063.
ありがとう



「無理して、笑わなくていい」

 橘さんがぽつりと言った。
 お父さん、トライアルBの残していった記憶を消去した後、いつも通り白井くんが作ったご飯を食べながら、これからのことをみんなで相談して。
 今日はさすがの私も疲れちゃったって部屋に引っ込もうとしたら、橘さんも帰るって言って、一緒にリビングを出て。
 玄関ホールには、少しだけリビングの温もりが漏れて、秋の夜の冷たさが滲み入って。

「無理してません。私はいつもこんな顔ですよ」
「そうか?」

 問いかけながら、私のことを否定するわけじゃなくて。
 無理しているわけじゃないです、よ。

「あのトライアルは、今思えば最初からお前の…広瀬のことをずっと大切にしていたよ」

 あのひとを、ずっと私のお父さんだと思っていた橘さん。
 そうよね。
 きっと、橘さんは何度も私の話をしたんでしょ?
 だから、あのトライアルは、お父さんのことを思い出して…。

「ごめんな。もっと、お前の気持ちを汲んでやれればよかった」
「橘さん」

 もう、いいんです。

 そういえば、小夜子さんが亡くなったって聞いたのもこの場所だった。
 そういえば、あの時、私も橘さんも笑ったんだった。

「橘さんも無理して笑わなくてもいいですよ?」

 言ったのに。
 橘さんは静かに静かに笑って。

「俺にできることはこれくらいだから」

 胸が詰まって何も言えなかった。

 ありがとうって、言いたかったのに。



end




15話で橘さんが栞ちゃんに見せた笑顔が忘れられんのです。

2004.12.17


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