夜明けと夕暮れの真ん中



 真っ白だった。
 霧の中みたいに。

「あなた、大丈夫?」

 柔らかな声が降ってきたけれど、答えるどころか眼を開けることもできなかった。

「どぉしてこんなところに来ちゃったの?…ま、いいけどね」
「良くねぇだろ?」

 続く声は粗雑な感じがした。
 けれど、どこか懐かしい…?
 小さく女の苦笑と、男のため息が聞こえる。

 意識は真っ白な煙に巻かれたように途切れ、



 次に訪れたのは暗闇と鈍痛だった。
 全身を裂くような痛みと、中でも左目は激しく熱を持って開かない。

「気が付いたぁ?」

 さっきの柔らかな女の声。
 キシリと鉄製の何か、椅子が軋む音。
 コツコツと響く靴音、さっきとは違う場所。

「こ こは?」
「病院よ」

 何とか痛みの少ない右目を開けて声のするほうを見ると、艶やかな黒い髪が揺れている。
 身に纏っているのは白衣。

「女医、さん?あんたが俺を助けてくれた、のか?」
「そういう訳でもないんだけど…。あ、目はまだ開けないで。少し待って」

 ヒヤリと冷たい指が左目の瞼を無理矢理こじ開ける。が、何も、見えない。
 熱い液体が注がれる。
 大量に流れて、耳のほうへ落ちそうになるのをいつの間に当てられていた柔布に吸い取られていく。

「どう?」
「痛みは、大分退いた気がする。まだ暗いけど」
「良かったぁ。眼科は専門じゃないのよ。だから、私ができるのはコレくらいなの。設備もないしぃ」

 これは、このまま左目の視力が戻らなければ、右も落ちるな。

「まだ休んでていいのよ。ここは、あなたの場所だから」

 どこか懐かしい、柔らかな温もり。
 疲労に押しつぶされそうになりながら、何か、大切なことを思い出したいと、願う。




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 そこの水は恐ろしく澄んでいて、小石を投げ入れてその波紋が終わっても石は底に届かなかった。
 風が無くなれば鏡のようになり、今は青い空を青く映している。
 海、だろうか?それにしては波が無い。
 川、だろうか?それにしては対岸が見えない。

 きし きし きし

 小さな影が遠くに現れたかと思うと、あっという間にこちらに滑ってくる。
 船。
 背の高い男が、櫂を軽く操って、真直ぐに。

「お前、1人か?」

 突然問われて、辺りを見回してみる。
 確かに、今ここには自分ひとりしかいない。
 黒い髪の女医らしき人は目覚めたときにはいなかった。

「あの、ここは、湖ですか?」
「河だ。向こう岸はえれぇ遠いがな」

 海じゃ、なかったのか。
 海?
 何故、海だと思ったのか?

「お前は俺が拾ってやった。だから俺のモンだ」

 船が岸にたどり着いて、男が手を差し伸べてきた。船から降りるのに手を貸せということか。

「え?」

 掴んだ右腕は、鉛のような冷たさだった。
 男がニヤリと笑う。

「ありがとよ」
「その、手は」
「左は普通の手だぜ。なんならこっちで握手してやろうか?」

 不敵な笑みに気圧されているうちに、左腕をとられた。確かに男の左腕は自分と同じにぬくもりがあった。

「普通に動けんなら、俺の手下にしてやるよ」
「じゃあ、俺はあなたの後輩・・・ですよね?」
「・・・受け入れんなよ。バカ。だまされやすいヤツだな」
「だって俺を助けてくれたんでしょう?」

 男は病院、小さな木造の建物に向かってさっさと歩いていってしまう。

「バーカ。お前なんかいらねぇよ」

 悪態をつきながらも、決して嫌な感じではない。
 あの人は、ああいう人、なのだ。

 風が吹いた。
 水面が無数のさざなみを立ててキラキラと光る。
 きれいだと思うのに、
 どこか、

 ひどく 悲しい景色




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 いなくなってしまった橘さんを探して、探して、見つからなくて。
 大丈夫、必ず帰って来るからと、自分に言い聞かせるように呟く睦月に、望美の胸にも不安が増す。
 橘さんの家に行ってみよう。
 どちらからともなく提案して、なんとなく足を向けて。
 でもそこにはいないと解かっているのに。

「…カギがかかってないね」
「無用心だなぁ」

 扉を開けると、古びたソファーがあって、きっとベッドの代わりにしてたんだろう。
 広めのテーブルの上にはデスクトップのパソコン。なんだかわからない数値が書かれた資料が散らばっている。睦月がパソコンの電源を入れてみたけれど、最初のパスワードが解からなくて、起動できなかった。
 水道はあるけれどキッチンは無くて、冷蔵庫の電源も抜けてて、生活感が全く無い。

「あの人、らしいよね」
「うん。不器用なんだ。いつも1人で考えて、誰も傷つけないようにって。」

 ジョーカーを守ったのは、睦月が、剣崎が相川始を信じたから。
 彼は優しすぎると言った人を思い出す。

「あ、これ、何かな?」
「…ジグソーパズル?」
「ふぅん。睦月は好きそうだけど、橘さんも好きだったのかな」
「そんな風には見えなかったけど」

 部屋にあるもので、橘さんの痕跡はそのパズルだけみたいだった。
 なんとなく望美の指がパスルを組み立て始めて、睦月もそれを手伝う。
 新しいものじゃなくて、何度も組み、何度も崩したようなピースの角。

「これ、写真?風景じゃなくて…」

 髪の長い女性と、隣に立って柔らかく微笑んでいる橘さん。
 外国の、大学の卒業式っぽい。

「この人が、橘さんの、死んでしまった恋人…?」
「きれいな人…」
「幸せそう、だよな」
「橘さんが、たったひとりだけ、心を許してた人、ね」

 残り少なくなったピースを組み立ててゆくと、ひとつだけ足りない。
 テーブルの周り、ソファーの周り、折り重なった資料の間も探してみたけれど見つからない。
 殺風景過ぎて、無くした物が見つからなくなるような部屋じゃないのに。

「どこ行ったんだろう…あとひとつ」
「最初から無かったのかも…」
「最初から、ひとつ足りない?無くなってたってこと?」
「そうじゃなくて。睦月なら、どうする?」

 たったひとつだけ足りないピース。

 心を開くカギのような。
 心を繋ぐ糸のような。

「きっと帰って来るわ、橘さん。このパズルを完成させるために」




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 空を見上げて、何かが足りないような気がする。
 青と、重い雲の鉛色が折り重なっている。
 明るい。
 真昼のように。

「ここには太陽が無いのか?」
「ここには、ね」

 黒髪を揺らして振り返る彼女は、答えを焦らす教師のように笑っている。
 じゃあどこかに太陽があるのだろうか。
 そのまま問うのは癪だったりする。

「夜は無いのか?」
「あら?夜は、あなたが望めばあるわよ」
「望む?」
「私の名前を呼んで、ね」

 名前。
 自分の名前も思い出せない。
 彼女の名前を、俺は知っているんだろうか。

「俺は、ずっと君に会いたかった」

 それだけは確実だ。
 彼女は困ったように目を伏せて、それから軽く笑い声を上げる。

「もう、どぉしてぇ?」
「わからない。…けど」
「私は待ってたのよ。あなたが来るのを」
「ごめん」

 笑顔が歪んで涙に変わる。
 そっと抱きしめると、涙が胸に沁み込んでゆるやかな熱に変わる。


 このままずっと、彼女を抱いていたい。


「でも、今はさよなら」

 ごとん。
 音が響いて、岸に船が着く。
 冷たい右手を持つ男が明後日の方を向いて煙草の煙を吐き出している。

「いいのかよ?俺はこのままコイツを置いてってもいいんだぜ?」
「だって、呼んでるもの」
「何、が?」
「ポケットの中」

 彼女に言われて、初めて上着のポケットを探る。
 指先が小さな何かに当たる。
 ガクン。
 足元がいきなり揺れる。知らないうちに、船の上に乗っていた自分。

「小夜子?」

 船は水の上を滑る風のように岸を離れる。
 彼女は、小夜子は、軽く跳ねるように手を振ってる。

「橘く…」

 声が小さく、届かなくなっても、岸辺が遠く見えなくなっても。
 ポケットの中のパズルのピースが、切れない糸みたいに小夜子に繋がっている。

 急激に空が昏くなり、青い空は藍色へ闇色へと変わる。
 白い星がチラチラと瞬くのに、水平線は何故か黄昏のような赤色が滲んで見える。

「さーて。ココがどこだか解かるか?橘」
「解かりません」
「真ん中だ。夕暮れと夜明けの。お前は自力でどっちかに行け」
「酷いですね、桐生さん」
「ばーか、選べるだけ大サービスだ」

 桐生さんは船の櫂を俺に向かって振り下ろす。
 睦月のときみたいに、足でそれを蹴り上げようとすると、櫂の軌道が素早く変わる。
 確か、棒術は俺の知る中で一番強い人だったよなぁ、桐生さんは。



 叩き落された水面は、荒れ狂う冬の海。





end



橘さんは死に場所を探してたんだよね。
なのに、帰ってきちゃってごめんなさい。(苦笑)
夕暮れと夜明けの間は、死と生の間です。

2005.01.17


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