10数年ほど前、親戚のある鹿児島に行ったことがある。
その際、戦時中に特攻隊の基地で有名となった知覧(ちらん)を訪れ、特攻記念館に足を運んだ。
そこには、旅立っていくわずか二十歳にも満たない青年の遺品や家族にあてた手紙などが展示されており、その境遇を想像し、恥ずかしながら涙を流しながら閲覧した記憶がある。特に、両親や兄弟にあてた手紙には、これが若干二十歳そこそこの若者の書いた文章であるのかと圧倒され、また彼らをそのような状況に追い込んだ時代というものの悲惨さを憂いた。
そこには、親孝行が出来なかったことへの謝罪、小さな兄弟への激励、特攻に選ばれた栄誉、必ず敵艦を撃沈させる意気込みなどがしっかりとした文章で綴られてあった。
先日、本屋でふと目に留まった本がある。
「いつまでも いつまでも お元気で」 特攻隊員たちが遺した最後の言葉 知覧特攻平和会館 編
思わずその場で購入させていただいた。
美しい南国の写真と共に、彼らが残していった最後の手紙の文面、まさしく知覧で拝見させていただいた彼らの文章がそこに記されている。
国全体が異常な時代であったとはいえ、彼らにこのような想いを抱かせた時代の異常さはどうか。
一方で、現在の同年代の若者がこのような立派な文章を書けるものだろうかとも考えた。
ここまでの一途な想いを何かに託して、一心不乱に突き進む信念を持つ者が今の日本にどれだけいるだろうか?
会社帰りに見かける夜のコンビニの駐車場にたむろする若者との格差が感じられて仕方がない。
いやしかし、それは現在の若者が悪いわけではない。
そのような時代にしてしまった私たち年長者の責任でもあるのだ。
決して戦争を美化しようとは思わない。戦争は何があっても起こしてはならない。
しかし、その中で人生を翻弄されながらも一人の人間の純粋で一途な姿を目の当たりにすれば、
彼らは”人生を生き切った”とも言えまいか。
枝 幹二・・・22歳
あんまり緑が美しい 今日これから 死にに行く事すら 忘れてしまいそうだ。
真っ青な空 ぽかんと浮かぶ雲 六月の知覧は もうセミの声がして 夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に 小鳥の声がたのしそう 「俺もこんどは 小鳥になるよ」 日のあたる草の上に ねころんで 杉本がこんなことを云っている 笑わせるな 本日 十三、三五分 いよいよ知覧を離陸する
なつかしの 祖国よ さらば 使いなれた 万年筆を”かたみ”に送ります
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祖国のためにという大義名分を果たすためとは言いながらも、その根底には人として幸せに、ひっそりと暮らしたいという切実な想いをにじませる。タテマエとホンネの間を揺れ動きながら、彼らは短い生涯を駆け抜けていった。
先日、また幼い児童が悲惨な事件に巻き込まれた。
今の社会は明らかに病んでいる。
彼らが心から望んでいた「自由」と「権利」と「平等」は、日本の敗戦をきっかけとして国民全体に行き渡った。
しかし、今、これらの美しい概念が、違った方向に走り出してはいないだろうか?
戦時中とは正反対の方向に進んで、それが逆に人々の心を蝕んではいないか?
「美しい日本」という目標は道半ばで挫折はしたが、私はこの言葉は好きである。
本来の日本人は、美しい心を持ち、自然を愛し、四季折々の自然と共に生き、見ず知らずの隣人を思いやることのできる世界に類を見ない民族だと信じている。
もう一度、在りし日の日本人の美しい心が皆の中に蘇るよう、襟を正して生きていこう。
最後に、心に残った詩をもう一つ紹介する。
相花 信夫・・・18歳
母を慕いて
母上 お元気ですか 永い間 本当に有難うございました 我六歳の時より育て下されし母 継母とは言へ世の此の種の女にある如き 不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし母 有難い母 尊い母
俺は幸福だった 遂に最後まで「お母さん」と 呼ばざれし俺 幾度か思ひ切つて呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だつたらう
母上 お許し下さい さぞ 淋しかつたでせう 今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さん と
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いずれも涙なくしては読めない。
遠く知覧には行けずとも、一度目を通していただきたい本である。
※本文中の詩には、一部、現代漢字に修正しているところがあります。
(2007年10月20日 記)