ミッドガルドを懐に抱く大空は、無限の宇宙を思わせるような、深淵の藍色に染まっていた。そして藍色の天空を彩るように、幾多もの星たちが手を繋ぎ、満月と共に美しい白銀の煌めきを放っている。 柔らかい草地の上に腰を下ろし、静かに空を仰いでいる少女がいた。金色の髪に、春に芽吹く若葉を思わせるような、萌える緑色の目をしている。傍らに小振りの弓と矢筒を置いているから、彼女は弓を扱う職業に就いているのだろう。 少女の名前はフィレス。ディパン公国の王女であり、パルティア公国の王妃となった人物だ。大陸歴581年から始まり、大陸全土を巻き込んだ一年戦争と呼ばれる大戦に、フィレスは信頼する二人の従者だけを連れて参戦した。パルティア攻防戦。アークダインの騒乱。アルトリア街道の攻防。ロゼッタの戦いなどの幾多もの戦場に馳せ参じ、活躍した英雄の一人である。 ロゼッタの戦いで片腕を失ったフィレスは弓を置き、それ以降戦うことを止めた。そして、幼馴染みであるパルティア王シフェルの元に嫁ぎ、即位したばかりの彼を助け、国の安定に従事したのだ。しかし、大陸歴622年にフィレスは風土病に身体を侵されてしまい、58年の生涯を終えたのだった。 しかし、星が瞬く夜空を見上げるフィレスの姿は、一輪の花のように可憐な少女そのもので、失われたはずの右腕も認められる。それに、今は大陸歴941年であり、フィレスが天寿を全うしてから300年は経っている。彼女が生きていることはあり得ないと誰もが思うであろう。しかし、この言葉を聞けば、彼女の謎は一気に紐解かれ、誰もが納得するだろう。 フィレスは「エインフェリア」と呼ばれる存在だ。エインフェリアとは、思念だけとなった英雄と呼ばれる人間の魂のことだ。死してその地に執着する者もいれば、ヴァルキリーによって、生きながら魂を取りこまれる者もいる。 フィレスは、今まで戦乙女シルメリア・ヴァルキュリアの体内で眠りに就いていたのだが、今は物質化――マテリアライズされ、シルメリアとその宿主であるアリーシャのために再び弓を取り、共に旅を続けている。培ってきた豊富な経験と知識と炎の魔術は、アリーシャの窮地を何度を救ってきたといっても過言ではないのだ。 「今晩は、王妃様」 草を潰す乾いた足音が背後で響き、次いで柔らかく甘い声がフィレスの耳朶を打った。上半身を捻ったフィレスが背後を見やると、彼女から少し離れた所に一人の青年が立っていた。男性にしては華奢な肢体の上に赤茶色のローブを羽織り、つばの切れた帽子を被った青年だ。帽子の下からは、柘榴色の髪と、白い面に嵌め込まれた真紅の双眸が覗いている。フィレスは眉根を寄せ、些か華奢な青年を凝視した。 「えっと……貴方、誰だっけ」 刹那、青年の顔が歪む。暗闇でいきなり殴られたような顔だ。 「ソ・ロ・ンだ! 『緋色の賢者』と謳われた天才魔術師ソロンだよ! 失礼にも程があるぞ! まったく!」 怒りで白い頬を紅潮させながら、自ら名乗ったソロンが叫び、その声で空気を振動させた。彼の鼻息は荒く、今にも呪文を唱えてもおかしくはない。 「冗談だってば! ちゃんと覚えてるわよ。天才魔術師さん」 「天才魔術師」の部分を強調するように言うと、怒り狂っていたソロンの機嫌は、瞬く間に直った。フィレスは隣を指差し、座ったらどうかと促すと、ソロンは素直に腰を下ろした。 「こんな真夜中にどうしたの?」 「それはこっちが訊きたいね。君こそどうしたんだい?」 「いろいろと考えてたら……目が冴えて眠れなくなっちゃったの。だから、夜風にあたりに来たってわけ」 フィレスの唇から自然と溜息が洩れた。隣に座るソロンが帽子を脱いだ。光の当たり具合によっては赤に見える柘榴色の髪が、フィレスの視界の端に映る。 「本当に、僕たちエインフェリアは理解に苦しむ存在だ。何百年も昔に死んだはずなのに、再び生を受けて蘇った。神々は、僕たち人間という存在を、どのように思っているのだろうね。まったく……うんざりするよ」 「貴方は……エインフェリアに選ばれたことを、名誉だと思わないの?」 「思わない」 「どうして?」 「もちろん、最初は嬉しかった。不自由な肉体から解放され、老いることもなく魔術の研究に没頭できたからね。けれど、次第に時間の感覚がなくなって、気が狂いそうになった。人として生き、人として死ぬ。それが当たり前なんだって分かったんだ。人間は永遠を追い求めている。でも、永遠なんて幻想にすぎないんだよ」 ソロンはそう言うと口を閉じ、静かになった。思えば、ソロンとこんなふうに会話を交わしたのは、今日が初めてだったような気がする。 フィレスが生まれる約140年前。ソロンはパルティア公国で生を受けた。類い稀なる魔法の才能を時のパルティア王に見込まれ、宮廷魔術師として招かれた彼は、不死者に対抗する術として、二つの呪文――バーンストームとガードレインフォースを生み出した。その功績を称えられ、「緋色の賢者」と謳われるようになったのである。ソロンが編み出した二つの呪文がなければ、世に知られている魔法の大半が生まれていなかったといわれているのだ。 そんな異名から、フィレスはソロンのことを、近寄りがたい別世界の人間だと思っていたのだが、実際に話してみると、それは間違いだったと気づいた。 「何を考えていたの?」 「え?」 「何を考えていて、眠れなくなったんだい?」 「それは――」 フィレスを見つめる真紅の眼差しは、聖者のように静謐だった。フィレスは息を吸い込み、言葉を継いだ。 「私は……戦いが嫌になって――誰かを傷つけるのが嫌になって武器を置いたはずなのに、気づいたらこうやって弓を持って、再び戦いに身を投じている自分がいる。何だか矛盾してると思わない? 私……時々思うのよ。自分が選んできた道は――本当に正しい道だったのだろうかって」 フィレスは言葉を終え、傍らの弓を強く握り締めた。 刹那、過去の情景が、由縁のある人々の顔が、脳裏に鮮明に描かれる。 自らの手で命を奪ってしまった、最愛の姉セレス。 愛する夫シフェル。 生意気だけれど自分を尊敬してくれたクリスティ。 血の繋がりはないが、強い絆で結ばれたセルヴィア。 愛する故郷を守るために、不屈の信念で戦い続けたファーラント。 自らの精神と肉体を代償に、神に戦いを挑んだゼノン。 もしも、フィレスが違う道を選んでいたら――彼らの運命も変わっていたのだろうか。そう考えると、とてもやるせない思いに駆られてしまうのであった。ソロンは無言でフィレスの話を聞いていたが、しばらくすると口を開いた。 「フィレス。君は……道に迷ったことはあるかい?」 「え? 子供の頃はよく道に迷って……姉さんが捜しに来てくれてたわ」 「違う違う。そっちじゃなくて、人生の道のことだよ」 ソロンが楽しそうに笑った。意味の違いに気づいたフィレスは、恥ずかしさで頬を赤く染めた。 「ごっ……ごめんなさい。勘違いしちゃったわね」 「気にしなくていいよ。誰にだって間違いはあるさ。フィレス。あの星を見てごらん」 ソロンは右手を上げ、夜空の一点を指差した。ローブの袖が滑り、彼の白い手が夜空に刻まれる。フィレスはソロンの指先を追いかけた。そこには、ひときわ強い輝きを放つ星があった。 「あれは、船乗りを導くと伝えられている星なんだ。フィレス。僕たちは、人生という大海を彷徨っている船乗りなんだ。道に迷った時は、自分を導く星を見つけるといい。道に迷った時は、その星が、君を正しい方角に導いてくれる。でも、君は、もう星を見つけていると僕は思うよ」 「私が――?」 「君には仲間がいる。君をよく知る人たちがいるじゃないか。彼らが君を導く星なんだよ。そして、君も彼らを導く星の一つなんだ。きっと、彼らはこう言うよ。君の選んだ道は間違っていないってね。だから……自分の選んだ道を、後悔しないでほしい。それに、悔いるなんて君らしくもないと僕は思う」 ソロンの言葉がフィレスの胸の奥へと沁み渡り、目尻が熱くなるのを感じた。フィレスがありがとうと言う前に、ソロンが話し始めた。 「僕は――君が羨ましいよ。仲間や家族に囲まれて、幸せそうに笑う君が、とても眩しくて……羨ましいんだ。僕を知る人は誰もいないからね」 「……ソロン」 胸を衝かれ、フィレスは一瞬黙りこんだ。 「同情はいらない。今までずっと、独りで生きてきたから大丈夫さ。さてと……僕はそろそろ失礼するよ」 服に付いた草を払い落とすと、ソロンは立ち上がった。ソロンが帽子を被る前に、彼の顔に刻まれた悲しみと憂いの影を、フィレスの瞳は確かに見た。そしてフィレスは確信する。 大丈夫だなんて――嘘だ。 ソロンが背中を向ける。刹那、強い思いがフィレスの内に湧き上がった。後を追うように立ち上がったフィレスは、ソロンの背中に向けて声を張り上げた。 「私が――貴方を導く星になる!」 フィレスの言葉に反応して足を止め、振り向いたソロンは、驚いたような顔をしていた。 「ソロン。貴方は独りじゃないわ。私たちエインフェリアがいるじゃない。お互いのことを知らないのなら、これから知ればいいのよ。私が――私たちが、貴方を導く星になる。だから、独りは平気だなんて言わないで。そんなの……悲しすぎるわ」 沈黙が夜空と手を繋いで踊る。密度の濃い沈黙を破ったのは、ソロンが発した微かに震える声だった。 「……ありがとう、フィレス」 帽子を取り、胸に当てたソロンは優雅に一礼すると、フィレスの前から姿を消した。それがあまりにも様になっていたので、フィレスは少しだけ驚き、なぜか嬉しくなって、いつの間にか笑顔の花を咲かせていた。 たった一言の短い言葉だったけれど、それだけで充分だった。 去り際に見えた一筋の涙は、今までに見たどの星よりも、綺麗で輝いていた。 |