〈《 花 闇 》〉
小高い丘の上で一人の青年が火照った頬を夜風にさらしていた。
彼が寄りかかっているのは一本の大木。
その木はどっしりと根を下ろし枝を広げ、辺りを睥睨するように立っていた。
折しも季節は春。
猫の目のような細い月が枝に掛かり、淡いピンクの花を浮かび上がらせる。
丘の上から一望できる桜並木と競うように咲き誇っていた。
ここまでは、花見客の喧噪も届かない。風に乗った声が時折微かに聞こえるだけ。
ざわりと枝を揺らす風に一瞬遅れて、ピンクの雪が舞い踊る。
夢の中のような光景。
「こんばんは、ガウリイさん。いい月夜ですね。
お散歩ですか?」
夜よりも尚深き闇が蟠り、人の姿を象る。
深き闇に潜みしもの。
深き闇、そのもの。
全身を闇色で包んだ神官は、その本質を隠すように人当たりのいい笑みを浮かべ、青年に近づいていく。
相対する青年は日の光をとかしたような金髪。
空をうつした蒼天の瞳。
黒衣の神官と対するような、光を表したような容姿。
一体どれだけの人がそれに気づくだろうか。
姿だけは光そのものでありながら、抱える闇は目の前のものと変わらないことを。
人は相手が自分達と同じ姿をしているだけで安心してしまう。
その本質を見極めようともせずに。
そう、ひとは本質を気にもしない。
彼らが抱える闇に目を向けもしない。
闇の深さが分かるのは同じ闇に身を沈めたものだけ。
「何の用だ・・・」
低い囁きは氷の冷たさ。
向けられた視線は鋭利な刃。
青年が保護する少女の前ではおくびにも出すことのない、声と視線。
不機嫌を隠そうとはせず、青年は神官を睨め付けた。
先ほどから微かに感じていた気配。
完全に気配を消すことなど雑作無いはずの魔族は、彼の神経を逆撫でするようにわざと気配を残し近づいてくることがある。
それは大体に置いて彼の負の感情を喰らうためだが、それだけが理由ではない。
どんな形であれ闇は光に惹かれると、同じ闇に身を置くからこそ分かることもある。
「おお、怖い。
そんなに睨まなくてもいいじゃないですか」
近づくだけで只ではすまさないと全身で表現する青年に戯けたように首を竦めて、それでも黒衣の神官はその場を立ち去ろうとはしない。
「・・・いえね、桜を、見にね・・・」
それが先ほどの質問の答えだと分かるのに暫くかかった。
答えた相手は目を細める様にして、頭上の桜を見ている。
「美しい桜ですね。
ねえ、ガウリイさん。こんな話を聞いたことはありませんか?
『桜の木の下には死体が埋まっている』と。
だから美しい花が咲くのだ、と。
さしずめこの木などは沢山の人を喰らってきたんでしょうね」
歌うように囁いて、黒衣の神官は彼を振り返った。
なるほど彼らの横に立つのは齢百年は越えようかという老木。
それは狂ったように薄紅の花を咲かせていた。
「たった数日のために他者を喰らい、散るために命を咲かせる。
どこか似ていると思いませんか。
滅びが分かっていながら生にしがみつき、足掻く人間に」
数え切れない時を重ねた獣神官は、数日も百年も泡沫の夢に過ぎないと笑う。
「馬鹿馬鹿しい。
死体などどこにでも埋まっている」
「おやおや、ガウリイさんは風情が無いですねぇ・・・
この美しさを見てなにも感じないなんて」
やれやれと呆れたように首を振った神官は、薄紅にけぶる眼下に視線を移した。
「美しいですね、本当に。
この手で壊してやりたくなるほど・・・」
ふ、とその瞳が開かれる。
闇色の髪。
闇色の法衣。
深い紫の瞳。
全身に闇の色彩を纏いながら、その瞳だけが異彩を放つ。
闇を際だたせる様に。
青年がその瞳を覗き込む前に、突如として起こった突風が花びらを舞い上げ、彼の目から神官の姿を覆い隠した。
「ああ、散り際が一番美しいのも人と同じですね・・・」
桜の帳の向こうで闇が嗤う。
冷気にも似たものが真正面から青年に吹き付けられた。
そこだけ時が凝ったように対峙する二人の間を名残の花びらが舞い踊る。
「ガァウリ〜〜どこにいるの〜」
丘の下から呼ぶ声に途端に二人の時は解け、珍しく黒髪の男が笑いをもらし頭上を仰いだ。
「全ての花が散るには早すぎますか。
ではもう暫くは花を愛でることにしましょうか」
黒衣の神官に倣うように、青年も又桜の花を見上げた。
薄紅の花は散ることなど思わず、咲き誇る。
周りの喧噪も諍いも知ることなく、静かに、鮮烈に。
ヒラリと舞った花びらを追って、闇に赫く蒼天の瞳と闇を孕んだ暗翳の瞳が刹那、交差した。
青年は唇の端を引き上げると、何事も無かったかのように踵を返す。
「リナさんによろしく」
立ち去る背にかけられた声は届いているはずなのに、その歩みが止まることはなかった。
たちまち、その姿は桜の花に消えていく。
その場に残るは、ただの闇。
「もっとも―――」
ザワザワと風が吹き、また桜の花がこぼれ落ちた。
「思いの外、花が散るのは早いかもしれませんね・・・」
桜の他に誰も闇の言葉を聞くものはいない。
希望も夢も命も全てのみ込み、花の下に闇が佇む―――
Fin