092.
面影



「今日こそは橘くんよりも早く着いたと思ったのに」

 向かいの席の椅子を引きながら、小夜子は重そうな鞄を置いた。

「キミだって今日は早すぎるくらいに来たじゃないか」
「待ち合わせの1時間前よ?ずっとここで本読んでたの?」

 呆れてちょっとふくれっつらになっても可愛らしい。

「明日提出のペーパーが3つ重なってるんだ。ひとつ、ハワード教授のレポート同じだろ?」
「うん。なあに?」
「教えて」
「もうっ!…いいわよ。その代わり」
「生物化学のペーパーだろ?小夜子苦手だもんな」
「他人のこと言えるの?」

 積み上げた資料の山から生物関係の書籍を数冊テーブルに広げて、小夜子がクスクス笑う。試験前の図書館は24時間オープンで、あちこちで同じような光景が繰り広げられている。

「今やってるペーパーは?」
「生物起源史」
「…面白いの?私も取ればよかったなぁ。その授業」
「キツイよ?」
「あ、じゃあやっぱりパス」

 実はすぐ隣に同じ授業を取ってるヤツがいるのだが、会話が日本語だから何喋ってるのかわからないだろう。


 小夜子と再会したのは留学してすぐ、心理学の新入生歓迎パーティだった。
 小柄で幼く見えるもろに日本人の彼女は、あっという間に男子学生の注目を集めた。その下心みえみえの男たちに言い寄られてるのを見かねて声をかけたら、子供の頃の幼馴染だった、というわけだ。
 それ以降、なんとなく一緒にいることが多い。
 周りの連中は俺たちがスティディな関係だと思ってるらしいが、実はそんなこともなくて。


「卒業したら、小夜子は実家の医院を継ぐんだろ?」
「え、うん。そしたら、お父さんがやってた時みたいに、橘くんも患者さんで来てくれる?」
「今から俺病院行き決定かよ?」

 二人でレポートを纏め上げながら、他愛も無いおしゃべり。

「橘くんは?この間、論文発表してたでしょ?」
「ああ、あれ。日本の…何とかっていう研究所から質問が来てたっけ」
「何とかじゃないわよ。研究以外は無頓着なんだから」

 そうでもないんだけど。
 日本の企業で、小夜子の傍にいられたら嬉しいとか、それくらいは思ってるんだけど。


「…眠。ああ、やっと終わり。今何時?」
「もうすぐ7時だよ」
「心理、8時提出だったんだ。間に合った〜」
「お疲れさま」

 机に突っ伏した俺の頭をポンポン叩いて、それから何を思ったのか小夜子は俺の服の袖口をぐいっと引っ張った。

「え?何」
「前から気になってたんだけど。橘くん、時計とか持ってないの?」
「ああ。ずっと前に失くして、そのまま」
「だから待ち合わせに早く来るの?」
「待たせるのキライだし。一緒にいたら小夜子が時計だし」
「酷い!」

 ペーパーが全部終わった安堵から、ついついハイテンションに笑ってしまいそうなるけど、周囲はまだ殺気立ってる連中が多い。
 小夜子にだけ、笑ってみせると、小夜子も綺麗な笑顔を見せてくれた。

「けど。卒業しちゃったら…時計、無くなっちゃうわね」
「また、気が向いたら買うかもしれない」
「本当に、そういうところが無頓着ね。橘くん」

 そう言って、また小夜子は笑う。
 優しく。軽く。包み込むように。



 結局、自分で時計を買うことは無かった。
 腕に残った時計は、いつまでも小夜子の笑顔を思い出させてくれる。
 彼女がいなくても。
 彼女との時間を。



end



いた。いたたたたた。いたたたたたたた!!
ああ。
痛いっすね。(笑)
過去話大捏造。大学留学なんてよーわからんと思いつつ書いてたりして。

2004.06.12


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