たったひとつだけ、安らげる場所だった。
 たったひとりだけ、安らぎをくれたひとだった。


026.
堕ちた聖域


 己の恐怖心に克つこともできず、傷ついたプライドを認めることもできず。
 激しい胸の痛みは確かな現実なのに。
 振り払う方法は己の心にしかないというのに、あの恐ろしい崩壊のイメージからはただ逃げたいばかりで。

「もし俺が消えて失くなったら」

 何を言いたいんだろう。
 何を答えて欲しいんだろう。

「困っちゃう。そんなことになったら」

 心配そうに覗き込む小夜子。
 言いよどんだ俺のことばの先を茶化すように続け、俺を安心させようとする。

「仕事以外で、こんな風に私を訪ねてきてくれる人なんて、橘くん以外に居ないのよ。それってとっても大切な友達だと思うんだけど」

 大切な友達。
 俺にとっても、小夜子はとても大切な友達。

「彼氏は?」
「いないわよー!忙しくて。インターンの大学病院とこの医院の往復ばっかりだもの。でも、どうして?いきなりそんなこと聞いて」
「…俺がここに居ついちゃ迷惑かと思って」

 小夜子は軽く笑う。
 椅子にかけっぱなしになっていた白衣を慣れた様子で羽織って、俺と向かい合うように座った。

「橘くん?今、あなたは私の患者さんよ」

 笑顔で接する小夜子は、まさに「理想の女医さん」だ。
 きっと人気があるんだろうな…などと、奇妙なほど客観的に見ている俺。
 心療内科医は患者の心の傷を自らに移して癒すことがあるという。
 いかにも小夜子はそんなことをしてしまいそうだ。

「深沢小夜子先生が治してあげる。だから、橘くんが本当に元気になるまで、ずっとここに居てもいいのよ」

 さっきまでの痛みとは違う。
 優しさで胸が痛んだ。

 もしも。
 俺が消えて失くなったら、小夜子の心に傷が残るのだろうか。
 俺は小夜子を傷つけるために、ここに来てしまったのではないだろうか。

 俺が消えて失くなった時、小夜子の心に小さな引っかき傷でも残れば、と。
 安らいだその場所に、たったひとつの滲。
 安らぎをくれるそのひとに、たったひとつの傷。
 俺は、そんなふうになりたかったのかもしれない。

「ありがとう。ごめん」
「何謝ってるのよ、もう」

 眠くなって目を閉じる。
 小夜子は完成しないパズルを始める。




 たったひとつの聖域だった。
 そこに小夜子が居ないだけで、ひどく黄昏た場所に変わってしまった。
 胸の痛みはもうどこにもない。
 痛む場所を失ってしまったから。




end



相変わらず痛々しいですね。橘さん。(じゃなくて、私か・・・)

私の中のたちばなさんはかなりヘタれております。
けど、そーじゃなきゃ、復活劇が面白くないじゃん!(まあ、身勝手!)

2004.06.19


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