farewell -04












 戻らないつもりだったのに。
 携帯電話を看護士から受け取ったら、そのまま遠くに行ってしまおうと、そう思ってた。
 何もかも捨てて、逃げたかった。
 けれど、手の中に戻ってきた、ふたつの携帯電話が、それはだめだと言う。
 誰も待っちゃいないかもしれないけど。
 このまま、消えてしまっても構わない。

 戻ってきたのは、小夜子の願いを叶えるためだ。

 神社の境内を照らす白い蛍光灯が、視界を薄墨と黒に染めている。
 やっと、見送れるのかな。
 社殿の端に寝転がったまま、小夜子の携帯電話を開いてみると、宛先不明で未送信のメールが一通。

 祐太郎へ。あなたは必ず幸せになりなさい。

 遺言だ。
 何度も読んで確かめた。
 誰も傷つけずに生きることなんてできるんだな。

 帰ることに、まだ迷う。
 自分ひとりの感情で、母さんだけでなく家族みんな、危険にさらした。俺は、厄介事の種だから。
 ひとこと、謝れば、許される、わかってはいるけれど。
 何をするのも億劫になってくる。
 今夜くらいは、神社の隅っこで、ぼんやりしててもいいだろうか?





 遠くから駆け寄る足音、反射的に身が硬くなる。
 見つかった?
 いや、ちゃんと追っ手はまいてきたはずだ。
 見つかるわけが無い。
 足音はひとつだけ。散歩かジョギングか、通り過ぎるだけ。
 目をつぶって眠ったフリをしていれば、誰も、荒んだ雰囲気の高校生に関心を持ったりしない。

 しゃら、しゃら、砂利を踏む音が近づく。
 軽い? 大人じゃない?

「…ユウさん?だよね?」

 目を開くと、暗い境内が嘘のように輝いて見えた。
 ひかりのなかの、少女。

「あれぇ?…なんでアヤちゃんがこんなとこにいるの?」
「塾の帰り道なの。今夜はなんとなく神社を抜けようと思って」
「ダメだよ、こんな淋しいところを通っちゃ。こわーいお兄さんがいるかもしれないよ?」

 あはは、とアヤちゃんは軽く笑う。
 本気なんだけどな。悪い人っているんだよ。捕まえた獲物を、地獄に突き落とすような人が。

「ユウさん、どうしたの?具合悪いの!?」
「平気だよ。空を見てたら、眠くなって、つい」
「髪も、金色?おにいちゃんみたい」
「ちょっとね、気分転換に色抜いてみたんだけど、やりすぎたかな?」

 適当に誤魔化してから、気付く。
 絶対、『宮原祐太郎』には見えないような恰好だったのに、アヤちゃんにはわかってしまった。

「…おにいちゃん、呼ぶね。ユウさん、ひとりで帰れないんでしょ」

 何も言わなくても全部お見通しって、母さん以外にもいるんだな。
 素早いメールのやり取り。シロフォンの音色。パチンと携帯を閉じる音。
 すぐに、2人のおにいちゃんがきてくれる。
 アヤちゃんは、俺の目を見て、にっこり笑う。

「おかえりなさい、ユウさん」
「…なんで?」
「おにいちゃんと同じ顔をしてるから。旅が終わって、帰って来たんだよね?」

 へぇ。
 やっぱりあいつも、どこかへ旅をしたんだな。

「アヤちゃん」
「なーに?」
「祐太郎、って呼んでくれる?ひとり、そう呼んでくれる人がいなくなっちゃったんだ」
「トクベツな人?」
「そう。トクベツな人」

 消えてしまった。総てを許してくれる、天使のような人だった。

「…うん、いいよ」
「ありがと」
「疲れてるんでしょ?おにいちゃんたちがくるまで見ててあげるから、寝ちゃっていいよ。祐太郎さん」

 アヤちゃんの指が、瞼に触れた。
 羽根みたいだ。空から降ってくる。

 さよなら、小夜子。

 ただいま、アヤちゃん。小さな、女神さま。





* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *





 美鶴がアヤに呼ばれて三橋神社に来てみれば、社殿のきざはしで宮原はぐったりと眠っていた。
 すぐに合流した亘に一時任せて、アヤをつれて自宅まで一旦戻る。小学生が外をうろついていていい時間じゃない。早歩きで帰り道を急いだ。

「アヤ、宮原、何か言ってたか?」
「うん。大切な人がいなくなったんだって」
「そっか」
「おにいちゃん、何かあったら知らせてね。アヤ、起きて待ってるよ」
「11時過ぎたら寝ろよ。アイツは俺たちがなんとかするから」

 オートロックの透明ドアの向こう側を、アヤは手を振りながらエレベーターへ駆けて行く。
 早く神社へ戻れ、ということか。
 かわいい妹の気遣いが嬉しいが、その対象が宮原なのがやはり腹立たしい。





「全然起きないよ」

 美鶴が戻るまでの20分弱、亘は宮原に触れることができなかった。
 久々に見る宮原は、異質な雰囲気を纏っていた。髪を金色に染めていた。服装も普段とは全く違う。黒のパンツと光沢のあるグレイのシャツ、革靴も高価なもので、鈍く光るシルバーのアクセサリが目を引く。
 今まで私服の時も優等生の域から外れることは無かった。なのに今の宮原は、夜の繁華街に行けばそのまま風景に溶け込んでしまえそうだ。

「宮原が渋谷でバイトしてたのはこのためだったのかな。こんな風に変わっちゃうなんて」
「他人に紛れ込んで、自分を見えなくするんだ。今までずっと、そうだったのかもしれない」
「僕らの傍にいたのと同じ、理由だよね、多分…」
「お前ら、俺を買いかぶりすぎ」

 宮原の唇だけが動いた。風にそよぐことも無かった「物」に、突然魂が戻ってきたみたいに。

「宮原、おかえり」
「遅すぎるんだよ、バカ」

 人のいい亘の笑みと、無愛想に睨みつける美鶴を、宮原は薄く目を開いて確認する。
 二人がぼうっとしたままの宮原にぎゅうと抱きついた。

「ちょ、っと、苦しい、死ぬ・・・」
「死ね!」
「そうだ、死ね!すごい心配したんだぞ!」
「ご、ごめん、古典のレポートで返す」
「いらない!お前、古典が一番苦手なクセに!」

 外見は違っていても、話し方も反応も宮原のままだ。
 安心のついでに、亘と美鶴は宮原をペチペチ叩いてから解放してやる。
 亘と美鶴が、互い以外の誰かに抱きついたりすることも極少ということも、宮原は知ってる。乱暴な歓迎に、やっと帰って来たと思えた。



「ケータイの人の所に行ってたの?」

 宮原の傍らに並んだ二つの携帯電話に、亘が気付いた。…ふたつ、ある。

「姉だったんだ。ロクでもない親父つながりの」
「姉!?」
「宮原の、前のお父さんの、子供?」
「母さんの前にいた女の人の子供だから。小母さんも亡くなってたし、血縁があるのは親父と俺だけで」
「小夜子さん、だな。亡くなったのか?」

 美鶴の問いに、宮原の頭が小さく傾いだ。
 普段と同じのんびりとした笑顔に、僅かに苦味が混じる。

「小夜子は親父に殺されたようなモンだよ。自分が逃げる為に娘を売って生贄にしたんだ。クスリ漬けにされて、体を壊して、まだ二十歳だったのにね」
「クスリ?暴力団が絡んでるのか」
「親父の借金のカタに売られたんだよ。どこにでも湧いてくる寄生虫だから、あいつらは」
「だから、宮原ひとりでお姉さんのところに行ってたの?弟妹にも絶対知られないように」
「関係があるのは俺だけだ。もし、俺の、今の身元がバレたら、あいつらは必ずここに来て、家族のすべてを奪う」
「それでも、行ったのか」
「小夜子をひとりで死なせるなんてできなかった…違うな、本当は、親父に会ったら殺してやろうと思ってたんだ」
「…会えたの?」
「会えなかった。幸か不幸か」

 ほっと、亘が息を吐いた。心から安堵する。そんな亘に美鶴は憮然とし、ふたりを見比べて宮原は苦笑する。

「なんですぐに帰ってこなかったんだ」
「斎場で同じように親父を探してる連中に見つかっちゃってさ、まいて逃げるのに時間がかかったんだよ」
「まいてきた…って、大丈夫なのか?」
「多分ね。身元を特定できるものは何も持ってなかったし、逃がしてくれた人が信頼できるから」

 宮原の姿を、髪や服装を変えて逃がした人物、経済力があって暴力等から個人を守れる力がある。亘と美鶴には想像もつかないが、例えば警察のような「正義の組織」でないことは、うすうすわかる。この期に及んで、宮原の背後にいる者の正体は全くわからない。
 けれど、それは宮原を元の世界へ返してくれた。
 なら、今はそれでいい。

 美鶴が暗闇に向かって、長いため息を吐いた。

「結構長い付き合いだけど、今まで、宮原が失踪するなんて考えたこと無かった」
「うん。失踪するなら美鶴だと思ってた」
「そうか?芦川が消えそうになっても三谷が止めるだろ」
「うん、まあ、多分」
「それに、二人そろって失踪したら、俺は探さないよ」
「薄情だなぁ」
「友情だろ?」

 それが当然。亘と美鶴が一緒なら、何が起こっても心配いらない。
 さらりと言い切る宮原は、やはりふたりにとって稀有な友人だ。

 宮原も、神社の上の暗闇に視線を向け、「芦川、あのさ」小さく呟く。

「アヤちゃんが」
「アヤが?」
「いつか、自分が消えてしまうんじゃないかって、言うんだ。記憶の無い4年分の場所に、引き込まれてしまうって」

 美鶴が願って亘が叶えた、切なる夢。
 叶えられた夢の対象であるアヤは、ひずみを生んだ兄に、どうしてもそのことが言えなかった。

「何故、今になってそれを言う?」

 美鶴の問いに、答えが混じる。
 宮原がいなくなれば、アヤの苦しみを知るものもいなくなるからだ。

「俺は、自分が消えるのはどうでもいいけど、あの子は消えちゃいけないと思う」

 アヤが不安を宮原に告げたのは、宮原も同じように消えそうな不安を抱えていることに気付いたからだ。

「だったら宮原も消えちゃだめだよ」
「二人で一緒に消えたら、心配しないでくれる?」
「馬鹿。絶対に許さない」
「そうだよ、安心してアヤちゃん預けられないよ」
「預けないぞ」

 美鶴が激して、宮原の頭をパコンと叩いた。最近手が早い。
 後頭部を抱えてうずくまる宮原の肩を亘が抱こうとすると、宮原はびくっと過剰な反応を見せた。

「何、どうしたの?」
「あ…俺、強姦された…」
「誰が?宮原が!?」
「そう、俺が。痛かった…。芦川がいつも平気そうだから俺も平気かと思ったら、全然…翌日腰が砕けた」
「そりゃ、僕が美鶴にするのとは違うんじゃないの?」

 えー? と宮原の不審な視線を向けられて、亘は一瞬ムッとするが、次に好奇心いっぱいの笑みを浮かべた。

「宮原、消毒してやろうか」
「勘弁してくれ。それよりもエイズ検査に付き合えよ。気味が悪いから」

 戯言を軽く受け流して、マジネタを打ち返す。
 そんなの平気だよねー?と亘が覗き込んだ美鶴はうつむいて思案している。

「…俺も検査しよう」
「え?美鶴!?まじで?」
「三谷もやっておけよ」

 オタオタと軽くパニくる亘の肩を、宮原は楽しそうにポンポンと叩いた。
 美鶴が「さてと」と立ち上がり、ついてもいない埃を払う。

「そろそろ家に帰るか?」
「う、ん…迷う。俺、家に帰るって連絡してないし、寮に戻るのも今からじゃキツイよなぁ」
「俺んち来い。アヤも心配してる。亘も来い」
「うん、行く!美鶴んち泊まる!明日休みだし、叔母さんもお出かけ中だよね」
「でも迷惑かけるし、俺はここらで時間潰して」
「宮原、これ以上喋ったら張り倒す」

 美鶴は不機嫌を隠そうとしなかった。
 甘えないことを許さない。修羅場にも休息は必要なのだから。
 ひとりでさくさく歩いていく美鶴を目で追って、亘は宮原に向かって手を差し伸べる。

「みんなで帰ろう。この街が、僕らの帰る家だから」

 手を伸ばす、その先にあるものは、闇の中で見つけた宝玉。
 子供の頃、何かの物語で読んだような既視感に、宮原はまぶしそうに目を細めた。







とりあえず、一旦おわり。








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2006.09.13


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