作る。フルーツ又は肉を入れて焼く。


上のレシピは1602年のヒュー・プラット ( Hugh Plat ) によるDelightes for Ladies以来、一文言も変わらずに料理書の中で使われてきた。1700年代にな

ると生地の中に卵を入れなくなり、現在のレシピに近くなる。






ピエールジャン・バティスト・ルグラン・ドゥオーシィ( Pierre Jean-Baptiste Legrand d'Aussy, 6/3/1737-12/6/1800 , 中世研究家、歴史家 ) 1783年に

Encyclopédie méthodique書き残したブリオッシュのレシピを紹介しておこう。

 

ブリオッシュ

小麦粉を1ブッシェル( 36L )用意してその1/3の中にビールイースト1/4ポンドを入れて暖かい水と混ぜる。錬って冬場は1/2時間かけて膨らませる。
残りの
2/3の粉は真ん中に穴を開けて砕いた塩を1/4ポンド、卵50個、バター5ポンドを入れて水を薄く塗る。叩いて粉を混ぜ3回錬る。
ドウを広げて膨らませたドウを重ねて再び錬る。布を被せて
78時間膨らませる。ブリオッシュの大きさの生地を取り形作ってミルクを塗る。オーブンで焼く。

 

レシピの中で「ブリオッシュ」と言っているので、これはブリオッシュのレシピであろうが、小麦粉に対してバターの量が少ない。1602年のヒュー・プラットのパフペイスト
とさほど変わらないのでは? ヒュー・プラットのレシピにイーストを入れただけでは?少し強引かもしれないが、この時代あたりがパフペイストとブリオッシュの
分かれ目の可能性が多少ともあることには同意していただけるのではないか?と思う。

 

ジュ-ル・グッフェ( Jules Gouffé1807-18771869Livre des Conserves (保存食教本),1873Livre de Patisserie (製菓教本)1867Livre de Cuisine(料理教本)を著す。)  ( LE LIVRE DE CUISINE: The royal cookery book ) から、

 

ブリオッシュ

篩った小麦粉1ポンド、そのうち1/4をペイストボードの上に置いてスポンジを作る;

真ん中に穴を開けて暖かい水1/2ジルで溶かしたジャーマンイースト1/2オンスを入れて混ぜる。暖かい水を入れたシチューパンの中に入れて蓋をする。暖かい場所に置いて膨らませる。

残りの3/4の粉の真ん中に穴を開けて塩1ピンチ、砂糖1/2オンス、水2TBSを入れて砂糖と塩を溶かす。バター10オンス、卵4個を入れて軽く混ぜる。
1個ずつ卵を加えて合計7個の卵を入れる。柔らかくなりすぎても、固すぎてもよくない。スポンジが2倍の大きさに膨れたら軽くペイストを混ぜて水盤に入れて
暖かい場所に
4時間静置する。ボードの上に置いて何度も折り返して丸める。水盤に戻して2時間膨らませる。折り返して丸める作業を繰り返す。
冷えた場所に
2時間置く。丸くまるめてベイキングシートの上にのせ真ん中に穴を開ける。ペイストを直径12インチのリング状にして膨らませる。
ペイストブラシで卵を塗る。リングが閉じないように内側に切れ込みを入れる。強火のオーブンに
1/2時間入れる。この形にすると簡単に焼くことができるが、
ローフ、ロール、バン或いは凝った形にすることもできる。

 

チーズを入れたブリオッシュ

先のペイストに挽いたパマザンチーズを1/4ポンド、グリュイエルチーズ1/4ポンドを入れて1/4インチのダイス大にする。ペイストにチーズをよく混ぜて形作り同様の方法で焼く。

 

ブリオッシュは時代と共に姿を変える。クラストの役割を終えたブリオッシュは生地の中に、リンゴ、チョコレート、卵、肉、ナッツ等、様々な材料を巻き込み、包み込んで新しい料理を作ってゆく。